波間に落ちる憂い
日の出に近い月の訪れはまだ遠く、星明かりは暗い海を行く船をか細く照らす。見張りを残して多くの者が眠りに沈む中、船首近くの甲板の片隅で、深い青の船長服の裾がたなびいていた。
寄り添う小柄な影に、彼はため息をこぼす。
「正直、ここまで数奇な縁になってるとは思ってなかった……」
彼らが故あって息子と離れてから五年――。蒼珠の瞳の色を見るより前に、船に降りたった彼の内なる魔力の質の違いから、その身がどのような状態になったのかはすぐに察せられた。経緯は聞かねば分からないが、特異な事態によってそうなったのは明らかだ。それだけでも苦い驚きがハーシュを襲ったのだが、それに加えて、息子と共にいた者たちがさらに彼を驚愕させた。
「どうして偶然に偶然が重なってそうなんのか……。なんにせよ、とんだ組み合わせでうち揃いやがって……」
項垂れるハーシュに秋珠は苦笑する。
「あの子が風羅に渡ってたとは思わなかったわ。それも王女様の護衛の騎士をしてたなんて。あの国にたったひとりでも生き残りがいてくれたのは、正直嬉しいけれど……私たちは、ちょっと快く思われていないようね」
騎士として仕えさせていたくらいだ。蒼珠と仲が良いのだろう。彼らと距離をとろうとしていた蒼珠を庇うように、その間に小柄な体でいつも割っていて立っていた。血筋を示す紫の大きな瞳は、警戒心と不信感を漂わせ、どこか鋭く秋珠たちに注がれていた。
「まあ、俺たちは息子を置き去りに姿を消した親どもだからなぁ。そりゃ、あいつの側の嬢ちゃんからすりゃ、いい奴には見えないだろうぜ」
「ええ、そうね」
慰めるように笑いかけるハーシュに、わずか浮かべた憂いの色を鮮やかな微笑みに変えて秋珠は頷く。
「蒼珠になにがあったかは分からないけれど……ああしてそばにいてくれる存在がいたのは、なによりね」
五年間、ずっと孤独でいたわけではなかった。それだけは、短い間でもふたりの様子を見ればうかがい知れた。
「ただ……彼女も、辛いの身の上だわ。風羅があんなことになった日は、もっと幼かったでしょうに……」
「ことあの国は……徹底的にやられたようだからな……」
揺れて伏せられた海の瞳を労わるように見つめ、ハーシュは呟く。その優しい魔獣の眼差しに、秋珠はそっと、船べりにかけられた大きな彼の掌に、自身の手を重ねた。
「ありがとう、ハーシュ。――王女様のことも気になるけれど……残りのふたりも気がかりね」
「そうだなぁ。紫の瞳は太古からある魔力的一族の印だ。王女様はもちろんだが、あの坊主の紫がかった瞳――。どうにも抱え込んでるらしい厄介なもんのせいで、本人にすら自覚があるか怪しいが……。あいつは一癖あるな」
「そしてなにより幻獣、ね」
「ああ、幻獣はやべぇ。ほんとに、なんで蒼珠と一緒に気配があるのかとは思ったが、旅の仲間とまでは思わなかったぜ。ったく」
がりがりと頭を掻いて、太い眉をハーシュは寄せる。
「いまは良好にやってるようでなによりだが、あれはただの魔力の塊じゃねぇ。意志がある。基本的に術者を守る性質がありはするが、意に染まない場合には、術者を殺して次の術者へ移りもする、厄介な獣だ」
ハーシュの険しくなる表情につられて、秋珠の顔つきもより真摯に、鋭くなった。そもそも、常ならばずっと南の海を拠点にする彼らが、遥か北上しスティル付近の海域にいたのは、少し前に幻獣の目覚めた気配をこの地の方角で感じたからなのだ。
「帝国がその力を得えようとしていながら、嬢ちゃんに幻獣が馴染むまで待ってるのは理がある。術者と縁が薄い状態で幻獣に無理を働いて奪おうとしたなら、あれは時に術者を殺してでも逃げるだろうぜ。つか、どう考えても、話を聞いた感じ、一度目の襲撃は力を目覚めさせる方に重点が置かれてた気がするし、二度目の接触も慎重が過ぎる。あいつらもしかして、その手の失敗一度してんじゃねぇの?」
ハーシュが得た感覚が間違っていないならば、帝国の軍人たちは大いに加減を加えて彼らに接している。おそらく、彼らがわずかなりともその真価を見せたのは一度きり――最初の日、目覚めの瞬間だ。
「……あの満月に近い夜、例の魔力を感知したときは本当にびびった」
それはいまの世において、感じるはずのないと思っていた気配と力だった。看過できないほど強く鮮烈な力に、ハーシュは舳先を北へ切る覚悟を決め、魔力を感じた地の状況を調べるために、滅多に行使しない魔法を用いたほどなのだ。
「あの嬢ちゃんと相性が良かったのか、なんだったのか……あの一瞬だけとはいえ、とびきり純度の高い魔力を出力してやがった。だが、さらにまずいのは、無理やり発露させた瞬間の暴発じみた力――そいつによる被害をあの程度にとどめた奴が帝国にいるってことだ。本来なら周囲の村や街、いくつか消しとんでるだろ。だが、平野がひでぇありさまだったが、威力のほども範囲も狭かった」
「ユリアちゃんの話によるなら、莠という軍人ね。――五年前、あなたが感じた異様な魔力。それも、彼だったのかしら?」
以前から帝国は魔力というものに強くこだわり、各地で簒奪、ないし抹殺を繰り返してはいた。だが、それが目に見えて活発になってきたのがちょうどその頃だった。日々強固になっていくかの国を守る術式にも、脅威を覚えていた時分だ。なるべく気配が霞むようにと、魔力の比較的強い土地を転々とし、ハーシュたちは身を隠していたのだが、五年前、ちょうど隠れていた地域の近くに、帝国の攻勢がかかった。
魔力的な守りの固い土地だったので、すぐに落ちるとは思わなかったが、そろそろ場所を移すかと動き出していた時だ。背筋を震わす異質な魔力を感じた。力の強さ以上にハーシュの危機感を煽ったのは、あまりに歪で、重苦しいなにかを内に秘めた気配。その後、かの魔力を感じた地域が帝国の手に落ちたとの報せを聞くのに、時間はかからなかった。
「たぶんな。まだ年若いそうだから、五年前っつうと、人間なら相当なガキだろうが、夕方、スティル方面で感じた気配がよく似てた。ここ数年で隠すのがだいぶ上手くなったみてぇだが、あの五年前の魔力の持ち主と同じってんなら、断言できる。――そいつは魔力的には俺並みだ。人の域を超えてる」
だから、五年前のあの日、彼は旅立ちを急いだのだ。だから、蒼珠と離れることにしたのだ。かの魔力を感知した時、わずかなりとも彼の胸に、ふたりを――家族を守り切れるのかという不安がよぎった。自身の身を保証したまま、傷ひとつつけずに彼らを守り通せるのか、と。それに、絶対の自信を抱かせてくれない不穏さが、あの気配にはあった。
秋珠ひとりならばまだ、魔法を行使するような戦いに巻き込まれても、多少自身の身を守れるだろう。だが、蒼珠はうちに流れる血が目覚めてはいなかった。彼は本当に、ただの普通の人間の少年だったのだ。
(だが、普通の人間ならば……奴らは歯牙にもかけない……。そう、思ったんだがな……)
ハーシュたちは、ひとつ帝国相手に打って出た。彼らの狙いはハーシュと秋珠。蒼珠は標的ではなく、おそらくはまだその存在も知られていない。だからこそ、完全に蒼珠と縁を絶ち、身を隠すことをやめ、彼から遠く離れた地で魔獣がいるとの噂を立てれば、必ずかの国の目はハーシュたちに向き、蒼珠には気づきもしないだろうと。そうすれば、一時は孤独であろうとも、いずれ蒼珠には平穏な暮らしが約束されはしないだろうかと――そう、願いにも似て考え、そして、彼を残して旅に出たのだ。海賊稼業に手を出したのも、噂を立てるには悪評の方が手っ取り早かったからに過ぎない。
(いまとなって分かってみりゃ、無駄なあがきだったみてぇだが……)
かつては海の色だった瞳を思い出す。いまの息子は、平穏を夢見るには程遠い、金色の獣の目。彼には母の瞳の色こそ似つかわしいと、そうハーシュは思っていたのだが――。
「魔獣である、あなた並みの魔力……というと、やはり莠という子は、人ではなく、魔獣――なのかしら?」
不安げに眉根を寄せる秋珠の問いかけに、ハーシュは重たく首を振る。
「そいつは分かんねぇな。だがあんまし同族の気配は感じねぇ。純粋に強い魔力ってだけじゃねぇんだよ。上手く表現できねぇが、なんつぅか胸糞悪い感じがする。気配がとっ散らかってて、歪んでんだ」
「それを聞くだけでも、あまり対峙したい相手じゃないわね……。心配だわ」
打ち寄せ弾ける波の音に、こぼれた秋珠のため息が溶けて消えた。
「きっとあの子たちは、スティルに行くと決めるでしょうし、どのみち幻獣を狙われてるんじゃ、いつかは向き合わないといけない相手ですもの……」
「――俺が俺としてあるための誓いを破らずに、どこまで出来るか分からねぇが……」
遠く瞬く星の海を金色の瞳を眇めて見やり、ハーシュが呟く。
「少しは力になりてぇもんだな……」
どんな理由があったにせよ、長く空き過ぎた五年の歳月を、彼の息子が、息子のそばに寄り添う者たちが、許してくれるならば、であろうが。
深紅の髪を闇の中に鮮やかになびかせて吹き寄せる夜風は、緩やかに船をスティルへ進める。しばし船の行く先を見つめていたふたつの影は、やがて眠りに就くため、そっとその場を離れていった。




