雨夜の逃走(2)
瞬間、吹きすさぶ強風がふたりの頬をなぶり、ユリアの長い栗色の髪を掻き乱した。横殴りに降り注ぐ冷たい豪雨が、激しく彼らの身体を打ち付ける。羽織っていろと、小脇に抱えていた厚手の外套を押しつけて、透夜はユリアを引き寄せた。
「掴まれ。飛び降りるぞ!」
「ここから?」
二階だと聞いていたのでさして高さはないと思っていたが、実際目にしてみれば、石造りの塀の上からのぞき込める地上は遙か下で、暗い闇に飲まれてなにがあるかも覚束ない。思わずユリアは躊躇した。
「平気だ! 夜目が利かないだけだ。たいした高さはない! 信じろ!」
近くへ抱き寄せられてなお、透夜の声が風に紛れる。ぐずぐずしていても足手まといになるばかりだろう。意を決し、ユリアは促されるままに彼の首に腕を回した。その細い身体を抱き上げようと透夜が屈み込む。
だが、その時。
「透夜!」
若い男の声が、豪雨と暴風の中、毅然と轟いた。
「兄さん……」
声に縫い止められたかのように――振り切れず、透夜が舌打ちして相手へと向き直る。
(お兄さん…?)
見れば、透夜よりも背の高い、落ち着きある威厳を纏った青年がそこにいた。赤みの差した茶色の髪は透夜より短く、白い首筋の元で切り整えられ、髪と同じ色の瞳でひたと弟を見据えている。その双眸は身構えてしまう威圧感を放っていたが、奥底に深く穏やかな優しさを湛えていた。
「なんで護衛兵団長殿がここにいる?」
冷えた眼差しを向け、透夜が問う。その手はすでに腰に下げられた剣の束へと伸びていた。
「お前が夜中に兵舎を出て行ったと聞いたら、兵団長としては様子を見に来ない訳にはいかないだろう。お前の方こそなぜこんな所にいる?」
低い声は朗々と響く。鋭さのある透夜の声とは違う。その深みのある声も、姿形も、肌の色も、すべてが兄弟にしてはあまりに似ておらず、ユリアは彼の背後で首を傾げた。
「……分かってるんだろう?」
「まぁな。彼女を連れてこの国から逃げるつもりか……」
静かに、彼は視線をユリアへ投げた。思わず身を強ばらせ、ユリアは後ずさる。恐ろしさはなかったが、それなのに、咎められたような心地に逃げ出したくなった。
「それがどういうことを意味するか、理解しているんだろうな?」
「兄さんにそれほど愚鈍に見られているとは思わなかったな」
再び彼を捉える兄に、濡れた髪が張り付く頬を不敵に釣り上げ、透夜は笑った。束を握る手に、緩やかに力が籠もる。
「囚人への幇助、許可無き出国、理由無き脱隊――どれも重罪だが、彼女を連れて逃げる場合は……反逆罪だ」
「構わないな。元より、この国の王だけは気に食わなかった」
豪雨の音にも混じらぬほどはっきりと、透夜はそう吐き捨てた。驚きとともにユリアは透夜を見やる。当代の王について、ユリアは悪評以外耳にしたことがなかったが、これは最下層民たちが日々呟く、不平不満ではない。王のそば近くを守る、恵まれた護衛兵の一言だ。口にしてはならぬ一言だ。
眉を顰めた赤茶の瞳が、ぐっと険濃く塗り変わった。雨水の壁越しでなければ、その鋭さだけで射抜かれたことだろう。
「お前がその覚悟なら、俺は兵団長としてお前を止めるより他ない」
言うが早いか彼の腕も腰の剣へと伸び、同時に透夜が石の廊下を蹴って駆けた。水飛沫が撥ね散り、いつの間に抜き放たれたのか、刀身が闇夜になお鈍く光る。
駆け寄りざま足元から振り上げられた透夜の刃を、抜きかけの白刃が受け止めた。顎を狙って蹴り上げられた兄の足先を飛びすさって避け、一瞬にして持ち手を変えて、肩口へと透夜は刃を振り落とす。それを抜き放しきった剣で流して避けて、かすか距離をとった切っ先が、透夜を狙って突き出された。唸る切っ先から舌打ちと共に身を逸らし、透夜は舞うように次の一振りを斬り上げた。一歩及ばなかったその刃先は、兄の軍服の裾を雨ごと斬り裂き、吹きすさぶ風がそれを木の葉のごとく空へと舞い上げる。
間合いを取るために退いた兄へと追いすがり、透夜は開いた距離を詰めて駆けた。
だが、それが誘いだった。間合いに飛び込んだ透夜の刃を、片手に持った伽月の剣が跳ね上げ、それと同じくして、懐から滑りだした短刀が雨夜に閃いた――
濃緋が散る。蜘蛛手に走り落ちる水の流れに、赤く濁りが広がった。
「……――お前に負けるとは、腕が落ちたものだな……」
「あえて隙を残しておいて、なにを言う……」
微笑んだ兄を忌々しげに睨み下ろし、低く透夜は唸った。
短刀を振った兄の足元に、狙えというばかりの隙があった。そこを見逃さず、透夜はとっさに身をかがめて短刀を避け、兄の足を薙ぎ払い、倒れながらも追撃をと動きかけた兄を制すため、その右肩を剣先で床へと刺し貫いた。流れるように身体が動くのを感じながら、いつかの鍛錬での手合わせで、ちょうど兄と自分の立場が逆で悔しい思いをしたことを思い出した時には、もう刃を受けた兄の笑みが透夜を見上げていた。
「隙を見せたわけじゃない……。ちょっと、弟だからと油断してしまったんだ」
「言ってろ」
言葉よりはずっと弱く呟きをぶつけて、透夜は一瞬顔を顰めると、直後、兄の肩から剣を引き抜いた。刃に押さえ込まれていた血が、短く飲んだ苦痛の声と共に一気に溢れ出る。だが、さらに赤く広がる肩口からの染みに駆け寄りかけたユリアを、当の怪我した本人が制した。
「脱走者なら、追手の負傷は喜んでしかるべきだ」
そう笑いかけた彼の表情は、先程まで弟と斬り結んでいたとは思えないほど穏やかだった。暗に逃げろとの意味に、ため息混じりに透夜は刀を腰へと収める。
「返り討ちとは、とんだ失態だな。兵団長殿」
「まったくだ……。この怪我ではお前たちがどちらに逃げるかも見届けられない」
柔らかな兄の声に、ふんと肩をそびやかして透夜は背を向けた。気に入らないといったその面持ちは、兄の真意を理解してのことだろう。
「……無能な兄で助かった。せいぜい咎を負わないよう、父上と得意の根回しをしておけ」
向き合いもせずに透夜は告げると、行くぞとユリアに鋭く命じた。
ありがとう――と、ここで礼を言ってはいけないのだろう。それを察して、ユリアは会釈もなにもせず、ただ彼へ向けて小さく微笑むと、急かす透夜の手を取り、彼の腕に抱かれて地上へと飛び降りた。
残されたのは、兄たる無能な護衛兵団長ただひとり――。彼の上に、傷をさらになぶって雨が激しく降り注ぐ。やがてゆるりと立ち上がり、肩を気遣いながら彼が下方を見遣れば、自身で告げた言の葉通り、弟の姿も少女の姿もどこにもなく、どちらに逃げたとも知れなかった。
これなら無事逃げ切れるだろう。彼はわずか、力無く笑みを刻んだ。
(――やれやれ……とんだ巡り合わせだな、透夜……)
王が幻獣使いなる者が国内にいると知り、膝元を守る彼らにも探索を命じたのが少し前。その過程で、たまたま彼女に最初に接触した弟が、その後なにかと彼女の元に通っているのは知っていた。その時はまだ彼女が当の探し人とは知れず、彼も兄として、それを微笑ましく見守っていたものだ。
だから、自分たちが彼女を害する立場に立とうとは、どんな運命の皮肉だったのだろう。
(――陛下の真意は、分かりかねるが……)
空はまだ泣きやみそうにない。そこに、ふわりと肩へ軽い重みが加わった。
「伽月。もう中に入れば?」
振り向けば、明るく笑う花の笑顔。綺麗な黒髪が濡れることも厭わず、彼の背に毛織物をかけたのはひとりの少女だった。白い絹の高価な寝間着も、明るい笑みに漂う気品も、こんな真夜中に城内をうろついていいとは思えない育ちのよさをうかがわせる。彼の肩に掛かった毛織物も、おそらく先までは彼女の体を温めていたのだろう。作りの細やかな高級品のようだ。
「セーラ……なぜここに?」
瞬く彼に、セーラと呼ばれた少女は笑う。
「今日はお母様が王妃様の夜の茶話会に呼ばれてね。私も屋敷からお城の方に来て、泊まらせてもらってたの。それで、せっかく久しぶりに伽月に会えそうだったから、」
「また部屋まで来たのか?」
目を瞠る伽月に、屈託無く、うんとセーラは頷く。
「だって伽月から来てくれないじゃないの。そしたら、伽月がこっそり怖い顔して出て行くから、何事かなっと思って、あとをつけてきちゃったんだよね」
伽月は頭を抱えた。透夜のことに気を取られていたとはいえ、仮にも兵団長の彼のあとを容易くつけられるというのは、一種の才能だろう。これが一度や二度ではないから困ったものだ。それにおそらくは、すぐそばに潜んでいたことに、自分はおろかあの気配に聡い弟すら気づいていなかった。互いに取り込んではいたが、本当に先の弟の言葉そのまま、とんだ失態である。
「セーラ……危いからこういうことはしないようにって言っているだろう?」
見やれば、ごめんね、と悪びれもなく笑って謝ってくる。敵意も邪気もない。この底抜けの明るさが、彼女の武器なのかもしれない。さらに困ったことに、伽月はこれに人一倍弱いのだ。
「宰相殿には、また様々な意味でお叱りを受けそうだな……」
「そしたら私がお父様を叱るから、安心して」
そう目配せするお転婆なご令嬢に、伽月は甘く苦笑した。彼女を溺愛している父親も、こういったところにやられてしまうのだろう。苦言を呈すことは諦めて、濡れるね、と伽月は羽織らせてくれた毛織物を広げ、彼女を頭から包み込んだ。抱き寄せられたその近い距離に満足そうに笑んで、しかしすぐに、セーラはきゅっと細い眉を釣り上げた。
「そんなことより、早く中に入って手当てしないと!」
伽月の怪我は端から見ていても深そうであった。暢気に会話している場合ではないと、一転慌てて、セーラは伽月の無事な左腕を引く。導かれるままに伽月は頬を緩め、彼女に従った。医療班の誰かをおこす必要があるだろうか、自分で対処出来るだろうか、そう思案しつつ肩の方に目をやる。
すると、なにを勘違いしたのだろう。大丈夫、と唐突にセーラが声を上げた。
「私がお父様に頼んで、国王様にも言って頂くわ。伽月を処罰させたりなんかしないから。あ! いざとなったら、勝手についてきた私がお馬鹿なことに透夜くんに人質にされちゃって、手も足も出なかったって言えばいいんだから!」
いいことを思いついたとばかりに意気込む彼女に、伽月はかすか面食らい――そのままくすりと笑い声をこぼした。一生懸命な彼女の背中を抱きしめる。
「じゃあ、その時は力を貸してもらうよ。セーラ」
こんな解決の仕方をはかったら、彼女の父親のお冠は逃れられそうもないが、セーラの精一杯の好意はいままで役にたたなかったことがない。なにより断る気になれない嬉しい心寄せを、伽月は素直に受け止めさせてもらうことにした。
(俺の方はうまくいきそうだよ、透夜……)
もういまは遠く離れただろう弟へ、届かぬ声で思いを馳せる。
ふたりが渡り廊下から急ぎ立ち去ったあとも、雨脚はますます強くなり、空は黒く風を唸らせていた。