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雨夜の逃走(1)




 水の落ちる音に、ユリアは目を開いた。暗く狭い石造りの部屋。目の前には鉄の格子――。その向こうにはやはり石で作られた通路があり、壁ぞいに小さな松明が等間隔に灯っている。弱々しい明かりの中、格子の向こうに人影がちらりと見えた。


 見覚えのない風景――さっと襲った衝動的な恐怖に立ち上がれば、床についた手が、鎖の鳴る音に引かれて止まった。落とした視界に、手首を縛める黒い鉄の枷が飛び込んでくる。続く鎖は、冷たい石の壁へと繋がっていた。

(え……?)


 再度、ユリアはあたりを見渡した。重苦しい湿った空気。風のない陰鬱な石の空間。行く手を遮る格子と、手の鎖――。

(……もしかしなくても、ここ、牢屋……?)

 目にしたことはない。だがどう見ても牢獄だと考えて間違いなさそうだった。澱んだ空気の臭いが満ちている。


(――寒い……)

 ユリアは身体を抱いて座り込んだ。まだ秋の入り口のはずだが、地下の空間は凍えるようだ。牢にあるがゆえに呆然としかけた意識を、その寒さに引き留められるとは、不本意な話ではある。だが同時に、夢ではないのだとも、骨身に染み渡っていく。床にそのまま横になっていたからか、身体の芯まで冷えきっていた。ユリアは申し訳のようにかけられていた薄汚れた布を引き寄せると、それにくるまった。


 窓もなければ、光が漏れる隙間もない。地下なのだろう。空が見えないので時間を知る術はなかったが、牢で目覚める前の記憶は昼間で終わっている。己の体調や体力を鑑みるに、それからさして時間はたっていない気がした。おそらくは、ここに繋がれてまだ半日が経ったか経たないか――長くて次の日に差しかかったぐらいだろう。


(どうしよう……)

 ユリアは柳眉を寄せた。状況の割には急速に落ち着きが取り戻せている。牢に閉じ込められるような苦難に見舞われたことは今までなかったが、治安の芳しくはない貧民街で育った彼女は、日々の中で、危機に瀕した時こそ冷静さを保つことが肝要だと、身をもって味わっていた。


(それにしても、なんで?)

 牢に繋がれるいわれが、ユリアには思い当たれない。ただ分かるのは、ここに押し込められた経緯だけだ。


 突然ユリアの日常に現れた、ひとりのスティル王国宮廷護衛兵。ユリアと同じ年の頃だろう。少年の時を過ぎかけた、だが青年というにはまだ幼さの残る齢に見えた。貧民街では見慣れない上質な軍服は、彼が貴族出自の護衛兵であることを示しており、この国では珍しい少し浅黒い肌と、右目元の泣きぼくろが印象的だった。中性的な整った顔立ちがひどく人目を引いて、ユリアたち少女の間はおろか、男たちの間でも噂になっていたほどだ。


 彼の他にも護衛兵が、近ごろはよく貧民街に姿を見せるようになったとは思っていた。けれど初めて彼を見かけた時も、その後いく度か姿を目にした時も、彼がなにをしていたのかは知らなかった。ただ――

(あの時は、助けてくれたんだよね……)


 ユリアは薬草を育て、煎じ、ささやかな薬にして生計を立てていた。だが、元の資金がない彼女に調達できる範囲で作れる薬には、気休め程度の効用しかないものがほとんどだった。だからそれについて因縁をつけ、なにか別のことをせびろうとする悪い客――客を装った男というのが、そこそこ現れる。ちょうどその日も、そうしたしつこい男に絡まれていた。貧民街では見慣れた光景、よくある揉め事のひとつで気に留める者はいない。そうした事態になった時は、自力で逃げ切るしかないのが常だった。


 それが、その日は違ったのだ。そこに怒鳴り込むように割っていってくれ、助けてくれる人物がいた。それが、彼だったのだ。紫がかった黒髪と瞳の厳しげでいながら、凛と高潔な空気の少年――。


 それからだ。彼がいい薬はいくらでも手に入るはずなのに、彼女の元まで足を運び、たいしたこともない薬草を買って、二、三会話を交わして帰っていくようになったのは。そんな彼を、不可解だと思いつつも受け入れていたのは。


(本当に、ただ買いに来てるだけだとは思ってなかったけど……)


 一日、二日と積もっていった日々は、そろそろ欠けた月が満ちるほどになっていた。その間に、最初の時と同じように柄の悪い買い物客を追い払ってくれたこともあったし、いらないからとたまに手土産を渡されたこともあった。


(うん。お菓子とか、特に嬉しかったなぁ)

 なにをどうしてか、彼が持ってくるのは、そのやや険のある雰囲気に似合わぬ、女性の好みそうな菓子や花が多かったのだ。

 交わす会話は最初の頃と変わらず少ないままだったが、それでもユリアは、彼と会うのが楽しみになっていた。


 そんな矢先のことだ。彼が訪れ、いつも通りのわずかな会話を交わしていた時、常と違い他の兵が彼の背後に現れ、唐突に彼らに手を捕まれた。彼がなにごとか怒鳴っていたような気もしたが、それはしかとは覚えていない。その前にユリアは意識が消えたのだ。頭部がかすか痛むことを思い合わせるに、そこになんらかの打撃を加えられたのだろう。


(参ったなぁ……)

 はいた息が、冷たい指先をほんのりと温める。


 考えてみれば、約束事のように互いに名乗り合わないままで、名前すら知らない。ユリアがいま地下牢にいるのは、彼のせいなのだろうか。


(でも、そういう風にも見えなかったしなぁ……)

 思い返しても、彼に嫌な思いをさせられたことは一度もなかった。口調は少し強く、委縮させるところがある人物だったが、端々に気遣いを感じた。それに――

(あんまり、合わせてはくれなかったけど……)


 鋭く強い目元だったが、その奥は優しい色をしていた。ユリアはもう一度ため息をついた。とにかく、彼とまた会って話がしたかった。


 その時だ。通路をこちらにやってくる足音がした。外に目をやると、先にちらりと見えた見張りが威儀を正してやってきた者を迎えている。かなり階級が上の者なのだろう。緊張した空気が伝わってきた。


 だが、お疲れ様ですと彼が紡いだ言葉は、最後まで流れることなく、呻き声と殴られたらしい鈍い音とに掻き消された。繋がれたユリアの視界では、誰が来たのか分からない。だが、親兄弟のいない彼女を救いに来る者など、いるはずもない。それに、見張りに挨拶を受けるほど悠々と牢に近づいてこられる者を、彼女は彼以外に知らなかった。


 来訪者は気絶した見張りを通路に転がすと、彼から鍵の束を盗み取った。同時に薄明かりに、常に纏っていた護衛兵の衣服とは違う、深い藍色が翻る。

 思い描いていた通りの相手が、少し違う出で立ちで牢の前に姿を現した。肩口にかかるのを無造作に後ろでひとつに結び詰めた紫黒(しこく)色の髪と、一見怒っているように見える同じ色の鋭利な双眸。それがユリアを映し、わずか苦く歪んだ。重い錠前が開らかれる。


 口をきくことを許されないようで、ユリアは黙って彼を見つめていた。それに、もう一度会えればと思いはしていたが、まだなにをどう聞けばいいのか整理がついていない。

「悪かったな……」

 戸惑うユリアの上に、小さく彼の声が落ちた。だがその音色を聞き返す前に、彼女の手枷の鍵も解くと、彼はユリアの手を引き、低い声で短く命じた。

「来い」


 どこへ、とは尋ねられなかった。強引に引きずられるままに、ユリアは彼について走り出した。石の通路に、駆けるふたりの靴音だけが甲高く響き渡る。余計に追い立てられるようで気持ちは焦るのに、ユリアは彼の速度についていくのがやっとだった。早くも上がってきた息を必死で飲み込みながら、腕を引かれるままにひた走る。


 所々に押し込められた、騒ぐ罪人や虚ろに目をやる囚われ人には目もくれず、彼は広い地下牢を迷いなく縫っていった。おそらく彼にやられたのだろう、倒れた見張りの脇をいく度か過ぎ、蜘蛛の巣くう長い通路をようやく抜けると、螺旋に上る石の階段が待ち受けていた。この牢と地上を繋ぐ唯一の道のようだ。しかしただ地上に出るにしては、階段は随分と高い。地上に繋がるのではなく、この牢がある建物の上階に出るのだろう。牢を抜け出し、この階段を上りきったとしても、まだ逃げ切れたとは言えないわけだ。


 急な勾配を彼は息ひとつ乱さずに駆け上がる。だが、ユリアは彼とは違い訓練を積んだ兵士ではない。ただの貧民街の薬草売りだ。間隔すらまばらな石段に、ついによろめいた足は滑り、彼女は支えを失って危うく転げ落ちかけた。


「おい! 平気か?」

 腕を引き、彼が転びかけた彼女を慌てて抱きかかえる。その様子に、本当にユリアの状態に気付いていなかったと分かり、彼女は息を整え整え苦笑した。


「ごめんなさい。でも、もう少し、ゆっくり、だと、嬉しい、な」

「――悪い」

 ユリアの訴えに、彼はばつが悪そうに眉を寄せた。そして次の瞬間、息の上がりきっているユリアをそのまま肩に抱え上げた。驚愕するユリアをものともせずに、同じ速さで階段を駆け上っていく。


「あの! これ、あなた大丈夫?」

 肩越しにユリアは声を張り上げた。それは自身を担ぎ上げている負担へでもあり、明らかに上官に命ぜられて連れに来た様子ではない、この逃走への手助けへの心配でもあった。ユリアをここに捕らえたのは、間違いなく彼と同じこの国に仕える兵だ。つまり、彼女の投獄は国の意思だ。それにも関わらず、護衛兵たる彼が、ユリアを逃がそうとする理由が分からない。


「問題ない! いいから黙っていろ! 舌を噛むぞ!」

 噛みつくように命じる口調に、ユリアは言葉を飲む。聞きたいことが山ほどある。しかし、いまはそれを問う時ではないのだろう。


 暗い石段は彼が走るままにはるか眼下へとどんどんと伸びていき、いつの間にか最上部へと達した。小さな踊り場に身体を下ろされる。その先には、古びた鉄の扉が堅固に行く手を遮っていた。


「あの……ありがとう」

 ここまで人ひとりを担ぎ上げて昇るのは、相当な負担であったはずだ。しかし彼は少し乱れた息を悟られまいとするように、顔をそらして言い捨てた。


「別に、問題ない。それより行くぞ。この先は二階の渡り廊下だ。飛び降りれば城の裏手門に通じる道が近い。そこまで走れば、外に馬を置いてある。ついて来い」

「どうして、逃がしてくれるの?」 

 問いかけるユリアの戸惑いの混じる響きに、彼は顔を曇らせた。わずか言いづらそうに、彼女を見ぬまま口を開く。


「このままだと――お前は殺される」

「え……?」


 淡く青い瞳をユリアは瞠った。そこでようやく、無意識にその心配はしていなかった自分に気がついた。投獄されたが、ユリアにはその理由も罪科も思い当るところはなかった。だからどこかで、厄介だとは思いこそすれ、命の危険までは感じていなかったのだ。けれど、彼の言葉は嘘偽りではなさそうだった。


(なんで……?)

 動揺を隠せないユリアに、だから言いたくなかったんだ、と舌打ち混じりに小さくごちて、彼はその鋭い眼差しでユリアを見定めた。


「〈幻獣〉を従える能力がお前にはあるんだろう? この国の王はその力を欲している。そのためにはある儀式の元、お前を殺す必要があると俺は聞いた」

「私、そんな力、知らない……」

「そうだとしても、なんと言おうが無駄な言い訳だ」

 呆然と首を振るユリアを、彼は無下にも一蹴した。


「事実がどうであれ、お前にはその力があると思われている。なら、どのみちここにいれば王に殺される。それだけの話だ。――だから」

 ユリアの目の前に手が差し出された。見上げる。頭ひとつ分上から、彼女を強く真っ直ぐに、紫黒の瞳が見つめていた。

「死にたくないなら、俺についてこい」


 彼の凛とした顔に浮かぶそれは、強いるようにも願うようにも見える、不思議な表情だった。


(〈幻獣〉なんて、聞いたこともないけど……)

 いまや廃れつつある魔法や、それに纏わるものに関わりのあることなのだろうか。それがなぜ、魔法の魔の字も知らないユリアにあることになってしまったのかは分からない。だがここにいれば、ほぼ間違いなく囚われ、殺される末路が待っているだけだということは、理解できた。


 それになにより――彼の手をとりたいと、ユリアは思った。乞うように、攫うように――そして、とても真摯に彼女に伸べられていたから。


「――分かった」

 ユリアは頷いた。紫の沈む鋭い黒の双眸が、その光を絶やさぬまま満足げに細まる。

「そう来ないとな。行くぞ」

 腕を引くと同時に、彼は歩みを進めた。慌てて追いすがって、口早にユリアは尋ねる。


「ねぇ、あなた名前は?」

「名前?」

「聞いてないもの。これから御世話になるんだし、それぐらいは知っておきたいから。私はユリア」

「ああ……その、透夜(とうや)

「なるほど、透夜くん」

「待て! くんはやめろ!」


 苦々しげに叫ぶその顔は、薄暗さに見間違ったのでなければ、確かにかすか赤くなっていた。どうやら呼び方を恥じらったらしい。それが状況に不相応ながらも、ユリアの心の端をくすぐった。あどけない、とはいわないが、それに近い感想を彼女にもたらすものだった。

朱の差した顔を隠すように透夜は前髪をかきやり、あえて無愛想に告げた。


「呼び捨てでいい。というか、呼び捨てろ」

「分かった。透夜、ね」


 くすりとユリアがこぼすと、舌打ちされた。だが、不服げに眉間に皺を寄せながらも、耳は赤く色づいている。その照れくささを隠しきれないといった様子は、やはり先と同じ想いをユリアに抱かせた。もちろんユリアはそれを口にはしなかったが、態度には出てしまったのだろう。透夜の眉間の皺がさらにきつく寄せられた。


「もういいな? 行くぞ!」

 ぶっきらぼうに叫ぶくせに、ユリアの手を優しくしっかりと握ると、彼は渡り廊下へと繋がる扉を押し開いた。





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