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風の王女は幻獣と復讐の夢を見る  作者: かける
第五章 風の姫
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火灯り





 ここまで来れば大丈夫だろうと、小さくなる長い黒髪の背を見送って、彼は翡翠の双眸を細めた。さて、戻らなければと振り向きかけて、視界に入った空の有様に眉を寄せる。傾いだ首筋を滑って、長い金糸の髪が流れ落ちた。


(満月の、夜空だ……――)


 柔らかに広がる漆黒の夜空が、静かに照らす満月を抱きしめている。おかしいと思う。いまはまだ満ち足りきらぬ三日月の夜。とうに月も消え果てた、真夜中だったはずだ。

 いくら考えてみても訳が分からなくて、彼は難しい顔をして空を睨み、無造作に前髪をかき上げた。長い指の隙間からこぼれ落ちる同じ色の髪に、月光がきらきらと舞い落ちる。


(それにしても――……)

 見上げる空は雲一つない。この国には珍しく、まっさらに晴れ渡った夜空に、ただ鮮やかに月があるだけだ。

『ずいぶんと、月の綺麗な――』

 呟きかけて、どこかで聞いたことがある気がした。


 そこでぐらりと視界が揺れた。月が消え、暗い闇に覆われていく。慌てて周囲を見渡せば、遥か彼方に扉が見えた。かすか開いたその隙間から、眩い光が――

(違う。あれは……)

 ゆるりと揺れる穏やかな朱色。闇を切り裂き射貫く強さはないが、ほんのりとぬくもりとともに、あたりを染め上げている。


(……火灯りだ)


 彼はいつしか扉の前に立っていた。そしてあたたかに灯る火の方へと、一歩踏み出し、扉をくぐり抜けた――……



 +



 ――そう思った瞬間。(はぐさ)は目を開いて瞬いた。彼が空を仰いで倒れていたのは、荒れ果てた宮城(きゅうじょう)の階段の間。風が突き破った吹き抜けの天井から見える空は、満月でも夜でもない。薄紫に朱色を溶かす、夜明けの色だった。


「――え……?」

 再度瞬いて、起き上がる前に莠は頭を抱えた。死後の世界にしてはずいぶんと芸がない。死んだのと同じ場所で始まるのか、としょうもない悪態が頭の中で泡沫となって消える。

 そこに、頭の方から顔の上に、ぬっと大きな影が差した。


「よぉ、お目覚めか? 坊主」

 紅蓮の髪を流して、金色の魔獣の双眸がにやりと牙を見せて笑っていた。それに、露骨に不快に顔を顰めて、莠はぼやく。

「――……あの世へは海を渡るとは聞いてたけど、そこに海賊が出るって話は、初耳だな」

「そいつは俺も聞いたことがねぇな。あっちにいけてりゃ、確かめられたかもしれねぇが、生憎と生き長らえたもんでね。正直なところ、お前にやられた傷はちょっとヤバかったんだぜ、坊主」


 腹から胸にかけて莠が開けたはずの風穴は、きっちりふさがりきっていた。隆々とした腹筋がのぞく盛大に破れた服だけが、そこになにかがあったことを告げていた。他に与えた傷もことごとく同じ有様で、いたるところに残る、赤黒く乾いた血潮の跡だけが浮ついている。


 それに莠は、自身の身体をそっとさすった。ぼろぼろの衣服が指先に引っかかったが、魔獣との戦いでついた、真新し傷の感触がひとつもない。呼吸ひとつで悲鳴をあげていた臓腑の痛みも、まるで感じられなかった。それになにより胸が――彼女を失うと同時に胸を穿ったはずの空洞が、ない。


「……そうか……。――死んでないのか……」

 そこでようやく茫然と事を受け入れて、ぽつりと莠は独りごちた。手足を投げ出して横になったまま、見るともなしに魔獣をその薄緑に映す。


「ああ、死んでねぇな。――風が、吹いたからな。すべてを癒す、薄紅色の花の風だ」

 語りかけるようにも、ひとりこぼすようにも囁いて、魔獣は彼方へ視線を流した。風が吹き過ぎた方角だろうか。空に翻された夜明けの衣の裾元。紅色に染まりかける、淡く眩い紫が輝いていた。


「あれで俺も助かった。この世界も、一度崩れかけた騒動の記憶は消えないだろうが、おおかた元通りだ。世はすべてこともなし――ってな」

「風の姫か……」

 疑いを抱いていたわけではないが、本当に、やると決めてやり通したのかと、素直な感嘆が吐息に混じった。


 魔獣の世は巡らず、命の果ては茫漠と届かぬままで、世を揺るがす術式は大成を見ず――砂漠の女神は蘇らない。彼らがあれだけ時をかけ、積み重ね、そして多くを踏み躙って手にしようとしたものは、なにひとつ叶わなかったわけだ。

 なんて虚しく愚かしく、胸のすく結末だろう。だが――


「だけど、どうして、俺が……? 本当に?」

 自分はあちら側を選び、間違いなく、あの風の姫にとっては帝国の人間だったはずだ。〈呪珠(じゅじゅ)〉の力は過たず、主の死とともに彼の命も奪い、それは誰かを差し置いてまで、風にすくい取られるような、そんな在り方をしていなかったはずだ。


「――嘘だろ……?」

 鼓動が脈打つのは分かるのに、やはりどこか信じがたく、莠はぐしゃりと額に手をやった。


「まあ……確かにお前は一度死んだんだろうぜ。だが、どういうわけか生き返ってここにいる」

 取り繕いも出来ないらしい莠の動揺を見下ろして、横たわる彼の横にハーシュはどかりと腰を下ろした。

「なぁ、お前、最初に俺が近づいた時、魔力を感じたか? そもそもいま、俺の存在に魔を読み取れるか?」


 はっと莠は眦を裂き、魔獣を見やった。まるで、感じなかったのだ。これほどの距離にいながら、少し前までは肌が痺れるほど強烈に察知させられていた、魔力の気配を。

 莠の表情にいらえを待たずに彼の理解を悟り、ハーシュは続けた。


「だろうよ。いまのお前には、魔力の欠片もねぇ。有り余ってたもん、余計に詰め込まれてたもんが、なに一つ残っちゃいねぇんだよ。それに、それだけじゃなく――元よりいまのお前には、特別なとこがなにもねぇ」

 最初、意味を飲み込み切れなくて瞬いた翡翠の瞳に、ハーシュは柔らかに笑みを結んだ。

「魔力にもその身の機能にも、特異なとこがありゃしねぇんだよ。隅から隅まで、なんの変哲もねぇ身体だ。詰め込まれてたもんは取り除かれて、奪われてたもん、欠けてたもんは備わってる。本当に――いまのお前はどこにでもいる、ただの人の子だ」


「ただの……人……」

 それはつまり、彼の身体には紅奈(くれな)が施した魔力もなく、その命と結びつく〈呪珠〉もなく――そして、生き長らえるために彼女に与えられた、あの紅い薬も、必要がなくなったということだ。


 そっと動いた指先が、左耳に恐る恐る触れた。蒼珠(そうじゅ)に千切り飛ばされたそこは、なにもなかったように欠けずに耳の形がある。ただ、けれど――ともに引きちぎられた白銀の耳環(じかん)だけは、当然戻ってはいなかった。


 震える手を握りしめて、莠はゆるりと横たわっていた身を起こした。腕を見つめる。破れた衣服からのぞく、己が身体を見下ろす。そこには、あれほど深く、幾重にも刻まれていた施術の傷痕が、ひとつもなかった。彼女の名残が――なにも残されてはいなかった。


「……まっさらに――引き戻されたのか……」

 絞りだすようなささやかな声が、こぼれ落ちた。頭を抱える。その唇から、小さく乾いた笑いがもれた。

「なるほど……。こいつは――たいした、復讐だ」


 彼女のものとして、すべてを抱いて共に終わると決めていたのに。こんな形で、覆されるとは思いもしていなかった。

 口端は笑みを刻むのに、頬を一筋、なにかが濡らした。

「ずいぶん優しく、残酷な……お姫様だ」


 奪った代償は、死ではなかった。もはやあの人の手が加えたものがなに一つ残らない、ただの人の身となったこの身体で、生きていけという。積み重ね、数え続けた咎は忘れえぬまま、そのすべてを抱いて、生きていけという。

 けれど、彼女の痕がなにも残らなかったまっさらなこの身で、どうまた――生きていけばいいのだろう。


 黙したままの魔獣の隣、蹲る青年をなでるように、風が吹き寄せた。金色の長い髪を攫って、通り過ぎていく。


(ああ、それでも……それでも――……)

 ――この命は、また、生きてゆかなければならないのだ。


 やがて静かに空を仰いだ翡翠の視界に、清々しく澄んで広がる夜明けの紫が満ちた。そこを駆け抜ける、ほのめく春を抱いた風に、彼は諦めたように微笑んだ。














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