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風の王女は幻獣と復讐の夢を見る  作者: かける
第五章 風の姫
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君を守る剣(1)




 ピユラが風の力とともに力いっぱい押し開いた扉の向こう。広い玉座の間のその奥。皇帝の座す目の前に倒れているユリアの姿がすぐさま飛び込んできて、透夜(とうや)は全身の肌が火がついたように痺れるのを感じた。

 なだれ込むように踏み入るピユラを追い越して、剣を構える。だがその時、太い柱まで振動させて、部屋の空気がゆすり動いた。鼓膜を破らんばかりの乱暴な音で入ってきた扉が閉まり、あたりを床から立ち昇る暗い紫の光が包み込む。そのとたん、唐突に蒼珠(そうじゅ)が膝を折り、ピユラが頽れた。


 喉を掻きむしるようにして、口元を押さえて呻く。脂汗を滲ませた苦しげな様子に、戸惑い、立ち止まってふたりを顧みた透夜へ、愉快げな笑いを孕む声が聞こえてきた。


「こいつは魔獣並みに魔力が強い奴ほど効きがいいんだが、試作と改良重ねたからな。お前ら程度でもなかなかのもんだろ? お人形ちゃんが喘ぎ苦しんだ甲斐もあったってもんだ」


 魔獣と魔法使いに、動けぬように負荷をかける。元々ラクシュミー用に用意されていたその術式は、魔獣の血を引く蒼珠と風魔法の血を持つピユラにはてきめんに効いたようだ。ハーシュの施してくれた簡易な手の甲の術式だけでは、跳ね除けることも出来ないらしい。


「だけどそういや、これ、お前ら一族には効かねぇんだったなぁ」


 切っ先を向けて透夜が見やれば、怜悧な深い藍色の瞳と視線が合った。見上げるほどに背が高く、文官らしき服を身に纏っているが、恵まれた体格は武官でも通せそうだ。後ろへとなでつけた鳶色の髪と褐色の肌に、彼の血脈がどこから続いているのか自ずと知れる。


「まあ、だからお前らには別の術式用意してやったんだけどよ。どうだ? 砂漠で解けたのか。その胸のもん」

「お前……」

 血に沈む海で覚えがある、四つ葉に似た花の紋。遠く霞んだ記憶の中でも鮮やかだったその紋がくっきりと、眼前の男の肩からかかる織物の上で揺れている。


紫陽(しよう)。お前が、宵鴉(しょうあ)・イザキ・紫陽か」

「宵鴉・イザキ・ロドム・紫陽。お前の仕えるロドムの本筋だぜ、小僧」


 人好きのする笑顔ながら、かすか香り立つ空気に毒を感じる。彼の話を持ち出した時に怯えた様子だった母のことも思い出し、透夜はよりいっそう身を引き締めて距離を測り、身構えた。

 その緩まず鋭い目元の泣きぼくろに、紫陽は喉を鳴らす。紫陽が自分にとってどういう相手か知っている――少年の表情は、冷静に動かないように見えながらも、その瞳に籠る熱で、雄弁に物語っていた。


「そうそう、目の下にほくろのある餓鬼。あの一族の中でひとりだけ生き残らせた、紫混じりの目の坊主な。思い起こしてみりゃ、餓鬼の頃の面影のある顔してんな。ずいぶんと大きくなったもんじゃねぇか」

 それこそ少女のようだった面差しが、中性的な顔立ちに残っている。可笑しそうに紫陽は、その端正な相貌を眺め見て、口端を引き上げた。

「ひとつ仇討ちと洒落込んでみるか?」


 踊る声音とともに紫陽は指を弾いた。とたんに床の陣に黒ずんだ光が混じり、透夜を囲むように術式の文字のうちから、溶けた鉛のような白銀の塊が、いく筋も彼より高くそそりたった。それは熱もなく冷たくもなく、ただ液体のように柔らかに形を変えながら、不気味に流動する。空を切って横に薙ぐものと、頭上から圧し掛かるように落ち来るものとにわかれて、蠢く金属は同時に透夜へと襲いかかってきた。


 白銀の塊を斬り裂き分断しようとした透夜の剣と、腹を薙ぎにきた波が、ぶつかって甲高い音をたてる。柔らかに見えたそれは一部だけ刃に形を変え、鋼よりも固いのか、透夜の剣を刃こぼれさせながら、叩き折らん勢いで押してきた。


 透夜は舌打ちして、円を描くように足を滑らせると、押し負けそうな剣を振り上げた。瞬間、刃に散った氷のきらめきが剣を合わせていた塊だけでなく、上から彼を突き刺そうとしていた白銀の波までも凍りつかせ、そのまま粉々に砕き散らせる。


「へぇ、剣技はすっかりものになってんな。それに、貪欲に学んでるじゃねぇか。どっかのお人形が使いそうなやり方だ」

 紫の光をきらきらと反射させながら降り落ちる破片に、紫陽は口笛混じりの称賛を与えた。


 透夜の一族は、剣技で精霊を魅せ、一時力を借り受ける。言葉で繋がらない特殊な血は、時々により多様な精霊からの加護を導き出せた。しかし代わりに、剣に受けた精霊の力は長くはもたず、複雑な技を扱うのも難しい。魔獣がその魔力の強さで数多の魔法を意のままに操る広さと深さと違い、広く、だが浅く、精霊の力の片端を顕現させる。


 そんな限りの多い力で、紫陽の攻撃をすべて一瞬で凍りつかせるとはなかなかのものだ。かつて紫陽が殺戮した、彼の血縁のうちには、それほどの使い手はいなかった。

「その目の色は伊達じゃねぇってか。見込み通り、ちっとは楽しませてくれそうか?」


 また床の陣がか黒い色で輝いた。白銀に波打ち、紫陽の意のままに溶けも鋭くもなる金属があまた現れ出でて、鞭のようにしなりながら透夜を狙って風を切る。その重たい鞭は振り下ろされる瞬間、切り裂く刃先に形を変えるようで、飛び退き避けた床が、叩き落とされた鞭によって鈍い音とともに裂けてひび割れた。


「防いでばかりじゃ、仇討はできねぇぜ?」

 鞭を弾き、斬りふせて躱し、纏わせる魔法で動きを凍りつかせ、時に焼き払う。だがそれでも際限なく湧き出る次の攻撃に、透夜は守りに徹する一方だ。

 だが、それは攻めあぐねてではない。からかう目配せを一瞥して、透夜は低く咆えた。

「黙れ。俺の目的をお前が勝手に決めるな。誰が仇と思って貴様を討ってやるものか」


 紫陽を討つより、術式を破る起点を透夜は探した。ミザサに教えられたのだ。術式には必ず、構築した文字列の上に要となる部分がある。それが刻まれたところを破壊すれば、術式は破れると。

 本来、丁寧に術式の効果をなくすならば、相対する術式を組み上げ、ほどく方がよいらしい。つまり、要の破壊は乱暴なやり方だ。そのため、強い効果のある術式ほど、反動も覚悟しなければならないと言われた。だが、この場でそれを躊躇いはできないだろう。

 術式の要を壊し、ピユラや蒼珠を動けるようにしてやり、なにより倒れ伏すユリアを解放せねばならない。


 もちろん術者も要の弱点は考慮のうちだ。目をくらまし、分からぬように隠し通す。腕のいい者ほど隠蔽の技にも長けているし、時には罠を仕込むこともあるという。


「仇とは思わねぇか。そいつはなかなか薄情だなぁ、小僧」

 やれやれとばかりに肩をすくめる男が、その手の性質の相手だとはすぐに透夜にも分かった。簡単に要を見つけさせてはくれないし、罠の危険も考慮しておかなければならないだろう。

 そもそもミザサも及ばず、魔獣も嫌厭する術式を帝国に敷いていたのは彼なのだ。厄介な相手だと炎纏う剣を振り下ろし、透夜は余裕に満ちて己を見物する巨躯へ、皮肉を口端に刻んだ。


「その口がそう咎めてほざくか。だが、一族の無念を晴らすなど、あの時の記憶もない幼過ぎた俺には、背負えない過去と決意だ」

 己を奮い立たせてくれる血脈のぬくもりを覚えていない。顔も分からぬ亡き父母に、ともにあった同胞に、仇をと燃えたてぬ己を詫びいる気持ちも後ろめたさもあるが、そこはもう失ってしまったのだ。奪われて、ぽっかりと穴が開いて戻らない。

 過ぎてしまったもの。なくしてしまったもの。――取り戻せないそれは、見つめ続けていてもどうしようもなかった。


 だから薄情であろうと、捨て置いて前へ進んだ。幸いにも、彼には寄り添い支えてくれる兄がいた。幼馴染の朗らかで快活な令嬢も、利発で優しい王太子もいた。いまにして思えば、静謐に見守ってくれる父も、そして――ぬくもりを密かにくれた母もいた。


 記憶の片端の血の海と四つ葉の紋に、時たま暗鬱と己が仕えるスティルの王を振り仰ぐことはあったが、それだけだった。いま、目の前にいる男が本来の仇だと知っても、それは変わらない。いまさらに復讐の業火は燃え上がらない。


「俺がお前に挑む理由はただ一つだ」

 掬い上げるように下から薙いできた一撃を、身を躍らせて透夜が避けると同時に、弧を描いた切っ先から炎が巻き起こる。振りかかる白銀の鞭の数々がばらばらに切り刻まれて、紅蓮に焼け焦げる。燃えて注ぐ残骸の隙間から、紫黒の双眸が紫陽をひたと捉えた。


「ユリアを、返してもらう」

 揺るぎなく、透夜は言い放つ。


 彼女を守りたいと願った。本当にきっかけはささやかで、自分でさえ聞けば笑ってしまいそうなほどありふれた、ありきたりの一瞬だった。けれど、それでも――微笑む彼女をとても美しいと思ったのだ。唇からこぼれた柔らかさと、蕩ける瞳に魅入られた。


 それから共に過ごす中で、悪戯めかして笑い、頬を膨らませてむくれ、様々に仕草を、表情を彩って、ユリアは隣にあってくれた。その時間をこの先もと望み、取り戻すと誓うことは、あまりに透夜の中で当然のことで、すべてをかけて挑むに十分だった。


 次の攻撃の手から逃れて透夜は床を蹴る。それは逃げ惑う獲物の姿ではない。凛と燃え立つ瞳は、牙をたてる機をうかがうものだ。

 射殺しそうなその視線の強さに、紫陽は顎髭をなぜつつ面白そうに笑い声をたてた。


「へぇ、いいじゃねぇか。確かに過去に囚われるなんてのはくだらねぇ。己がよいと思ったものを信じ、やりたいと思ったことをなせばいい。亡霊にこびうっても意味ねぇもんな。俺も同じ考えだ。気が合うな」


 明朗なまでに言い切る紫陽に、彼の背の遠く向こう、玉座に座した八雨(やさめ)がかすか笑った。気づいて紫陽はちらりと笑んで八雨を流し見たが、皇帝の笑い声も紫陽の笑みの意味も透夜にまでは届きはしなかったようだ。ただ、透夜は彼の言を鼻で笑い飛ばして切って捨てる。


「大宰相殿とお考えを同じくできるとは恐れ多いが――願い下げだな。貴様の気持ちも考えも、分かってたまるものか」

 勢いの弱まらぬ攻撃の手を、熱とともに揺らめく焔の尾引いて、紅蓮の剣が火の粉を散らして叩き斬った。そこから燃え広がった火の渦が、術式の文字の上を床を焼き焦がして走り、陣と陣の重ね目のところで火柱をたてて弾ける。だが――


「はずれ。次はどこいってみるかねぇ、小僧」

 口端を引き上げると同時に、紫陽の指輪から青白い光がこぼれて膨らみ、その手のうちで一冊の本となった。無造作に開いた頁から文字の列が紫の光となって蛇のように滑り落ち、渦巻いて中空にいくつもの鈍色の刃を生みだす。


 透夜めがけて音をたてて空気を切ったその数多の刃は、糸で繋がれているかのように紫陽の指先に合わせて軌道を変え、襲いくる。床に突き刺さり、そこを切り裂いても跳ねるようにして返ってきた刃が、透夜の頬を掠めた。それらをなんとかいなして斬り落とし、変わらぬ床の陣からの白銀の金属の鞭も躱して、透夜は隙を縫うように、要らしき場所へ剣からの魔法を叩き込んだ。


 だがいくど重ねても、その度に焦る様なく紫陽が楽しげに笑うばかりだ。巧妙に隠された要を探すには、攻撃の絶え間があまりにない。意のままに飛び交う刃と鞭をさけて防ぎながらでは、術式を見極め、紫陽の思考を考慮し、要を暴き出すのは至難の業だった。このままでは埒が明かないと、透夜は紫陽から遠巻きに距離をとっていた動きを急速に変えた。


 攻撃の間へ身を滑らせ、刃を掻い潜り、いっきに紫陽へと距離を詰めて携えていた剣を振り上げる。

 眼前を掠める切っ先に口笛を吹きならし、紫陽が一歩身を引いた。同時に本から閃き昇った文字列が、槍へと形を変えて透夜を刺し抜かんと注がれる。


 しかし、槍の束は飛び退いた透夜の服の裾端すら捉えることなく、床を深々と穿った。退いた足をそのまま踏み込んで、透夜の剣が氷のきらめきを帯びる。それを横目で捕捉した紫陽を守って、槍が交差して現われ、透夜の一撃を弾き返した。


 呼応するようにその背後にもずらりと現れ出た槍が、透夜へと加速して風を切る。ただ斬りふせるのでは多すぎる数に、透夜は切っ先で宙に紋のごとき軌跡を描き、舞うように腕を振り抜いた。立ち昇る術式の光に妖しく光る白銀の穂先。それを、魔を帯びた透夜の剣のひと薙ぎが、すべて深紅に焼き払う。だがなお、頁の中から文字を掬うように紫陽が指を滑らせれば、剣が、槍が、刃が生まれ、彼を狙う透夜の剣を阻んで切り結んできた。


 刃の猛攻に押されて、紫陽との間合いが自然とまた離れてしまう。それでも、透夜としては彼に一太刀でもいれて動きを鈍らせておきたかった。幸いいま透夜へと斬りつけてくる剣や槍は、数に力を割いたのか動きは直線的で読みやすい。あがる息を整えて一呼吸、深く空気を吸いこんで、透夜はテサウから伝えられた剣舞の動きを、鮮やかにその手足にのせた。


 瞬間、迸った風の一陣が氷の冷気を帯びて吹雪となり、中空を滑りきていた剣を、槍を、刃を氷漬けにして粉々に砕いた。紫陽へと一筋、煌めく氷の破片に彩られて、真っ直ぐに繋がる道が生み出される。

 そこを透夜は一息に駆けた。逸らすことない紫黒の双眸が紫陽を貫く。ようやく驚きらしきものを顔に浮かべた紫陽へ、瞬時に迫った透夜の剣が届きそうに、なった――その時。


 がくんと透夜の身体が膝から崩れて、彼は床に転がった。倒れる寸前、意地で振り抜いた刃先は、紫陽に触れも出来ずに空を切る。

 何事かと戸惑いながら焦って身を起こせば、膝ががくがくと震えていた。


「効いてきただろ?」

 透夜の有様に、にやりと紫陽が笑みを引いた。

「お前の術式、そうなるように仕組んでおいた」

「どう、いう……?」


 笑う膝を押してなんとか立ち、剣を構えはしても、その紫を引いた鋭い夜空の瞳に宿るのは困惑だ。彼の胸に仕込まれていた紫陽の術式は、ミザサと族長がよく調べ、ゆっくりと着実に解いてくれた。それゆえに、封じるものなく魔の剣を揮えるようになったのだ。そのはずなのだ。


「術式を解いたのになんでだって顔してんな」

 くつくつと喉をならして、しばし攻撃の手を休めることにしたのか、紫陽はとんとんと閉じた本の背で己の肩を叩いた。

「お前が砂漠の奴らに解いてもらったのは、表の術式。お前ら一族の血に宿る魔を封じるもん。隠してるっつっても、傷のすぐ内側で分かりやすかっただろ?」


 透夜の右胸近くにあった、蜘蛛の影に似た傷跡。それを見て、ハーシュもミザサも巧妙に術式の気配を消していると言っていた。それを、分かりやすいと笑って紫陽は続けた。


「無駄話は好きなんだ。ま、せっかくだから付き合えよ。いまお前に効いてきてんのは、裏の術式。表のを解いたり破ったりして、その血の魔法を使うと、じわじわ発動してくんだよ。おかしいと思わなかったか? 表のを解く前から、たまに剣に魔法を宿せてただろ? それとも、それが出来たのは、才覚があるからと思っちまってたか? ま、そいつは否定しない」

 かつてその手にかけた一族の中で唯一、紫を溶かした瞳で彼を見上げた少年を、紫陽は朗らかに称える。


「だが多少、表の封じる力はあそびを作ってあんだ。弱い奴はそこまでだが、そこそこの力があれば、封印を押して血の力を使えるようになる。そこで効いてくんのが裏の術式。お前らに使ったこいつは、ちょっと特殊なやり方でな。表の術式を撃ち込み、傷として相手に施すんだが、それと同時に、その身に流れる血にも裏の術式が刻まれるよう、編み方を考えてみたもんなんだよ」


 遠い昔、彼の手で穿たれたことのある胸元を指し示し、楽しげに引き上がる唇を、透夜は無言で睨みつけた。その褪せずに宿る意志の強さに、紫陽は満足げに高らかに声をたてる。戸惑いと恐怖と涙に濡れ、胸の痛みに呻きながら、なお紫陽を床から睨み上げた幼子。その眼差しはいまも変わらず、より鋭利に美しくなっていた。


「お前の一族は試しがいがあったんだ。なにせ勇猛果敢で誇り高いときた。だから無謀に挑んできちまう。誓いを違えず、ご先祖様から伝えられてた約束を、きっちり守ろうとした。陛下が再び魔獣を手にしようとしたら、止めるように、ってな。まあ、それは一応は成功だ。幻獣は術者を殺して逃げだした。だが、その結末と引き換えに、一族みな殺しっていうのは、まあ、わりに合わないとは思ったがなぁ、俺は。――っと、お前がまだ生きてたか?」


 わざとらしく紫陽は、己があえて始末しなかった生き残りへ相好を崩した。その表情だけ切り取れば、親しげに人懐こくすらあるのが忌々しい。透夜はぐっと握る柄に力を込めた。

 それを楽しげに視界におさめながら、軽快なのに確かな圧を纏わせ紫陽は言う。


「お前が剣を振るうたび、いまもお前の血となって流れる術式は、身体を内側から腐らせる。いまお前は膝がやられてきてるが、じきに身体の腱が朽ち、骨が崩れ、腐って溶けた中身が皮膚を破って血が溢れ出てくるぜ。そうやって、お前の一族は死んだからな」


 瞬間――身体の奥から湧き上がるように蘇ってきた感触に、透夜はぞわりと総毛だった。どろりと粘質をともなった生温く赤い海。指を、頬を、倒れた腹を、浸し、染みる鉄の臭い。縋っていた――誰かの肌の感触と残った体温。そして、消えていく吐息。


(これは。いや、あれは……――)

 あの惨状は、ただ斬り捨てられただけで生み出されたのではなかったのだ。もっと酷く、全身を崩し、潰し、壊すようにして――溢れたのだ。


 透夜は急に襲ってきた記憶の残滓を振り払うように、頽れそうな足を引き、力を入れて身構えた。あの日、彼に歩み寄り翻った金色の四つ葉に似た花の紋。それが、また、目の前で笑う。


「この術式、血に刻むっていうのを試すのもだが、その効果がいつまでもつかってのも測ってみたくてな。ちょうどお前は血が濃くて成果を楽しめそうだし、生かしておいたんだ。結果、十年以上経ってもきちんと発動するって分かった。計算通りだが、まあ、実際そうだと目の当たりにするのは爽快だな」

 睨み上げた先。仄暗い紫の光を受けて笑みを刻む口元が、影のようになっていた面差しを、記憶の海を底から引きずり出す。幼いあの日に見ていた姿が――そこに確かに重なった。


「自分の置かれてる現状がわかったなら、ここらでそいつに魔を宿すのはやめておけ、小僧。死にざまが、無残だぜ」

 ゆるりと動きかけた剣先を追った視線に、嘲るよりも性質の悪い愉悦を滲ませて、紫陽はその手の本を再び開いた。

「ま、どっちにしろ動けないんじゃ、どうしようもねぇか」


 頁からこぼれた光の文字列が紫陽の周りで渦巻き、足元の術式から暗い紫色が煌々と迸る。それが金属の重厚な輝きへと変じ、矢じりに、槍に、剣に、しなる鞭にと、数多の武器の形を成し、透夜へと注ぎ落ちた。


 舌打ちして、透夜はただ剣を振り抜く。槍を弾き、剣を叩き落し、矢じりの鉄の柄ごと叩き折って、足を滑らせた勢いのまま、全身を回転させて鞭のひと薙ぎから身を翻す。しかしそれだけでは到底防ぎきれない数の威力に、唇を噛んで透夜は剣を舞わせた。


 紅蓮の波が輪を重ね、空から注ぐ刃の雨を焼き尽くす。それが、紫陽の狙いとは分かっている。術を重ねれば重ねるほど、透夜の身体は蝕まれる。だが、それでも、魔を重ねるごとに身体が内から腐り落ちようと、代わりにここで切り刻まれて終われるはずもなかった。


「一族の、無念を晴らそうなどとは言えないが、お前はこのままにしておけない……!」

 彼は悪意を悪意と知り、振るうことに咎も躊躇いも覚えぬ人間だ。それなのに、いまでさえなお、親しげな声音が、人懐こい表情が、端々に残り香として燻っている。それで惜しみなくかどわかして、悲劇と惨劇を享楽にしてきたに違いない。そんな相手に意のままに敗れてしまうのでは、あまりに口惜しいと、透夜の中の矜持が叫んでいた。それに――


「なにより守ると決めた。絶対にだ!」


 紫陽の向こう、玉座の足元を透夜は見据えた。乱れた長い栗色の髪に顔は覆われ、苦しいのかも、辛いのかさえもうかがえない。けれど、近くて遠いそこに必ず辿り着き、救ってみせる。

 掠れた記憶の中にある、幼いあの時とは違のだ。先ほど蘇った誰かの躯の感触と、ユリアを同じようにしたくない。いま胸を過った苦しさを、彼女で味わってなるものか。


 血の力を使わなければ捌ききれない攻撃の波を、躊躇いを飲み込んで蹴散らす。風を纏う剣にへし折られ、宙で弾かれた矢や槍が、木の葉のように舞って甲高い音を立てて床へと散る。だが、際限のない数に紫陽への道のりは遠く、さらにその先の玉座など遥か彼方で届かない。


 踏み込もうとした足首が、ぐしゃりとあり得ない方向に曲がって潰れ、膝上から傷もないのに血が噴き出して、透夜は腰から倒れ込んだ。そこを空を切った鞭が音をたてて、透夜を腹から薙ぎ払う。

 辛うじて剣で防いで身体を真っ二つに裂かれることは免れたが、勢いのままに弾き飛ばされた透夜の身体は、受け身すら取れずに叩きつけられ、ピユラたちが喘ぎ蹲る入口の扉近くまで転がった。








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