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風の王女は幻獣と復讐の夢を見る  作者: かける
第五章 風の姫
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僕の魔獣




 (はぐさ)からもらった薬はずいぶんと効いた。ちょうど月のない夜の頃、紅奈(くれな)が部下を伴い部屋を訪れ、ユリアの身体に刃を入れた。処置をされていた最中のことは、薬に眠らされ分からなかったが、目覚めると裂かれて縫われた胸元が、いまなお切り開かれているようにひどく痛んだ。安静に、と言葉を残しながらも、ただ優しく微笑むだけで出ていった美しい女性は、ユリアの苦痛など見えなかったようだったが、それを予期してくれていたらしい莠の痛み止めは実に助けになった。


 焼けつく痛みは、薬を飲んでしばらくすれば溶けるように消えた。だが代わりに、より明瞭になったものがあった。柔らかく、蜘蛛の糸のように細く、か弱く、けれど身体を雁字搦めにする不快感と違和感。胸元を中心に全身に走り抜けるそれは、己の身に施された処置が、〈呪珠(じゅじゅ)〉を埋め込むものであったことを否応なしにユリアに教えた。


 いやな焦燥とままならなさは、にわかに増えた部屋への人の出入りにも余計助長された。下仕えや命令を携えた者たちだけなく、紅奈も日に二回は必ず様子をうかがいに訪れた。彼女のしなやかな指先で触れられるたび、ユリアはぞくりと背筋が冷たくならずにはいられなかった。


 それに昨日と今日は、彼女と一緒に、ジェディアーツと呼ばれる男も顔を見せた。わずかな滞在の間だけでも、引き連れてきた者たちに傅かれなれているのが見て取れ、その男が並々ならぬ立場にあることはユリアにもすぐわかった。ただ、彼の夕暮れのような色をした淡い琥珀の目が、ふと嫉妬を孕んで彼女を睨む理由は、思い当ることができなかった。


 なにかが悪い方に蠢きだしていると――その予感はふいにまた現れた莠の来訪で、間違いなかったと告げられた。


 ここに閉じ込められて初めて目にした晴れた空。その西の彼方に細い月が光り出す頃、ユリアの前にひとりやってきた莠は、いきましょうか、と冷えた声で言った。それだけで、次には視界を白銀の光が包んでいた。


 瞬くユリアの瞳が視力を取り戻せば、先までいた部屋とは比べ物にならないくらい広い空間が飛び込んできた。高い天井のはるか上部に、小さいのに豪奢に飾られた明かり取りの窓が見える。それだけでは暗い広間を、並ぶ壮麗な柱に備え付けられた燭台の火が、ゆらめきながら照らしていた。けれどなにより明るいのは、磨きあげられた水晶のような床――そこに幾重にも幾重にも円や方陣を描いて綴られた、術式独特の文字の光だ。鈍く暗い紫の光が、足元からあたりのすべてを浮かびあがらせている。


 立ち上がろうとして、ユリアは手足の引きずられる感覚と共に床に引き戻された。背後の階段へと広がる、煌びやかな敷物のおかげで痛みはなかったが、見ればいつの間にか手足に細い銀色の枷がはめられ、そこから伸びる鎖が術式の文字の間を縫って床に繋がっている。


「やあ、君には初めまして」

 朗らかにかかった声に、はっと見上げれば、すぐ目の前で組まれていた足先が優雅に解かれ、玉座から男が立ち上がった。


 暗く深い紫の瞳が柔らかな弧を描く。首筋がはっきりと見える短い金糸に、砂漠の民の褐色の肌――なによりも、その人好きのする、爽やかで甘い顔立ちには、いやというほど覚えがあった。


「――ヤサメ……」

 こぼれ落ちたユリアの声は、敵意を滲ませるとともにどこか震えた。その怯えた響きに彼は瞳を瞬かせ、惚れ惚れするほど柔和な笑みを湛えてみせると、恭しくユリアの前に膝をついた。彼女の水面の瞳をそっとのぞき込み、蕩けそうな声音で言う。

「まだ、その目ではないね」


 伸びた指先がひと房ユリアの髪を絡めとり、唇に寄せる。そのままするりと這った舌先に肌がぞわりと粟立って、ユリアが鎖をじゃらつかせながら身を引けば、ははっと耳慣れた独特の笑い声が落ちた。


「自然に待つには、いましばらく、といったところかな」

「どうします? ここの準備としては万端ですよ。魔獣を封じ込めるだけのもんは出来てますし、揺さぶりのかけ方も陛下のお好みで」

「相変わらず頼りになるな、宵鴉(しょうあ)。そうだな。僕としては少しばかり強引にいってもいいとは思っているが……急いて仕損じた過去がある。レニウムと紅奈の意見をもう一度もらおうか」


 すぐそば近くに立つ大柄な男から彼が視線をやった先。それをユリアも追いかければ、ここ数日よく顔を合わせていた紅奈とジェディアーツの姿があった。紅奈の隣には黙したまま控える莠の影もある。


「〈呪珠〉は間違いなく埋め込んで、きちんと働くようになっています。多少力が暴れてしまっても、陛下のお手元でいかようにもできましょう。私としては、特にご判断に異論はありませんわ」

「数値を見ても、だいぶ溶け合いが進んでる」

 微笑む紅い唇に頷きながら、ジェディアーツが手元の道具に目を落とした。手に納まる程度の四角い箱から、なにやら文字が浮かび上がっている。


「ここまで境界が危うくなっているなら、前のように術者を殺して逃げだすなんてことにはならないはずだよ。〈呪珠〉もあるし、紫陽(しよう)の術式もかつてよりずっと強固だ。万一逃げようとしたとして、いくらでも止めようがある。ただ――」

 琥珀の双眸を不服げにすがめ、ジェディアーツは一瞬ユリアを睨みやって、皇帝へと問いかけた。

「八雨。本当に一匹蘇らせるだけでいいのかい? 君はもっと、魔獣を求めるのかと思っていたよ?」

 唇を尖らせる。容貌のわりには幼げな仕草に、ははっとなだめるように八雨は笑った。


「強い魔獣から順番に。まずは、そういうことでいいんじゃないか? レニウム」

 柔らかくもどこか有無を許さぬ重みに、そうか、君がそう言うなら、と、ぶつぶつ口の中で転がしながら、ジェディアーツは一応の納得をみせた。そのいまだいじけた子どものような様子を、八雨は暗い紫の瞳をゆるく細めて見守る。


「んじゃ、多少力づくってことでいいですね。想定外に魔獣様が暴れられちまった場合は、お人形ちゃんに頼んだぜ」

「ご命令であれば、いかようにも」

 八雨の代わりに場をまとめる快活な男の声に、是を返すようでいながら、莠は紅奈の方を見た。彼の命ではなく、彼女の言葉ならばと暗に示す。紅奈の言うことしか聞かないという構えらしい。


「頼りにしているわ、美しい子」

 頑なな忠実さに笑って、紅奈はあやすようにその月色の髪先を梳いてやった。


「じゃあ、初めてもらおうか」

 玉座へと軽やかに身を投げ、再び座して、八雨が穏やかに指示を出す。


「ええ、お任せを。この時を見るために、各地に仕込んだ術式の構築は間違いなく万全。そのほかの仕込みも、そろそろのはずなんで」

「総軍務卿殿も、きちんと魔力収集の要としての機能を果たせるよう手を入れて、紫陽の指示通りの場所に繋ぎましたから、事が終わるまでは耐えていただけると思いますわ」

 口端を引き上げる紫陽の後を紅奈が継ぐ。実に上機嫌に明るく、八雨は笑い声をたてた。


「ああ、いいね。それに――僥倖だ。かつての舞台の方が、向こうから整って来てくれた」

 鮮やかなまでの悪意だけで朗らかに、その紫が嬉しげな色を躍らせる。ああこの目の色をいつか見たことがあると、走り抜けた悪寒とともにユリアが思い当るより早く、隣の紫陽が己の腕をみやって首肯した。かすか袖口からのぞいた太い腕には、術式の文字が刺青として刻まれ、その一部がほのかな光を放っている。


「そうですね。いま俺の国の守りの術に干渉がありましたよ。さすがにいますぐ来られると、完全に目覚めさせるのが間に合いません。邪魔になりますが、どうしますかね?」

「〈呪珠〉に侵され、ままならない身を助けにきてくれる友――というのは、いいものじゃないか。いつかのようで、彼女も思い出と重なるんじゃないかな」

 軽い調子の紫陽の問いかけに、弾む口調で八雨は答える。そのあまりに爽やかな笑顔に、苦い嫌悪がユリアの中で急速に渦巻いた。


「とはいえ、下手な邪魔は困るからね。紅奈。君のに多少遊び相手をしてもらってきてくれ。まあ、それで潰れてしまえば仕方がない。その程度でいいさ」

「分かりましたわ。――莠。そのとおりに」

 使い方をよく心得て紅奈へと告げる八雨に、彼女は頷き、その人形へと微笑み命じた。


「貴女がそう仰せられるなら、お言葉のままに」

 金糸を滑って(いざな)う白い指を拾い上げ、許されるままに唇を寄せて、莠の姿がまた白銀の光の中に消える。


「たくさん期待してくれ」

 ユリアに向けて優しく笑いかけ、八雨が言った。会話の内容から、透夜(とうや)たちが来たのだとは、しかとは語られずともすぐに知れた。それに一瞬、希望に胸が高鳴ったのを見透かされたようだった。


「期待して、期待して、期待して――なおそれを踏みにじられた方が、君の憎しみも増すだろう?」

 恋うような熱を帯びながら芯まで冷えた音色が、そっとユリアの耳をなでる。彼女の奥底へ誘いかけるように、八雨は恍惚と笑みを結んだ。


「またあの目を見せておくれ。僕の魔獣――ラクシュミー」

















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