夜明けの語らい
◇
いよいよ今日の夕方だそうだ、と、透夜がピユラの背に声をかけた。まだ朝を迎えたばかりの空には、太陽を追うように細い月影が薄っすらと見える。
もうすっかり着古して、隅が擦り切れだしてきた透夜の外套が、砂混じりの風に舞った。四角い土作りの家の屋根の上。草木の鉢を置き、育てさえできる平らで広いその場所の端の端に腰掛け、ピユラは街と空を眺めていた。
あのあと逃げ延びた一同は、ずっと避難場所に留まるわけにもいくまいと、夏の間の居住地である村へ移動した。ザクトと比べれば祭殿もなく、小さな村だが、家や建物があるというだけでいくらか心が落ち着く。
「間に合ったのか?」
「ああ、精度は問題ない」
なにと言わずに問うたピユラへ、透夜は一振りの短刀を取り出した。
優美な刀だった。白銀の柄には紫の石がはめられ、細かな装飾が施されている。ひと手間で留め具を外せる革の鞘は簡素だが、造り手の技が光る。伝承を元に蘇らせ、手を加えた、〈呪珠〉を切り裂くサシュカの刃だ。
「技法についても教えを乞うた。不備なく使えるはずだ。奴らの方にもこの刃のことが念頭にあるだろうが……こちらとて、それは織り込み済みだ。まったくの無力ということにはならないだろう」
座るピユラの隣に同じように腰を下ろし、透夜も遠く見えぬ北の果てへと目を向ける。風が流れるだけのしばしの静謐のあと、おもむろに透夜は口を開いた。
「帝国に赴くことになるわけだが……一応聞いておく。――大丈夫か?」
「いまさらじゃのう」
言葉少なで平淡。冷たく突き放すように聞こえがちなその響きに、深い心配と心遣いがある。それが、いまは当たり前のように分かる。ピユラはおかしくなって、小さく笑い声をこぼした。きっぱりと、躊躇いなく言い切る。
「私が為したいことは、ユリアを助ける――それだけだ」
「……以前なら、そう言いながらも暴走しないか心配したが――……いまはそれがいらないと分かる」
不思議なものだ、と、紫黒の瞳は薄く笑う。いつの間に、心の奥底まで穏やかに辿りあえるようになったのだろう。そう思うのは、お互い様のようだ。過ごした時以上のものを、重ねてきた。
長い黒髪を攫い、指先に春を絡めた風は、だがまだほのかに冷たい。遠い故国では、雪が空から花のごとく注ぐ、〈風の花〉が見られる頃だ。思いを馳せて、ピユラは静かに囁いた。
「――……かの国を、奴らを、あの男を……憎まぬわけではない。この気持ちがあるからこそ、刃を交える時、躊躇いなく戦えるだろうとも思う。だが、それで己を見失いは、もうしない」
掌へ、ピユラは視線を落とす。紡ぐ風でいつか、あの国を揺るがそうと思っていた。揺るがせると思い込んでいた。でもきっと、この手が操る風が為せることは、為したいことは――違うのだろう。皮肉にも、生温いと風羅の風を嘲ったあの男によって、またもう一度すべてを失いかけた時に、それに気がつけた。
「守りたいものを守るため、私はもう、あの日のような失態はせぬ。ユリアは私の愛しき友人。それを助けたい。この願いが、なによりじゃ」
穏やかに、紫の瞳は透夜に微笑んだ。柔らかくいながら、揺るぎない夜明けの色。それがどこか彼の幼馴染の王子と似て、膝をつきたくなる貴さを匂いたたせる。
「愛しさを憎しみに捧げたくない」
誓うように、澄み透る声は朝靄の向こうへ風とともに溶けた。
「少なくとも、私が在りたい私は、愛してもらえたように、愛した者の前に胸張って立てる私だ」
だから――憎しみの果てを越える覚悟を決めた。身を任せてしまえば、終わりなく狂い沈みゆける心地よく苦しい恩讐から、歯を食いしばってでも、抜け出して進んでいきたいと、望んだ。
「そうして私は、いつか父上に、みなに会えた時に、誇りをもって言うのだ。みなの愛を、この身は覚えていた、と――。そして、心から笑って手を振りたい。そう、在りたい」
悲しみを奥底に秘めて、淀んだ気持ちを渡り抜いて、なお高くを見据えて、その朝焼け色の紫は輝く。己を真っ直ぐに貫くその鮮やかさに、透夜は束の間息を詰め――ふわりと頬を緩めた。
「……お前が報復に燃えるのを、苦しいだろうと思う片隅で、すこし焦がれて見もしていた」
思いもかけない告白に、驚きを見せるピユラに構わず、どこか己へも語るような語調で、透夜は続ける。
「だが、いまわかった。それは憎悪する姿に憧れたのとは、違ったな。お前の復讐の念は、愛されたがゆえのものだった。だから――……愛されたことを覚えている。それが、羨ましかったんだろう」
失った血族のためになにかを憎むことすらできないからこそ、ピユラの怨嗟がどこか美しく見え、憧れたのだと思っていた。けれど、本当に憧憬を得たのは、その憎悪の向こう。彼女の中に息づく、愛された記憶だったのだ。
「その思い出は、失くしてしまったからな」
スティルを離れ、砂漠に辿り着き、ささやかに流れた穏やかな時の中で、ピユラも彼の出自を聞き及ぶにいたった。だから、透夜がなにを指してその言の葉を紡いだのかはすぐに分かった。
――愛しさを、知らぬままに失ってしまったという空白。その苦しさを、ピユラは知らない。返す言葉に惑いをのぞかせた彼女へ、思いのほか晴れやかに、透夜は微笑を刻んだ。
「まあ、それに代わるものを、俺は十分に与えられた。だから、構わないんだがな。だが、お前がそうして胸を張ろうとしているのを見るのは、悪くない。素直に――焦がれていいものだったのだと、思えるからな」
憎悪に苦しむ姿を羨ましく思うなど、どこか後ろめたくあったのだ。だがそうではなく、もっと、当然に惹かれるはずのものに焦がれていた。愛しいと、彼女の中で迸る思いに憧れていた――ただそれだけのことだったのだと、分かれた。
「――そなたは私の心配をしてくれたが……」
尋ねるか悩んだのだろう。逡巡を見せてから、ピユラは首を傾いだ。
「仇がいるのは、そなたも同じでは?」
己は満たされていると彼は言い、そして、事実不足はないのだろう。けれどそれで、いつも傍らで抱える空白がなかったことになるのかというと、それは違う。彼の空虚は、注がれ満ちる愛しさとはまた別のところで、なお携え続けなければならないものだろう。それを生んだ元凶が帝国にいるのだ。かの国に赴けば、それと対面することになるのは、おそらく避けられない。
だが透夜は、うかがい見るピユラへ、不敵にその整った唇を引き上げた。
「帝国の大宰相か……。それこそ、元より、討つ気もなかった仇だ。お前以上に、当たり前の答えに決まっているだろう」
磨かれた刀身のごとく研ぎ澄まされた目元が、涼やかに笑む。この砂漠の陽ざしは、彼の褐色の肌に美しい。秀麗な顔立ちが朝陽に飾られ、細い少年の輪郭が、艶に香りを纏う。
「ユリアを助ける。俺は、それだけのために行く」
透夜の掌が、そのうちの短刀をしかと握りしめた。
「そなたのそのきっぱりとしたところ、好ましいのぅ」
ピユラは笑い声をこぼして破顔した。それこそ羨ましくなるほど、ずっと変わらず直向きに、彼は己が望む道を知り、揺るぎなく進んでいる。
「ユリアを助け――皆でともに帰ろう」
朝の光に、確かな覚悟と決意でピユラは刻みつけた。
――愛しい友を、助けに行く。