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旅の少女(1)



 走る。夕暮れの森を、まだ幼い妹の手を引いて少年はひた走った。

 晩春の宵。高い木の梢の向こう、西の空には夕陽の残照が濃き緋に渦巻いているが、あたりはすでに薄闇の中だ。深まる春に誘われ、草木にほころぶ芳醇な花の香が宵闇を縫うが、それさえも少年には、汗ばむ握った手と苦しい呼吸に分からない。


 妹の方は彼以上にもう限界だろう。少年は意を決して、彼女の手を引き、手近な茂みの中に転がり込んだ。そのまま身を低くして、すぐそばの樹の後ろへと息を潜める。震える妹の肩を抱きかかえたのと反対の手の中には、小鳥の雛がぴくりとも動かずに収まっていた。


 村から少し離れた森の中から、この鳥の声がしたのだ。小さく、弱くなっていく鳴き声を辿って、妹とふたり、探し出してみれば、まだ羽ばたけない煤けた茶色の雛が、木の根元で弱々しくさえずっていた。巣から落ちたのだろうかと拾い上げ、元に戻せないかと頭上を見上げた時だ。後ろから声をかけられ、妹が男に腕を掴まれた。それをとっさに足元に転がっていた木の枝で叩きつけ、慌ててふたりで逃げ出したのだ。怒声とともに迫る男はひとりではないようで、泣きそうになりながら必死で駆けた。


 大人の足には勝てなかったろうが、入り組んだ森の地形が、小さい彼らの逃亡を最初は助けてくれた。だがそのうちに、奥へ奥へと迷い込み、助けも呼べないと気づいた時にはもう遅かった。

 人攫いの類が最近出るようだと両親から聞いていた。気を付けるように注意を受け、頷いたばかりだったのに。


 唇を噛み締め、薄緑の目に溜まりかけた涙を飲みこんで、少年は妹に囁いた。

「泣くなよ。あいつらの声がしないし、静かにしてれば見つからな、」

「おいおい、こんなところで隠れた気かよ」


 がさりと派手に茂みを掻き分ける音がして、男がひとり、彼らの目の前に姿を現した。彼らの父母や、面倒を見てくれる大人たちと変わらぬ年格好であるのに、その目にふたりの知る大人の慈愛はなく、口元には背筋の冷える下賤な笑みが不気味に浮かんでいる。


 ここにいたぞと、遠くに呼びかける声に、少年は慌ててまた立ち上がり、泣き出す妹の手を引いた。だが、ぐいっと身体が力任せに後ろに引っ張られる。少年の足はもつれて地面へと倒れ込んだ。男が、逃がすかよ、と笑いながら妹の肩に掴みかかっている。


 なにが、とは具体的には分からなかった。けれど、あまりに良くないことが行われる予感に少年は眦を裂き、届かぬ腕を妹へと伸ばした。だが、虚しく指先が空をかく。泣き顔の妹が男に引きずり寄せられる。乾いた喉で、少年がなおも叫ぼうとした――その時。


「やめろ!」


 空から凛と高い声がした。とたんに一陣、少年の背後の樹の梢から、突風が空気を切り裂いて真っ直ぐ吹き下ろし、妹に掴みかかった男を勢いよく跳ね飛ばした。直後、枝葉を揺すり動かしながら、天から降ってきた人影が、男から手放され、地面へと倒れ込みかけた妹の身体を支えて抱きしめる。


 少年は、驚きに呆然と目を瞠った。それは、真っ直ぐな長い黒髪を風に舞わせる、ひとりの少女だった。ようやく十を数えたばかりの彼よりはいくぶんも年上だろう。強い声に反して、柔らかな服越しにも分かる華奢な身体の線と、透きとおる雪のように儚げな白い肌が、闇に沈む森の中に浮かび上がっていた。なによりその瞳が、少年の目を奪った。鮮やかな、夜明けの空を掬い取ったような淡く美しい紫。明け染める空の輝きが、その双眸に宿っていた。


「おま、いったい、いまのは。それに、どっから……!」

 離れた樹の幹に強かに身体を打ちつけられ、怒りに打ち震えた声で男が唸る。それに突如空から舞い降りた少女は、ふん、と鼻をならした。

「そなたのような小悪党には(わらわ)の声を聞かせるのも勿体ないの」


 腕の中から少年の方へと優しく彼の妹を押しやり、ふたりを庇うように少女はその前に立ちはだかった。通り渡る澄んだ声音が、ふっと不敵に笑みを刻む。

「それに、そなたごときの相手――妾がするまでもなさそうじゃ」

「てめぇ、いい気になってなに言って、」


 そこで、苛立ちとともに張り上げた男の声は、鈍く低い殴打の音に断ち切られ、地に沈んだ。気配もなく男の背後に現われた大きな人影が、後頭部を力いっぱい殴りつけたのだ。


「ったく、ピユラ。お前な~……」

 それは少女よりもなお年上の、体格のいい青年だった。気を失い倒れた男を軽く足先で脇へ転がして、鮮やかな青の外套をはらりと舞わせ、頭をかきやりつつ歩み寄ってくる。


 このあたりでは見たことのない風貌だと少年は思った。髪先が肩口を掠める程度の短い黒髪には、数房、紅の色が混じっている。耳にはいくつもの耳環が連ねられ、困り顔にさらに下向くたれた目は、朝焼けを溶かしたような金色だ。


「ほかの輩はどうじゃ?」

「始末して、あとから追っかけてきてる村の人に頼んであるぜ。ふんじばるのは、こいつで最後だ」

「うむ。よくやった」

「へいへい」


 ピユラと呼ばれた少女の少し耳慣れないしゃべり方は、訛りだろうか。年長の青年相手にいささか不遜な態度であるが、なぜか嫌味ではない。彼女の纏う清廉な雰囲気が、そう思わせるのかもしれなかった。


「して、そなたら。妾とこの者――蒼珠(そうじゅ)は、そなたらの村の者に助けを求められた旅人じゃ。ちと立ち寄ったとたんに、子どもが行方不明と大騒ぎでな。そなたらも無事に見つかり、不逞な輩は捕まえられ、なによりであったが、なぜこのような森の奥まで来てしまったのじゃ?」


 屈みこみ、目線を合わせて首を傾げる夜明けの紫は優しい。間近で見れば、長い睫に縁どられた、つんと目尻の上がった大きな目はより大きく、悪戯好きな仔猫のようだった。

 その瞳に魅入られながら、少年は妹とともにしどろもどに見つけた鳥の雛の話、そこで不運にも賊に遭遇し、逃げ出した話をした。

 ふむふむと、丁寧に少年たちの話に耳を傾けてくれていた視線が、彼の手の中に落ちる。


「それが……この鳥か。しかし――……」

「うん。逃げてる間に……」

 痛ましげなピユラの声とともに、少年は眉尻をさげた。拾い上げた時は身じろぎ程度に動いていたのだが、いまはほんのりと温かさが残るばかりだ。


 そこへ、がやがやと大人たちの声が聞こえてきた。少年たちを探していた村の大人の一団だ。ピユラらによって保護された彼らと、のされた賊を見て、無事でよかった、これで最後で助かったと駆け寄ってくる。めいめいに、少年らの怪我の有無を確認し、気絶している男に手早く縄をかけて捕えていく。


「しかしお兄さんは鍛えてそうだからともかく、お嬢さんも速い速い。まるで飛ぶように森に突っ込んでいくもんだからびっくりしたよ」


 大人たちのうち、取りまとめを行っていた者だろう。中年の男が深々とピユラたちに頭をさげ、礼を告げたあと、そう笑った。それに一瞬、ばつが悪るそうに浮かんだピユラの焦り顔を誤魔化して、蒼珠がその薄い背をばしばしと叩いて、笑い声をたてた。


「いやあ、こいつ、野山で育った野生児みたいなもんで。こういうところだと速いのなんのって。なんか鼻も効きますしねぇ。子どもらの居場所もばっちりだったでしょう?」

「あ、ああ。しかし、そういうもんなのかね?」


 明るくもどこか有無を封じる蒼珠の語り口に男は首を捻りつつ、しかし助かったと重ねて礼を言った。大人たちに手を繋がれ、守られて立つ少年らを安堵の表情で振り返る。


「お前たちも無事でよかった。ひとまず帰ろう」

 夕暮れの薄闇は、すでに夜の漆黒へと塗り変わりつつあった。このままゆっくりしていては、慣れた大人であっても迷ってしまうだろう。危険な獣も蠢き出す。


 だが、大人たちが準備よく灯しだした松明に照らされた少年の顔は、戸惑いがちに逡巡をたたえていた。それが、いまだ掌に包みこんでいる雛の躯ゆえと気づいて、ピユラは彼に歩み寄る。


「のう、お主」

 ぱっと己を仰いできた少年の薄い若葉色の瞳に、ピユラはふわりと微笑んだ。

「その小鳥、妾が預かり、よき場所で見送ろう。安寧に、死者の国へ旅立ちゆけるように。そなたは心身疲れておる。みなと帰った方がよい」

「じゃあ、この森の近くに、川があるんだ。埋めるんじゃなくて、この子はそこで……!」


 ピユラの申し出に、ほっと少年の顔が和らいだ。ピユラの差し出した手に雛の遺骸をそっと譲りながら、口早に言う。それに、みなまで告げる前に、ピユラは笑みをたずさえたまま深く頷いた。

「ああ、分かった。そなたの分も海の向こう、女神の御許まで送っておこう」


 ――死者の魂は、この世とあの世の狭間に流れる大河を渡って、海へと辿りつき、その彼方の安らぎの国へと赴く。そう、この地域では語られていた。それゆえに、少年が少しでも早くその魂を安らかにと願って、雛を川へと頼んだことはすぐに分かった。


 ピユラにとって、ここは旅の最中で足を踏み入れた異国の地だったが、この死者の国への道行き話は、たまたま耳にしたことがあったのだ。不思議とそれは、ピユラの故国と同じだったので、よく覚えていた。


「いえ、そんなことなさらず、お礼もしたいので、ひとまずご一緒に」

「いや、これは大切なことじゃろう」

 大人らしい考えで気遣う言葉に、ピユラはふるふると静かに首を振った。そっと動かぬ雛鳥の背を指先でなでてやる。


「これは、この子らが守ろうとしたもの。ならばその想いごと、きちんと最期まで、大切にしてやらねばな」

 少年の若葉の目を優しく見つめ、ピユラはその頭にふわりと手を乗せた。

「妾に任せよ。――よく逃げ切ったな」


 いとおしげにのぞき込む笑みに、じわりと薄緑の上に涙が揺らめく。そこでようやく、張り詰めていたものを切ることが出来たのか、少年は声をあげて泣いた。ピユラはその背をしばしなだめてやり、子どもらの手を引き、終わったら必ず来てくださいと念を押す村の一団に、蒼珠とともに手を振った。




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