閑話 突然の再会
執務室へと戻ったユーリウスは、いつもと変わらない静かな執務室を前にして思わず立ち尽くした。先ほどまでの出来事が夢だったのではないかという、突拍子もない考えが一瞬よぎったからだ。
しかし、机の上の書類を見てホッと肩で息をつく。「入団宣誓書」と書かれた紙面には、ハッキリと力強い字で『アレクサンドリア・ソーリエ』と署名がされていた。
席へと腰を下ろし、置いてあったカップを口につける。中の紅茶はすっかり冷めていたし味は妙に苦みが強かったが、それでも心は不思議と落ち着いた。
何故だろう、と考えたところですぐにその理由に気がつく。アレクが、淹れてくれたからだ。
「まさか、こんなところでアレクに再会するとはな……」
「そんなに長いこと会っていなかったんですか?」
誰に宛てたものでもなく吐き出されたはずの呟きは、ちょうど戻ってきたシラハに拾われた。
「アレクサンドリアさんの入団手続きは、こちらで済ませておきました。明日から、さっそく勤務可能とのことです」
「そうか! それは楽しみだ」
彼の報告に顔を綻ばせてから、ユーリウスは己の中から込み上げる感情に当惑を覚えた。
それは、本来ならその手続きは自分がするつもりだったのに、という謎の嫉妬心だ。普段感じたことのない心の揺らぎに、ユーリウスはそっと柳眉を寄せる。
しかし、その表情の変化は僅かなものだったため、シラハがそれに気がつくことはなかった。
「団長も、近衛騎士団との折衝お疲れ様です。配属先の変更、先方には渋られませんでしたか?」
「そうだな。むしろアレクはこちらでもらい受けると伝えたら、何故か安堵していたよ」
「安堵?」
ああ、と頷いてユーリウスは近衛騎士たちの様子を思い返した。団長を始めとした近衛騎士団の上官たち三名。彼らは皆揃って言いたいことを必死で飲み込んだような、なんとも言えない微妙な面持ちを浮かべていた。
「どうやらアイツ、試験で上官を思い切りぶちのめしたらしい」
堪えきれずくつくつと声を上げて、ユーリウスは愉快そうに笑いだす。
普段は滅多に表情を変えることのない彼の笑顔にシラハは驚きの目を向けるが、ユーリウスは気に留める様子もなく言葉を続ける。
「そうだ、アレクと何年ぶりに会ったか、だったな。あれは俺が十二の頃だから……ちょうど十年前か。とすると、アイツももう十九になったのか」
「随分と長い間会っていなかったのですね。それなのに、よくあの一瞬で気づいたものです」
「俺がアレクを忘れるわけがないだろう。俺が親友と呼ぶ相手はただ一人、アレクだけだ」
胸を張って、ユーリウスは断言する。
月の光のように透き通る銀色の髪、爽やかな水色の瞳……その色合いは当時のままだったが、たとえそれが変わっていたとしても自分がアレクを見紛うことはなかっただろう。
好奇心と生命力にキラキラと輝く表情。しなやかで隙のない身のこなしながら、弾むように軽やかな足取り。嘘のない、まっすぐな眼差し。
それだけで、ユーリウスは間違いなくアレクを見つけることができる。
――いや、もちろん。
記憶以上に綺麗になっていた幼馴染に驚きを感じたのは、否めないけれど。
「そこまで特別な相手が居るというのは、羨ましいことですね。いや、しかし。十年前というと、もしかしてあの……?」
シラハの気遣わしげな言葉に、ユーリウスは小さく頷いた。
ユーリウスの過去を知る数少ない人間の一人である彼は、それを見て苦いものを飲み込んだような表情を浮かべる。
『あなたさえ居なければ、丸く収まるの――』
ユーリウスの耳に、聞こえるはずのない声が蘇った。
残酷な言葉を口にしておきながら、その声色はどこまでも優し気で。はっと目を引く紅い唇は、美しい微笑みを形作ったまま。
彼女はそんなときであっても、どこまでも穏やかで悪意がなく、女神のような佇まいをしていた。
痛みと苦しさで徐々に狭まっていくユーリウスの視界にいつまでもこびりついて離れない、最後までたおやかでおぞましい女性の影。
「っ……」
「団長?」
シラハの声に、ユーリウスはハッと意識を引き戻した。
ほんの少しあの時のことを思い出しただけだというのに、自分の呼吸は早くなり、じっとりと嫌な汗が額に浮かんでいた。身体も、誤魔化しようがないほどに震えている。
やはり自分はまだ過去に囚われたままなのだな――他人事のように、ユーリウスは己の身体の反応を観察する。自分の弱さを嘲笑うかのように唇が歪んだが、そこから洩れたのは深い、静かな溜め息であった。
――そんな気まずい沈黙を打ち破ったのは、執務室の扉を叩くノックの音であった。
「なんだ」
「失礼します」
遠慮がちな声とともに、しとやかな足取りで見慣れぬ人影が入室する。それとともにかつての古傷を揺り起こすような柑橘系の香りが立ち上って、ユーリウスは思わず鼻を覆った。
「先日、父より釣り書きを送らせていただきました、アリス・ハミルトンと申します。本日王城に所要がございましたので、この機会にとご挨拶に伺いました」
スラスラと挨拶を述べる女性の姿は、ほとんどの男性が好感を持つものであろう。
明るく健やかで若さに輝く笑顔と、出しゃばりすぎない控えめな態度。ほんのりと立ち昇る柑橘のフローラルな香りも、その魅力を引き立てている。
……ただし、それはユーリウスが相手でなければ、の話だ。
「訓練で、お疲れでしょう。よろしければお菓子を焼いてきましたので……」
「お引き取り願おう」
「え?」
「見合いの件については、追って御父上に断りの連絡を入れておく。今日はもう、帰ってくれ」
取り付く島もないユーリウスのあまりに冷淡な態度に、アリスの顔色が傍目から分かるほどにさっと青ざめた。
――普段であれば、いくら女性嫌いのユーリウスであっても相手の立場を慮った言い方ができているのだ。穏便に角を立てず、卒なく相手をあしらうのは彼の得意とするところである。
しかし、今回ばかりはタイミングが悪かった。過去のトラウマを掘り起こされた今の精神状態では、ユーリウスの目に映るすべての女性はが敵にしか感じられない。
「お心遣い、感謝いたします。大変申し訳ありませんが、少し今は取り込んでおりまして。どうぞ、あまり気を落とされませんよう」
見かねたシラハがフォローを入れつつ彼女を優しく、しかし有無を言わせない態度で外へと誘導する。
「せめてお菓子だけでも……」
食い下がるアリスの声は、二人によって完全に黙殺された。
扉が閉まる音と共に完全に彼女が視界から外れたことで、ユーリウスの強張っていた肩の力がようやく抜けた。
「すまん、嫌な役をさせたな」
「いーえ、お気になさらず。とはいえ、いつもに比べてだいぶ余裕のない対応でしたね。もう少しで彼女を泣かせるところでしたよ」
「ああ……反省している」
掠れた声で一言そう述べると、ユーリウスは疲弊しきった様子で口を噤む。しかし、そこにあるのは「面倒なことをしてしまった」ということへの反省だけで、その対象であるアリスへの気遣いの色はまったく見られなかった。
「やれやれ。先ほどのアレクサンドリアさんに向けた優しさの、ほんの一欠片でも今の女性に向けてあげれば良いものを」
「どうしてそこで、アレクが出てくるんだ」
憮然と答えるユーリウスは、その皮肉が意図している意味に気づかない。それは、彼がアレクサンドリアを女性と捉えていないことを何よりも明白に物語っていた。
この様子では彼女の存在がユーリウスの女嫌いの改善につながる望みは薄そうだ、とシラハは脳内でこっそりそんな判断を下す。
「シラハだって知っているだろう。俺が苦手なのは、女性だけだ。別に相手が女性でさえなければ、誰であろうと俺は理性的に紳士として振る舞うことができる。それは相手がアレクでなくても、な」
「……そうですか」
言いたいことを飲み込んで、シラハは取り敢えず頷いて同意を示した。そして、咳払いをしてから「そういえば」とさりげない口調で話を転換した。
「アレクサンドリアさんには恋人か婚約者はもう居るんですかね? 十九という年齢であれば、団長と同じようにそろそろ周囲に結婚をうるさく言われる頃合いですけれど」
「アレクに婚約者が?」
あまりに思いがけない質問に、ユーリウスは思わず目を瞠った。
言葉の意味は理解できても、理性がそれを考えることを放棄してしまう。思考がまとまらない状態で、唇からは勝手に狼狽の言葉を洩れていく。
「いや、アレクが結婚なんて、そんな……」
「どうして驚くんです。年齢を考えれば、普通のことでしょう」
「それは、そうかもしれないが……でも、あいつが俺を置いて結婚なんて……」
一方のシラハはユーリウスのそんな反応に、おや、と意外な気持ちを覚えていた。
どうやら異性と認識していないにしても、ユーリウスはアレクサンドリアに対してそれなりの執着を持っているらしい。これならばあるいは、とシラハは即座に己の考えを撤回する。
――彼女の存在が、変化のきっかけになりうるかもしれない。
「まぁこのタイミングで領地を出て就職するのですから、きっとそんな相手は居ないんでしょうけどね」
「いや、しかし確かに……だとしたら……」
シラハの気休めの言葉など、ユーリウスの耳には入ってこない。しばらくぶつぶつと呟いてから顔を上げた彼の表情には、ある種の覚悟のようなものが宿っていた。
「なるほど、考えてみればシラハの言うとおりだ。せっかく再会したのに、俺のアレクを誰かにかすめ取られるなんて……ぞっとしないな」
俺のアレク、ととんでもない表現を平然と口にして、ユーリウスはにやりと不敵な笑みを洩らす。
「まぁとはいえ、単純な話だ。そうならないように、俺がずっとアレクを手元で囲っておけば良い。……そうだろう?」
「囲っておく、ですか……?」
「ああ。アレクは、誰にも渡さない」
迷いなく大きく頷いたユーリウスを見て、シラハはようやく己の間違いを自覚した。
――彼は、アレクサンドリアを異性と意識していないのではない。むしろ、性別など問題にならないほど特別な相手として執着しているのだ。
――これは、余計なことを言ってしまったかもしれませんね……。
寝ている虎を起こしてしまっただろうか、と後悔に駆られるがすでに遅い。しかし、ユーリウスが見たこともないほどに楽しそうにしているというのもまた、事実であった。
「明日から、楽しみですね」
諸々の想いを呑み込んで、シラハは端的に述べる。思うところは多々あれど、実際、その言葉に嘘はない。
「ああ、そうだな!」
それに全力で同意するユーリウスの表情は、一片の曇りもなく晴れやかであった。




