95.親子
多くの者がその光景に目を奪われていた。
突然の来訪者、面会を申し出たその三人にオージ帝国皇帝であるヴァイザル・エッダ・ハーヴァムが会うと言ったことにも驚いていたが、その理由も気にならないほどにそれに気を取られていた。
謁見の間、そこで皇帝の前に歩み寄る三人、その先頭に立つのはここにいる全員がよく知る人間、母親を亡くしここから姿を消した、この国の第五皇女であるエル・エッダ・ハーヴァムだった。
エルがどうなったのかは国の上層部、ここにいるような人間であればおおよそ知っている。一時期は青のハイドラン家にその身柄を囚われていたが、そこから逃げ出し、今は魔人のもとで暮らしているという。
そのエルの堂々とした佇まいに、一同は瞠目し、絶句する。今ここにある姿が、とても逃げ出した者には見えないからだ。
「―――お久しぶりです。お父様」
皇帝の眼前まで歩みを進めたエルは丁寧に頭を下げ、そう挨拶をする。
その言葉に周囲からもざわめきが上がる。そのような挨拶はあり得ないことだからだ。百歩譲ってこれが私的な場所であればその挨拶も許されるかもしれないが、この謁見の間において皇帝をお父様などと呼ぶことが許されるはずもない。
だが、皇帝はそんな娘を見て僅かに口元を緩める。
驚いたのはエルだった。これまで何度か皇帝と顔を合わせたことはあるが、その眼に興味の色が灯ったのを初めて見たからだ。
皇帝はすぐにエルから視線を外す。
「ふっ、久しいな。ゼフィ。よくぞ来た」
「……はっ!」
ゼフィはエルの隣に膝を付き頭を下げる。
「なるほど、貴様の仕業か?」
「仕業、とおっしゃられても、何のことだか」
「誤魔化す必要はない」
「誤魔化すなどととんでもない。私には陛下のおっしゃっていることが思い当たりません」
それは決してゼフィが惚けているわけではない。確かに、ここにエルがいるのはゼフィが連れてきたからではあるが、皇帝が言っているのがそういう意味でないことはわかる。
ただ、何について言及しているのかわからないのだ。
後ろからふっと小さな笑い声がそのゼフィだけに聞こえる。皇帝が何を言いたいのか、アガトにはわかっているのだ。
「それで、貴様は何だ?」
ぎろりと睨みつけるように皇帝がそのアガトに視線を移す。
気の弱い者であれば怯えて縮み上がってしまうようなその強い視線も、アガトにとってはそよ風のようなものだ。アガトは平然と頭まですっぽりと覆っていた外套を脱ぐ。
そのアガトの姿を見て再び周囲からざわめきが上がる。
「……なるほど、魔人か」
「初めまして皇帝陛下。私の名はアガトだ。……あるいはもうご存知かもしれないがな」
にやりと笑いながらアガトがそう言うと、皇帝はほんの僅かにその眉をぴくりと動かす。その無礼な物言いに思うところがあったからだ。
だが、そんな皇帝を見てアガトは再びふっと笑う。
「……ああ、話には聞いている。ゼフィと二人でハルザウス王の前に乗り込んだらしいな。今と同じように」
「ふふっ、さすがにその程度の情報はすでに得ていたか」
皇帝は笑うアガトにむっとしたような表情を浮かべる。
アガトとゼフィがハルザウス王のところへ行ったことは皇帝も掴んでいる。当たり前のことではあるが、その程度の情報を得られる程度にはハルザウスにも間者を紛れ込ませてある。
ただ、そこでどのような話がなされたのかについてはおおよそのことしか把握できていない。
「何やら宣戦布告をしたそうだな。その理由についてまではわかっていないが」
「ふむ、そうか。……まぁ構わない。私は今日それについて説明するためにここにいるのだからね」
説明をするため、それが半分、もう半分は皇帝に頼み事をするためだ。
だから、皇帝が全てを知っていない方が、アガトにとっては都合がいい。説明をする代わりにと頼むことができるからだ。もちろん、だからといって皇帝にそれを聞く義務はない。あくまで話が進めやすくなるという程度の話ではある。
「この話は陛下たちにとって、この国にとっても興味のある話ではないかな?」
「……ああ、まぁ、そうだな。俺は魔人についてはよく知らない。関わりがある魔人も一人だけだ。会ったことはないがな。てっきり貴様がそのサナトという魔人かと思ったのだがな。俺の娘が世話になっていると聞いている」
皇帝はちらりとだけエルを見る。
エルがサナトという魔人のもとにいることは当然知っている。そのために以前にゼフィがここを訪れたのだから。そして、その魔人サナトの様子を探るために配下を派遣したこともある。そのときにサナトのもとを訪れたのが風剣であるガラム・バルマンだ。
だが、その姿かたち、容貌についてはガラムから人間離れしている旨の報告は受けていたものの、それを正確に把握していたわけではない。だから、アガトが外套を脱いでその姿を露わにしたとき、初めはそれがサナトだと思ったのだ。
「それにしても、ゼフィ。貴様はやけに魔人に縁があるのだな」
「おっしゃるとおりです。不思議なことになぜかそうなっています」
それも嘘ではない。
事情を知る者が聞けば同じく魔人であるゼフィが何を言うのかと思うかもしれないが、ゼフィはこの世界で人間として生きてきた。妹であるハルカを探してはいたものの、そのハルカが魔人のところにいることを知っていたわけでもなく、魔人であるアガトたちと出会ったのもハルカとは関係のないただの偶然である。
だから、ゼフィにとってはそれが不思議な縁であることは間違いないのだ。
それに同意するというようにアガトも笑みを浮かべて頷く。
「さて、それでは何故私がここに来たか、陛下に説明するとしようか」
ハルザウスでそうしたように、アガトは魔獣と魔石、そして、魔人についてのあらましを告げる。自分たちがどこから来た何者なのかを。そしてアガトが何をしようとしているのかを。
それに対する反応は様々ではあったが、おおよそはハルザウスでそれを聞いた者たちと同じだった。
ただ、皇帝は少し違った。そのアガトの眼からある程度の事情を読み取っていた。
「復讐、か」
「……それが何か?」
「いや、何も」
アガトはその目的を復讐と言った。この世界に連れてこられて何もわからぬまま命を落としていった同胞たちの無念を晴らすと。そして、もう二度とそのような者が生まれることがないようにすると。
だが、それだけではないと。アガトの眼からはそれ以上の想いが感じられた。
そこから感じられるのは怒り、憎しみ、それに類するもの。アガトが語ったような大げさなものではなく、もっと身近な感情だ。それは、きっと親しきもの、家族を失ったところから来るのだろう。
アガトが語った犠牲者たちの中に、アガトの家族がいたのだろう。
であるならば、これはきっと真っ当な復讐だ。
「ふむ、なかなかに興味深い話であった。俺も聞いたことのないことや面白い情報が多くあった。まぁ貴様の言うとおり、あくまで貴様の説であって根拠のあるものではないがな」
「ああ、それで構わない」
「それで? そろそろ本題に入ってもらおうか。わざわざそのような話を俺にした理由があるのだろう?」
そのとおりだ、とアガトは頷く。
ハルザウス王に対してはそれを説明する意味があった。それはハルザウスを舞台に戦端を開くことを決めたからだ。説明をしなければならないという義務があったわけではないが、アガトの目的などを考えるとそうすべきだと考えたのだ。
だけど、皇帝にはその説明をする意味はあまりない。アガトは人間と戦うことを決めたが、戦うのはあくまでハルザウスであり、ここオージには直接の関係はないのだから。
「この国に、いや、陛下には少しばかり頼みがあってね」
「ほう、頼みとな。一応聞いておいてやろう」
皇帝としてはそれを受ける義理はない。アガトから聞いた話は興味深いものではあったが、それはアガトの都合で勝手に話したことにすぎないのだから。
それでも皇帝としてはある程度の範囲であればそれを受けてもいいと考えていた。おそらく魔人たちに関することではあろうが、このアガトという男の性格から考えても理不尽を押し付けてはこないだろうことは想像が付く。
「この世界がどうして平和か、その理由を理解しているかな?」
だがアガトが話し始めたのは予想に反してこの世界のことだった。
皇帝は眉を顰める。それが頼み事に関係ある話なのかもしれないが、あまりにも迂遠すぎるのではないかと。
「……魔獣への対策が万全であるからだろう。それゆえこの世界は平和なのだ」
魔獣への対策、それは多岐にわたる。たとえば魔獣との戦闘方法の知識が普及していること、傭兵などによる魔獣狩りの制度の整備、小さな村にまで行き渡っている結界魔道具。それらによって魔獣からの被害は限りなく少なくなっている。
もちろん、それでも犠牲者がいないわけではない。いくら戦い方がわかっていても傷付く傭兵はいるし、命を落とす者もいる。商人が行商中に魔獣に襲われることもある。そういった意味では今もなお何人もの国民が魔獣に殺されている。
そういった被害者やその周りの者たちにとっては重大な問題であるかもしれないが、皇帝という立場から考えればその数は無視できる程度に留まっている。早急に何か対策を取らなければならないというほどではない。
だから、それは平和と言っていいだろう。
アガトはそれも間違ってはいないが、と断りを入れた上で首を横に振る。
「この世界が平和なのは資源が豊富だからだよ」
「資源とな?」
「たとえば、ハルザウスはこの世界最大の魔道具産出国だ。それは山地が多く大量の精霊鉱が採れることがその理由であるが、実はそれを輸入しているこの国においても必要な分は十分に採取できると聞いている」
それは間違いないと皇帝は頷く。
このオージ帝国においては広大な平地があり、農作物などの食料の生産が盛んではあるが、山脈がないわけではない。そこからはもちろん精霊鉱を採取することもできる。実際に輸入はしているが、オージ帝国でもその採掘は行っている。輸入しているのはハルザウスから輸入した方が費用が抑えられるからにすぎない。だから、仮にハルザウスからの流通が絶えたとしても自国だけで十分に賄うことができる。
その意味で言えば精霊鉱はどこにでもある。この国、そしてハルザウスだけの話ではなく、周囲の他の国においても状況はたいして変わらないはずだ。
「だから、人間同士での争いが少ない。戦争が起こっていない。……もちろん、戦争が起こらないのは他にも理由はあるがね」
「ほう、その辺りは興味があるな。貴様のような異世界の者から見てどう考えられるのか」
「そうだな。……たとえば、力だ」
「力?」
「ああ、力が強すぎる」
この世界の人間は戦うことに慣れている。だが、その戦いとは基本的に魔獣を想定したものだ。だから、身を守る術よりも敵を倒す力に長けている。その力を持つ人間同士が戦えばそれは戦闘ではなく殺し合いだ。
特にこの世界には魔法の力があり、それの威力は容易く人間の命を消し去ってしまう。さらにスピラ―――精霊魔法などを使えば一瞬で数十人、あるいは数百人の命を奪うことも可能である。
魔道士による魔法のぶつけ合い、それに巻き込まれるのは前方に立つ一般の兵士たちだ。彼らにできることはなく、ただすることは殺されながら前に進むことだけだ。
結局、その戦いが終わった後に残るのは屍の山。
「後は、魔獣のおかげで攻め込み辛い、というのもあるな」
「魔獣のおかげ……ああ、そうだな。それは歴史にも残っている。確か、行軍中に魔獣の大群に襲われてしまい、挟み撃ちを避けるために引き返したという話もあったな」
魔獣はどこにでも現れる。だから軍勢を率いて攻撃を仕掛ければ魔獣に襲われる確率は非常に高い。いちいち相手をしていれば行軍の流れも滞りができるし、予定どおりに進まなくなる。
そうなれば不利な状況で戦いを仕掛けなければならず、予め陣を敷いて結界魔道具を設置できる防衛側が有利となる。
「まぁ、他にも私ではわからない事情があるのだろうが、ともかくこの世界では戦争があまり起こっていないようだ」
「ふむ、確かにそうだな。少なくとも俺の生きている間には大規模な戦争は起こっていない。……小競り合い程度はあるがな」
「だが、均衡が崩れれば状況が変わるかもしれない。たとえば、ハルザウスの軍事力が弱体化したり、ね」
これからアガトはハルザウスに攻撃を仕掛ける。その結果、ハルザウスを滅ぼそうとは思っていないが、場合によってはハルザウスは半壊状態になるかもしれない。
「私の頼みというのは、そのときになってハルザウスを攻撃するようなことは止めてほしいということだ。……むしろ、可能であるならば復興の手助けをしてあげてほしい」
「ほう……」
皇帝は興味深そうに息をつく。
言われるまで考えもしなかったが、確かにそれは悪くない。アガトがハルザウスで一騒動起こしてくれるのであれば、戦争を仕掛けるとまでは言わなくともそこに圧力を掛けて何かしら自分たちに有利に事を運ぶことができるかもしれない。
もちろん、今この場では考えなかったというだけであって、時間が経てば、そのときのハルザウスの状況を見れば、いずれは思いついたであろうが。
そのアガトの頼みに、周囲からもわずかにざわめきが上がる。これはアガトについて多少の便宜を図るという話ではなく、国の方針に関わることだからである。この国の重鎮や貴族たちにとってはそこに口出しをされるのは面白くない。
そんな様子を見て、ゼフィは僅かにだけ顔を歪める。嫌そうな表情を浮かべて。
アガトが楽しそうに笑っていたからだ。経験上、アガトがそのような表情を浮かべるときは誰かをからかったりするときだ。つまり、これから余計なことを言う可能性が非常に高い。
「おや、どうかしたかな?」
案の定と言うべきか、アガトはその者たちに声を掛ける。
アガトに尋ねられた貴族はむっとした表情を浮かべるとちらりと皇帝に視線を送る。
皇帝は好きにしろとでも言うように鼻を鳴らす。
「お前のような者が頼みだと? 我が国がどう行動するか我々が決める。お前の頼みなど聞く義理はないわ!」
声を荒らげる貴族の男に対してアガトは穏やかに微笑みかける。
「義理はない、か。ふふっ、全くそのとおりだな」
そう平然と返されて貴族の男は鼻白む。
「もちろん、あなたの言うとおりここまでの話は私が勝手にしたものであって、だからといってそちらが私の頼みを聞く義理などはない。……だが、それでいいのかな?」
「何がだっ!」
「私としてもハルザウスを攻めなければならない義理はないのだよ?」
「……は?」
貴族の男は呆けたような声を上げる。アガトが何を言っているのか意味がわからなかったからだ。
ハルザウスを攻める義理はないなどと、それこそ知ったことではない。アガトが勝手に言っていることであってこの国には何も関係ない。攻めるも止めるも好きにすればいいのだから。
「ふむ、どうやら伝わっていないようだな。私は別にハルザウスでなくてもいい、と言ったのだよ。つまり―――この国を標的としてもいいのだ」
「―――なっ!」
その貴族の男のみならず、周囲で話の行方を眺めていた者たちも息を呑む。
そして、アガトの話を思い出す。確かにアガトは人間と戦う理由について詳しく話していた。だが、その中でハルザウスでなければならない理由はなかった。
「それで、頼みを聞く義理はない、ということでいいのかな?」
「くっ……」
悔しそうに歯噛みする貴族の男を見て、アガトは押し殺したように笑う。さすがにここで哄笑しない程度には場をわきまえているようであった。
「まぁ冗談はこのくらいにして、この程度の頼みは受けてもらえるとありがたいな。別に私としては何かをしろと言っているわけでもない。それほど不都合もないはずだろう?」
「そうだな……別に構わん。と、言いたいところだが、ゼフィから聞いておらんのか?」
「ゼフィから? ……いや、特には何も聞いていないが」
問われてゼフィの方を振り返るとゼフィは困惑の表情を浮かべていた。
ゼフィとしても何のことを言われているのか見当がつかなかった。皇帝に謁見するための簡単な作法程度のことは話していたが、そうは言っても元々世間知らずで通っていたゼフィの知ることなどたかが知れている。言いそびれたどころかそもそも知っているかどうかすら疑わしい。
「なんだ、話していないのか? 貴様の武勇伝を」
「ほう、それは聞いていないな。興味深い話だ」
「いや、その話はいいから……」
確かに、その話はアガトにはしていない。わざわざ話すことでもなかったし、そもそも誰にも話していないことだ。
だけど、考えてみれば全く話さなくていいというわけでもない。力を示すことで価値が認められるというのはこの国において重要なことなのだから。だから、以前にここを訪れて力を示したゼフィの話はしておくべきことだったのかもしれない。
ただ、あまり話したいことではなかった。
「要はアガトの力を示せって言ってるんだよ」
「力、か」
言われてどうしたものかとアガトは首を捻る。力を示すにあたってやり方はいろいろだ。だが、最も簡単な方法が何かと言えば、この場で誰かと戦って打ち倒すことだ。それが一番早く、わかりやすい。
「すまないが、少し難しいな。ゼフィと約束があってね」
ゼフィとの約束、それは人間に危害を加えないというものだ。仮に襲われたとしてもゼフィが絶対に身を守るからアガトは手を出さないようにという約束だ。
ただ、このような場合にまでそれが適用されるかどうかは判断に困るところではある。あくまでただの試合のようなものにそこまで厳しくなる必要はないのだから。
「ではどうしたものかな。……貴様の言う事はおそらく事実なのだろう。だが、貴様はここまで何の力も根拠も見せてはいない。この場に来られたのも我が娘とゼフィのおかげであって貴様は何もしていないのだからな」
「なるほど、耳が痛いな」
そう言ってアガトは笑う。それ自体はもっともだからだ。
皇帝が本当にそう思っているわけではないだろう。アガトが強者であろうことは一目見た時からわかっている。ただそれだけでは示しが付かない。納得できない者もいるはずだし、そもそもアガトの力を理解できない者だっている。それでは不満の声が上がるはずだ。
なにしろ、アガトは何もしていないのだから。
もちろん、その声を聞かなければならないということはない。皇帝の一声でそれらを抑えることなど造作もない。だが、そうしなければならない理由はない。
「―――それは違いますよ、お父様」
意外にも声を上げたのはエルだった。
そのお父様という言葉に周囲の空気が僅かに変わる。皇帝も場をわきまえろと言わんばかりに目を細め冷たい視線を送る。
その中で、エルは一歩前に出ると平然と笑みを浮かべて見せる。
「それは逆です」
「逆、だと?」
「はい、私のおかげでこの方がお父様に会うことができたわけではありません。私のおかげでお父様がこの方に会うことができたのです」
その物言いに周囲から罵声が飛ぶ。そこにいる者が皇女だと忘れているのか、あるいはそうだとしても見過ごせなかったのか。
皇帝は一瞬戸惑うような表情を見せるが、黙り込んだまま考え込む。口に出すようなことではないが、それは一理あると。
確かに、アガトは頼み事と言った。だが、話を聞いてみてもアガトにとっての得が見えないのだ。そもそも、アガトとハルザウスが戦った結果、ハルザウスの国力、軍事力が低下したとして、実際に攻め込むかと言われればその可能性は低い。戦えば勝てるだろうが、そこまでする価値があるとも思えない。それに当たり前のことではあるが、こちらにも確実に被害は出るのだから。民を納得させるだけの理由も必要になる。
だから、アガトが頼み事というものをしなかったとしてたいした影響はない。つまり、アガトがここに来る必要などほとんどないのだ。
この謁見において得があったのは自分たちの方だ。魔人という存在から今まで知らなかった話や、ハルザウスで起こることについて聞くことができた。
仮にエルがいなかったとしてどうなったか。こうして皇帝に会うことが難しいとなればそれを諦めたかもしれないし、あるいはこのように穏便に事が運ばなかったかもしれない。何事もなくこうして場を設けることができたのは、まさしくエルがいたからに違いない。
「……まぁよい」
皇帝が呟くような小さい声を発すると場が静まり返る。
「いいだろう。……そもそも今のハルザウスには大して興味もない。特段欲しいものもないからな。……数年前ならまだしも」
「数年前? 興味があるな。皇帝陛下は何を欲しがったのか」
数年前であればアガトもすでにハルザウスで暮らしていた。もちろん、この世界に来た頃はハルザウスという国に詳しかったわけではなく、情勢もよくわかっていない。だが、今のハルザウスと何かが変わったとも思えない。
「一人、欲しい天才がいた。魔道具に精通した天才がな。名は―――エーリカ・ディオナイズ」
「……ああ、なるほど。ディオナイズ、か」
アガトは頷く。天才魔道具技師であるエーリカ・ディオナイズの名前はアガトも知っている。聞いた話では確かに並ぶ者のいない程の天才だったという。この世界においてはそこまでの技師は貴重なものであり、皇帝が欲したというのも理解できる。
「……愚かな女だ」
残念そうに、呆れたように皇帝は呟く。
その言葉にゼフィが僅かに反応する。幸いにも、というべきか誰もその動きには気付かなかったが。
「あの女はな、本当に天才だったのだ。なのに愚かな理由で命を落とした」
「愚か、とは?」
王族の中には代々そういうものが生まれる傾向にあったように、ハルザウスの前王、ラドーマ・ハルザウスも幼少期から体が弱かった。それを治療するということが困難であることはわかっていたため、少しでもそれを和らげることができるように、環境を整えるために、ラドーマは魔道具に興味を抱いていた。
ただ、それはあくまでも少しでもという話にすぎず、自身の死への恐怖を慰めるためのものであった。
だが、一人の天才によって事情が変わってしまった。彼女が作った魔道具はこれまでの常識すら変えてしまうものだった。通常、人体に作用するような魔道具は作ることができないにも関わらず、彼女はそれすら覆すことができた。
彼女が生み出した魔道具は命を分け与えるものだった。
それによって前王の命は大きく延びたが、そのせいで彼女の命は長くなかった。
「……それは愚か、と言えるだろうか? そう見えるかもしれないが、見方を変えれば愛に殉じた美談にも見えると思うが?」
アガトの言葉にも一理ある。
為政者という視点から見れば、王であるラドーマの命よりも天才と呼ばれるエーリカの命の方が貴重なものである。王の代わりは用意できるが、天才の代わりはいないのだから。
だが、彼女は一人の人間だ。自分の命の使い方は自分で決める自由がある。
他人から見ればその判断をどうかと思うこともあるだろうが、愛する人間のために自分の命を使うという行為を愚かと断ずることはできない。
「娘はどうする」
「……」
ぴくりとエルは体を震わせる。
一瞬だけ皇帝と目が合うと、どうしていいかわからず顔を伏せてしまう。
「俺の聞いた話によると、あれの娘は複雑な立場だったらしい。それゆえに殺されかけたと聞いたぞ。……運良く生き残ったらしいが、それこそたまたまにすぎん」
愛する者のために命をかける。その言葉は聞こえこそいいが、代わりに自分の娘の命をないがしろにしてしまうのであれば本末転倒だ。それこそを愚かと断ずるに値すると皇帝は言っているのだ。
「―――彼女は愚かなどではありません」
「ほう……。どういうことだ?」
そう言い放ったのはゼフィだった。
話に入ってくると思っていなかった皇帝は少しだけ驚いたように声を漏らすと、興味深そうに尋ねる。
「……彼女の娘は生きています」
「ああ、知っているが。それが?」
「彼女がそういう人間だったからこそ、あの子は生きているのだと思います」
「……何の話だ?」
ゼフィが何を言っているのかわからず、皇帝は怪訝そうな表情を浮かべる。
その一方で、アガトは驚きに目を見開く。
「まさか、君も気付いていたのか?」
「なんとなく、ね。そうじゃないかと思っている。あの首飾りの本当の意味が」
イリスが常に身に着けている首飾り、それは彼女の髪と眼の色を変えて誤魔化すためのものであり、その副作用として彼女の魔力を抑制してしまうものだ。
だけど、ゼフィはいつからか疑問に思っていた。それがいつからだったかは覚えていない。あるときゼフィは思ったのだ。イリスの魔力は常軌を逸していると。ゼフィは魔人たちと関わるにつれ、魔力とはどういうものかなんとなく理解していた。その異常とも言えるイリスの魔力、アガトに人間を超えていると言わしめるほどの魔力、それほどの力を子供の体で耐えきることができるのか。
無理だと思った。だから、逆なのかもしれないと思った。
髪と眼の色が変わる副作用で魔力が抑制されるのではなく、あの首飾りはイリスの強すぎる魔力を封じるためのものであり、髪と眼はその副産物にすぎないのではないかと。
それはきっと、愛する者のため、ラドーマのためにとずっと考えてきたからできたことなのだろう。
だから、エーリカがそのような人間だったからこそ、イリスは今生きていられるのだ。そうゼフィは思っている。
「一応ですが、私はその場にいましたので」
「ほう」
ただ、そういった話を皇帝に語るわけにもいかず、ゼフィは少しばかり誤魔化す。
皇帝が言うところのイリスが殺されかけたという場面、偶然ではあるがゼフィもそこに居合わせた。そして、知らずとはいえイリスを守るために命を懸けて幻獣と戦った。
皇帝は少し引っかかるところはあったものの、一応は納得したというように頷く。
「それで、私は力を示さなくても構わないのかな?」
「……なに?」
皇帝は顔をしかめる。アガトがその話題を掘り返す意味がわからなかったからだ。
不敵に笑うアガトに対してどうしていいかわからず困惑する。
少しの間悩んだ後に、皇帝は一人の男に声を掛ける。
「風剣、貴様ゼフィと戦いたかったと言っていたな。ゼフィではないが貴様が相手をしろ」
「……いいんですか?」
指名を受けたのは風剣のガラム・バルマンだった。
以前にゼフィがこの城で一暴れしたと聞いて、その場にいなかったことを残念だと愚痴をこぼしていたというのは皇帝も知るところであった。ガラムとしてはゼフィの力が気になるところであったため、ゼフィと剣を交えたいという気持ちはあったものの、このアガトという魔人が強い力を持っているということも理解していたため、そのアガトの強さにも興味があった。
だから、皇帝が許可するのであればそれもいいと考えていた。
「……いいのか?」
「君がいいと言うなら私は構わないさ」
ゼフィが小声で尋ねるとアガトはそう返す。
ゼフィは苦々しい表情を浮かべる。突然にアガトがそのようなことを言い出した理由がなんとなくわかっているからだ。
ゼフィを、そしてイリスをかばうためだ。
ただ、ゼフィにとってもこの程度の戦いを禁ずるという程ではないため、肯定も否定もできなかった。
そんなゼフィの様子を見てアガトは肯定と捉えてふっと笑う。
「剣を借りてもいいかな?」
歩み出て剣を借り受けたアガトはガラムと正対する。
ゼフィとエルも含めて、周囲の者はその邪魔にならないようにとその二人から離れる。
「始めろ!」
その皇帝の合図が発されると同時にガラムは踏み込み剣を振り下ろす。
アガトはそれを受け止めると、その剣を振り払い、攻撃するでもなく即座にその場から飛び退く。
その動きにガラムは戸惑いを覚えるが、追撃すべく前に踏み出そうとする。
その瞬間、アガトはその場から持っている剣を投擲する。
想像もしなかった攻撃にぎょっとしたガラムは咄嗟にそれを払い除ける。その投擲に反応できたのは風剣と呼ばれるガラムの実力がそれだけ優れていたということでもあったが、だからこそ反応できてしまったとも言える。
ほんの一瞬、その剣に気を取られていた隙に、アガトはガラムの懐に潜り込むと、腰をくるりと回し、下から肘を突き上げる。
「が、はぁ……」
ガラムの軽鎧の隙間、脇腹に肘を撃ち込まれた衝撃でガラムの体が折れ曲がる。
アガトはガラムの首元を掴むと、さらに揺さぶりをかけて体勢を崩し、ガラムの足を刈り投げ倒す。そして追撃としてその顔に足を振り下ろす。
「……っ」
その足は顔に当たる直前で止まっていた。
それで戦いは終わりとアガトはその場を離れゼフィのもとへと歩み寄る。
「所詮は油断をついた不意打ちにすぎないが、それなりに力は見せられたのではないかな?」
にやりと笑い、アガトは言う。
その言葉のとおり、これは不意打ちだ。
ただ、これをガラムの油断と言ってしまうのは酷だろう。
ガラムはアガトの力を試すため、アガトと戦うことを目的としていたのだから。だから、最初から全力ではかからなかった。
一方、アガトはそれを理解した上でそれに付き合わなかった。ただ、倒すことで力を示すために戦ったのだ。
「……はぁ」
ゼフィも小さく嘆息する。
戦いは一瞬で終わったが、結果だけで見るほどにガラムが弱かったわけではない。最初の一撃、アガトとしてはそれを躱したかったはずだが、安全のためにそれを受けざるを得なかった。その程度にはガラムは強い。
この結果はただアガトがガラムの要望を無視しただけだ。そこが噛み合わなかったためガラムが実力を発揮できなかったにすぎない。
あるいは、そうさせなかったアガトが一枚上だったとも言えるが、それでは当然このようにすっきりしない結果になる。
だから皇帝も、敗れたガラムもなんとも言えないような渋い表情を浮かべる。
「……まぁ、いいだろう」
アガトが確認を取ると、皇帝は多少不服そうではあったものの、認めざるを得ないとでも言うように頷く。
風剣に勝ったというのは事実であり、どちらにせよ、この戦いは茶番にすぎないのだから。
「貴様の希望どおり、ハルザウスが危機になろうが攻撃することは止めておく。手助けをするかどうか、は実際に見てから考えるとしよう」
「ああ、それで構わない。感謝する」
アガトは用事は済んだとゼフィに声を掛ける。
「……どうする?」
ゼフィはエルに尋ねる。
ここに来るまでどうなるかはわからなかったが、こうして見てみると、皇帝とエルの関係はそれほど悪くないのではないかと思った。このままここに残るのもいいのではないかと。
だが、エルは首を横に振る。
「いいえ、私も帰ります。……今は、あそこにいる方が楽しいので。今の私の居場所はあそこです」
「……そうか。それならいいんだけど」
「それに、もう少し、ゼフィ様と共にいたいと思いますから」
「うーん……」
「ふふっ」
そんなやり取りを見てアガトは楽しそうに笑う。
それを、その場にいた者たちは不思議なものを見るような目で眺めていた。
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