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3.フローリス

 ゼフィは旅に出る前に一度フェイヴァーの屋敷へと戻る。

 もともと屋敷にも私物をほとんど置いておらず、騎士になるにあたって必要なものは持ち出していたこともあったため、荷物を整理したりする必要は特になかったが、屋敷にいる家族、特に養母には挨拶をしておかなければならないと考えたからだ。

 三年ほど前、ゼフィが騎士になったのを見届けると、しばらくしてこの家の当主であるアストラは病で亡くなった。ゼフィが聞いた話によると騎士時代の怪我がもとで病にかかってしまったらしい。その病もあり、ちょうどその頃にゼフィと出会ったことで騎士を辞める決心をしたとのことだ。

 それにもかかわらずゼフィの世話に執心し、病で苦しみながらも自ら実践しゼフィに戦う術を教え込んだ。それが死期を早めることになることは本人ももちろん気付いていたはずなのにだ。

 ありがたいとは思っていたが、ゼフィにはそうまでしてくれる養父の気持ちはよくわからなかった。ただ、記憶を失い拠り所のなかった少年でしかなかった当時ではただ甘えることしかできなかった。

 そして、アストラが亡くなるともともと体のあまり丈夫でなかった養母のイオも体を壊し、床に伏しがちとなった。イオもまたアストラの拾ってきたゼフィの世話に熱心であり、そのゼフィが騎士となり家を出たことと夫であるアストラの死が重なり精神的なところで弱くなってしまったことも大いに影響しているのだろう。

 その二人、そしてゼフィの関係の犠牲になってしまったのがフェイヴァー家の一人娘であるフローリスだ。

 その当時、まだ幼いとも言える年齢の折に突然連れてこられた少年を兄と呼ぶように言われ、さらに父も母もその少年に掛かりきりになってしまった。

 そのときにわがままを言えればよかったのだろうが、皮肉にも貴族としてあるように教育されていたことで我慢しなければいけないのだと考えてしまっていた。

 だが、頭ではそう考えられても心はそうはいかない。父と母にかまってもらえない寂しさとその二人を独占する兄と呼ばれる存在への不満は日に日に高まっていった。


「―――私には挨拶はないのですか?」


 屋敷を出るため扉に手をかけようとしていたゼフィは掛けられた声に振り返る。

 そこにはこの屋敷の主であるフローリス・フェイヴァーの姿があった。ゼフィにとってそれは妹との久しぶりの再会ではあったが、その姿にあまり変わりがないことに安心感を覚えていた。

 ただ、その黒く美しい髪と瞳は、血の繋がりなど全く無いにもかかわらず、本当の兄妹と言ってなんら差し支えないほどにゼフィと瓜二つだった。


「……いや、少し話がしたいとは思ってたけど、忙しいと聞いて……」


 それは事実ではあったが言い訳にはならない。

 フローリスの近くにいる侍女に確認を取ったところ確かに忙しいとは言われたが、特別に急ぐ理由があるわけでもなく、別に出発を一日二日伸ばしたところで問題はないのだから。

 どうしてもゼフィには後ろめたい気持ちがあり、顔を合わせ辛いという意識があったのは事実だ。


 ―――わたしの父様と母様を返して!!


 昔の記憶がふとよぎり、罪悪感が胸を締め付ける。だけれどもそれを顔に出すわけにはいかない。


「この家を出て行くのですか?」

「ああ、だけどこの家に迷惑をかけるつもりはないよ」

「あなたにとって家のことなどどうでもいいと?」

「そうじゃない、そうじゃないよ。……この家は君のものだから」

「それは、皮肉ですか?」

「違うよ。俺はただ、これ以上君の負担になりたくないだけなんだ」

「そういう物言いが! ……いえ、悪いのは私ですね」

「悪くなんてないよ。君の言うとおり俺はここでは異物でしかないんだから」

「……」


 その言葉にフローリスは不愉快そうに顔を歪める。

 ゼフィにとってそうやって感情をあからさまにするフローリスは珍しく、どう声を掛ければいいかわからず、同じように黙ってしまう。

 それに、何を言ってもこのままでは平行線にしかなりそうにない。

 長い沈黙の後、先に目を逸らしたのはフローリスだった。それを見てお互いこれ以上こうしていても仕方がないと思ったゼフィは出発を告げる。


「……それじゃ行ってくるよ」


 ゼフィは小さく会釈するとフローリスに背を向ける。


「いつでも帰ってきてください。私はここでずっと待っています。……待ってるから―――『兄様』」


 その言葉にゼフィの動きが止まる。どうすればいいのかわからず、というよりもそうしていいのかわからずに逡巡する。そうしてほんの少し時間を置くとゆっくりと振り返る。


「いつでも帰ってくるよ。フローリスが困っていたら」


 そう言いながらゼフィはフローリスへ軽く笑みを浮かべる。

 それに目を見開いたフローリスは、ただ無言のまま見送ることしかできなかった。

 そのまましばし立ち尽くしていたフローリスは我に返るとある部屋を訪れていた。


「入りなさい」


 優しく扉を叩くと自分がここに来ることを予期していたかのような優しい声色が返ってくる。

 静かに部屋に入ると寝台から起き上がっている母イオの姿が目に入る。

 部屋の隅にある空気を清浄に保つための魔道具を確認すると、フローリスは寝台のとなりにある椅子に腰掛けて、母の調子を見るためにその手を握る。


「……起きてて大丈夫なの? 母様」


 今日は朝から少し体調が悪いと聞いていた。こういう日は一日横になっていることもあったためフローリスは気遣わしげに声を掛ける。


「ええ、朝は少し調子が悪かったけどあの子と話をしていたら気分が良くなったわ」

「兄様とはどんな話を?」


 その問いにイオは軽く笑みを浮かべる。娘がわざわざここまで来て話したいのはそんなことではないと言うのは顔を見ればわかる。そもそも自分の調子が悪いときは体を気遣ってかあまり部屋に来ることはないのだから。

 相変わらず不器用なものだと思いながらも話に合わせる。


「たいしたことじゃないわ。騎士としての仕事の話や、そこで出会った友人の話。そういう日常の話よ」

「そう……」

「そうそう、あなたのことも話したわ」

「……っ」


 あからさまに動揺したフローリスにもう一度微笑むとその話を終わりにして本題に入る。


「それで、あの子にちゃんと謝れたの?」


 フローリスは苦々し気な表情を浮かべると首を横に振る。


「兄様はいつだって自分が悪いとしか言わないから……」

「そうね。あの子は何も悪くなんてない。……もちろんあなたも。悪いのは私たち。あなたには寂しい想いをさせてしまったものね」


 あの日のことを思い出す。

 泣きながらゼフィを怒鳴りつけていたフローリスの初めて見る姿にはイオもアストラも驚かされた。そのときになってようやくおとなしい娘はただ心を痛めながら我慢していただけだと気付いたのだ。


「……今日、久しぶりに兄様と呼んだの」

「まぁ!」


 あの日を境に二人の仲はぎこちなくなった。険悪とは言わないがお互いの距離を保つようになり呼び方も変わった。

 ゼフィにとってはやはり自分がこの家の迷惑となっているという罪悪感、フローリスにとっては八つ当たりでゼフィに怒りをぶつけてしまったという罪悪感。相手が悪いと思っているならば許して関係を戻すこともできるが、自分が悪いと思っているならそれを許してもらおうとするのはそう簡単にはいかない。

 お互いに自分はあまり好かれていないだろうと思い込み、適度な距離感を守り、それ以上踏み込むことを良しとしなかった。

 それでも今日、フローリスがあえて踏み込んだのは。


「なんとなく、もう戻ってきてくれないんじゃないかと思って……」

「ふふ……、フローリスはゼフィのことが大好きだものね」

「そんなこと! ……ないけど、でも、兄様には帰ってきてほしいから」


 兄が貴族としての教育をあまり受けていない以上、フローリスは自分がこの家を継いでいくものであるというのは理解してる。

 だからといって兄を追い出したいとも思っていないし、できることなら側にいてほしいとも思っている。ただ、だからといって家に縛り付けるのは気が引ける。


「ねぇ、母様」

「どうしたの?」

「兄様は……もう、記憶戻っていると思う?」


 五年前に拾われてきたとき、ゼフィは自身の記憶を失っていた。その当時の幼いフローリスはかわいそうだな程度にしか思わなかったが、この年になればその異常性にもさすがに気付く。

 記憶を失っていたというのは間違いないだろう。実際に何を尋ねてもあやふやで自分の名前も住んでいた場所も何もわからないようであった。記憶喪失と考えればそれ自体はおかしくない。

 だけどその少年はあまりにもあやふや過ぎた。父からはひどい環境だったのだろうと言われていたため納得していたが、それを差し置いてもいくつも疑問が浮かぶ。


「そうね。おそらくもう全て思い出していると思うわ」

「そう、やっぱり……」

「フローリスは心配なのね。あの子が元居た場所に帰ってしまうんじゃないかって」


 フローリスは無言で頷く。ゼフィがどこから来たのか、どのような場所に居たのかはわからない。

 ここより良い場所とは限らないし、好んで帰りたいと思える場所ではないのかもしれない。それでもあの兄は自分に気を遣ってそれをこの家から離れる理由に使うかもしれない。

 今回いきなり騎士を辞め、旅に出ると言い出したのもそういうことかもしれないのだ。


「あの子がどこへ行くのかはわからないわ。でもきっとここに戻ってくるわ」

「……本当に?」

「もちろんよ。あの子もあなたのことが大好きなんだから」


 その言葉を素直に信じることはできなかったが、母がそう言うならそうかもしれないと、信じようと思った。


「だからそろそろいいんじゃない?」

「……母様?」

「お父様の遺書を読んでも」


 アストラが眠りにつくとき、次にこの家を継ぐのはフローリスだと決まった。名目上はしばらくの間は母であるイオが当主代理として置かれることになり、それは現在もそのままであるが、実質的にはフローリスが学校を卒業するとその全ての実務をフローリスが行っている。

 その時の父の遺言としてそうなることを予期して様々な説明を受け、必要な書類なども託されたが、それとは別に一つの条件とともに一通の遺書も渡された。

 その一つの条件とはゼフィとの過去を許すことができたならば読むというものだ。

 父がなぜそのようなことを条件としたのかはわからなかったが、今日に至るまでフローリスは未だ自分のことを許すことができなかった。だからもちろん遺書もそのままに保管されていた。


「……いいのかな」

「ええ、あなたの判断に任せるといつまで経ってもその時が来そうにないから私が決めてあげる。今のあなたならだいじょうぶよ」

「わかった。そうしてみるね」

ここまで読んでいただいてありがとうございました。

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