1.接触
少女―――イリスは馬車の中で身を縮ませて震えていた。
馬車の外から聞こえる咆哮、それは彼女がいまだかつて想像したことのないほどの異常さだった。その叫び声で体の芯まで震え上がり、その音の振動で馬車が吹き飛んでしまうのではないかと思えるほどだった。
比較的感情の薄い彼女にとってこれほどの恐怖は生まれてから初めてのものであり、その心を御する術を彼女は持っていなかった。
かろうじて恐慌に至っていないのは、自身の前で身を寄せ合い泣きながら震えている二人の侍女の存在があったからである。
それは侍女たちにみっともないところを見せたくないといった矜持の話ではなく、単にその二人のあまりにも蒼白な表情を見ることでほんの少しだけ冷静さを保てているというだけのことである。
そもそもこの二人は表向きは放逐されるイリスの世話をする侍女という名目で派遣されてはいるが、実質的には監視役であるうえにこれが初顔合わせである。
監視されること自体にはおよそ慣れていたこともあり、二人に嫌悪感を抱くことはなかったが特に好感を抱く理由もなかった。
ただ、同情の心はあった。
ことここに至ってイリスはおおよその事情を把握していた。
今自身が置かれている状況はけっして偶然などではないこと、つまりこれが自分を殺すために計画されたということだ。
いや、おそらくはそこまでの価値すら認められていない。これは『死んでくれればいいし、死なないならそれでもいい』といったひどく雑な、計画とさえ呼べないものである。
だが、そんなことは二人の侍女にはわかるはずもなく、だからこそ二人は気付いてしまったのだ。切り捨てられたのはイリスではなく、イリスを含めた自分たち三人だということに。
だから彼女たちに未来はなく、生死の問題ではなくここで終わりなのだ。それはつまり、自分たちの価値はそういうものだという意味なのだから。
そんな二人を哀れに思ったのか、それとも切り捨てられたとはいえ貴族の端くれであることの矜持か、イリス自身にもそれはわからなかったが、二人のことはなんとか助けてあげたいとは思った。
何をどう言おうが二人は自分に巻き込まれただけなのだから。
自分に何かができるとはとても思えなかったが、何もせずにはいられなかった。
「……精霊のご加護を……」
自身のためではなく震えている二人のために祈りの言葉を呟く。そして、自分を落ち着かせるために一つ大きく息をつくと、二人をちらりと一瞥だけし、ゆっくりと立ち上がると扉を掴む。
握った手に汗が滲むことを感じながら、背後から聞こえる息を呑むような、微細な悲鳴のような音に耳を傾けながら、少しずつ、それでも力強く扉を開け放つ。
その瞬間、音の奔流が押し寄せる。
その音だけで体が吹き飛びそうになるほどの巨大な咆哮、波となって押し寄せてくる熱気。
震える足を一歩踏み出したイリスが見たものは首を振り爪を振り上げる巨大な魔獣。そもそもそういうものには疎かった彼女ではあったが、その姿に思い当たるものが一つだけあった。
どこで見たのかも思い出せない。あるいは何かの学術書などではなく、おとぎ話か子供が読むような物語だったかもしれない。
―――ドラゴン。
なぜこんなところに、どうして、本物か、本当にいたのか。様々な疑問が頭をよぎる。そして、次の瞬間には彼女の心から恐怖は消え失せていた。そこにあったのはただ圧倒的な諦観。
これに対して自分ができることなどなにもなく、ただ、自分がここで死ぬということを受け入れていた。
奇しくもその諦観こそが自分が生きていることの最大の実感であった。ここで全てが終わるからこその命の実感。
「―――死ぬな!! 生きて帰るんだ!!」
その声に知らず落としていた視線を上げる。
巨大なドラゴンを前にこちらに背を向けている小さな影が目に入る。
そこで初めてイリスは当たり前のことを思い出す。戦っている者がいることを。
腐っても貴族である自分を護送するために選ばれた若い騎士たち、彼らもまた自分という大禍に巻き込まれただけの存在ではあろうが、だからといって彼らのすべきことには何も変わりはない。
目の前の敵を倒し、任務を果たし、生きて帰る。どれだけ絶望的な状況であろうとそうするしかないからだ。
冷静に考えるならば不可能だ。
せいぜい十にも満たない程度の騎士でこれほど巨大な魔獣、それもおとぎ話に出てくるような怪物を倒すことなどできるはずもない。
それでも、イリスの目はドラゴンではなく、その騎士の背中から離れることはなかった。
一度だけ見たことがあったその姿。王宮でも彼のことは時折話題にあがることがあった。もっとも、そういった話題に極めて疎いイリスですらその陰口を聞いたことがあるように、それはいい意味での話題ではなかったが。
それはイリスにとってもそうであった。噂に聞く彼のことは特に興味もなかった。何も知らないゆえに特別に嫌うようなことはなかったが、だからといって何かあるわけでもない。ただ、そういう人間もいるのだなとだけ思っていた。
だけど、今、そんな彼から目が離せなかった。
目の前にある巨大な獣のことも、先程まで諦観に頭を垂れていたことも、その全てが頭から抜け落ちていた。
自分の中に湧き上がる感情、憧れにも似たその気持ちの名前はイリスにはわからなかった。
ただ、魂だけが震えていた。
無意識にイリスの口から言葉が溢れる。
「―――無色騎士」
それは彼の名前だった。
ここまで読んでいただいてありがとうございました。
よければブックマーク、評価をよろしくお願いします。