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「…サン、山城サン。ほら、タクシー来たから。足元、ぶつけんなよ」
腰を支えられている。隣から、アルコールの匂いと元々つけていたであろう香水が、飲んで体温が上がったせいか、一瞬強く香った。そしてほのかに苦みを感じる煙の残滓。遅れて、そう言えば加藤と飲んでいたのだった、と思い出した。
加藤がそんな気遣いをするなんて、なんだか可笑しくて吹き出したら、少し苛立ったような声で「ほら早く、乗って」と急かされた。
「…おい、住所は?」
「んー……?」
そういえば一次会が終わって、数人が帰宅してから、二軒目に向かったのだった。とはいえ、翌日出勤のメンバーが数人いたこともあって、終電前のこの時間に解散した。
「ほんっと、えらくペース早いと思ったから止めりゃよかった…ちょ、寝るなよ!なあ!」
「……お兄さん、それもう無理だろ。彼女なら連れて帰ってやれよ」
「…あー、すんません。ほんと」
彼氏?つい先日別れたばかりです、と意識の遠くで思ったが、なぜか再び不機嫌な加藤に「ばか!」と怒られ、「あー…焼けぼっくいになんとかってヤツかねぇ」とタクシーの運転手が面白そうに呟いたのは、よく意味が分からなかった。
***
「え、泊まったの?!」
小百合が急に身を乗り出した。
「泊まった」
「もしかして、もうヤって…」
「ないわ!ないないない!」
バン、とテーブルを平手で叩くと、広げていた柿ピーが跳ね、幾粒かが床に落ちた。
「あー…焦った。失恋の痛手で、捨て鉢になったのかと…」
「まあ、酔いつぶれたのはそのせいだけどねー、ああー…明日会社行きたくないー」
自業自得でしょうよ、という小百合の言葉はもっともだったので、加絵は黙るしかなかった。
***
目を開けると、コンタクトをしたまま寝た時特有のしぱしぱした感覚に襲われて、意図せず涙が出た。しわくちゃのブラウスにスカート、ストッキング。服は全て着たままだ。いや、かろうじてジャケットは脱いでいる。狭苦しさに身をよじると、自分がいるのはシングルのパイプベッドだった。うめき声が背中の後ろから聞こえる。
はっとして、起き上がると、加絵に背を向け、壁にくっつくような形で苦しそうに眠る男の姿があった。
「どこ、ここ…」
そして、部屋を見回すと、床には脱いだYシャツ、空になったペットボトル、一応くくってあるゴミが入っていると思しきビニル袋、くしゃくしゃのタオル、その他諸々。雑然と物が散らばっており、最初はその役割を果たしていただろうソファも今は雑誌やチラシが乱雑に重ねられている。
「きったな…」
隣で寝ている加藤を起こさないように、ベッドの上からできるだけ手を伸ばし、かろうじて転がっていた自分のバッグをつかんだ。そこからファンデーションのケースを探り出し、鏡を確認すると、予想通りメイクは崩れてドロドロ、マスカラの跡がくっきりと残って盛大なクマができていた。せめてもの救いは前日が金曜日で、加絵は休みだったということだ。営業一課の同期は半休だと言っていたので、ご苦労なことだ。推進課でよかった。
ここが、つい先日まで付き合っていた元彼の部屋なら、窮屈なストッキングを脱いでシャワーを借り、再びぬくぬくとベッドに転がり込むところだが、昨晩酔っぱらって暴言ばかり吐いた挙句、こうして回収してくれた単なる(気に食わない)同期の家でそうしていいかといえば、きっと違うだろう。
加藤は、普段の軽薄な態度はともかく仕事はできるほうだし、ちゃらちゃらした雰囲気だから、部屋もさぞかし小洒落ているのだろうと思いきや、女の子がこの部屋に着ている様子は微塵もうかがえない。というか、部屋汚い。
「ん……?なにごそごそしてんの…、まだ寝かせて…」
ごろり、と寝返りを打った声の主は、加絵の腰に強引に腕を回すと布団の中に入れ込み、抱きかかえてしまった。目をつぶったままぼそぼそと喋る加藤の胸元に抱き込まれ、Tシャツ越しに熱い体温が伝わってくる。ただでさえしわくちゃな服がこれ以上しわくちゃになっても大して変わらないような気がするし、まあ誰かの代わりにしばらく抱き枕役を務めるのも昨晩の礼にしては足りないだろうと、甘んじて受け入れることにする。
「…あ、れ?マリ、太った…?」
前言撤回する。
「…おはようございます…」
「あぁ?…そっか、山城サン」
連れてきたんだった…、と言いながら、加藤がさっと加絵に回していた腕を放す。とはいえ、狭苦しいシングルベッドなのだから、腕を放されたところで距離が相当近いことには変わりないのだが。
「元カノはマリさんって言うんですね」
「……」
肘をついて頭だけ起こした体勢の加藤にそう告げると、彼は眉をひくつかせた。加絵は起き上がり、狭苦しいベッドの上で正座をし(床はそんなスペースなどないように見受けられたので)頭を下げた。
「昨日は本当にご迷惑おかけして、申し訳ないです……」
「…記憶あんの?」
「ところどころ…」
はあ、とあからさまにため息をつかれ、さすがに肩身が狭い。そして、このメイクだだ崩れの寝癖だらけの顔を再び見られると思うと、顔を上げられない。
「……山城サンさえ良ければ、シャワーぐらい貸すけど」
「……謹んでお借りいたします………」
その場で死にたい気分になったのは言うまでもない。
...to be continued.