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「ほんっと、もう、信じられる?!」
空になったマイ・ジョッキをテーブルの上に置くと、意図せずダン!と大きな音がした。しかし、いい具合にアルコールが回っている加絵は大して気にしていないようだ。
「エレベータで二人っきりになって、ものすごい意味深な雰囲気で話しかけてくるから何事かと思ったよ、ほんと!」
鼻息荒く、小分けになった柿ピーの袋を引っ掴む加絵を、小百合が苦笑しながら見ている。
* * *
『……は?同期会?』
『そう。まだあいつらには俺たちが別れたって言ってないからさ、加絵には同期会のこと俺から伝えとけって言われてたんだけど…』
遅くなってごめん、とかなんとか、口もモゴモゴさせていたけれど、なんと言っているのか分からない。都合が悪くなると、加絵より背が高いくせに上目遣いのような、相手の様子をうかがう目をする。その目を見るとなんだか加絵は無性に苛々してくる。それが可愛いと思っていた時期もあったのだが。
どうせこの人のことだから別れてから気まずいし、かといって同期に彼女と別れたとも言いづらくて、なんとなく今日まできてしまったのだろう。
そういう優柔不断な所は今までのどの彼氏にもなんとなく共通していた。
『…別にいいよ、わざわざありがと』
『で、今晩なんだけど…』
『はぁ?今日?!』
加絵が「は?」という度に、男は身を引くが、苛立つ加絵は気づかなかった。
いい年した大人なんだから、急に今晩あけろって言われたって色々予定あるでしょうが!っていうか気まずかろうがなんだろうがさっさと同期に自分で別れたって言わないからそんな面倒くさい役回り押し付けられてんでしょうが!!という一連の文句を、加絵はぐっと飲み込んだ。相手はつい最近別れた元恋人だ。さすがにそれぐらいの分別はある。
つまり、ついてない加絵はその日一日面倒なことになるのが確定してしまったわけなのだった。
加絵がひそかに自分だけでなく働く女性ならば誰もが思っているのではないか、ということのひとつに、座敷の店で飲み会をするのは極力遠慮してほしい、ということがある。そういう日に限って、蒸れやすい素材のパンプスを履いてきてしまっていたりする。
加絵はできるだけ、人の輪を避けるように大回りして席に着く。ほとんど外出することがない内勤の加絵でさえこうなのだから、外勤の女の子は死活問題だろうな、と思うのだ。
加絵の願いむなしく、その日の会場はこじゃれた和食居酒屋で、座敷の奥に既に何人かが到着していた。なるべくなら、元恋人から離れた席がいいと、彼が親しくしているメンバーとは対角線上の一番遠い席に座る。同じ課の加藤は未だ来ていないようだった。
割と酒席の付き合いに淡白な他の女性の同期と違って、加絵は酒好きである。それも口寂しくなると家でひとり晩酌するぐらい好んでいる。親父くさいことこの上ないし、肝臓にもよくないのだから、悪癖のひとつだろうと思うのだが、酔っぱらって小百合と管をまいているのが一番のストレス発散なのだから、もうどうしようもないと半ば諦めているのだ。
小百合の今までの分析によれば『加絵は素面だと自分の本心を曝け出せないから、酔っている上に心許した非常に親しい女友達にしか本音を言えないのではないか』とのことだが、あながち間違いじゃないだろうと加絵は思っている。今まで加絵は、恋人に自分の悩み事を相談したこともなければ、弱みを吐いたこともない。社会人になってからはさすがに「今日はなんか疲れてる?」と言われ、思わず表情に疲れがにじみ出ることもあったのだろうが、なるべくなら仕事の愚痴や疲れを恋人の前で表したくない。多分、自分のこういうところが付き合っている相手に「隙がない」と思わせてしまうんだろうな、とさすがに加絵も理解してきた。
まだ乾杯をする前から何事か悶々と考え込む加絵に「山城サン?おい、何呆けてんだ?」と笑われる。ため息をつく間もなく、後からやってきた加藤がヨイショ、と加絵の隣に腰を下ろした。周りのメンバーにお疲れー、と挨拶しながら早速ジャケットを脱いでいる。
わざわざあんたと元恋人が普段親しくしている面子から離れて座ったのに、なんであんたは隣に座るんだ!とはもちろん口に出さない。ちらり、と横目で加藤を伺った加絵に、にやりと片頬だけに笑みを刻む。割と派手な顔立ちの加藤がそんな表情をすると、なんだか意味ありげに見える。感じ悪い奴。
「じゃあ、そろったことだし、飲み物だな。皆、生でいい?」
飲み会の幹事は同期の中でも一番はきはきした営業一課の坂井で、その自分のさわやかさ、そつのなさをひけらかさない謙虚な所に、加絵は好感を持っている。
あっという間に瓶ビールとグラスが運ばれてくる。乾杯の音頭をとったのはやはり当たり前のように坂井だった。後から来た元恋人は、加絵の予想通りテーブルの対角線上の一番遠くの席に座っている。気づかれないように遠くから観察する。ものすごい美形と言うわけではない。しかし、加絵は甘えた犬みたいな、彼の少し垂れ目気味の眼差しや、薄い唇が好きだった。冷静になって考えてみると、今まで付き合ってダメになった男たちはそういう顔立ちの人が多かったような気もする。優柔不断でダメなおとこ達は皆、あのような顔立ちになるのだろうか、と別れた直後の加絵は可愛さ余って憎さ100倍、個人の体験に完全に偏りすぎた物思いにふけっていた。とすれば、加藤は女を容赦なく捨てそうな顔をしている、と更に失礼なことを考える。
運ばれてくる肴に箸を伸ばしつつ、加絵はグラスを空けた。加絵の向かいの女性と盛り上がっている加藤を横目に途中途中なんとなく相槌をうちながら、手酌で杯を重ねる。くっきりとした二重、ととのった鼻梁、どちらかというと濃い顔だちをしているのにうっとうしく感じないのは、いつもその顔に軽薄な微笑を浮かべているせいだろう、と加絵は決めつけた。酒を飲むのは好きだ、かといって人並み外れて強いわけでもない。後から振り返ってみると誰に飲まされたわけでもなく、ひとり結構なハイペースで飲み続けていたわけだが、その時の加絵に気づく由もない。
だから、加藤が『気心の知れた加絵と同じ部署でいるのは割と楽しいし、加絵の容姿は案外好みだ』みたいなことを言っていた時(何分、酔いが少しずつ回ってきていたので記憶はおぼろだ)、いつになく加絵はきっぱりと言い放ったのだった。
「わたし、別にぜんぜん加藤くんと気心知れてるって感じしないし、むしろずけずけ物言いするところがきらいです」
...to be continued.