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失恋するたびに1週間家の中にこもり、毛布にくるまって一切外界との接触を寸断したくなる。加絵はそう思うが、社会の枠組みにしっかり組み込まれてしまった、いい年した大人になってしまったせいで、そういうわけにもいかない。大人と言うのは大変なものなんだ、とひとりごちる。
冷たい雨がアスファルトに打ち付ける。
週終わりの金曜日。その日は長い一日だった。本当なら翌日の朝を待ちわびる一週間でも一番あっというまに過ぎる一日だというのに。
いくつもの革靴とパンプス、スニーカーによってはねた水滴がストッキングの色を変える。無心で駅を歩く。加絵と同じく、表情に一切の色を失くした大人たちが吸い込まれるように改札口に向かっていく。泣き腫らしていつもよりアイメイクが濃い、なんてことはない。ただ時折びっくりするような喪失感に襲われるだけで。
だから、表面上はいつもと変わらない自分でいられたと思っていたのに、彼の一言のせいで、そんなのは誤魔化しだということを知る。
「山城サン、今日なんか体調悪い?」
「…え?」
「いや、えらくぶすっとした顔してるから」
これだよ、と加絵は内心ためいきをついて振り向く。相変わらずデリカシーがない。
「寝不足ですかね」
ちゃらっとしたその軟派な顔立ち。何事もそつなくこなす器用さとこのデリカシーのなさが加絵は入社時からうまく受け入れられない。小百合曰くの「ダメ男好き」の烙印をおされた加絵だったが、そのそもそもの原因は不器用な犬っころ系男子が好きなところにあるのだろう、と思う。そしてほどほどにプライドがあり、ほどほどにうまくやってそうなこの加藤という男が加絵は苦手なのだった。その上、別れた同期の男と加藤は仲が良いときている。こんな日こそ社内の営業さんへのヒアリングに勤しもうと逃げるように荷物を手にした加絵はそそくさとエレベータへ向かった。上昇するエレベータの中で加絵と加藤が配属後、開かれた初めての飲み会を思い出していた。
「はー、山城は同期のやつと付き合ってるのかー…」
挨拶がてらお酌をして回っていたら、3期上の男の先輩が手元のビールに視線を落として呟いた。
「山城さんはキレイだから、そりゃ同期の子もほっとかないよー。残念でした」
そう言う女の先輩が軽く加絵に牽制の眼差しを送ったことを今も忘れられない。いい人だけど面倒なことになりそうだからこの人との交流は極力避けよう、と失礼なことを考える。件の先輩はさびしそうにちびちびとビールを口元に運んでいる。
「…まあ、手近な所で手ぇ打ったんじゃないすか。お互いに」
ビール瓶とグラスを手にやってきた加藤が、よいしょと拳三つ分くらいを加絵との間にあけて、腰をおろした。
キレイかどうかで言ったら三澤さんの方が、と言われた女の先輩は「そんなことないわよ」とかなんとか言いながら、満更でもない顔をしている。営業推進課の男女比は4:6。女性とうまくやっていった方が後々我が身のためになると思ってのことだろう、加藤がうまいこと言いやがった。
宴会用の座敷にいくつか並ぶ長テーブル。それを取り囲むように座る課の面々は、ほどほどに出来上がっている。とはいえ、一番の下っ端である加絵と加藤はそういうわけにはいかない。
店員が運んできた料理を受け取り、会釈をする。
「俺、山城サンの彼氏と出身同じなんですよ、九州で」
そういって笑う加藤は邪気がなく見える。どうしてこう、うまいこと空気を読んで先輩の機嫌をとることはできるのに、わざわざカチンとくることを度々言ってくるのかなぞだ。
なにか加藤が嫌がるようなことを研修中にしただろうか、と思い返してみるも、加絵は一向に心当たりが見当たらないのだった。
結局のところ、馬が合わない人間と言うのはどこにでもいるものだ。
加藤も加絵にとってはきっとその類なのだろう。加絵はいつからだったか、もうずっとそう考えるようにしていた。
* * *
ついてない日はとことんついてない。
小さな会社でないとはいえ、同じビルの中でほぼ一日中仕事をしていたら、会いたくない人と顔を合わせなければならないことも出てくる。
エレベータという密室の中で、加絵は内心冷や汗をかきながら、じっと階数表示の小さなモニタを凝視していた。背中の向こうから気まずそうな空気がびしばし伝わってくる。
別れた元恋人である同期がそわそわと、ポケットに手を入れたり出したりしながら逃げたそうにしている。
心配しなくてもこんないつ誰が乗り合わせるか分からないような場所で修羅場を繰り広げようとは思ってないし、そもそも修羅場になどなりようがない。そう言ってやりたいが、一言発するだけでも多大な気力を要しそうなこの空間で、そんなこと言い様がない。毎度のことながら、加絵は同期の元・恋人と付き合い、別れたことで憔悴しきっていたから。
「…加絵」
うわ、きた、と思った。
「電話、できなくてごめんな…それで言っておかないといけないことあってさ」
今更、と思うが、やはり一度は好きで付き合っていた相手なのだ。
一言くらいは聞いてやるしかない。
視線をモニタからずらすと、後ろにいたとばかり思っていた彼が立っていたのは本当に加絵のすぐ近くだった。
「あのさ…」
...to be continued.