-side Kae- 10
『まだ?』
軽快なメロディと共に、ひどく簡潔なメッセージがポップアップで表示された。
「あと、じゅっぷんくらいで、つきます、…と」
バタバタとジャケットを羽織り、忘れ物がないか確認する。
「お疲れさまでした!」
金曜日の夜。慌ただしくフロアを去って行った加絵をなんとはなしに見送った先輩が、なんと言ったか彼女は知らない。
「新しい彼氏でもできたかねー…」
よくない兆候だ、と加絵自身思っている。
一度加藤と関係を持ってしまったとはいえ、酔っていた加絵を回収してくれたのは彼だし、部屋に上げて誘ったのは加絵なのだから、彼に非はないと言えばないのだ。
だからこそ、『付き合おう』と言われて断るのは心苦しい。その罪悪感につけこまれてか、あれからというもの何度か彼に食事に誘われる。
大体週末の夜。加絵は、平日の夜に外で飲むのがあまり好きではないのだが、デリカシーがないくせに妙な所で敏かったり気遣いをしたりできる彼は、同じ部署で仕事の進捗状況が分かっているせいか、加絵に翌日余裕のある日しか誘ってこない。そのあたりのさじ加減がちょうどいいところもなんとなく気に食わない。ここまでくると言いがかりのような気がしないでもないが。
加藤ほど程良い加減で行っているかは別として、なんとはなしにそういう雰囲気を作り上げられて、流れにのまれて相手と付き合ってしまう、というのが今までの加絵の恋愛で、今まさに自分がその状態であることを加絵は十分自覚していた。なにぶん加絵はダメなヒトとしか付き合ったことが無いので。
だからこそそういう、なあなあな感じでお互いの関係を進めていくのは『嫌です』と伝えたはずなのだが…。
「あー、なんでかなぁ…」
ボヤきながら教えられた店の引き戸を開ける。以前、加藤に連れて行かれたような小洒落た横文字の店ではなく、落ち着いた店構えだったので少し安心する。いかにも男女のデートにはお誂え向きでござい、という雰囲気のある店が、加絵は苦手だ。自分とこの男とは、紛れもなく男と女の関係なのだ、ということを意識させられてしまうから。
店に入ると、手を振る加藤の姿が見えた。先に席についていた彼の元へ向かう。
今の自分がひどく臆病になっているのも、そのくせ人肌恋しくなっているのも分かっていた。要は加藤に文句を言いながらも、甘えているのだろう。加絵は、自分のことをそう思っている。
「腹減ったんじゃない?なんか軽く頼んどいたから飲み物選びなよ」
渡されたメニューを見る。誰と付き合っても、いつも相手のことを気遣って相手に何かしてあげるのは加絵の方だったから、こうしてポンポン加藤のペースに乗るのは心地よくもあり新鮮でもあり、そして少し怖くもある。
このまま加藤のペースに飲まれたままでは、心の準備もできずになんとなく付き合うことになってしまう自分の姿が容易に想像でき、加絵は思わずため息をもらした。
「何?疲れてんじゃん」
それなりにモテてきているだけあって、加藤はこういうことは流さずにきちんと気遣いする。普段は適当で軽薄なくせに、こういう所があるから嫌なのだ。
「あー、分かった。あれだろ、丸井印刷」
無言でおしぼりで手をぬぐう自分の手元だけを見つめる加絵の姿が、その返事だった。
「別に…もう別れた人の新しい相手なんて関係ないし…」
「あーはいはい。そうだろーね」
まったく「そうだろう」とは思っていない口調の加藤の台詞にむっとする。ちょうどいいタイミングで頼んだビールがきた。
尚更よくないのは、こうして二人でなんとはない話をしている間にも、ふとあの時の、ベッドでの加藤の姿を思い出すことだ。
あの時交わしたキスの感触、太腿の内側の柔らかい皮膚の上をなぞる大きな掌、引き締まった身体、細身に見えるのに加絵の身体を倒すときに感じた、思わぬ力強さ。荒ぐ息としかめた眉。
「…サン?山城サン?」
「…っえ?」
「いや、何呆けてんの」
黙ったままの加絵の肩にそっと加藤の手が伸び、すぐに下ろされる。
「…まあ、気にすんなっていうのも無理な話だろうけどさ。山城サンがどうこうできたことじゃないでしょ。あいつがいい加減な奴だったってだけで」
なんだか慰めてくれているらしい。何も言わない加絵が落ち込んでいるとでも思ったのだろう。
おそらく普段の加藤だったら肩のひとつでも抱いて、いい雰囲気を作り上げているところだったのだろうが、加絵が酔っているうちに掲げた『ダメ男卒業宣言』という大きな看板が、加藤に対してえらく効いているらしい。
彼氏でもないが友人でもない。ただの同僚でもない。
加藤とのそんな関係に文句を言いつつも、くすぐったく感じている自分がいるのを、最近の加絵は否定できずにいる。割と出来立てな失恋の痛みをあまり引きずっていないのは、良くも悪くも間違いなく加藤のおかげだ。
「バカみたいなこと聞いていいですか?」
「バカみたいなことの内容にもよるけど、どーぞ」
そう言って笑う加藤の表情にも、かつてなら『嫌味っぽい』と難癖をつけていたのだが、この際そんなこと言ってる場合じゃない。
「なんで私なんですか」
「え?」
「同期ですけど別に加藤さんと仲がいいわけでもない、取り立てて目立つこともない、しかも自分の友人と以前付き合っていたような相手なのに、なんで私なんですか?」
それを聞いてどうしようというのか。
よくない方向へどんどん自分が向かっているというのが分かっているくせに、なぜだろう。
「元々見た目がタイプってのもあるけど、山城サンは真面目なとこがいいんじゃない?」
割りばしの袋を弄びながら、うつむく加藤の顔はうかがえない。
「俺自身がいい加減だから、山城サンのいっこいっこちゃんと向き合う所はすごいと思うけど」
ああ、だから自分はダメなのだ。と加絵は思う。
自分が好きになる男はダメな男しかいなくて、どうせ最後に傷ついて放り出されるのは自分の方で、だからこそ、次はそんな恋したくないのに。
加藤の言葉が途方もなくうれしい。
でも、いい加減な加藤も、きっとこれまでの歴代の男たちのように自分をおいていく姿が目に見えるようで、なんとしてでも思いとどまらなければ、と思うのだ。
だって、もうこれ以上さみしい思いもしんどい思いもしたくないのだから。
...to be continued.




