島の仕来り
(十三)
重定の家は、緩やかな坂を上った林の手前にあった。数軒の家が点在する場所は、漁師が住んでいる場所から少し離れている。
「島はな、たくさんの恵みがあう。海に囲まれちょるから、海の幸は当然じゃが、山も多くの恵みをくれる。木々は勿論、獣や鳥、茸なんかも、よう採れる。せんせの薬草もあるじゃろ? 全部、島神様の恵みじゃ」
大きな荷車を引きながら、智頼は、うっすらと出た額の汗を拭う。
女将とお婆さんの作った料理、智頼さんの捌いた魚、エビや貝類、焼いた魚もある。ともかく山ほどの御馳走と、穫れたての果実、生の野菜なども積まれている。子供たち二人は後ろから荷車を押し、また、物が落ちないように、獣が寄ってきて横取りされないようにと見張りも兼ねている。
平佐田は荷を積む作業を手伝い、両肩には、荷車に載らない荷物を背負っている。久しぶりの晴天は、なんだか熱い。平佐田もまた、耳の後ろを伝う汗を手の甲で拭い取る。
ひひぃん。馬の嘶きに、子供たち二人が走り出した。
(馬がいると言っていたな。「うちの馬より、鶏のほうが面白い」と言いながら、真剣な顔で鶏を追いまわし、掴んでは投げを繰り返していたっけ)
やんちゃな姿を思い出して、やはり、悲しくなる。知らず平佐田は首を振った。
「せんせ。そげな顔しちゃあいかん。弔いじゃなかから、悲しい顔は駄目じゃ。家のもんに失礼じゃからな、笑わんでもいいが、涙はいかんよ。そうじゃな……神妙な顔、うん、それが一番いい」「?」
思わず平佐田は、智頼を見る。弔いじゃない? それならば、この御馳走は何なんだ。通夜のための持ち寄りではないのか。
家の者は悲しみに打ち拉がれている。近所のもんがそれを慰め、話を聞いてやるのが残された者への労わりだ。
残された者は、生きていかなくてはならない。気持ちが落ち着くまで、周りが面倒をみて、少しでも淋しい思いを紛らわせるために傍にいてやるのが、通夜の意味だと、平佐田は婆様から教えられた。また、亡くなった者に「皆がいるぞ、後は心配するな」と、安心させてやることも、通夜の集まりの、意味の一つだとも聞いている。平佐田の顔に、疑問が浮かんでいたか、
「せんせ、重定はみつからん(、、、、)かった(、、、)。そいが答じゃ。居王様が取り戻せなんだいうこっちゃ。重定は今頃……」
智頼は言葉を切ってじっと平佐田を見る。言うべきどうか、迷っている様子だ。だが、大きな顔で一つ頷いて、
「おう、早かったな、智頼さん。今朝は漁に出たんじゃろ? ほぅ。こりゃあすごい。大層な御馳走じゃ、御子様も大いに喜ばれようて」
後ろから掛けられた声に振り返った。平佐田もつられて振り返る。
「おっ、せんせ。せんせも来てくだすったんか。すまんこってす」
平佐田の歓迎会で何度か見かけた顔だ。智頼よりも少し年長らしいその男の名は……。
平佐田は無理に飲まされた酒のおかげで覚えていない。智頼の上を行く酒好きで、執拗に平佐田に酒を勧める男の顔に、どうしても平佐田は腰が引けてしまう。
「ええっと、はぁ……」
平佐田の様子に、にかっ、と笑った智頼は、
「敦忠さん。今朝は、大漁でね。荷がおおなったから、せんせに手伝うてもろた。触れは出したんかいのぉ、〝お館様〟は……」
智頼の言う傍から、がやがやと人の声が近づいて来た。三人が同時に振り向くと、大勢の人たちが、手に手に花や野菜、果物などを持って向かってくる。中には智頼のように、荷車を引いている人の姿も見えた。
(何なんじゃ)
通夜にしては随分と豪勢だ。こう言うのも何だが、重定はまだ子供で、特に島人から敬われていた風もない。家も見る限り点在する他の家とさほど変わらぬ程度の構えだ。決して有力者の子供ではないだろう。それが……
見るからに豪華な供え物は、何だか不釣り合いに見える。更に平佐田を驚かせたのは、人々の表情で、いずれも、面でも被っているかのように平然としている。にこやかな者がいないのは当然としても、子供が一人いなくなった割に、泣いている者、悲しげな顔の者がいない。「弔いではない」という、智頼の言葉が引っ掛かる。
「ほぅ。すごかね」「いい匂いじゃな、大女将は料理が得意じゃったな」
近寄ってくる人たちは、いずれも手にしている供え物の話ばかりで、重定のしの字も出ては来ない。それがまた不自然だ。
「おっ、平佐田せんせじゃなかね」目が合った一人が声を上げ、皆の視線が一斉に平佐田に集まった。なんだか悪いことをした子供のように平佐田は身を縮める。
「ほぅ、こんお人はせんせかい」「へぇ、本土のお人か」「はぁ、そういえば、どことなく垢抜けちょる……」
平佐田の知らぬ顔ばかりが、平佐田を取り囲んで質問を投げ掛ける。
「せんせっちゅうんは、どこから来なさるね」「せんせ、まだ若そうじゃが、いくつじゃ」
「酒は好きか、女子はどうじゃ」「せんせ、うちの娘と会うてみんか……」
酒のない歓迎会のようだ。しどろもどろになりながら、それでも丁寧に平佐田は答え、すっかりと話題の中心となってしまった。
いささか辟易としながら智頼を探すと、ぼんやりとこちらを眺めていた智頼が、こくり、と頷いた。ほんの少し淋しげに笑う。
「せんせ。こっちじゃ、そろそろ荷を下ろしたい、手伝うてもらえんか」「はい」
やれやれと思いながら、名残惜しそうな島人に会釈して、平佐田が荷車に近寄ると、
「せんせ、すまんこってす。せんせをだしにしました。皆、本当は悲しいんじゃ。悔しいんじゃ。けど、どうしようもない。島にはそうそう話題もんから、新しい島人に助けてもろた。明日には島中でせんせを知らんもんはなか。ちぃと大変でしょうが、許してやってくいやんせ」
つまりは、お披露目をされたらしい。確かに島は、あの、白い硫黄に包まれていた時のように、外との交流は少なく、閉鎖的だ。だから新しい話題には興味深々なのだろう。
だが、平佐田は気が付いていた。平佐田に食いつくように話題を求めた人たちが、抑え込んだ感情を持て余していることに。
(お爺さんと一緒だ。島の「かやせ、戻せ」は、真剣な訴えなんだ。おいの郷のように、別の意味を持つこともなくまた、諦めがどこかに隠れているものでもない)
必死の訴えが聞き入れられなかった事実に、島人は憤りを感じている。同時に、人という存在の無力さを、しみじみと思い知らされているに違いない。
それでも智頼の言う「仕来り」は守らねばならず、泣くことも憤ることも許されない。だから何事もなかったかのように振る舞うしかないのだ。
互いの胸の内を知っている限り、とかく塞ぎがちの思いは、何か別のもので紛らわせるよりはない。
(何も事情を知らん他所もんは、一番の気晴らしじゃろうなぁ)
与り知らぬところで、勝手に噂の種にされるのは気が重いが、それで島人の役に立つのなら、やむを得んとも思う。
「構いません。元々、たいした男じゃなかですから」
「何を言うちょる。せんせは、よか男じゃ、わしは大いに、せんせを気にいっとる」
ばん、と背を叩かれ、思わず手にした荷を落としそうになる。あたふたと荷を抑える平佐田に、島人たちが、「ははは」と笑った。
表の土間は、既に荷で溢れ返っていて、足の踏み場もない。何とか荷を避けて中へ入れば、広々とした板間に祭壇が設けられていた。
こちらに背を向けているのは、白装束の小さな背中。御幣を振り、高々とした声で上げているのは祝詞だ。智頼の言うとおり、弔いではなさそうだ。
次々に運び込まれる供え物は順に祭壇に載せられていくが、既にもう一杯で、真ん中から順繰りに脇に寄せられていく。
とりあえず供えればいいのだろう。神様も忙しいことだと、平佐田は思う。供え物は様々で色とりどり、大層華やかでまるで祭りのようだ。
(子供が……いなくなったんだよね??)
平佐田には、初めての光景が異様に見える。供えものを持った島人が、神官の後ろに控え、それぞれ手にしたものを祭壇に上げているようなので、前に倣って列の後ろにつく。
智次の家よりはずっと狭い家は、ゆくゆく見れば板間の間を仕切っていた板戸が取り外されているようだ。祭壇の向こう側、奥の暗がりに、忙しく立ち働いている人の姿が見える。
引いた供え物を振る舞っているのか。更に奥からほんの少し人の声が聞こえてきた。列に並ぶ人々は無言で、静かに頭を垂れている。
地域によって、祭事も葬儀も、それぞれに違うと聞いている。郷しか知らない平佐田としては、ただ、前に倣うより他はない。
静かに続く祝詞の声と、どこか落ち着かない異様な空気。既に先ほどの〝お披露目〟で、平佐田という余所者に奇異の目を向ける者はいない。それだけは感謝だ。
少しずつ祭壇が近づいて、前の様子が窺えるようになり、平佐田は興味と、世話になっている家主に対する礼儀とで、目と耳を最大限に活用する。最前列の若者が差し出したものに、平佐田は驚いた。見る限りは〝刀〟だ。
見事な彫りをあしらった鞘は、いかにも高価なものに見える。凝った造りの鞘に納まる刀は、いかほどのものであろうか。一応、武士である平佐田は、鞘の中身に興味をそそられる。しかし……
若者が恭しく捧げた刀を、童の域を抜けぬ少年が恭しく頭上に掲げ、すたすたと祭壇に向かった。
ありえない。智次より半分ほどの身丈の童は、細くて確かに元気がありそうには見えるが、腕力があるとは思えない。刀は結構な重さがある。とても童が恭しく掲げたままに、すたすたと歩けるはずはない。
(あぁ、そうか)
供え物だ。名だたる武士の葬儀ではあるまいし、本物が捧げられるはずもない。つまりは〝彫り物〟だ。
「島には多くの恵みがある」との智頼の言葉を思い出す。若者は、きっと工芸師なのだ。だが、何故……
(あえて刀なのだろう)平佐田には、その点がよくわからない。
次々に供え物を渡し、島人は奥へと消える。やはり奥で振る舞いがあるのであろうと平佐田は確信し、ならば仕来りに則って、難なく奥へと進んでしまおうと考える。
失態はできる限り避けたい。一応、表向きは「先生」なのだ。ついに二、三人の島人を残し、平佐田の番が近づいて、緊張に耳を澄ませる。
老婆が色とりどりの花を差し出した。祭壇に向かって一礼をする。
小さく会釈するのは、小柄な女子だ。重定とどことなく似ている、まだ少女だ。瞼が腫れている、目が赤い様子が痛々しい。姉だろうか。
「お運び、ありがとう存じます」
言われたとおりの言葉を返す口調は、ただ押し出しているかのようだ。赤く滲む目は、虚ろに前を見据えている。老婆は、すっ、と横に体を向け、
「よろしう、お願いいたします」
深々と頭を下げた。近くになって初めて気が付いた動作だ。平佐田は老婆の目線を追って、祭壇の脇に目を遣った。
狭い間口一杯に広げられた祭壇の一番左端、明々と燃える蝋燭の灯りが、届きそうで届かない端に鎮座した人物を、平佐田は初めて認めた。
黒く纏まった影がこくり。と頷く。顔を上げた老婆が、ほっとした面持ちでそそくさと立ち上がり、奥へと消えた。
(誰だろう)平佐田は不審に思う。
祭事であろうが、葬儀であろうが、ともかく居なくなったのは重定で、家の者に集まった者が挨拶をしていくのはわかる。重定が子供である以上、挨拶をするのは両親であるのが普通ではある。
だが、これだけの客だ。両親も忙しいのかもしれない。ならば、代わりに兄や姉、爺、婆が一時、客の応対に追われても不思議ではないが、どうも……
(身内がお飾りのように見えるぞ。島人の挨拶は、あの影に集中しているように見えるのだけど)
老婆が席を立ち、前の人が膝で前に進む。平佐田もそれに倣って前に出れば――
左端の影に灯りが届き、鎮座した人物の姿が、朧げではあるが見えてくる。
蝋燭の灯を受けて細やかな光沢が見て取れる、品のいい光沢は、絹に違いない。白にしては落ち着きがあり、象牙色よりは白に近い。
微妙に難しい色合いだと平佐田は思う。失礼ではあるが、島の人に着こなせる色合いではない。色白で、品格があり、落ち着いた雰囲気がなくては、とても着こなせる色ではないと平佐田でも思う。それが――
見事に似合っている人物が、そこにいる。
祭壇の端を守るように斜めに体を置き、中央に座す神官に体を向けている。つまりは客の列を見守っている位置にある。その人物は、蝋燭の灯を反射しているかのように色が白い。細面に整った顔立ちは、能面のようにつるり、としていて、ぴん、と背筋を伸ばして座している姿は、微動だにしない。
(人形か?)
だとしたら随分とでかい絡繰人形だ。平佐田が見ている中、小さく、こくり、と頷いた。なんだか人離れしていて、気味が悪い。
(どうやら神事に近いものみたいだから、絡繰人形があっても不思議じゃないな。だけど……)
人形にしては妙に生々しい。異様な雰囲気の中にあるから、そう見えるのか。真っ直ぐに顔を上げているのに、目だけが閉じられているようで閉じきっていない様が、平佐田の目には異様に映る。
前の人がずりずりと前へ進み、平佐田も前に出る。なんだか妙に緊張感が高まって、智頼はどこにいるのだろう、と不安になる。
思わず祭壇に背を向けて振り返り、ぎく、背に視線を感じて、弾かれたように祭壇に目を向けた。
「!」
平佐田は、瞼に杭を打たれたかと感じた。それほどまでに、開いた目が一点に釘付けとなり、どうにも離れそうになかった。
射るような視線の元は、祭壇の左端に座した絡繰人形。真っ直ぐに平佐田に視線を送っている。心のどこかで(失礼だぞ)と己を窘める声がする。それでも平佐田の目は一点に釘づけとなり、とても心の声に従えそうにない。
絡繰人形は間違いなく〝生きて〟いた。何故、平佐田が突然そう認識したかは定かではない。しいて言えば、こう……平佐田の本能が、人形だと思っていたものを、〝人である〟と感じたからだ。だからこそ余計に目が離せない。
人形であればともかく、人であるならば、平佐田が目を奪われているものは……ありえないものだからだ。
閉じていそうで閉じていない。平佐田が「人形か」と思っていた人物の目が、じっと平佐田を見つめ返している。
が、その人物の目には、黒い(、、)部分(、、)がなかった。綺麗に丁寧に仕上げた人形に、人形師がうっかり目を入れ忘れたような感じだ。蝋燭の灯を受けて、白い目がきらきらと光っている。うっすらと青味を帯びている様子が、なおのこと薄気味悪い。
「取次様……」
前の人が遠慮がちに声を掛け、その人物は何事もなかったかのように視線を戻した。何故か平佐田は、全身に汗を掻いていた。
見えているのか、いないのか。平佐田は医者ではないから、目のことはわからない。だが、確かに白い目は、平佐田を見ていた。異様さのせいか、平佐田の頭の中を、どろどろに溶けた白が駆け巡り、隅から隅まで見渡していったかに、感じた。平佐田の脳裏に、硫黄の白い渦が思い浮かぶ。
すぐ前の島人が前に出る。次が平佐田の番だ。もう一度、あの白い目で見つめられたら……悲鳴を上げてしまいそうで、怖い。
「取次様」と島人が呼んだその人物は、間違いなく島では、上の人物に違いない。訪れた島人がいずれも、家人よりも、神官よりも、丁寧に「取次様」に挨拶をしているのだから、少なくともこの場を仕切っている人物は、間違いなく「取次様」だ。
(あぁ、どうしよう)
平佐田が鬢を伝う汗を手の甲で拭おうとして、
「兄ちゃん、すまん。遅うなった」
ちょこん、と平佐田の隣に座った声に「はーっ」と息が出る。
見れば、智次の後ろに、後ろの島人に頭を下げている時頼の姿もあった。後ろの島人は、時頼を見て優しく笑う。
平佐田が持ってきた品を時頼が恭しく捧げ、それを受け取った先ほどの童がひょこひょこと祭壇に向かう。
「お運び、ありがとう存じます」
先ほどと同じ言葉を繰り返す娘が、時頼と顔を見合わせて下を向いた。
時頼が、ぐっ、と唇を噛む。重定の姉であれば、二人は互いをよく知っているはずだ。本来ならばここで、互いに慰めの言葉や、労わりの言葉があってもいいはずだ。が、時頼はすぐに「取次様」に体を向け、
「よろしう、お願いいたします」
皆と同じようにしっかりと言った。智次が黙って頭を下げる。平佐田も二人に倣った。
「貴殿が、平佐田先生か」
頭を垂れた平佐田の後頭部を、撫でるように声が通り過ぎる。平佐田は反射的に身を起こした。美しい声というものを初めて聞いた。
心に染み入るような、深く、それでいて透き通った声だ。低くもなく、高くもない。どこか人離れした「取次様」に、良く似合っていた。
「はい」
答えた平佐田の手を、智次が引いた。
(え?)
「こっちじゃ、兄ちゃん」さっさと祭壇の裏手に回ろうとする智次に手を引かれたまま、平佐田が「取次様」を見ると、既に次の島人が供え物を童に渡し、「取次様」は、ただじっと座している。閉じているようで、閉じていない白い目を下に向けて。
かような場所で余計な会話は、おそらくは失礼ではあろうが、問われて答えぬも無礼である。平佐田としてはそう判断して答えたのではあるが、問うた本人は聞いていたのか、いないのか。たいした男じゃない平佐田としては、別に構わぬ話ではあるが――
「せんせ。こっちこっち」
先ほどの一団が平佐田を手招きし、智次、時頼と共に輪に加わる。幾分ほっとした表情の島人は、既に酒を飲んでいるのか、顔が赤い。もう緊張はしなくていいようだ。
智次も時頼もほっとしたのか、家ではろくに食べなかった分を取り戻すかのように皿を開ける。どこから持ってきたか、甘酒に舌鼓を打つ時頼は、父親そっくりに顔を赤らめている。どうにも気に懸かることを平佐田が聞けば、
「は? 兄ちゃん、それ、空耳じゃ」
とろん、とした目を向けて時頼は言い、
「兄ちゃん、言うとくが……お館様は、男じゃよ」
智次が付け加えた。
「ええええっ!」
平佐田の驚きに、これもまた、時頼同様の赤い顔をした智次が、けたけたと笑い転げる。
「そうじゃろう? わしらが兄ちゃんを探しとったら、兄ちゃんはもう、前のほうにおって、呆けたように前を見ちょる。わしは兄ちゃんの視線を追って、「ははぁ」と思うたんじゃ。お館様は綺麗じゃから。もしや、女子と思うてはおらんかと……いかんよ、お館様は〝嗜み〟には興味はないようじゃ。武士の全部が全部、〝嗜む〟わけでもあるまい」
酔っているのか、智次は父親譲りの大声で、とんでもないことを言い出す。
確かに、武士のすべてが〝嗜む〟わけでもない。平佐田自身もまた、〝嗜まない〟者の一人だ。が、本来、薩摩では〝嗜まない〟者は一人前と見なされず、大人しい平佐田は、随分と誘いを受けた。それでも〝貞操〟は守り続けてきたのだ。男にも、女子にも貞操が固いのが、平佐田という男だ。よって、いつまでも一人前になれずにいる。
「ち、違うよ。おいがいうちょるんは……」
さすがに平佐田も声を上げる。「お披露目が済んだばかりの先生」が、「男色」だと噂が立っても敵わない。
島に武士は少ない。〝嗜み〟が〝嗜み〟として軽く受け流してもらえるかどうかは、皆目わからない。〝嗜まない〟のに〝嗜む〟と思われるのも納得がいかない。
「取次様って……お館様なんだってこつ。島の偉い人なんじゃろ? おいは、まだ、一度も会うたこつがないから……」
「綺麗じゃから驚いた、と?」
いつになく、智次はしつこい。酒癖が悪いのかもしれない。
「ともかくじゃ」
赤ら顔で、のそり、と割って入ったのは時頼だ。こっちはどうやら酒に強いらしく、いい気になって平佐田にしつこく食い下がる智次を、じろり、と一瞥で黙らせ、
「空耳じゃ。お館様は口が利けん。目も……あの通りじゃ。気の毒なことじゃが、お館様はいいお方じゃ。誰も悪ういうもんはおらん」
諭すように静かに言った。