3:駆け引き
3:駆け引き
振り向いたら、そこには何がいるのだろう。
言葉にはしきれない恐怖が、カラの身体を硬く縛った。 止まっていた膝は、また小刻みに震えている。
――この声……〈闇森の主〉だ――
頭の中で、自分を叱咤する言葉がぐるぐると回っている。 何か言わなければ、と気ばかりが焦っていく。
なのに、何か言葉を出そうにも、唇は縫い合わされてしまったかのように動かない。
〈闇森の主〉は、最初の一言以外、何も言葉を発しはしない。
その重い沈黙が、カラの肩に背に、覆い被さるようにのしかかり、息をすることすら、大変な苦労を感じるほどだった。
その重圧に抗うように、カラは堅く目を瞑り、頭を数回振ると、それまで以上に大きく目を開いた。
「――?」
目を開いたにも係わらず、周囲にあるものが霞んで見え辛い、とカラは感じた。
目に映るはずの景色が、次第に不鮮明になっていく。
視界の変化に伴うように、周囲の気温は急速に下がってゆき、手足の先に、じんと、痺れるような鋭い痛みを感じ始めた。 吐く息は、見えるほどに白い。
あまりの急激な冷え込みに、カラの身体は自然、大きく震えた。
しかしその震えが、硬直してしまっていた手足に、かえって動きを取り戻させた。
大きく息を吸い吐き出すと、カラは、蜥蜴のいた大岩に向けたままだった視線を、まず、自分の白い右手に戻した。
目に映る右手は、濁水に沈めているかのように、黒い薄膜に包まれ、その輪郭は、次第次第に曖昧に、判然としなくなっていく。
「もしかして、闇が濃くなってる――?」
カラは右肩越しに、恐る恐る視線を背後へ移した。
音は、全くなかった。
先刻まで、遠くに聞こえていたフクロウの声も、今は全く聞くことができない。
闇を見透す、カラの金の瞳にすら、何も見せぬほど、どろりと濃くなった黒の闇。
震える膝に言うことをきかせ、カラはなんとか身体ごと、声のした闇へと向きなおった。
しかし、どうしても〈闇森の主〉の姿は見出せない。 カラの記憶に違いがなければ、この闇の少し先には、ホソバナラの木々に囲まれた穂長葦の茂る沼があり、その中心には、カラの背後の大地に突き立つ巨岩よりも、遥かに大きい、小山のような岩が、座すようにあったはずだ。
それらの存在も、闇に溶けてしまったように、全く、見ることが出来なくなっていた。
――他の奴等も、月のない夜だとこんなに、何も見えないのかな?――
なるほど、これでは自由には動けないものだと、軽い驚きをカラが感じていると、黒闇から、男の低い笑い声が、再び闇から滲み出るように聞こえてきた。 反響でもしているのか、その声は、幾重にも重なってカラの耳に届いた。
先程の蜥蜴とは違い、しゃがれのない、なかなか渋い声なのだが、同時に、闇夜の湖の水のように冷たく凍え、重く陰鬱な圧力を、聞く者に感じさせる。
〈主〉というだけあり、ある種の威厳すら帯びるその声は、抑えた笑いを漏らしているだけだった。 だが、襟元から氷水を流し込まれたかのような、無機質で寒々しい印象をカラに与えた。
胃は縮み、凍った手で心臓を掴まれているような気分だった。 頭は縛られるような痛みを感じ、自分の体内を流れる血の音が、妙に大きく耳に響いた。
一週間前の昼に聞いた時、その声に、こんな得体の知れぬ怖ろしさは、ほとんど感じなかった。 このような、不快な恐怖を感じていれば、カラはいま、ここに来ていなかった。
頭上の木々の隙間から、西により始めた終月の片端がちらりと見えた。
――だけど、もう来てしまったんだ。 そうだよ、これは好機なんだ!――
ぎゅっと目を瞑ると、カラは大きく息を吐き出し、吸った。 凍えた空気が、吸い込んだ鼻腔や喉に鋭い痛みを与え、意識をはっきりとさせてくれる。
数回大きく呼吸を繰り返すと、堅く握った拳で膝を叩き、その震えを戒めた。
震えより、叩く痛みを感じるようになると、カラは再び大きく目を開き、見透せない闇を見据えた。
「よかったよ。 〈主〉は僕のことなんか忘れて、来ないかと思っていたんだ」
出せる限りの大きな声を出した。
無駄なことだとは思ったが、怖れを、〈主〉に悟られたくはなかった。 そのためには大きな声で、自分の調子で、話を続けなければいけないと思った。
何もしない沈黙の間をつくると、この重く黒い闇に押し潰されそうになる。
カラは、胸元に無理やり押し込んでいた持ち物を、投げるように大地に放った。
「これが、僕の持っている物だよ。 あぁ、あと今着ているシャツも入れてだけど。 この継ぎだらけのズボンと靴も、お望みとあらば、数に入れてもらってかまわないよ? もっとも、この靴なんて、もう三年は履きっぱなしだから、底の皮はすっかり擦れて、もうないようなもんだし、大きさがとうに合ってないから、踵なんて、すっかり踏み潰しちゃったけど、これでも履かないよりは、指先くらい守ってくれるよ」
喋っているうちに、カラ金の瞳は、黒すぎる闇に次第にだが、確実に慣れていった。
よくよく見てみると、正面の闇の中心に、周囲よりもより濃い真の黒が、この闇の芯のように存在していることが、何となく見分けられるようになった。
もっとよく注意して見ていると、闇の濃さには数段階あり、〈主〉のいるらしい闇の中心は、穴でも開いているかのような底の無い、純粋な黒色をしており、その芯から離れていくほどに、黒の闇は、青や緑といった、色味を帯びていくようだった。
――真ん中の、深い黒。 あれが、〈闇森の主〉なんだ――
『先日、そなたは言った。 ――自分を見下してきた者共に、違う自分を、見せつけたい――見返せるだけの力が欲しい――と。 その望み、変わらぬか?』
抑揚のない、無感情の低い声が、カラの上から問いをかけてきた。
〈闇森の主〉の眼は見えないが、冷たい眼で見下ろされていると、カラは確信に近い感覚を覚えていた。
「うん。 お金や宝石なんて……あったらそりゃ嬉しいけど、そんなの僕が急に持ったら“盗んだ”っていわれて、殴られるだけだし、使えばなくなるもの。 そんな使えばなくなるものじゃなくて、ずっと使える――僕に力を与えてくれるものがいい。 魔法の道具とか、呪文とか――」
〈闇森の主〉は、しばし沈黙した後、カラが最初にばらまいた品を一瞥したようだった。
『これらを――そなた真に、自分の宝だと、考えておるわけではあるまい? よもや、これらと、私に求めるものを、同等に考えておるわけでは、あるまいな?』
痛いところを突かれた。 たしかに、求めるものに対し、こちらが示す《ふたつの宝》の候補は、あまりにも酷い、とカラですら感じていた。
「だ、だって、僕の持っているものなんてこんなものしか……。 で、でも、そりゃ、〈主〉にとってはボロ布か玩具にしか見えないだろうけれど、僕にとっては、大切な財産なんだ。 それとも……なに? 《宝》っていうのは、ひょっとして僕の――命?」
やや間を置き、〈闇森の主〉はそれまで以上にゆったりとした口調で、カラに問うた。
『ならば如何する? やめるか――?』
「否定しないってことは――そうなの?」
寒さのために震えていた肩や膝は、さらに大きく震えた。 口の中が一気に干からび、言葉がまた、口の中で張り付き、詰まりそうになる。
まっすぐに、闇の芯を見ていることができなくなったカラは、足元に視線を彷徨わせた。
どこかで想像はしていた。
しかし、〈主〉の要求する《宝》は〈ふたつ〉。 だが、命は当然ひとつしかないので、数が合わない。
それに、〈闇森の主〉と取引をしたという男の話では、男は生きて森を出て、成功を収めたのだから、こちらが渡す《宝》が、命のはずはないと、都合の悪い悲観的な考えを、意識的に打ち消していた。
『さて。 そなたが怖ろしいからやめる、というのであれば、私は構わぬ。 何をするも、所詮、私の気まぐれ』
〈闇森の主〉は、決して急がず、じれったいほどにゆったりと間を置いて、ようやく次の言葉を口にした。
『そう、そういえば、そなたに遇うた数日後にも、一人の若者が、この森に入ってきおった。 そなたより数歳か上。 栗色の髪に、焦茶の眼。 左腕に大きな火傷跡のある、なかなか体躯のよい――。 その者からは、火と鉄のにおいがした。 あれは、鉄を扱う生業の者だろう。 まだ、見習といったところだろうが、あれも、私を探しに、ここへ参ったものであろう』
鍛冶屋の、一番古い弟子の顔が浮かんだ。
栗色の髪、焦茶の瞳。 何より、左腕の大きな火傷跡――。 長身で、カラを見下し眺める切れ長の目の、トランという弟子の高慢な顔が、目の前にいるかのようにはっきりとカラには見えた。
自分では直接何もせず、他の二人の仲間に指示をし、カラに陰湿な嫌がらせを、しかも、フォーリンの目に着くところでしくじるように仕掛けてくる。 そしてその結果を、自分は後方で、口の端に笑いを浮かべながら眺めているだけなのだ。
トランという名を思い浮かべただけで、カラは、胃の辺りがむかむかと気持ち悪くなった。
「そ、そいつにも、《ふたつの宝》を持ってくれば望みを叶えるって言ったの?」
焦り、早口で話すカラの様子を楽しむように、〈闇森の主〉は低い笑いを漏らし、一拍を置いて、カラの問いを否定した。
『私は、先約を重くみる。 もっとも、そなたが止める、というのであれば、次に遇った者に、同じ呼びかけをするやもしれぬ。 かの若者は、望むもの大きく、明確な先の野心をも抱いていた様子。 恐らくはまた、諦めきれずに、参るであろう――』
「だ、誰もやめるなんて、言ってないじゃないか。 ――でも、命を取られたら、望みを叶えてもらったって、何にもならないから――。 そ、それに、そうだよっ。 考えてみたら、僕は《ふたつ》宝を渡すのに、僕の望みはひとつだけなんて、不公平じゃないかっ。 それに、本当にあんたが僕の望みをかなえることができるのかも、わかんないじゃないかっ」
沈黙が、カラと〈闇森の主〉の間に流れた。
依然、膝は震えていたが、大声で捲くしたてたお陰か、気が少し楽になっていた。
カラは身構えるように、黒闇の中心を睨みつけた。
『〈闇森の主〉に喰ってかかるとは、そなた、度胸があるのか、それとも――』
〈闇森の主〉の声は、変わらず平坦であったが、その音程が、多少高くなったようにカラは感じた。
こんな声の変化をよく聞いている。
笑っているのだ。
顔には極力出さず、心の中で、その状況を楽しんでいる時の弟子達の声が、普段よりも多少高くなることを、カラは知っている。
その上がりかたと、似ている。
『よかろう。 対等の数をそなたにも与えよう。 しかし、まずはそなたが、そなたの《宝》を渡すこと、受け入れるか否か、答えを貰おう』
「え、あの、うん、その《宝》って……」
『私が望むもの――《ふたつの宝》とは、そなたの《名》と《影》』
カラの心の内を見透かすように、〈闇森の主〉は、さらりと、カラの求める答えを口にした。
カラは一瞬意味が分からず、すぐに反応の言葉が出てこなかった。
「《名》と《影》? 《な》、って名前のこと? 《かげ》って――あの光に照らされるとできる、影のこと?」
『如何にも。 その《名》と《影》だ。
身分高き存在になるほど、《名》は長く複雑になり、それに従い、《名》は強く大きな力で、その《名》の主を護る。 《名》の持つ力は、己が主人――魂を、その器たる身体に繋ぎ止めるもやい綱。 綱が太く、多い程、その護りも強くなる。 強き《名》を得た器にのみ《影》は従う。 多くの者は、何者かが与えた第一の《名》しか持たぬ。 第二の《名》、一族の《名》を、持っておったとしても、それを当人が知らぬ。 当人の知らぬ《名》は、主を結びとめる力は弱く、《影》もまた、曖昧な《名》には、付き従わぬ』
〈闇森の主〉の語ることは、カラにはさっぱり理解できなかった。 むしろ〈主〉は、カラが理解できぬことを知った上で、語っている様でさえあった。
だが、そんなことはどうでもよかった。 カラにとっては、命が取られるのではない、という確認が出来れば十分だった。
「――細かいことはあんまり、その、分かんないんだけど、《名》と《影》。 それを渡すだけでいいの? そんなものとの交換で、本当に、僕の望みを叶えてくれる?」
束の間の沈黙の後、〈闇森の主〉は、より重々しく、答えを口にした。
『叶えよう。 だが、ひとつだけ忠告をしてやろう。 《名》を私に渡すということは、そなたは二度と《名》を持てぬということだ。 如何なる《名》、もだ。 そなたは《名》を持てぬ存在となる。 ――受け入れるか?』
カラは笑いだしそうだった。
《名》《影》。 そんなもので済むのなら安いものだ。 どちらも生きていく上で、何の役に立ったこともなければ、あったところで何の役に立つとも思えない。
「構うもんか! いまだって、僕の名を呼んでくれる人なんて、フォーリンぐらいしかいないんだから。 影だって、いっつも薄暗い場所にばかり追いやられているんだから、ないも同じだよ。 《名》や《影》を渡したからって、僕の姿形が代わるわけじゃ、ないんだよね?」
『形状は変わらぬ――。 では、成立だな』
「あ、で、でも――まず、僕の願いをひとつ叶えてくれなくちゃ、あなたの力が本当かわからないよ」
慌てて、自分を先にするようにというカラに、〈主〉は、はっきりとした笑い声を聞かせた。
『証明――ということか。 よかろう。 では、まず何を望む? 漠然としたものを望んでも、証明にはならぬぞ。 目に見え、結果がすぐ分かるもの、でなければな』
「た、たとえば、そうだ。 僕を誰にも負けない力持ちにとか、できる? ほら、ここらにあるような大岩を一人で、腕一本で持ち上げられるようなさ、昔語りに出てくるような剛力の英雄みたいに」
とっさに口をついて出た望みだったが、チビで非力と馬鹿にされていたカラにとって、逞しい身体や腕力のあることは、憧れの一つに違いなかった。
『容易いことだ――』
あまりにも簡単に承諾されたことに、カラが呆気にとられていると、〈闇森の主〉は、言葉とも唸り声ともつかぬ、抑揚の無い歌のような連続した音声を漏らし始めた。 それはまるで、喉の奥深くで幾多の音を共鳴させているような、低く、不気味な揺らぎのある音だった。
耳慣れぬ、地を這うような歌が終わると、黒闇の中から突然ぬうっと、枯れ枝のように干からびた、節だらけの浅黒い手が突き出された。 カラは反射的に、身を後方へ引いたが、右腕を掴まれ動けなくなった。
カラの右腕を掴んだ〈主〉の枯れ枝のような手の力は、その見た目からは想像も出来ぬほどに強く、カラは骨が砕けるのではないかと思った。 カラの怖れなど知らぬように、〈主〉はいま一方の手を突き出すと、ゆっくりとカラの額に指を押し付け、数回低い声で呪文のような言葉を呟いた。
〈闇森の主〉は枯れ枝の手を、カラの額から腕へと下ろすと、ゆっくりと確かめるように両腕をさすり、最後に腹の前で腕を交差させ、何かをその腕に念じ入れるように、ひとつの言葉を低く長く唱えた。
カラの両腕は、〈主〉の言葉に応えるように、薄青白い光を、内側からぼんやりと放っている。
最後の一息を吐き出すと、〈主〉は枯れ枝の手を、するりと黒闇へ引き戻した。
氷のように冷たい、がさがさと干からびた〈主〉の指の感触が、触れられた額や腕にいつまでも残り、全身が総毛立っていた。
掴まれた右腕は、薄いミミズ腫れのように赤くなっていたが、痛みはあまり感じられなかった。
〈主〉に触れられた部分をさすりながら、カラは腕を改めてまじまじと見つめた。
いまはもう光っていないその腕は、相変わらず白く、ひょろひょろと細い。 何も変わったようには見えない。 力が湧き出すような感覚も、何もない。
「これで、終わり? 力持ちにしてくれるって、何も……。 腕も身体も何にも変わってないよ」
明らかに不満を感じさせる声で、カラは呟いた。 もっと、見た目にも逞しくなっていることを想像していたため、何も変わっていないことに、裏切られたような気持ちになっていた。
『そなたの望みは身体的な「力」であって、外観上の変化は含まれていないと思うが? まずはそれ、その大岩で試してみてはどうだ』
言われるままに、ふてくされた顔でカラは、蜥蜴のいた見上げる大岩にふらふらと近づき、ゆっくりと右手を押しあてた。
――こんな大岩。 こんなひょろひょろの腕で、動かせるわけないじゃないか――
やはり、〈闇森の主〉にいいように扱われているだけなのだ、という思いが心を捉え、カラはなんとなく腹がたってきた。
ごつごつとした岩の、冷たく硬い感触を手の平に感じながら、カラはそこに全神経を集中させた。
――いいじゃないか。 なくて、もともとなんだから――
諦めにも似た不満を込め、カラはぐっと右手に力をいれた。
ズズッと、右手に音とも響きともつかない、鈍く重い感触が伝わった。
聞き違いかと思い、カラはもう一度、先程よりさらに右手に集中し、足腰もしっかりと据え、力を加えてみた。
ズズズッと、地をえぐるような重い地鳴りを伴い、大岩がカラの押す方へと移動したことが、今度ははっきとりとわかった。
足もとには、岩の動いた分だけ大地にいびつで深い、大きな溝ができている。
「うごいた……本当に、動いた――!」
カラは呆然と自分の右手を見た。
そして、改めて大岩を睨みつけると、今度は両手をしっかりと岩にあてた。 大きく息を吸い込むと、全身の力を込めるように、大岩をぐんと押した。
「動、けえぇ――」
カラは、これまで出したこともない大声を上げた。 大岩は、そんなカラの声をいとも簡単に掻き消す、重い地鳴りを生じ、動いた。
冷たく静まり返っていた闇森を、激しく振わせる轟音。 眠りを覚まされた鳥や獣達が慌て逃げ去る音が、方々から聞こえてくる。
大岩は、意外に地下の部分が浅かったのか、カラに押されたことでバランスを崩し、周囲の木々を巻き込み横転し、大地を激しく震わせた。
倒れる際に巻き上げた、泥と土埃が顔にかかり、カラは激しく咳き込んだ。
咳き込み、涙目になりながらも、カラは大岩が自分の手に押され倒れる瞬間の、ふっと軽くなった感触を思い起こしていた。
――これが本当に、僕の力? 本当に――
薪の束を二つ抱えるにも苦労をしていた自分が、大人が五・六人かかって掘り起こすのも苦労しそうな大岩を、たった一人で動かした。 こんな力は、どんなに身体が大きく屈強な男でも、そうはないに違いない。 トランなんか、目じゃない。
咳が落ち着くと、カラは改めて自分の手を、宝物でも眺めるように見つめた。
『どうだ』
「――うん。 すごい。 こんなの、本当にできるなんて。 すごいや」
カラは夢見心地で自分の手を見続けていた。
『では、そなたのいまひとつの望みを聞こう。 それを叶えると、そなたの《宝》を貰うを、同時に行う――それで、よいな』
「いいよ――」
カラは、細い月を探すように空へと目を向けた。 そして、独り言のように、もうひとつの望みを呟いた。
沈黙の後、〈闇森の主〉は低く、抑えるような声で確認をした。
『その願いは時を要する。 が、それでもかまわぬというのだな』
たったいま、〈闇森の主〉の力は証明してもらった。 もう、迷う必要はなかった。
カラはまっすぐ、〈主〉のいる闇の芯を見つめ、無言で頷いた。
『では、まずそなたの《名》を貰おう。 通称や愛称ではない、そなたの知るそなたの《名》を、その口から明かすのだ』
いまではすっかりこの黒闇になれたカラの瞳に、一瞬だが〈闇森の主〉の顔が見えた。
蜥蜴や大熊などではない、人間のものだった。 俯き気味のその顔は、頬骨から顎へと、スッと削がれたような、鋭角な三角計を思わせるように尖った、異様なまでに肉の削げた、面長なものだった。 ほんの僅かな肉、筋、皮膚で繋がっているだけの、昔墓場で見た骸骨と、大差ないように思えた。
ただ一点、墓場の骸骨と確実違っていたのは、落ち窪んだ眼窩の底で、鮮赤色の眼が、いままた燃え上がろうとする熾きの不滅の輝きのように、不気味に揺らめき輝いている。
その赤い眼を、長く正視することは出来なかった。 理由は分からなかったが、とにかく、その赤い眼に見られているということが、凍えて死んでしまいそうな程に、怖ろしく耐え難いことに感じられた。
赤い眼の〈闇森の主〉の口元は――しかめているのか笑っているのか、奇妙に歪んで見えた。
『《名》を、明かすのだ――』
変わらぬ平坦で単調な物言いだった。
しかしその声に、それまでにはない有無を言わさぬ、束縛するような、残酷な響きをカラは感じた。 背筋にぞっと悪寒が走り、身体は、きつく縛められたかのように硬直した。
「――カストラーン」
無意識のうちにカラは、自分しか知らぬ通称ではない《名》を、すっかり干からびた口から絞り出していた。
『カストラーン』
〈闇森の主〉がカラの《名》を口にした瞬間だった。
再び突き出された〈闇森の主〉の枯れた手から、青白い光の珠が生じ、それはカラの頭上に舞い上がるや、強烈な閃光を放った。
それまで光のなかった闇森の、あらゆる物を差し貫くように、四方八方に放たれた青白い光線は、大地に、貫いた物それぞれの姿を切り取った、濃い影を生んだ。
突然の光に目を眩ませていたカラは、地面に着く足の裏から、ずるりと、体内から何かを引きずり出されるような感覚に襲われた。
光が弱まり始めると、戻ってきた周囲の黒闇が、意思を持ったもののように蠢き、カラを中心に、ゆっくりと渦を巻き始めたように感じた。
風が起こり、あたりの木々の葉を騒がしく鳴らしていることが、音から知ることが出来たが、そちらに目を向ける余裕を、カラは失っていた。
身体の中にあるものを、足の裏から漉き取られていくような、おぞましく不快な感触に、カラは吐き気を覚え、立っていることができなくなっていた。
闇は粘りを増し、まるでカラを窒息させるかのように、渦巻きまとわりついてくる。
――なにが、いったい――
意識が遠のき、目を開けているのか閉じてしまったのか、分からなくなっていく。
激しさを増す眩暈と息苦しさに、カラはとうとう、糸を切られた操り人形のように、ぐしゃりと崩れ落ちそうになった。
地に倒れるまでの束の間、黒闇を裂くように一閃の光が走り過ぎたのを、カラは霞んだ目の端で見た。
光を見た瞬間、強い力で腕を掴まれ、引き起こされた。 同時に、鋭く熱い痛みが右頬を襲った。
「闇となりたくなくば、目を開けるんだ!」
凛と、鋭く冴え通る声に、はっとカラは目を見開いた。
顔を上げると、自分を支えるように立つ若者の白い横顔が目に入った。 光もない闇に、その姿は白く浮かび上がって見えた。
徐々に意識がはっきりと、鮮明になっていくのを感じた時、〈闇森の主〉のいるはずの方角から、獣の鋭い咆哮と、呻くような男の奇声が同時に上がった。
「ぼ、僕……何がいったい――?」
若者はカラの問いには答えず、その手に銀の短剣を握らせた。 柄の先には、鮮やかな黄金色の宝石が光を湛えている。
「これを決して放すな。 あの樹の影に入り、しばし休息を取れ。 だが夜明け前には森を出ろ。 家に帰ってはならない。 他の人間に会わぬ、身を隠せる安全な場所に隠れておくんだ」
言葉を終えると、若者は〈闇森の主〉のいた黒い闇の先へと消えていった。
倒れた木々の上にある夜空には、終月の姿はもうどこにも見えなかった。
森は再び、静寂の闇に包まれていた。
次回、〈4:更なる喪失〉に続きます。