銀座香苑の婦人からの連絡
時計を見ると、既に12時を過ぎている。
圭は、自分でも驚いた。
「銀座の香苑から、若い女の子がお香を持ってきて・・・何となくつけてしまってそのまま4時間も思い出に浸ってしまった」
今夜は、少し風が強い。
春独特の湿り気を帯びた風が、少し開けた窓から入り込んでくる。
「そろそろ寝るかな・・・」
圭は、窓を閉めて、2階の自分の部屋にあがる。
ベッドの上に横たわり、部屋の窓ガラスを見ると、飛んできた桜の花が張り付いていた。
そして、また考える。
「不思議な一日だ・・今まで、そんな過去を振り返るなんてなかったのに・・・」
「今日、銀座で逢った婦人・・・そしてお線香を持ってきた若い女の子・・・」
「どうして、自分を知っているのか・・・」
「どうして、この家まで知っていて・・・お線香の好みまで・・・」
それでも、必死に記憶をたどる。
「でも、どこかで、見たことがあるような・・・遠い記憶にあるような・・・」
「よくわからないなあ」
「銀座香苑にいけば、何かわかるのだろうか・・・」
いろいろと、思いをめぐらせているうちに、圭は、いつの間にか眠ってしまった。
気持ちの良い朝になった。
春らしく、ふんわりとした空が窓から見える。
少し東に雲がたなびいている。
圭は、また昨日のことを振り返る。
「昨日はいろんなことがあったけど・・・不思議な日だった」
「銀座香苑、あの婦人、そしてあの若い女の子・・・」
圭は、階段を降りて、朝食にする。
特に食欲は無いので、バゲットパンを少し切ったのと、カフェオレの朝食。
時計の針は、午前8時30分をさしている。
今日の講義は午前10時30分からお昼までのものが 一つだけ。
午前9時に家を出て、井の頭線で明大前まで行き、京王線・都営新宿線に乗り換え、神保町から大学に向かう予定。
朝食が終わったころ、突然電話が鳴った。
「銀座 香苑と申します・・・」
昨日、銀座で話しかけられた婦人の声だった。
圭は、また驚いた。
「はい・・・」
婦人は落ち着いた声。
「昨日お届けしたお線香は、いかがでしたか?」
「お気に召したでしょうか・・・」
圭は、素直に答えるけれど、聞きたいこともある。
「はい・・・とても 素晴らしかったです」
「しかし・・・どうして私のことや、家のこと、電話番号まで・・・」
婦人の声は落ち着いたまま。
「それは・・・今ここでご説明するのは、とても難しいのです・・・、是非、私どもの店にいらしてください・・・」
「そこで・・・全てがわかります。」
「・・・全て・・・」
圭は、言葉を交わしている婦人の声が、何故か懐かしい。
心が落ち着くような気持ちがする。
「わかりました。今日の午後にでも伺います」
圭は、お香のお礼ぐらいはしようと思った。
ところが、婦人からの応えは、不思議なもの。
「伺うなんて・・・恐れ多いことです・・・」
「お迎えにあがります」
圭は、慌てた。
「えっと・・・今日は御茶ノ水の学校で講義を受けるので、銀座でしたら すぐなので・・・」
しかし、婦人は落ち着いたもの。
「大丈夫です、それも承知しております」
「え?」
圭は、また驚いた。
婦人は、ゆっくりと、圭を諭すような声。
「とにかく、私どもを信頼なさってください」
圭は、しっとりとしていて、そして柔らかいこの声は、安心できると思った。
「はい・・・わかりました。お任せします」
圭は、そこで電話を切り、駅まで歩いた。
なぜか・・・東のほうに浮かんでいる雲が。薄い紫色をしていることが、気にかかっていた。




