圭の追想(10)父の死
午前中の講義が始まった。
西洋経済史という科目だった。
しかし、講師が本を丸読みしているだけ。
その声も小さく子守唄のようで、ついつい、圭は、うつらうつらする。
それでも、なんとか90分の講義は終わった。
その圭が、歴史研究会の部室に向かう途中、学生課の前を通りかかると、サークルの教授が立っている。
教授は真顔になっている。
「お、いたか、探したぞ」
圭は、頭を下げた。
「はい、昨日はありがとうございました」
「いろいろと、心配していただいて」
しかし、教授の顔が今日は本当に厳しい。
「病院から連絡が入っている」
圭は、身体が震えた。
「え?」
そして、鞄の中のスマホを見て、また震えた。
確かに、父が入院する病院からの着信がある。
マナーモードにしてあったので、まったく気がついていない。
教授の顔も厳しい。
「お父さんの容態に変化があったらしい」
「すぐに病院に向かってくれ」
圭は、「はい」と答えたのみ。
そのまま、走り出した。
後ろから、教授の声が聞こえた。
「私も少ししたら病院に駆けつける」
しかし、圭は、そんな声に答える余裕はない。
ありったけの力を振り絞って駅まで走った。
まわりの誰も目に入らない。
「父さん!」
圭の心に浮かぶのはその言葉だけ。
駅の構内も人ごみにあふれているけれど、走り続ける。
エスカレーターももどかしく、階段を全力でかけあがる。
一本でも早い電車に乗りたい。
多少手足がドアに挟まれても、電車を待つ時間が嫌だ。
一分一秒でも早く父さんのところに行きたい。
この世でただ一人の血のつながった人だ。
御茶ノ水駅に着き、また階段を全力でかけあがる。
改札を通り抜け、病院目指してまた全力で走る。
ただただ、不安と父への思いが交錯するばかり。
圭は、ようやく集中治療室にたどりついた。
父は目を閉じてベッドの上に横たわっている。
ベッドの周りには病院の院長をはじめ、多くの医師、看護師が囲んでいる。
「息子さんだね・・・」
院長が重々しい声で話し始める。
「ここ、2,3日元気がよかったんだが・・ちょうど2時間ほど前、突然廊下で倒れて・・・」
圭は、声が震えた。
足もガクガクする。
「はい・・・父は・・・どうなるのでしょうか」
「回復するのでしょうか」
院長は厳しい顔。
「お父さんの手を握ってやってくれ」
看護師のすすり泣きが聞えた。
圭は、父の手を言われたとおりに握る。
手には、力もなく冷たい。
「父さん・・・」
力をこめて握っても、何も反応が無い。
「・・・父さん・・・もう・・・一人にしないで・・・」
こみあげてくるのは、その言葉だけ。
計器を見ていた医師が院長に耳打ち。
院長は声を低くした。
「息子さん・・・お父さんは・・・」
「言わなくてけっこうです」
圭は、両手で冷たくなった父の手を握り、父の顔を見つめる。
「ごめんね・・・ずっとついていてあげられなくて・・・」
「これで・・お母さんのところへ行けるね・・・父さん」
「お母さんをこれ以上寂しくさせないでね」
圭は、父の冷たい手を握りながら、何度も何度も同じ言葉を繰り返す。
絶対に涙はここで見せられないと思った。
ここで泣いて、父の知り合いの医師たちに迷惑をかけたくなかった。
そもそも、これからどうしていいのか、誰に何の話をしていいのか。
何もわからない不安のほうが大きかった。
窓の外を見ると、満開の桜が見える。
風も少し強いのか、かなり桜が散っていく。
子供の頃に父と母と3人で、桜が満開の井の頭公園を歩いたことを思い出した。
「父さん、母さんと歩けるね・・・いいなあ・・・」
圭の我慢していた涙が、すっと頬に流れていた。




