08.
「おはよう! トト」
「……おはよう」
いつも通りの元気な挨拶で、トトは少々呆気にとられた。
スピカのおばあちゃんが死んで葬儀があったのは、昨日の今日のことだ。昨日あれだけ泣いていたのが夢だったんじゃないかと思ってしまうほど、スピカはいつも通りの明るさに戻っている。
呆然とした目でスピカを見るトトを見て、スピカは面白そうに、いたずらっぽく笑った。
「トトって、相変わらず朝弱いよね」
「……スピカは、朝から元気だね」
「朝って言っても、もう直ぐしたらお昼だけどね」
「まあ、そうだね」
そう言ってトトは苦笑した。
昨日は余り眠れていない。
「……何か、いいことあったの?」
そう聞いてみると、スピカは嬉しそうに頷いた。
「イシュが、来るの!」
「……イシュ?」
余り聞きなれない名前に、トトは首を傾げた。
誰だっただろうか。
「うん! 今朝、橋の向こうでオスカが見かけたんだって。吟遊詩人の、イシュだよ」
それを聞いて、トトはその吟遊詩人の姿を思い浮かべた。
トト自身が実際会った訳ではないが、そういえばスピカから話しを聞いたことがあるし、窓から見かけたこともある。毎年冬の少し前にやって来ては冬になる前にいなくなる、大きな弦楽器を持った大きな男だ。
「あの、大きな帽子を被った、大きな人?」
「うん。で、大きい楽器と、セラントを持った人」
スピカは楽しそうに言った。
広場に向かっている途中にも、吟詠する声が聞こえて、スピカは駆け出した。
それにびっくりした様に、集まって地面を突いていた小鳥達は皆逃げてしまった。
大きく輪を作る村人達の中心にいる、大きな男を見つけて叫ぶ。
「イシュ!」
「やあ、スピカ」
待ってました、といわんばかりに腕を広げられて、スピカは迷うことなくその中に飛び込んだ。周りにいた人たちはその様子をみてくすくすと笑い、スピカの後を歩いていたオスカは呆れていた。毎年二人はいつもこんな感じなのだ。小さなスピカと、大きなイシュ。抱き合う二人の様子はまるで親子の対面のシーンで、それを見る村人たちもいつも微笑ましい気持ちになる。
「オスカは随分と大きくなったみたいだけど……スピカはやっぱり相変わらず、小さいなあ」
「イシュも、相変わらず大きいね。塔みたい!」
その言葉に、オスカは噴き出した。
たしかに、背の高いイシュはスピカからしてみれば塔みたいかもしれない。
イシュは苦笑し、肩を竦めて「まさか」と呟いた。
「ねえ、なんで今年は月祭りの前に来なかったの? ……それに、チャルカは?」
そう聞いてスピカはイシュと一緒にいるはずの女性の姿を探した。
美しいチャルカは、綺麗な声をした歌い手で、イシュの旅の仲間でもある。毎年月祭りの前にやってきては、月祭りの終わりと共にこの村を出て行く二人なのに、今はイシュしかいない。イシュがチャルカと二人でやってくるようになったのは四年前からで、その前は元々イシュ一人だったけれど。
「祭りは凄く来たかったんだけどね。タイミングを逃してしまったんだ。チャルカは、大切な人と行ってしまったよ……二人の恋の話、聞きたい?」
一瞬寂しそうに微笑んだイシュは、すぐにまた冗談めかした様子で周りの人にも聞こえるようにそう言った。
「聞きたい!」
そう言うスピカと同時に、周囲の人たちも何度も頷く。
「いいだろう。そのかわり、スピカもまたあの歌を歌ってくれ」
そう言ってイシュは切れ長の目片目を瞑った。
それと同時に周りから、娘たちのため息が聞こえてオスカは苦笑した。スピカは知らないだろうが、イシュのことを毎年心待ちにしている娘達はたくさんいるのだ。恋人がいる筈のオスカの姉も、その中の一人だった。今朝、オスカがイシュを見たことを言うと喜び勇んでいたから、きっとそのうち来るだろう。
セラントの美しい音色と、低くて心地よいイシュの声が広場を包む。
イシュが絶妙な語り口でうたう、本当の話しとお伽噺を織り交ぜたかのような恋物語に、そこに集まった人々はみんな魅了された。
*
秋の終わりを告げるかのように、冷たい雨が降って寒い冬がやってきた。
ティピアとイサが都に帰ってからは、スピカは村の外れにある住みなれた家に戻って来ている。おばあちゃんがいなくなってしまったから、小さな家にはスピカと真っ赤な小鳥のパドルしかいない。オスカの家族が、一緒に住もうと誘ってくれたがスピカはこの家を出るつもりはなかった。家の片付けを言っていたおばあちゃんもきっと、スピカ一人になるとこの家を出て行くことを願っていたのだろう。もうすぐ十五になるとはいえ、スピカはまだ十四歳なのだ。周りが心配するのも無理はない。平和なこの村でスピカ一人で暮らすことに大して危険はないだろうが、みんなどうしても、スピカは寂しいんじゃないだろうか、と思ってしまう。
確かにおばあちゃんとずっと二人でいた家に一人っきり、というのは寂しい。眠る時も別々の部屋で寝てはいたが、おばあちゃんが家にいるだけで安心できたのだ。一人は寂しいけれど、この家には至る所におばあちゃんとの思い出が詰まっている。それに、パドルがいるお蔭で寂しさも少しはましだ。 この家を出てしまうこともスピカにとっては十分寂しいことなのだった。
「ここに来るのも久しぶりだなあ」
椅子に座って辺りを見回すイシュを見て、スピカは苦笑した。
イシュは大きいから、椅子が少し可哀想だ。小さなこの家に入る時、久しぶりにイシュは玄関の壁に頭をぶつけた。
パドルはいきなり現れた見慣れない、しかも大きい人物に驚いていた。イシュが腕をのせるテーブルの上の鳥かごの中で、小さな体をびくびくさせている。可哀想だが、暫くイシュはここに滞在するのだ。その内慣れるだろう。
イシュがまだ泊まる所を決めていないと言ったから、スピカが誘った。さすがのイシュも少し遠慮していたけれど、おばあちゃんがいなくなったことを知り結局スピカの家に泊まることに決めたのだ。イシュはおばあちゃんとも凄く仲がよかったから、家にやって来る前におばあちゃんの墓参りへ行った。
スピカは自分から誘っておいて、今更ながらに大きなイシュにはこの小さな家が窮屈かもしれない、と思った。
「イシュには、この家は小さ過ぎるかも」
思わず思ったことをそのまま口にする。
「そうでもないさ。俺の体が大きいからって、俺が大きな家に住んだことも、大きな宿に泊まったこともないよ……それに、ここは大好きだからね」
「スピカも、大好きだよ」
小さくて、生活観のある、おばあちゃんとの思い出が詰まったこの暖かな家が大好き。
スピカは笑顔で言いながら、手に持っていた茶器の載った盆をテーブルに置いた。
慣れたスピカが近くに来たことで、パドルが愛らしい声でちちちっと鳴く。
「こんなに平和で穏やかな村は他になかなかないよ。ここに来るのには、随分苦労するけれど」
そう言って肩を竦めるイシュに、スピカは目を大きくした。
「……まさか、またセラントの森を通り抜けてきたの?」
「一番の近道だからね」
そう言うイシュの服のところどころに付く赤い染みにようやく気づく。
他の村に行くのや都へ行くのはその森を通るのが、イシュの言うとおり一番の近道で、なかなか大きいその森を避けて通ろうと思うと結構な遠回りになってしまう。けれど、あの森は村人でもこの時期はなかなか通りたがらない、嫌な森だ。この村伝統の弦楽器、上が細長く下がまん丸な形のセラントに似た、赤い果実のなる森は秋から冬へ移り変わったばかりのこの時期最も恐ろしい。森はセラントで一面真っ赤になり遠くから見れば美しいのだが、スピカの親指と人差し指で作った輪くらいの大きさのセラントの実は、中が空洞になっていて熟しきった頃にパンッと小気味よい音を立てて破裂し、その真っ赤な皮と少しの果実を飛び散らすのだ。べっとりとその果実が服に付くと、もう殆どとれない染みになってしまう。
この村ではよく染料にも使われているくらいだ。
「そのわりには、綺麗にやってこれたね」
イシュの帽子にも、服にも、少しの染みはあるけれどセラントの森を通り抜けてきたとは到底思えない程綺麗だった。この時期にあの森に入る者は、大抵頭の上から靴の先まで真っ赤に染まって帰ってくるのだ。たまに罰ゲームや遊びに若者であの森に入る者がいる。小さな頃、真っ赤に染まったオスカを見てスピカも笑い転げたことがあった。
「おかげでマントが無駄になったよ。それに、雨の日に通ったから少しはましだったものの、靴が少し染まってしまった」
「綺麗に染まってるね」
元々そんな色の靴だと思っていたスピカは、しげしげとイシュの靴を眺めた。
「イシュって、赤が似合うよね」
「スピカは、よく青い服を着てるね」
「……おばあちゃんやみんなに、青の方が似合うって言われるから」
「へえ……神様の瞳の色のような?」
スピカはイシュの言葉に驚いた。
体の中で、心臓の音だけがやけに鮮明になる。
イシュは、スピカの秘密を、この村の秘密を知っている。まだ幼かった頃、毎年この村にやってくるとは言ってもここに住みつくわけでもないイシュに、スピカは秘密を漏らしてしまったのだ。
イシュは苦笑して肩を竦めた。
「この村の綺麗な神様。今年も見るの心待ちにしてたんだけどね」
「遠くから見ても分かるくらい、トトの瞳の色って明るかったんだ」
「澄み渡る、空のような色だね。深くて、底知れない……引き込まれるような。いつもチャルカに連れられて祭壇の近くまで行ってたからなあ…」
懐かしむようにイシュは言った。
イシュでも、やはり一人は寂しいのだろうか。
「……ねえ、旅のお話し聞かせて?」
「もちろん。スピカにその話しをしたくて、急いでセラントの森をくぐり抜けてきたんだから」
楽しげにそう言うと、イシュは再び紫水晶の色をした切れ長の目でウインクをした。
やはり見事な語り口でイシュは旅の話しをする。
王子さまと女騎士の恋の話、深い森に住む、悲しい怪物の話、美しい海の話し。なかでも、海の話しがスピカを強く惹き付けた。
スピカはこの村から殆ど出たことがなく、出たと行っても高が知れている。鉱夫の叔父さんの住む、近隣の村くらいだ。だから海になんて行ったことはない。
けれど、スピカはその匂いも、さざ波の音も、潮の満ち引きも知っていた。
いつかスピカも、イシュみたいに旅に出れたらいいのに。
そう思ったけれど、スピカがその言葉を口に出すことはなかった。