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きみのこえ  作者: はんどろん
03.穏やかな日々
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07.

 おばあちゃんの心臓が止まったのは、オスカと墓参りに行った四日後のことだった。

 スピカが最後におばあちゃんと会ったのは、それより三日前のこと。おばあちゃんに呼ばれて、久しぶりに懐かしいおばあちゃんの小さな家に帰ってみると、七年ぶりに会ったスピカの両親が、スピカの顔を苦しげに眺めた。

 お母さんのティピアは、潤んだ目でスピカを見て、何も言わずにスピカをぎゅっと抱きしめた。お父さんのイサも、何も言わずにスピカの頭を大きい手で撫でた。二人とも、少し震えていることがスピカにはわかった。

 まるで、八年前のように。

 イサもティピアもスピカと同じ真っ黒な髪をしていたが、ティピアよりも五歳も年上のイサの髪には少し白髪が混ざっていた。

 三人は久しぶりの再会だというのに、一言も言葉を交わさずに、スピカだけがおばあちゃんの寝室に入った。おばあちゃんはやっぱり見えてない虚ろな目でも、スピカと確認できたらしい。柔和に微笑むと優しい声で「スピカ」と呼んだ。見慣れたおばあちゃんの顔には、スピカが見ても分る位に死の気配が漂っていたけれど、何とか微笑むとベットの前に置かれた椅子に座った。

「オスカの家はどうだい?」

「……テアタさんも、カムシカさんも、凄く優しくて、よくしてくれるよ……昨日は、オスカと一緒にお墓参りに行ってきた」

 スピカが参るお墓といえば、丘の上のあの墓しかない。

 おばあちゃんは柔和に微笑んだまま腕を伸ばしてスピカの頭を撫でた。

「空気も冷えてきたから、暖かくして寝るんだよ」

 スピカはただ頷くと年老いたおばあちゃんの目をじっと見つめた。

 虚ろな目には、何が視えているのだろうか。

「……おばあちゃん、帰ってきちゃだめ?」

 少し情けない声でそう聞くと、おばあちゃんは首を横に振った。

 強い風で、古びた窓枠がかたかたと鳴る。

「おばあちゃんがいなくなったら、まずこの部屋と家を片付けておくれ」

 スピカは眉ねを寄せておばあちゃんの顔を見た。

 おばあちゃんの予見は、外れたことがない。聞く必要もないことは知っているけれど、それでも否定してほしくて尋ねてしまう。

「おばあちゃんは、いなくなるの?」

「今、いなくなっても、いなくならなくても、どの道この先おばあちゃんはお前よりずっと先にいなくなるんだよ、スピカ」

 諭すような、優しいいつもの声でおばあちゃんは言う。

 それはスピカにとっては残酷なことだけれど、真実でもある。よっぽどなことが無い限り、おばあちゃんはスピカの生きているうちに死んでしまうのだ。

 不安で胸が押しつぶされそうなスピカは俯いた。

 おばあちゃんは、変わらずそんなスピカの頭を優しく撫でつづける。

「そうなっても、お前は強く生きなければならない。強く、生きなさい」

 まるで、これではお別れの言葉だ。おばあちゃんの予見は、きっと外れない。

 これが、始めての外れになればいいのに。

 スピカはそんなことを思いながらも、小さく頷いた。

「お前は、優しい子だね。私達の罪は、けして許されるようなものではないけれど……スピカ、私はスピカがスピカだから大切に思ったんじゃない。それは村の人たちも、きっと一緒だよ」

 スピカはその言葉に何度も頷いた。

 小さな頃、オスカに言われた言葉をなんとなく思い出す。

『お前の……は、スピカだけど……』

 おばあちゃんは、しわくちゃの両手で小さな孫娘の顔を優しく包むと、温かな声で、スピカの名前を呼んだ。

 コトコ、と。

 それは、おばあちゃんが呼んだ、最初で最後のスピカの本当の名前だった。





 ちくちくと冷たい風が頬を刺すような気がして、頬を撫でてみると、流れ出て冷たくなりかけた涙が指についた。自分で泣いているということに気が付かなかったスピカは、指先に残る、直でに渇きかけた涙の痕をじっと見る。

 おばあちゃんが目を覚まさなくなってしまった今日、和やかな雰囲気の中で、おばあちゃんの葬儀は行われている。村のすぐ傍の森の中、死者たちを祭るそこに、今日は村中の人たちが集まって、おばあちゃんの死を悔やんだ。あの、刺繍の縫われた服や布を纏って。スピカも、まだ真新しい刺繍の入った真っ白な服を着ている。先日墓参りに行く際に、テアタさんが作ってくれたものだ。

 最後におばあちゃんに会ったのは三日前で、死に目に会うことはできなかった。

 どこまで、おばあちゃんは知っていたのだろうか。

「ピノばあは、お前と暮らせて幸せだったと思うよ」

「……ん」

「最後、笑ってたって」

 スピカは隣に佇むオスカを見ずに頷いた。

 それはオスカなりの精一杯の慰めの言葉で、真実なのだろう。

 それでも。それでも、こんなことになるなら、もっとおばあちゃんと一緒の時間を大切に過ごせばよかった。もっといっぱい話しをすればよかった。無意識にそう言いかけて、スピカは口を噤んだ。

 もしかしたらこれが最後かもしれない、とおばあちゃんの様子でスピカもなんとなく予感していた。言いたいことはいっぱいあったけれど、あの時は全然思い浮かばなかったし、もし思い浮かんでいたとしても、おばあちゃんが生きることの希望が心の中にあったスピカが、口に出すことはなかっただろう。

 村の人達が、列になって次々に横たわるおばあちゃんに花を添えていく。

 大勢の村人達に添えられた花に埋もれていくおばあちゃんは、生きている時と変わらないのに、もう二度と動かないという事実がスピカには信じがたいことだった。もう二度と、会話できることもなければ、あの温かな手で触れてくれることもない。優しい笑顔ももう見れない。棺の中に入れられて埋められてしまえば、もう二度とその姿も見ることができない。だから、忘れてしまうのだろうか。上塗りされていく記憶の中に、その人の色は、もう新しく添えられることはないのだ。

 静かに佇んだまま、おばあちゃんの方を焼き付けるようにじっと見ているスピカの頭を、オスカはいつもの調子でぽんぽん、と軽く叩いた。

 セラントで奏でられる、死者を送る為の音が静かに、哀しげに鳴り響く。

 左手で持っていた鳥籠の中の赤い鳥がちちちっと鳴く。

 さわさわと木々がざわめく。

 なにも、かわらないのに。

「スピカ」

 よく通る、耳に心地よい声に呼ばれて振り向くと、トトがじっとスピカを見ていた。

 オスカは苦々しげに顔を歪めると、スピカの隣から離れた。

 トトは紺の布地に、金糸であの刺繍が縫われた服を着ていた。金の髪に透き通るような湖の色をした瞳のトトに、それはとてもよく似合っている。

 近くまでやってきたトトは、眉ねに少し皺を寄せて微笑み、小さなスピカに合わせて少し背を屈めると、そっとスピカの頬に手を添えて親指で涙を拭ってやった。

「おばあちゃんがいなくなって、悲しい?」

「……どうして、そんなこと、聞くの?」

「……わからない」

 そう呟いて苦笑するとトトは、顔を歪めてまた涙をぽろぽろ零し出したスピカを抱き寄せた。肩に預けられた頭を優しく繰り返し撫でる。

 スピカは目の前の金色の髪をぼんやりと眺めながら、八年前のことを思い出した。

 八年前も、トトはスピカの名前を呼んで、こんなふうに抱きしめた。

『コトコ』

 おばあちゃんの声が頭の中で蘇る。

 それはもう古い名前。それでも、スピカの心の奥底に深く刻まれている名前だ。

『村人たちを、見捨てないでやっておくれ』

 優しい声で、そう縛り付けた。

 なにを今更、と思った。きっともう、スピカはこの村から、トトから離れられない。

 スピカはトトの背に腕をまわすと、ぎゅっとトトの服を掴んだ。

 スピカの見えないところでトトがふと視線を上げると、少し離れたところでオスカが苦しげに顔を歪めてその様子を見ていた。

 睨みたいのに、敵意を剥き出しにしてしまいたいのに、それができない自分に戸惑っている顔。トトがスピカに当然のように触れることに、当然のように会って話すことに苛立ちを感じるのに、トトの前ではその苛立ちもあの不思議な感情に負けてしまう、自分への怒り。

 その様子を一瞥して、トトはスピカを抱きしめたまま、楽しそうに微笑んだ。


 葬儀が終わるとスピカは一人、小さな家に帰った。

 イサとティピアは、今日の内に都に帰ってしまうという。やはりスピカの姿を見るのも、この村にいるのも二人にとっては苦しいことなのだろう。

 おばあちゃんが居て当たり前だった、静かな家の中で小鳥がちちっと可愛らしく鳴いた。スピカはそれに応えるように「パドル」と小さく小鳥の名前を呼んだ。おばあちゃんのつけた名前だ。

 鳥かごの中で動き回るパドルを少しの間、ぼんやりと眺めてから、立ち上がるとおばあちゃんの寝室へ向かった。おばあちゃんには、まず部屋と家の掃除をするように言われていた。部屋に入ると小さな寝台が最初に目に入ってきたが、上に置かれたキルトもおそらくティピアによってだろう、綺麗に畳まれていた。部屋を片付けると言っても寝台と、小さな布を掛けられた小卓と、本や少しの衣類の入った戸棚しかない、簡素な部屋だ。

 綺麗に整理された部屋のどこを片付けてよいのか分からずに、とりあえず戸棚の扉を開けてみる。本当はそのままにして置きたかったが、おばあちゃんとの約束だ。使えそうにないものは捨てて、スピカがいらない物は、無駄にしないように全て村人に分けるようにとも言われていた。

 ふと、棚の中に見慣れない箱を見つけて首を傾げる。

 木でできた古そうな、平べったい箱だ。この前おばあちゃんに頼まれて、本を探すのにこの扉も開けたが、こんな物はなかった。何が入っているのだろうと、取り出し箱を開けて、スピカは思わずその箱を落としてしまった。中に入っていた物が、チリチリッと小さく音を立てて床とぶつかる。一緒に入っていた、小さな赤いワンピースは、箱の下で皺を寄せてくしゃりとなった。転がった小さな靴も、スピカは知っていた。

 チリンチリンッと懐かしいベルの音がスピカの頭の中で鳴り響く。

 ことこちゃん、と呼ぶ懐かしい声。夕日に染まる景色の中、流れる懐かしい音楽。失くしたはずの大切な鍵。随分と小さく見える、あの時着ていた服と、履いていた泥に塗れた靴。

 スピカは固まったように、床に転がったそれらを眺めた。






 トトが目を覚ますと、たまにそうであるようにスピカが部屋の中にいた。

 最近ではよくあることだ。

 スピカはトトが気がついたことに気づいていないのか、小さな声で歌を口ずさんでいる。それは少し不思議で、物悲しい音色はトトにも聞き覚えのあるものだった。聞いたこともないような独特の発音で紡がれる言葉と音色は、トトのよく知らないものだったが、昔からスピカがよく日が暮れかける頃に口ずさんでいたものだった。それを聞く度にトトは、この狭い村から余り出たことがない少女がどこで覚えたのだろう、と疑問に思ったものだ。ひょっとすると、異国を旅した吟遊詩人が唄った歌なのかもしれない。

 少女独特の澄んだ声で紡がれる心地よい音色に、開けていた目を再び閉じる。

 そうすると、ふと懐かしい記憶が蘇ってきた。まだ、自分にそこまで変化がなかった頃だ。『かみさま』になったばかりの頃。その頃の記憶は、靄がかかったかのようにぼんやりとしているが、周囲の変化と、スピカだけがずっと傍にいたことは覚えている。そう、スピカだけが。親友とお互いに認め合っていた、オスカもあの頃からトトに一切近づこうとはしなくなった。けれど、オスカは他の村人達と同じ風に、トトを『かみさま』として近づかなくなったのではない、とトトは感じていた。親友でいた頃の温かい視線は、あの頃から一度も感じたことはない。あの頃からのオスカがトトに向ける視線の中に含まれるのは、深い憎悪や苛立ちだ。けれどその憎悪さえも、今のトトの心を少しも動かすことはなかった。

 ――なんてことだろう。『親友』だったっていうのに。

 その考えも、淡々としていて感情が一切湧かない。

 馬鹿らしい。そう思って、トトは考えるのを止めた。

 いつの間にか、音色は止んでしんっと静まりかえっていた。

 トトは目を開けて、スピカの方を見た。スピカは窓を背にして、じっと佇んでいた。薄暗い部屋の中とは別に、外は赤く光っている。ぼんやりとした頭で、トトはスピカを見つめた。

「スピカ? どうしたの?」

 不思議に思って尋ねる。

 いつもトトが目を開けると嬉しそうに微笑んだスピカが、今日は暗い顔をしている。少し俯いた顔は、呼びかけられてもトトを見ようとはしない。

「スピカ……」

「……るい」

「……え?」

 もう一度呼びかけると、スピカは小さな呟きを漏らしたが、聞き取れずに聞き返してしまう。

「トトは、ずるいよね」

「……?」

 理由が分らないスピカの言葉に、トトは僅かに首を傾げた。

 スピカは、そんなトトの様子を見てか苦笑した。

 彼女らしくない顔だ、とトトは思う。昔も一度だけ、スピカのそんな表情を見たことがあったが、その時もそんなことを思った。

 哀しそうな、どこか諦めたような顔。

「トトはずるい」

 スピカはもう一度、そう繰り返して俯いた。

「……スピカ?」

 トトは少し驚いて立ち上がると、ゆっくりとスピカの方へと近づいた。

 そっと肩に触れると、小さな体がびくりと震えた。

 すると、足元でちりんっと小さな鈴の音と、金属が床にぶつかる音が聞こえた。スピカが落としたそれを、トトはしゃがんで拾いあげる。

 水色と、桃色の色鮮やかな二つの鈴には、見慣れない玉状の鎖と銀色の不思議な型をした鍵のようなものが繋がれていた。

 それを見て、スピカは泣きそうに顔を歪めた。

「……これは?」

 トトは下からスピカを見あげて尋ねた。

 今にも泣き出しそうなスピカの様子を見て、理由の分らないトトは困ったように微笑み首を小さく傾げた。

 理由はわからない。けれど、先ほどから警鐘のように心臓がどきどきしている。聞いた後で後悔していた。これが、なにかを聞いてはいけない気がする。聞くと、何故か全てが終わってしまうような気がした。

 トトの、自分でも理由の分らない後悔が通じたのか、スピカはただ無言で俯いていた。

 けれどトトは、スピカの前に跪いているから、俯いていても顔はよく見えた。

 泣いている。

 ぽろぽろと、大きな目からは止めどなく涙が流れていた。夕日に反射して、不謹慎にも綺麗だと思ってしまう。

「……一体、どうしたの?」

 トトは立ち上がるとゆっくりと、余り刺激しないようにスピカを抱き寄せた。今度は体を震わせることなく、スピカはトトの腕の中に大人しく収まる。今日の朝方も、こんな風だった。スピカは、ピノばあがいなくなって寂しいのかもしれない。そう思いつつも、そんな可哀想なスピカに嫌な感情が湧いてくる。

「……トトは、ずるいよぉ」

 スピカは消え入りそうな声で、もう一度そう呟いた。留めきれなかった感情が、溢れ出したように泣く。

 そう言うスピカに、トトは胸が苦しくなって眉を寄せた。

 葬儀の時、おばあちゃんが死んでしまって、悲しんで、寂げなスピカを見て、嬉しいと思ってしまった。それは、凄く醜い感情だ。今もトトの心の中でトトの意思とは関係なく、その感情がふつふつ沸き起こってくる。スピカが、もっともっと寂しくなればいいのに、と思ってしまう。もっともっと、どうしようもない位、寂しくなってしまえばいい。

 そんな感情を押し込めるかのように、トトはぎゅっとスピカを抱きしめた。






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