62.
都にいた頃にはぐれた経験があるので、人ごみの中で注意しないといけないと思っていたスピカだったが、それはイーノスも同じだったのだろう。オスカと離れてから彼はスピカの前を歩くのではなく、すぐ隣りを歩いてくれた。流石に土地勘があるので迷うことはないが、異常に人口密度の高いところではぐれてしまっては互いに見つけるのは難しいのだ。
二人は昼食代わりに焼き菓子を買い食べると、特に目的地を定めずに村中を歩き回った。相変わらずイーノスは愛想がないが、話しかけるスピカの言葉を無視することもなくしっかりと答えてくれる。出会った頃よりは随分と仲良くなれたのではないかと、スピカは思い返すと一人で嬉しくなった。
村人達はスピカとイーノスが二人でいることに気付くと、驚いた様に目を円くさせたが、すぐに笑みを向けてくれた。スピカもそれに笑みで返していたが、イーノスは彼らに笑みを返すどころか、無視をする様に進んで行く。歩く速さが変わった彼の服の裾を掴むと、スピカは踏ん張ってその足を止めた。
「イーノス、別に無理して笑わなくてもいいけど、今のはないよ」
その言葉に何故か憮然とした顔をして、イーノスは彼女を見下ろした。
「俺は嫌っている相手は本当は視線の端にも入れたくないんだ。この村の人間と関わりを持つつもりはない」
スピカは唖然とした顔でイーノスの顔を見つめた。そんな彼女の様子が気に入らなかったのか、イーノスは眉を顰めた。
「この村の人たちのことが、きらいなの?」
「そうだな」
「どうして? すごく良い人たちなのに」
スピカはそれが当たり前の様に言った。イーノスには彼女が村人達を信じきっている様な態度をとることがとても不可解なのだろう。彼は事情を知った上で村人達と出会った。何も知らない旅人ではないのだ。
「反対に訊きたいんだが、お前はどうして村の人間が好きだと言える? 本当は憎んでるんじゃないのか」
「……全く憎んでないわけじゃないと思う。けど、ここの人たちはみんな優しいから」
まるで家族に接する様に温かな眼差しを向けられてきた。だからこそ時折見える期待や不安はとても際立って見えた。この村の人たちは皆優しくて弱い。どこまでも普通の人たちだ。そんな普通の人たちは良心の塊という訳ではない。気高さを持っているのかと思えば、狡賢くもある。だからスピカはこの村の人たちを嫌いにはなれない。スピカも善良人というわけではないから。弱くて臆病で狡賢く、人が好きなのはスピカと村人達に共通するところだった。
スピカには、結局のところ憎むべき相手などいないのだ。トトのせいにも、村人のせいにもして憎むことはできたかもしれないが、スピカは今となっては全てを彼らの罪だとは思えなかった。たくさんのことが積み重なってしまったのだ。誰かのせいになどできない。スピカ自身、途中で道を選ぶ手段はあったにも関わらず、その選択肢にさえ殆ど目を向けてこなかったのだから。
イーノスは納得のいかない顔だったが、それ以上詮索することはせず再び歩き出した。
「イーノス、幸せになる為にできる限りがんばるつもりだよ。セスとも約束したから」
口にすればそれはすとんとスピカ自身の心にはまった。
できれば彼にはこの村の人たちを嫌いなままではいて欲しくない。きっと彼がこの村の人たちを嫌うのは、スピカが幸せそうに見えないからだろう。言葉にはしなくとも、レナンとグリムル、イシュや死んでしまった老人にさえも、ふとした瞬間に哀れみの視線を向けられていたことはスピカ自身気付いていた。けれどイーノスは事情を知りながらも、そんな目を向けてくることは殆どなかった。トトに付きながらも邪険にしてくる彼という存在が、スピカは嬉しかったのだ。
幸せになどなれそうもない。トトという存在がスピカのなかにある限りは。けれどまだ全てを諦めたわけでもない。スピカのなかには諦めと隣り合わせで小さな希望があった。トトに対しても、自分に対しても。絶望を見るのが嫌で、希望からも目を逸らしてしまうのはきっと愚かなことだとようやく少しは思える様になった。ここ数日で随分と前向きになれたものだと思う。
途中露店に何件か立ち寄りながらぐるりと村を一周しても、イシュの姿を見つけることはできなかった。村中が騒がしいなか、音楽を頼りに彼を探すのも到底無理なことだったのだろう。村は音楽と人の声で満ち満ちている。太陽が傾きかける頃には広場には人がすでに集まり、歩くことも困難なほどの混雑振りになっていた。
混み合うのはいつものことだが、それでもまだ日も落ちていない時間帯にここまでの状態には以前は至らなかったのだ。スピカは人ごみに揉まれ、目を白黒させながら掴んだイシュの服の裾を頼りに、なんとか前へ進んだ。背の低いスピカはここまで人が押し詰められた様な所にいては、息ができなくなってしまう。昼過ぎでこれならば、本番の夜は一体どうなってしまうのだろうかと考えると少しひやっとした。
待ち合わせの場所でオスカの姿を探すのも一苦労だった。スピカたちを同じ様に考えていた人が多かったのか、待ち合わせをしている様な人が大勢いる。村の中で一番目立つ場所だからというのもあるだろう。オスカを見つけたのはイーノスだった。しかしそこにいたのはオスカだけではなく、彼の姉のヨルカと、結局スピカたちが見つけることができなかったイシュも共にいた。オスカが手伝いをしていたところを通りかかったらしい。
何とも奇妙な五人組になったが、その誰とも一番親しいのはスピカだ。そのことに気付いたスピカは少し気を引き締めたが、その必要はなかった。ヨルカは誰に対しても物怖じをしない男勝りな性格なので、無愛想なイーノスにも弟に対するものと変わらない態度で接し、イシュは職業上さすがと言うべきか、円滑に会話が進む様にさり気なく話を振ってくれた。
日が暮れ始めると、村にはますます人が押し寄せた。
幼い頃から何度も見てきた情景でも心は躍る。昔とは見方も変わってしまったが、それでもスピカは村全体が楽しげな雰囲気に呑まれるこの祭りが好きなのだ。
月祭りの日に、初めてスペルカと会った。実のところ、「スペルカ」がスピカの知る神様と同じものなのか今でも解らない。スピカはこの場所で、村人達から一人で一から言葉を学んできたのだ。もしかすると勘違いしている言葉もたくさんあるのかもしれない。間違いを知る術はスピカにはない。
「今年も嫌になるくらい人が多いわね」
ヨルカは呆れた様に笑みを浮かべて言った。自分も人ごみの一員だと理解した上での言葉だろう。こんな小さな村に定員越えの人数が集まるのだ。村の外からやってくる人の目的は、トトの存在。ただの祭りであれば都の方が華やかで広く、露店も多い。
スピカも最近知ったことだが、この村は都の騎士たちによって厳重に守られている。元々秘境とも呼べる場所にある為、旅人も時折やってくるぐらいだが、外ではこの村はかみさまが顕現した村として有名なのだという。
一体いつからだったのだろうか。トトがかみさまになってしまったということが村の外にまで出回ったのは。もしかすると、スピカが入れ替わった時には知れ渡っていたのかもしれない。
トトがかみさまになった時から現状維持と守られてきた箱庭の様な小さな村は、その意思とは逆に歪みを孕んできた。スピカ自身が、その歪みの一つだ。
「来年もそうだと思うよ」
スピカが言うと、ヨルカは一瞬目を見開いたもののすぐに先ほどと同じ笑みを浮かべた。
「そうね。来年には、私も結婚しているだろうからもう踊り子になれないのだけが残念だわ」
「えっ……ヨルカ、結婚するの?」
初耳だ。目を瞠りオスカを見ると、オスカはヨルカと似た顔で苦笑して頷いた。
「決まったのは少し前だったんだけど……ごめんね、伝えるのが遅くなって」
スピカは首を横に大きく振った。少し寂しいが、めでたいことだ。ヨルカが前から交際していた人はとても良い人で、何となくオスカもスピカもその未来を予感はしていた。しかしいざそう告げられると驚いてしまう。村を避けていた間に色々なことが変化しつつあったらしい。
「もう少しで行き遅れになるところだったな。気の長い人で本当に良かったよ」
そう言って大げさに肩を竦めて見せたオスカの頭をヨルカは小突いた。
「村を出たとしても小まめに帰ってきてやるんだから、覚悟なさい」
「村、出るの……?」
「まだはっきりは決まってないんだけどね、彼が多分都で働くことになるから、そうなるとは思うわ」
「そうなんだ……」
スピカが呆然とした様子で呟くと、僅かに下がった頭をオスカが乱暴に撫でた。
「何しけた顔してるんだよ。そもそもまだ本当に嫁げるかなんて分からないんだからな」
耳元でそうこそこそと囁いたオスカの言葉は、しっかりとヨルカの耳にも届いていたらしい。彼女は今度は両手でオスカの耳をそれぞれ思いっきり引っ張った。
「お姉ちゃんがいなくなるとそんなに寂しいのかしら。困った弟ねえ」
その笑顔はとても綺麗なものだったが、その指先はぎりぎりと自身よりも背の高い弟の耳を強い力で引っ張っているというちぐはぐな状態だ。
イシュはそれを微笑ましいものを見るように笑みを浮かべ、イーノスに関してはそちらに目を向けることもなく、人ごみを眺め我関せずといった風で、スピカは苦笑した。
かみさまの登場で、祭りは本当に始まる。
音楽や人の声で満たされていた村も静けさに包まれ、そこに鈴の音が落とされる。
スピカは初めてスペルカと出会った祭りの日と同じ様に、人ごみの中からかみさまの椅子に座るトトを見上げていた。
月の光を透かして輝く金色の髪に深い青の瞳。小さな頃から知ってはいたが、成長して美醜の違いがはっきりと分かる様になり、改めてその美しさに気づいた。
誰もがその姿に心を奪われる。けれどそこに年相応の感情や明るさはない。それは、スペルカが現れた頃よりもだ。年々トトは本当のかみさまじみてきている。
村の中でも一際美しい娘たちが薄衣をはためかせて踊る姿越しに見るトトの姿は遠い。それでも姿を見るだけで確信してしまう。本当は、傍にいる、離れないとスピカが決めたのではない。離れられない、離れ方がもう分からないのだ。これは、一種の諦めだ。
ふと、踊り子たちに向けられていた感情を感じさせない眼差しがスピカへ向かった。
トト、とスピカが小さく呟くと、その瞳は細められる。リンッと鈴と音が響いた時、僅かに甘い香りがした気がして、スピカは思わず目を逸らし周囲を見渡した。周囲にいる人々は皆一心にかみさまの方を見つめている。しかし、その中で一人、動物の面を被った少年がスピカの方を向いて立っていた。
金色の髪に白い肌。その姿格好はあまりにもトトと似ていて、スピカは目を見開く。すると少年はひらひらと手を振ってきた。
気づけば体は動き出していた。トトはかみさまの椅子に座っている。それは分かっているというのに、もしかするとという思いが湧く。
かみさまは、空気が冷え始めた時期に人々の賑やかなお祭りに釣られて御山の方から降りてきた。人の姿に紛れて。
「ーーおい! スピカ!」
後ろから声が聞こえてきたが、スピカは足を止めなかった。人ごみを掻き分けて前を行く少年の姿を追う。少しでも目を逸らせば見失ってしまいそうだ。鈴の音はまだ響いている。
「待って、待って……」
なんとか人の隙間を行きながらうわごとの様に呟く。暫くすると、人の少ない細い裏路地に出た。その道の先で、少年はスピカを待っていたかの様に立ち止まり振り返る。けれどすぐに再び走り出した。スピカは上がった息を整える間もなく後を追った。
「待って……! スペルカ!」
そう叫んでも、僅かに反応はしたものの少年は振り向かない。
以前、亡くなってしまった老人が言っていたことだ。もし、スペルカがトトから離れたとしたら。けれどトトは今も間違いなくかみさまで人々の信仰の対象になっている。けれど、スピカは随分な間、スペルカの存在に触れていなかった。以前は頻繁に現れていたというのに。
暫くすると、泉が見えた。いつの間にかスピカの家のすぐ傍までやってきたのだ。泉の前で少年は立ち止まり、ゆっくりと振り返った。スピカも立ち止まると、見極める様にその姿をじっと見つめた。
その姿は今のトトの姿ではなく、少し前の、スペルカが現れたばかりの頃の幼い姿だ。少年は面を外すこともなく、ただただじっと何かを待っている様にスピカを見ている様に見えた。
スピカは一歩踏み出す。
「スペルカ、じゃないの?」
肩で息をしながら問いかける。少年は小首を傾げるだけで何も答えない。スピカはゆっくりと少年に近づいた。
ゴンッと頭に衝撃が走ったのはその時だった。それが何かも分からない内に体は横に倒れ、身体の左側に痛みが走る。訳が分からないまま俯き身体を起こそうとすると、片目に液体が入って染みた。再びまた頭に衝撃が走る。ばちばちと視界が白く点滅する。
ぼそぼそと人の声が遠くでする。草に顔を埋めながら薄くあけた片目で見上げると、先ほどの少年の足が見えた。
再びゴンッと走った衝撃の後で、少年の姿をしっかりと確認する前に視界は暗転した。