61.
陽気な音楽や歌い声が人のざわめきに混ざり響いていた。
月祭りは前日の慌しさを思わせぬ陽気さで、無事開催された。前日から村にやってきていた旅人や商人も含めて、村は多方面からやって来た人々で埋め尽くされる。村の人々はその活気に負けないほどの快濶さで、祭りを盛り上げなければいけない。楽しい祭りは自分たちの為であり、なにより神様の為のものだ。三日三晩続く祭りは毎年のことながら村人の体力を奪うものだが、年に一度の祭りをみんな心待ちにしていた。
昨年は都で行われた月祭りだったが、一回きりの中止だったにもかかわらず、村での開催は本当に久しぶりのことの様だった。スピカも前日と同じく、朝早くから家を出た。おばあちゃんがいた時は夜になるとオスカと祭りを回ったが、それまでの空いた時間は出店する訳でもないので誰かの手伝いをしたり、おばあちゃんの畑仕事を手伝ったりと色々していた。けれど今年はイシュと出かけることになった。と言っても、村でイシュを捜すところから始めなければいけない。彼は昨日スピカの家に荷物を置いたあと、出かけたっきり結局帰ってはこなかったのだ。一緒に旅をしている間もそんなことはあったので、スピカはあまり心配する必要もなかった。おそらく誰か村の人の家に泊めてもらっているのだろう。
スピカは村の家々の間の小道に入り、自然とその中心へと歩を進めた。イシュを捜すことが目的だったが、殆ど無意識に自分が行こうとしているところがどこかに気づき、思わず立ち止まると一人苦笑した。毎年月祭りの時は朝一番にトトに会いに行くのが当たり前の様になっていたので、ついまたトトの家の方へと足が向いてしまったのだ。昨日のことを思えば、どのような顔をしてトトに会えばいいのか分からない。
ぎりぎり超えてはいけない線の手前にはいるが、きっともう何もかも知っているであろうトトに会うのは、なんとも居心地が悪い。いっそ大きな声で言ってやりたいとも思うのに、それを声に出して言ってしまえば、もうトトはスピカに見向きもしなくなるかもしれないのだ。お互いの嘘を知りながらそのことを口に出すこともできず、危うい場所を辿っている。この関係は壊れかけているというのに、まだなんとか保たれている。まだ残る逃げ出したいという思いと、傍にいたいという相反する気持ちは彼女の中で今でも渦巻いていた。
けれど、決めたのだ。どんな結末がきても傍にいようと。スピカとしても見てもらえるうちに、その気持ちを伝えていこうと。それがもし過ちだったとしても、それ意外にスピカにできることも、選びたい道も思い浮かびそうもなかった。
スピカは再び歩き出した。とりあえずトトと顔を合わす確率は増えるが、村の中心に行った方がいい。その方がイシュを捜しやすいに違いない。
村の中心部は外れとは違い、人が集まり賑わっていた。それまでにも何人もの村人や他の地からやってきた人々とすれ違ったが、村の中にいる殆どの人が今この広場に集まっているのだろう。そこかしこで村人が奏でる弦楽器や笛の陽気な音や歌声、屋台からの客引きの声が飛び交っていた。小さな子供たちは友達同士で人々の間をすり抜ける様にして走り周り、大人たちはそこかしこで談笑している。
月祭りの間は村の外からたくさんの商人達がやってくるので、屋台を開くのは村人だけではなく、軒並み連なる屋台の殆どは商人達のものだ。夜になる前には、村の端の方の道まで彼らの屋台に埋め尽くされるだろう。各地から集まってくる露店には、見たこともない異国の食べ物や装飾品が並ぶ。商人達にとってもこの一年に一度の月祭りは、掻き入れ時なのだ。
「イーノス!」
少し先の人ごみの中で銀髪の青年が一人歩いているのを見て、スピカは大きな声で呼んだ。周囲の、特に村人の目が向けられることにスピカは気づいていたが、構わずに人の合間を縫って進む。服の裾を掴むと、イーノスはようやく彼女の存在に気付いたかの様に少し目を大きくした。
「どうして一人なの?」
イーノスが口を開きかけた時、スピカは先手を打って訊いた。小さかったから見えなかったなどと言いかけていたのは、スピカにも容易に予想できる。
イーノスは眉を顰め、不愉快さを表した。
「良い傾向ではないな」
「なにが?」
目の前の青年から漏れた溜息に、スピカは首を傾げた。
食わせ者の姉と妹に囲まれて育ったイーノスが、スピカには知恵がつかない方がいいと思っているなど彼女には想像もできないことだろう。
「暇を出された」
「え」
口を開けて固まったスピカにイーノスは苦笑した。何も解雇されたというわけではない。この月祭りの間だけ、一時的な休暇を出されたのだ。今は都からたくさんの騎士も来ているのだから、ちょうどいいとトトも考えたのだろう。何よりかみさまに付く騎士は元よりお飾りの様なものなのだ。それに、休暇とは言っても彼はこの月祭りの間、一つ仕事を任されていた。
「月祭りの間、休暇を出されたんだ」
そうイーノスが呟くと、スピカの顔は見る見るうちに綻んだ。
「だったら、スピカたちと一緒に行こう! イシュも村に来てるんだよ。ほら、覚えてる? 吟遊詩人の、大きな男の人」
大きな、という時にスピカは両手を広げ、背伸びしてばんざいの格好をした。その姿はやはり小さな子供の様で、イーノスは思わず苦笑した。
彼に断る理由はなかった。スピカがそう言うことを彼もトトも予想していたのだ。だからトトはイーノスに暇を与えた。
――月祭りの時、スピカと一緒にいて。
別れ際に妹に珍しく真剣な声で告げられた一言が、彼の耳に強く残っていた。思えばあれが彼女の最後の予言だったのかもしれない。月祭りの間、スピカを一人にしてはいけない。
セスティリアスは予見の全貌を話すことはない。ほんの少しの未来の予感を言葉に乗せて伝える。全てを伝えてしまえば、人は未来を変えようとするがそれが裏目に出ることの方が多いらしい。本当か嘘かは分からないが、イーノスはその言葉に関して半信半疑だった。結局は未来を垣間見た妹に踊らされている気がしてならないからだ。
けれど、今回のことは別だった。
セスティリアスは北国に帰る前に、とても真剣な目でイーノスを見据えて言ったのだ。月祭りの時、スピカから目を離すなと。決して彼女を一人にしてはいけないと言う声は、懇願する様でもあった。
そんな妹の姿を思い出すと、イーノスの心はざわざわと波立った。この月祭りの間に、スピカの身にきっと良くないことが起こるのだ。
イーノスは迷いはしたが、そのことをトトに伝えていた。妹の予見は良くも悪くもはずれることはない。しかし彼の予想を外れて、トトの反応は酷く平坦なものだった。興味無さ気に一言「ふうん」と呟いただけだ。
トトは、スピカから離れようとしている。それがスピカを思っての開放なのか、本当にスピカに飽きてしまったのかは今一番彼の傍にいるイーノスにも量りかねた。あの日、雨に濡れて縋る子供の様だった村人たちは、かみさまの変化に安堵しているようだった。村人たちはトトがスピカの正体に気づいていることを知らない。自分たちが作り上げた嘘に気づかれることに、つい最近まで怯え続けていたのだ。それはイーノスの目にとても愚かなことに映った。
かみさまに縋る者たちは、自分勝手な感情で知らず知らずのうちに罪を犯す。その感情に負けてしまっては簡単に人の尊厳を踏み躙る。スピカはここの村人たちに好意的だが、その罪は決して許されることではない。イーノスは故郷を追われた時の村人たちの様子を思い出すと、苦虫を噛み潰した様な気分になった。その行為や感情の向きに違いはあっても、どちらの村人たちも大差ない。この村の人たちをとてもではないが、好きにはなれそうになかった。
「トトはもう広場にいるの?」
それは何気ない一言の様に思えた。それを訊いた彼女の表情は変わらず、そこに悲哀もなにも浮かんでいなかったからだ。イーノスが頷くと、スピカはそっか、と呟いた。
「トトは、もうスピカの言うことを信じられないんだって」
妙に淡々とした様子でスピカが言うので、イーノスは驚きを隠すこともせずに眉ねを寄せた。
「……あの方がそう言ったのか?」
「うん。けど、スピカのことを見なくなったわけじゃない。だから、伝えていこうと思ったの。もうトトから離れないって。トトのことが大好きだって……うそつきだって、信じてもらえなくても」
すっきりとした様子で言うスピカを見て、それが彼女の答えなのだとイーノスは悟った。トトに出会い、スピカとして生きてきた彼女は、迷い、結局はそこに行き着いたのだ。もしかすると他の場所にあるかもしれない幸福を捨ててでも、スピカはトトと一緒にいたいと願ってしまったのだ。以前ならともかく、今の状況で彼女がそう思うのは愚かとも言えたが、イーノスには止める気などなかった。真っ直ぐな彼女の目を見ると、一人暗澹とした世界で生き続けなければいけないトトにも、もしかすると光が差す様な気がしてしまうのだ。
「それでももし逃げ出したくなったなら、いつでも逃げ出せばいい。きっとスペルカ様はお許しになるだろう」
「……うん」
スピカが一瞬寂しげな笑みを浮かべたことに、イーノスは気づかないふりをした。
二人は広場にいたオスカと合流すると、人の間を縫って歩いた。普段から村人たちに声を掛けられやすいオスカだが、イーノスが共にいるせいかそれも少ない。トトの従者であるイーノスも、村に滞在し始めてから暫く経つ。彼を知らない人はこの小さな村には今となってはいないが、近寄りがたい存在として認識されている様だった。最近では村の中心部にそう来ることもなかったスピカは、そんなことも彼らと歩いていて初めて知った。そういうスピカ自身も、村の中では特殊な位置にいるのだから、この三人の組み合わせは村人の目になんとも目立って映った。しかし外から来た人々にとっては違う。
外からやってきた人々は様々な色彩で、スピカもその中にいればすぐに紛れてしまう。彼らはこの中にかみさまが紛れ込んでいると思っているのだろうか。スピカも小さな頃はその話を信じていたが、スペルカをいざ目の前にすれば、神秘的な印象などあっという間にどこかへいってしまった。
スペルカは時折トトに代わってこの世界を見ているのだろうか。いつも何でもおもしろいと言っていた彼の目には、実のところどの様にこの世界全てのものが映っているのか。
トトの目には、何もかもがつまらないものの様に見えているのかもしれない。今ではもう、スピカもつまらないものの一つになってしまったのだろうか。
「そういや、イシュとは合流するのか? スピカ」
訊かれてスピカは顔を上げた。昔から身長差はあったが、最近ではイシュと同じ程の背丈になった幼馴染の顔を見る為には、首が痛くなるほど見上げないといけない。イシュはスピカのそんな姿を見るといつも身を屈めてくれるのだが、オスカは身体を動かすこともなく目だけで小さな彼女を見下ろすのだ。そして、その度にスピカは被害妄想に陥りそうになりむっとする。
「イシュはスピカの家に泊まる予定だったんだけど、昨日帰ってこなくてそのままお話してないよ。どこにいるんだろう」
「ふうん。それにしてもお前、今年からとは言わないから、来年からはイシュに別のところで泊まってもらえ」
「どうして?」
「お前くらいの年頃の娘のところに、イシュみたいな男が泊まったら色々噂が立つんだよ。いくら昔からお前らのこと知ってるやつらでも勘繰るだろうさ」
オスカの言葉の意味を一瞬理解できずに、スピカはただただ眉を顰めた。来年もイシュが泊まりに来てくれるのなら、スピカはそれを歓迎するつもりだ。いくら一人に慣れたとはいえ、やはり彼が泊まりに来てくれると嬉しく、たまに思い出したように訪れる心細さも一時でも忘れることができる。何より共に旅をしている間に、スピカは彼を本当の兄の様に思うようになっていた。
「そんなのじゃないのに」
そうは言っても、スピカも理解した。もう小さな子供ではないのだ。周囲から自分がどの様に見られるのかは、分かっているつもりだった。実際の年齢よりも幼く見えるとはいえ、年頃の娘である。村人たちに求められ、小さな子供の様な言動が今でも強く残ってはいるが、頭の中までそうだったわけではない。
――友達を作って、いつか誰かと結婚して、子供を産んで、歳をとっておばあちゃんになるの。
そんなセスティリアスが別れ際に言った言葉を思い出した。本当は、自分次第で自身にもそんな未来が訪れることもあるのだと知っている。けれど、その可能性も自分で潰し続ける予感がスピカにはあった。トトに外の世界に出たらいいのにと思っていた筈なのに、いつの間にかスピカ自身もその場所から出ることを怖れていたのだ。今更、トトがいない未来なんて想像もできない。
最近になって、自身で命を絶った老人の気持ちが分かるようになってしまった。麻薬という言葉の意味も今では理解している。スピカはトトの近くに長くいすぎてしまった。離れれば再び強く求めてしまう。もうどうしようもないことなのだ。心の奥で燻り続ける感情は、自分では抑えきることができない。思考はどうやってもいつもトトに辿り着いてしまう。
「オスカは誰か好きになったことがあるの?」
さらりと訊かれて、オスカは目を円くした。反応の遅れた彼に意味が通じてないと思ったのか、スピカは呆れたような顔をした。
「女の子のこと、好きになったことがあるか訊いてるの」
「分かってるよ。なんかお前にそんな呆れた顔で訊かれると腹立つわ」
乱暴に頭を撫でられてスピカはその手を振りほどこうと手を振り回した。くすくすと笑い声が聞こえてきて顔を上げれば、見知らぬ人々に笑われていることに気づき、オスカを睨んだ。
「ないの? 答えにくいんだったらいいけど」
「なんで急にそんなこと訊くんだよ……」
ため息を吐かれて、スピカはイーノスをちらりと見た。他の人がいる前では答えにくい質問だっただろうか。しかしイーノスは二人の会話には興味がないようで、一緒に歩いてはいるもののぼんやりと人の流れを眺めている。
「……いたよ」
たっぷりと間を空けてから落とされた言葉に、今度はスピカが目を円くした。それは一体誰なのだろうとか、過去形ということは失恋してしまったのかとか、様々な疑問が一気に湧き上がったが、どれから質問すればいいのか分からずにじっとオスカを見つめた。そもそも浮かんだ疑問がそのまま質問としてぶつけていいものなのかも判断がつかない。自分から質問した癖に、スピカは助けを求める様に視線を彷徨わせたが、イーノスは変わらず無関心を貫いている。
「もう、いないの?」
その人は。そう呟いて、スピカはもう一度オスカを見上げた。そこでしっかりと目が合ってスピカは見開いた目を瞬かせた。オスカは何かを見極める様な真剣な眼差しで彼女を見つめたが、すっと視線を逸らすと、イーノスと同じく人波に目線をやった。
視線の意味に気づいたスピカは、思わず顔を伏せた。きっとオスカは、もういなくなってしまった少女のことが好きだったのだということに気付くと、スピカには彼女がいなくなったことに関しては直接関係のない筈なのに、強い罪悪感に襲われた。
「もう終わったことはどうしようもないんだ。それに、流石に何年も前のことなんてどうしようもなく薄れてしまうんだから」
そう言ってくしゃくしゃと頭を撫でられたスピカは、眉尻を下げた。オスカが言うことは尤もなのだが、時間が傷を癒すことと同時に大切なことも奪っていってしまう気がして、それが怖ろしくてもどかしい。現にスピカも以前はあれほど恋しくて仕方がなかった家の記憶が薄れ、ことこ として生きた記憶はどこか夢の様でもある。生きてきた半分以上をスピカとして過ごしてきた。それはもうどうしようもないことで、それでも残る故郷を想う気持ちもそのうち無くなってしまうのだろうか。もしかすると、その時こそ本当のスピカに入れ替われる時なのかもしれない。そうすれば、トトもスピカを再び見てくれるのかもしれない。
「オスカは、忘れられる?」
酷な問いかけだっただろうか。振り向いた彼は一瞬苦しげに顔を歪め、しかしすぐに苦笑した。それは見ている方が悲しくなるような表情だった。
「忘れない。けど、いつまでも同じ場所にはいられないんだ」
はっきりと告げられた言葉は、あるいは彼自身を言い聞かせるものだったのかもしれない。そしてそれは、スピカの心にも重く落とされたものだった。
暫く気まずい沈黙が続きスピカが話の種を探していると、おおい、と遠くから叫ぶ声かが聞こえてきた。振り向くと、そばかすのひょろりとした青年が必死に手を振ってきていた。見たことのある顔にスピカが隣のオスカを見上げると、案の定オスカの友人だったらしい。青年の必死さから少々厄介ごとがあったと直感したのだろう。一瞬眉を顰めたものの、手を振り替えして応答するオスカの服の裾をスピカは引っ張った。
「行ってあげたら? 何か困ってるみたい」
青年は身振り手振りで何かを知らせようとしている様だった。よく見れば家々の間に吊り下げていた筈の飾りが落ちて、中途半端な状態でぶら下がっている。
オスカは溜息を漏らすと、再びスピカの頭を乱暴に撫でた。
「鐘楼堂の前で待ち合わせしよう。夕月の鐘の時に。迷子になるなよ」
流石に自分が育った村で迷子になることはないだろうと、スピカが呆れていると、オスカはスピカの返事も待たずに人の間を縫って走り去ってしまった。
「……オスカって、皆に悪ガキって言われてるのに、スピカにはお兄さんぶるんだよね」
不満を篭めて言いながら隣にいたイーノスを見上げれば意地悪い笑みで見下ろされて、スピカは腹立ちのあまりわなわなと身体を震わせた。