60.
季節が巡り、月祭りの時期が来た。
前回村での月祭りを見送った村人たちは、その意気込みを見せるように準備をした。昨年選ばれた舞娘たちは一年を通して踊りの練習をし、この時期になると衣装の準備をする。子供たちもこの時ばかりは来るべき月祭りを過ごす為に親の手伝いを一生懸命にする。大人たちは日々の仕事のなかに祭りの準備を加えて、村中がどこかせわしなく浮ついた雰囲気になる。そしてその雰囲気に誘われるように、一人、また一人と村の外から人がやってくるのだ。
村の周りを野営の天蓋が囲めば、祭りも間近だという合図だ。
前夜祭とかこつけて村人や旅人たちは盃を交わし、かみさまの天蓋は村の中央にある広場に建てられる。スピカもこの時ばかりは村人たちと共に祭りの準備をし、長い時間を村の中央で過ごすつもりだった。
舞娘たちの衣装作りの手伝いをし、飾り付けに使う色んな色の布を紐に縫い付けていく。これはもう小さい頃から恒例のことなのだが、スペルカの正体を知った今ではこの祭りが少し滑稽なことにも感じられる。
「スピカ姉、ジュアンヌが呼んでた。染めた布が乾いたから取りにきてほしいって」
水の入った桶を抱えた小さな男の子が小走りしながら言った。
祭り前日の今日は村中が一番せかせかとする日だ。三日三晩ある祭りに備えてできるだけ夜までには準備を終わらせたい。
スピカは立ち上がると隣りで縫い付け作業をしていた娘に声をかけ、その場を去った。
その部屋にはスピカ以外にも四人の娘がいたが、今は作業に没頭していて誰も喋らない。三日前の雰囲気とは大違いだ。ずっと同じものを使っていたのだが、先日祭りの道具をしまっている倉庫に雷が落ち、ぼやですんだものの飾りに使っている布紐が燃えてしまったのだ。いつもなら今頃この縫う作業は終わっているのだが、今回は急なことだったのもあり、染料の調達に時間が掛かってしまったために作業が遅れてしまった。
その作業は寺院で行われていた。寺院裏では大窯で茹でられた色とりどりの布がずらりと乾されている。そこに塗れるようにして大柄の女性が干した布を大きな籠に次から次へと取り込んでいるのが見えた。
「ジュアンヌさん、布もらっていくね」
「ああ、頼んだよ!」
彼女はこの寺院の尼僧だが、汗だくになった顔からはそんな雰囲気は感じられなかった。
スピカは布でいっぱいになった籠を持ち上げるとよたよたと歩き出した。布といっても大きな籠に詰められればそれなりの重さになる。ジュアンヌなら二籠くらい持ち上げそうだが、スピカの細腕ではこれが精一杯だ。
「貸せ」
声と共に持っていた籠が軽くなった。見上げると不機嫌そうな顔が目に入った。相変わらずのその表情にスピカは思わず苦笑してしまう。
「ありがとう、イーノス。トトは?」
「森に」
「ふうん」
あの古びた寺院で老人が命を絶ってから、もう何週間も過ぎた。スピカはトトのことを思い出す度にあの老人の顔を一瞬思い出し、少しの罪悪感が胸を掠めるのを感じる。
トトとの逢瀬は今も続いている。以前と比べれば随分と数が少なくなったそれは、不思議なほどに雰囲気が変わらないものだった。トトは変わらず優しげな声でスピカの名前を呼び、優しげな表情でスピカを見る。時々嗜虐心を垣間見せるものの、それらは何も変わらない。
最近はイーノスもどういう訳か彼と行動を別にすることが多くなった。近くにはいるが、いつも一緒にいた以前とは違う。それはイーノスの意思ではなく、トトの意思なのだろう。
「間に合いそうか?」
「うん、なんとか。これがあるのとないのとじゃ雰囲気が全然ちがうからね。みんな必死だよ」
言葉少なだが、イーノスの訊きたいことに気付いたスピカは苦笑した。
飾りと言えど、祭りの雰囲気作りには必要なものなのだ。かみさまを喜ばせるための祭りなのだから、飾り一つにも手は抜けない。
「あ、そういえば、今年はイシュが祭りに来てくれるんだって!」
「イシュ……? ああ、あの吟遊詩人か」
そういえば、イシュとイーノスの接触はあまりなかったかもしれない。
寺院の入り口に来たとき、オスカが村の方から走って来るのが見えた。急いできたらしく、珍しく息が上がっている。
「スピカ! 来たぞ!」
その言葉の意味を理解する前に、オスカの後から遅れてやってきた人物を見て、スピカは目を大きくした。
「イシュ!」
名前を呼ぶ前にはもうスピカは駆け出していた。弦楽器をいくつか背負ったイシュは、スピカに呼ばれて目を細めて微笑んだ。
懐かしい笑顔を見てスピカは走りながら安堵した。思わず駆け出してはいたが、以前の別れはスピカが彼を裏切るようなかたちになってしまったから、もしかするとスピカには会いに来てくれないかもしれないと思っていたのだ。
毎年月祭りの頃に村にやってくる彼との再会の際には、いつも抱きついていたスピカはその数歩前で立ち止まった。
「イシュ、来てくれたんだね」
「一年に一度の楽しみだからね。祭りも、君たちに会うのも」
そう言って、イシュは毎年のように両手を広げた。間もなくスピカは飛び込むように広げられた腕の間に抱きついた。息ができなくなるほどにぎゅっと顔を押し付けて背中に力いっぱい腕を回す。すぐに背中に温かみを感じ、泣きそうなほどの安堵を感じた。
毎年イシュが村にやってきた時のことと、旅をしていた時のこと、旅の終わりを告げた時のことを思い出す。こうして変わりなくやってきてくれたイシュに心の底から感謝した。何よりまた会えて、受け入れてもらえて嬉しいと思う。
「毎年こうなんだよ」
オスカの呆れたような声が背後から聞こえたけれど、スピカは暫くそのままイシュから離れられずにいた。
日が沈む頃には、なんとか縫いつけの作業が終わった。
スピカたちが後片付けを終えて寺院を出る頃には、村の広場に天蓋が張られていた。作られた垂れ飾りを張り巡らせるのは男たちの仕事だ。スピカを含め縫い付けの作業を行った娘達は、台車に乗せてそれらを運べば一応仕事終了だった。
「スピカは村の中には移り住まないの?」
寺院で共に縫い付けの作業を行っていた娘の一人が訊いてきた。薄茶色の長い髪を綺麗に結い上げた、スピカよりもいくつか年上の娘だ。
若い娘たちは好奇心旺盛で、スピカが作業を一緒にすることを知った時その好機の目をスピカに向けたが、今まで誰もそんなことは訊いてこなかった。村でのスピカという存在は、暗黙の了解の中にある。当時のことをあまり知らない者でも、スピカに差し当たりないこと以外は訊かないし言わない。
「うん、スピカの家はあそこだから」
思いの外スピカがさっぱりとした口調で答えたからだろうか。娘たちの目は好奇心できらりと輝いた。
「ねえ、ピノばあは、本当に魔女だったの?」
「本当に魔法を使えたの?」
「ねえ、スペルカ様はどんなお方なの?」
矢継ぎ早に質問されて、スピカはたじろいだ。おばあちゃんが魔法を使えるなどと噂されていたなんて初耳だ。それに、村でトトのことを訊かれるのは初めてのことだった。彼は昔から村にはいるが、人前にはあまり出ない。かみさまになってからは、ただただ少しの畏怖と本能的な愛情の対象となり、人々の中で彼のかみさまとしてのかたちは出来上がっていた。だから、どんな方、と誰も訊いてこなかったのだとスピカは思っていたのだ。
「そんなに一気に訊いてどうするの。驚いているじゃない」
そう言ったのは最初に村に移り住まないのかと訊いてきた娘だった。
「大丈夫、ちょっと驚いたけど……おばあちゃんは魔法使いみたいになんでもできたけど、本当に魔法を使えたわけじゃないよ」
言いながら、おばあちゃんの姿を思い出したスピカは微笑んだ。おばあちゃんが育てる植物は不思議なくらいすくすくとよく育った。おばあちゃんが作った薬は涙が出るくらい苦かったけれど、よく効いた。優しい皺くちゃな手に触れると、心が安らいだ。
「あと、トトは……スペルカさまは」
トトの名前を出した途端、娘たちがきょとんとした顔をしたのでスピカは言い直した。村の中でも彼の本当の名前を知らない者もいるのだ。
「優しいよ」
今も昔もスピカが他の人に言うトトの印象は変わらない。優しい人。けれど少しこわくて、誰よりも寂しい人。
トトを知りながらも彼の名前も知らない人がきっと殆どだ。けれどその人たちに悪いところはなにもない。
娘たちは事情を知っているのか知らないのか、「そう」と呟き、微笑み首を傾げた。荷馬車をがたがたと舗装されていない道を引いて行く。いくつもの大きな籠に入れた垂れ飾りを運ぶのは結構な重労働だ。娘たちはまたすぐに次の話題を見つけた様で、鈴を転がすような声で笑い合う。
スピカはイシュとの旅の間、出会った占い師をする老婆のことを思い出した。彼女もほんの一時、町から町へ移動する間に旅芸人一座の馬車に同乗した者の一人だった。片目に大きな切り傷を持つ彼女はもう片方のぎらぎらとした目でスピカを見ると言った。「夢で終わらせたくないのなら、呼び声にもう一度答えるんだよ」と。なんの脈略もないその言葉の意味は今だに理解できないが、その言葉はスピカの胸を掠めるものがあった。スピカとしてトトと接してきた幼い日々は今となっては夢のようなものだ。逢瀬が終わったわけではないが、あの幼い日々とは違う。お互い真実を知りながら、近い未来に訪れる終わりの予感を感じながら言葉を交わす。幕を引くのはトトだ。先日そのトトから潮時を告げられた。
「そういえばイシュは、今回はどれだけ村にいてくれるのかしら」
「どうせならいつまでもいてくれたらいいのに」
先ほど姿を見せた若い吟遊詩人の姿を思い浮かべたのか、娘達は熱に浮かされたような表情で頷きあった。
今頃彼は村中に挨拶回りに行っている最中だろう。村でも娘や子供たちに囲まれているに違いない。
「スピカは誰か好きな人いないの?」
ぼんやりと娘達の会話に耳を傾けていたスピカは、急に話題を振られて驚き目を円くした。
「やだわ、リトリス。スピカはスペルカさまのものなのよ」
「別にトトのものじゃないよ……?」
「あら、もしかしてオスカとお付き合いしているの? ヨルカはそんなこと言っていなかったけど」
「ちょっと、彼女の顔見てよ。まったくなにも解っていないような顔してるわ。まだ子供なのよ」
呆れ顔で言われて、スピカは思わずむっとした。娘達はスピカよりも年上だが、そんなに離れているわけでもない。子供と言われるのは流石に心外だ。
子供じゃない、と言うと娘たちは呆れを残した表情でくすくすと笑った。リトリスと呼ばれた娘が小さく首を傾げる。
「別にあなたを馬鹿にしているわけじゃないのよ。あなたに興味があるだけ」
「……スピカに?」
「ええ。だってあなた、小さい頃からかみさまの隣りにいるんだもの。他の子たちとなんにも違いはないように見えるのに、あなたは特別だったから私たち、あなたとこんな風に喋ることができるなんて思いもしなかったわ」
そんな風に思われていたなどと思いもしなかったスピカは目を瞬かせた。小さい頃からトトの隣りにいることは、彼女が村に来てから当たり前のことだった。他の子供たちと交流を避けていたふしはある。村の子たちは村の子たち、自分は他所者、と心のどこかで壁を作っていたのかもしれない。スピカになってから、自分はもう普通の子供だった頃のようには戻れないとも思っていた。
それに、他の子供たちもスピカをいない者のように扱っているように見えた。時々視線を感じはしたが、見ても逸らされることが多かったのだ。今思えば、村の子供たちはスピカと喋ることを禁止されていたのかもしれない。子供はすぐに仲良くなってしまうから。それでもオスカを中心に他の子供たちと遊んだこともあったが、彼らが個人でスピカに話しかけてくることもなかった。
「思い浮かべてどきどきする人はいない?」
スピカは首を捻る。どきどきする人。思い浮かばない。けれど、会って少しどきどきする人はいる。
「イーノス?」
スピカが呟くように言うと、娘たちは目を円くしたあと叫び声を上げた。
「あの騎士様! 確かに綺麗な顔をしていたけど」
「けどスペルカ様付きの騎士様でしょ? 無愛想だし、少し怖いわ」
「それよりもスペルカ様はお怒りにならないかしら?」
「好きとは限らないわよ。憧れているだけなのかも」
口々に娘たちは言う。スピカはその騒ぎようにぽかんとした。娘たちの言っている言葉の意味の半分も理解できない。
「どうしてトトが怒るの?」
騒ぐ娘達に訊くと彼女たちはぴたりと会話を止め、お互いの目を見合わせた。次の瞬間には、荷車を引く音に負けないくらいのため息や笑い声が響いた。
「恋のことも知らないなんて。家に帰ったら、イシュに私たちが呆れた理由を訊いてみるといいわ」
「イシュに?」
「ええ。彼は物知りだけど、そのことについては特によく知っているはずだもの」
そうしてその話しが終わる頃には、荷車を引くスピカたちは村の中心に着いていた。男達が天蓋や屋台を立てるのを横目に進んでいく。その中にオスカの姿を見つけたスピカは大きく手を振った。
「スピカ、もう行ってもいいわよ。あとはこれを渡すだけだし。他のみんなも忙しいところお疲れさま。あとはわたしと彼女だけで十分よ」
そう言ったのはリトリスだった。
娘達は別れの挨拶を口にすると各々別の場所に去っていった。スピカもリトリスともう一人の娘にお礼を言うと、オスカのいる方を見た。
イシュは今回もスピカの家に泊まる予定だが、まだスピカの家にはいないだろう。おそらく村人たちにどこかで捕まっているはずだ。
オスカの家は今年は隣家と共に屋台を出すらしい。オスカも今その屋台建てを手伝っている。スピカにも手伝えることがあるかもしれない。
「またお話ししましょう、スピカ」
別れ際にそう言われて、スピカは不思議な気持ちで頷いた。村の娘たちとあんな風に喋る日が来るなんて、スピカにも予想外のことだった。最近あまり波打つことのなかった感情が、大きく揺れている気がする。なにかに期待を持つことはスピカにとって久しぶりのことだった。村の娘たちと普通の娘のように言葉を交わしたことはスピカ自身が意外なほど、彼女に漠然とはしているが未来への期待を持たせた。それが普通のことになれば、スピカ自身何か変われるような気さえした。彼女たちのように、好奇心を持った普通の娘のように。
この先も平坦に続いていくだろうと思っていた村での生活に少しの期待が湧く。
オスカのもとへ行くと、ちょうど天蓋ができたばかりの様だった。作業を終えた男たちが、結婚して間もないピオニオの娘が配るお茶を飲み休んでいる。その中には都からやってきた娘の夫の姿もあった。
「飾りは間に合ったみたいだな。お疲れ」
帽子の上から頭を揺らされて、上から声を降らせた少年をスピカは睨む様に見上げた。それに動じることもなく、オスカは笑いを漏らす。
「ちぢむ」
「おっと。そりゃまずいな。それ以上小さくなったら見えなくなる」
「そんなにちっちゃくないよ!」
周囲からどっと笑いが湧いた。スピカが思わず眉を顰めると、近くに座っていたおじさんが訂正するように笑いを抑えながら手のひらを掲げた。
「いや悪い。そのやりとりを聞いたのも久しぶりだったから」
そう言われるとスピカは何も言えなくなる。村にいることも少なくなったのだから当たり前だ。何日も顔を合わせない人だっている。確実にある変化にもう誰も恐れないから、朗らかに笑い合う。村を出る時に見た村人たちの表情は、今となってはまるで夢だったようにも思えるくらいだ。
それはスピカにとってとても安心することで、同時に心細い気持ちにもなる変化だった。当たり前だった日常が遠くなっていく。本当に離れてしまった時、それは夢だったように現実感のないものになってしまう。その変化に気付く度、二度目の喪失の予感に胸が波打つ。一度目はことことしての暮らし。二度目はトトの傍にいることの権利。
笑っていた男達は流れるようにもう次の話題に華を咲かせている。スピカがぼんやりとその様子を眺めていると、静かな声が降ってきた。
「イシュがホリホリの前で待ってるぞ」
ホリホリとは村の中で一番大きな木のことだ。ちょうどスピカの家からは近い位置にある。
「オスカは?」
「今日は夜中まで準備だろうな。あとそこにいる酒飲みたちに付き合わされると思う」
オスカは肩を竦めると小さな溜め息を漏らした。それはもう毎年恒例のことだ。スピカが頷くと、オスカは静かな目で彼女を見た。
「スピカ、あのさ」
「なに?」
笑って首を傾げると、オスカは苦笑して小さく首を横に振った。スピカはそれに対して追求することもなく手を振ってその場を後にした。
本当は、オスカの言葉の続きには予想がついていた。だから遮るように笑顔で返した。
森の中で大声で泣いたあの日以来、オスカはトトのことを口にはしない。スピカが昔からの決まりごとに今だに従っていることに何も言わなくなった。村人たちはもうとっくにスピカを解放している。誰もスピカを拘束しない。その必要はもうないのだから。スピカを縛り付けているのはスピカ自身だ。それを指摘されるのはこわい。
「きらい……きらい」
走る速度を落としながらスピカは呪文のように呟いた。スピカは自分自身を好きになれない。どこからどこまで本当かさえも自分で分からないから、ふわふわとして頼りない自分の存在が哀しい。
足が止まった時には村の外れまで来てしまっていた。見上げるとホリホリの木が見える。そのことにスピカはほっと息を吐いた。またこの数日間はイシュが村にいてくれる。そう思うと自然と嬉しい気持ちが湧いてきた。
また足を踏み出すと、ふと目の端に人影が映った。トトだ。スピカの存在に気付いていないのかスピカの方には目も向けずに木々の間を歩いていく。もしかするとまた散歩の途中なのだろうか。近くにイーノスの姿は見当たらない。なぜかスピカはこの時、強く興味を惹かれた。散歩の行く先には見当がついているのに、行かない方がいいと頭では理解していたのに気付けば足はそちらへ向かっていた。足音が聞こえない程度の距離を保ちながら同じ速さで歩いていく。途中、村の中心部から木槌を叩くような音が響いてきた。スピカの家からは少しづつ離れていく。ああ、イシュが待っているのにと思いながらもその後ろ姿を追いかける。トトは歩き慣れた様子で森の木々の間をすいすいと進んでいった。
進めば進むほどにスピカは分かっていたことにも係わらず後悔した。きっとトトが向かう先は、長く村人達が隠してきた場所だ。村で唯一、かみさまに隠してきた場所。けれど、地面に落ちたスピカの血に気付いたトトがそれに気付かないはずもない。どうして付いてきてしまったのだろうか。知らないということが、ほんの少しの希望を見出してしまったのかもしれない。
丘の上に上ったトトの様子をスピカは木陰の下から見上げた。スピカのお墓には今もたくさんの花に彩られている。それらは少し強く吹いた風で花びらを舞い散らせた。
「スピカ」
スピカは身体を震わせたが、自分が呼ばれたのではないと気付いて目を伏せた。
哀しい。その声はかつてことこを此処へ呼び寄せた時のものだった。その声が呼ぶのは今も昔もスピカだけだ。なぜあの時自分が呼ばれているなどと勘違いをしたのだろう。どうして、トトはそこから離れることができないのだろう。
「スピカじゃないよ……ことこ、だよ」
小さな声は風の音に掻き消えたはずだった。けれどそれに反応するように、トトはふいにスピカの方へと目を向けた。目が合ったスピカはぎょっとした。気付いていても、気付かないふりをしていてくれると思い込んでいたのだ。まさかスピカの墓の前に立つトトが自分に目を向けることはないだろうと思っていたから、その驚きは大きかった。
スピカが声も出せずにいると、トトは微笑むこともせずに言った。
「明日は月祭りだよ」
突飛な言葉にスピカは返事も返せない。そんなことは村の誰もが知っていることだ。スピカもその準備を終わらせてきたばかりなのだから、知らないはずがない。トトもスピカの答えなど期待していなかったのだろう。スピカから目を離すと村の方を見た。
「月祭りには色んなところから人が来て、帰っていく。スピカも、逃げてもいいんだよ?」
月祭りにやってくる人たちと一緒に。
試すようなその口調に、スピカはぎゅっと眉を寄せた。途端に涙が流れ出しそうになって、スピカはそれを零さないようにと必死だった。睨むような顔で丘の上に立つトトを見上げる。どうして、よりにもよってこの場所でトトはそんなことを言うのだろうか。
「……傍にいるって、何回も言ったのに」
トトは静かな目でスピカを見た。何も言わずに苦笑して、目を細める。何も浮かばないように見えたその目には、細められた途端に僅かな感情をうつし出した。
「そうだね。何度でも言って。僕は君の言葉を信じきることはできないから」
その言葉はスピカの心を深く抉ると同時に、何か別の感情を湧かせた。その感情が何なのかは解らないが、切なくなる。どれだけスピカがその気持ちを伝えても、トトには響かないのだ。それは自業自得だと分かっているけれど悲しかった。
けれど、知ってほしいなら伝え続けるしかない。信じてもらえなくても、言い続けるしかない。
諦めながらも、胸の中にはまだほんの小さな希望が残っているから会えばこんなにも心がトトを求めるのだから。