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きみのこえ  作者: はんどろん
10.その声で呼ぶ
59/63

59.

  糸選びが肝心だよ、とおばあちゃんは言った。

 機織りの時、沢山の糸の中から織り上げる模様を想像しながら色を選ぶ。色ひとつ違うだけで、図柄が同じでも全体の印象が全く違ってくるのだという。だから、糸選びは慎重に。後悔しないように。

 目が見えなくなってからのおばあちゃんは、機織りを昔ほどしなくなった。

 ことこがそれを知っているのは、スピカの記憶があるからだ。

 スピカがほんの小さかった頃は、まだおばあちゃんの目は辛うじて見えていたらしい。白く濁ってはいたが、焦げ茶色の瞳はやはり優しそうだった。

 目が見えなくなってからも、おばあちゃんは機を織ったが、色をあまり選べなくなっていた。スピカの言葉でその色を知り、記憶の中の色と繋げていた。

 糸選びが肝心だよ、スピカ。この細い糸一本で、良くも悪くもなる。

 それは以前のスピカが言われたものなのか、今のスピカが言われたものなのか。今となってはもう分からない。ぼんやりとそんな記憶を手繰りながら、スピカは森の中、空を見上げた。頭上には、抜けるような青色が広がっている。緩やかで、けれど冷たい風が頬を撫でていく。

 一体、スピカはどこで糸を選び間違えたのだろう。

 先日トトが放った言葉は、スピカを深く沈めた。けれど次にやって来たレナンに、一緒に行こうと言われても頷くことはできなかった。どうして、と聞かれてもスピカもはっきりと知ることのない答えを言うことなどできない。

 きっとレナンたちのいる一座と共に旅をするのは楽しいだろう。色んな場所を見れて、色んな人と出会える。その全てがスピカにとってのいいものとは限らないけれど、彼らと旅に出ていれば色んなことを知れたはずだ。けれど、その選択肢をスピカは捨てた。今はただ、時間が経つのを待っている。呼吸をしてただここにいるだけなのに、こんなにも苦しい。なにごとにも、ずっとなんてことはない。だから、それが過ぎ去るのを待つ。

 胸に抱えていた鳥かごから高い泣き声が聞こえて、スピカは視線を落とした。円らな目を向けてくるパドルを見ると、ほっとするのと同時に寂しさが湧いた。

 ふと、顔も覚えていない妹のことを思い出す。

 名前はなんだったっけ、と記憶を探るが中々出てこない。毎日呼んでいた名前だけれど、それはもう遠い日々の記憶だ。もう二度と会うことはないだろう。

「スピカ」

 名前を呼ぶ声と同時に頭を小突かれて、スピカは顔を上げた。途端、仏頂面のオスカと目が合ったが、美味しそうな香りがしてすぐに顔を綻ばせる。視線を落とすと、オスカが手にする籠の中から飛び出したパンが見えた。

「焼きたて?」

「焼きたてだよ。お前本当食い物ばっかりだな」

 呆れの混ざった言葉にスピカはむっとして頬を膨らます。

 大食らいのオスカには一番言われたくない言葉だ。けれど、すぐに機嫌を直すと籠の中を覗き込んだ。ティアタが作ってくれたのだろう、大小さまざまな大きさと種類のパンは、見るからに美味しそうだった。パンは焼きたてが一番だ。出来れば冷めてしまわないうちに食べてしまいたい。そう思って、きょろきょろと視線を彷徨わす。

 スピカがなかなか場所を決めることができずにいると、オスカが腕を引いて結局二人は近くにあった大きな木の根元に落ち着いた。緩やかな風が吹いて、木漏れ日が揺らめく。風は少し冷たいけれど、今日はまだ暖かい方だ。最近では空気がすっかり冷たくなり、たまに雪が降る。

 出かけよう、とオスカがスピカを誘ったのは昨日のことだった。トトの家に行かなくなってから、スピカはあまり村の方へは行かない様になっていた。オスカの家族やシュトゥが時折スピカの家を訪ねることがあっても、村でスピカの姿を見ることは殆どなくなり、最初は村の誰もがスピカのことを心配していたが、そのうちそれが普通になり誰も気にしなくなってきていた。スペルカ様は当たり前のように村の中心にいて、それはスピカがいなくてもそうなのだ。その事実が、村人たちに安心感を与えた。いつか壊れてしまうであろう不安定な関係に、もう怯えなくてもすむのだ。

 そもそも、スピカが村の中心部に毎日足を運んだのは、トトに会うためだった。そこには時たまオスカに会いに行くためや、食事の材料を買うためなどの理由もあったけれど、トトに会いに行くという理由がなければ毎日村に行く必要はないのだ。オスカはスピカが行かなければ家に来てくれるし、それはオスカの家族やシュトゥもそうだった。それに食事の材料も殆どが畑で採れる野菜やオスカから貰った肉類、森で採れる果物で補える。香辛料などもおばあちゃんが作ったものがまだ少し残っている。スピカが村へ行かなくなるのは必然的なことだった。けれど、それをオスカは気にしているのだろう。仕事の手伝いの合間、ことあるごとにスピカの様子を見に来ては何をするでもなくただだらだらと過ごして帰る、という日常が続いていた。

 昨日、オスカが出かけようと言った時、スピカは思わずきょとんとした表情でオスカの顔を見つめた。わざわざ出かけるところなんて、この村の中になにかあるのだろうかと思ったのだ。オスカが言ったのは、村の外のことだった。それまでスピカはどういう訳か自分が村を出れることなどすっかり忘れていたのだ。都にいたことや、都の寺院から抜け出して旅を続けた日々はもう遠い日の出来事のようだった。村へ帰って来ると同時に、昔のスピカに戻ってしまったようだ。村を出れるということなど忘れてしまうほど、村の中にいてそこから出ないことは当たり前のことだったのだ。

 けれど、昔一度だけ例外があったこともある。月祭りの少し前、風邪を拗らせてしまった時のことだ。その時のことをスピカは余り覚えていないのだけれど、熱が酷かった彼女は村人たちが知らない言葉で話し、時折涙を流したのだという。それをトトに知られることを恐れた村人達は、隣り村のスピカの親戚の家にスピカを預けた。出来るだけスピカをトトから遠ざけようとしたのだ。おばあちゃんの兄弟の子供であるというそのおじさんは、スピカを快く迎え入れてくれた。おじさんにはスピカよりも小さな子供たちがいて、おじさんが仕事に出かけている間はその子たちがスピカの看病をしてくれた。

 元気になったスピカは、月祭りにぎりぎり間に合う残りの二日間をその村で過ごした。村での景色はスピカの村とあまり変わらなかったけれど、その村ではスピカの村と違って人々の色彩は大体決まっていた。茶色か、金色。スピカはその村で目立ったが、あまり気にすることもなかった。誰も、この村ではスピカを知らないのだから当たり前だ。

 鉱夫であるおじさんは、スピカを一度だけ鉱道へ連れて行ってくれた。子供達でも、滅多に立ち入れないその場所は暗くて少し怖かったが、灯りを当てるときらきらと輝く壁にスピカは夢中になったものだった。その美しい光景を真っ先にトトに見せたいと思った。

 その時のことを思い出したスピカは、苦笑した。本当に、随分と自分は変わってしまったのだと実感する。あの頃は、本当に心底トトに心を寄せていた。それが紛い物だったのかなんだったのかは今でも分からないけれど、美しいものを見れば、一番にトトに見せたいと願っていた。楽しいはなしを聞けば、一番にトトに聞かせようと思った。

 けれど今は、とてもそんなわくわくした気分にはなれない。

「ここら辺はさ、昔スピカと……トトと来たことがあるんだ」

 ぽつりと言われたオスカの言葉に、スピカは目を大きくしてその顔を見つめた。オスカがまだ三人仲良かったころのことを自分から話すなんて、始めてのことかもしれない。それに、スピカが聞いた昔のトトは本当に病弱でほとんど外を出歩けなかったという。

 スピカの記憶が自分のなかにはあるはずだが、それはすべてではないのかもしれなかった。思い出そうと記憶を探るが、そんなものは思い浮かばない。

「トトは、大丈夫だったの?」

「いや……次の日は会えなくなるくらい体の調子が悪くなったらしい。疲れたんだろうな。俺とスピカは大目玉を食らうし、散々だったよ」

 それはそうだろう。村から近いと言っても、その外であるこの森には少しの危険もある。それに、病弱な少年には十分堪えるであろう距離があった。

「でも、楽しかったよ。あいつも、すごく嬉しそうだった」

 そんな風にトトのことを言うオスカも初めてだった。けれどそれは、病弱だったトトのことを言っているのであって、今のかみさまになってしまったトトのことではない。トトと云う存在自体は変わっていないのに、スペルカがやってきてからはその影にその名前と存在を隠した。

「そういえばさ、お前が住んでいたところのはなしとか聞いたことなかったな。何回か聞こうとしたこともあったけど、なかなかさ」

 そう言って、ぱくりと小さめのパンを口に放り込む。スピカも手に持っていた大きなパンに被りついた。内心、少し動揺していた。そんなことを訊かれたことはあまりなかったから、どきどきと胸が鳴る。

 遠い、世界のはなし。イシュには少しだけ洩らしたことがあったけれど、それは自分の内に留めておくべきだと仕舞い込んだ記憶。お陰で今ではなかなか上手に思い出すことができない。

「ことこは、猫を飼ってた」

「え? 猫」

 オスカは、聞こえなかったのではなくその言葉を理解できなかったのだろう。眉ねを僅かに顰めて訊いた。

 多分、村の人たちもオスカも、ことこに家族はいないと思っていた。捨てられたか、もとからの孤児か。それにしては身なりは綺麗な方だったのだけれど、孤児自体をあまり見たことがない村人たちはそう思った。それとも、そうであることを願ったのかもしれない。誰も、ことこの家族を探そうという人はいなかった。

 スピカは小さく頷くと、オスカの方を見ずにもう一度パンに噛り付いた。ほんのりと甘い味を舌の上で楽しむ。テアタはやはり料理が上手だ。

 風が吹いて、顔の横にかかる髪が揺れた。

「ことこの家族は五人で、猫はその家族の一員だった」

 淡々と、他人事のように言うスピカをオスカは凝視した。スピカの思ったとおり、オスカはことこに家族がいることなど知らなかった。そうなると、村人達の罪はますます深いものになる。家族のいるまだ小さな子供を攫ったも同然だ。そして、その娘をこの村へと連れてきたのはカムシカと、オスカの二人だった。あの時は仕方がなかったとはいえ、スピカとそっくりな姿を見た時した嫌な予感を見過ごすべきではなかったのだ。

 時が経つごとに埋もれていった罪悪感が、また蘇る。ひとつの可能性をあっさりと握り潰してしまった村の罪。

「ことこには妹がいて、その子をよく泣かせてた」

「……泣かせてた?」

 疼く胸を無視して、オスカは苦笑いした。スピカは少し恥ずかしそうに微笑んで頷く。

「これでも、どっちかっていうと気がきつかったんだよ。男の子たちともよく喧嘩してたもん」

 その言葉の中の少女と、泣き虫だったスピカはどうも結びつかない。ことこからスピカに変えられたばかりのこの娘も泣き虫だったから、ますますスピカにそっくりに感じたものだったのだ。それに、今のスピカは同年代の子供たちとあまり関わりを持ってこなかった。尼僧達や村の大人達が目を光らせていたこともあるが、トトの家に毎日行く少女の姿は、なにも知らない村の子供たちからしても特別なものだったのだ。

「……帰らないのか?」

 喉を詰まらせそうになりながらも、オスカは訊いた。今までは、考えもしなかった言葉。偽者のスピカに仕立てられた少女には、ちゃんと帰るべき家があって、家族がいて、けれどもう何年経ってしまったのだろうか。かみさまになったトトやそれに縋り付く村人たちに縛られて、自分の名前を名乗ることすら許されずにいた。

 スピカは薄く微笑み鳥かごの中に人差し指を入れた。外の空気は冷たい。体温に引き寄せられるようにパドルがその指に近づき、啄ばむ。

「もう、お父さんもお母さんも、妹も、ことこ のことなんて覚えてないよ。ことこも、みんなの顔も思い出せないもん」

 哀しみもなにも篭らない、淡々とした声で言う。責めるつもりもないその無自覚な言葉は、オスカの胸を鋭く突いた。


 帰り道、二人は村を囲う森の前で立ち止まった。ことこ が拾われた場所だ。何度も通っているはずなのに、過去のはなしをしたせいかそのなんの変哲もない森は、二人の目になにか特別なものに映った。

「あ」

 スピカが何かを思い出したように、小さく声を上げた。

 急に立ち止まったスピカをオスカは怪訝そうに見る。

「なんだよ」

「このにおい……」

「におい?」

 オスカはますます眉を顰め、鼻をひくひくと動かした。

 スピカは頷く。甘ったるい、噎せ返るような花の香り。

 それはキンモクセイの香りだった。確かに、風に乗って香ってきたのだ。

 金色の小花の咲く木を探して、スピカは周囲を見渡した。それは、ここにあるはずがないものなのだ。けれどその香りははっきりとしたもので、あるはずのない木を目が探し求めてしまう。

「もしかして、あれのにおいか?」

 そう言って、オスカが指差した方向にその木はあった。ぱらぱらと小さな花を落として地面まで山吹色に染めている木。

 スピカは探していたはずなのに、その木が本当に生えていたことに驚き、呆然と立ち尽くした。

「どうして……」

「もう何年も前からあそこに一本だけ生えてるんだ。いつからあったのか分からないけど、見たことのない品種だって親父も言ってた ……なあ、もしかして、お前、此処で俺たちに拾われた時に持ってた小さい花って、あれなのか? においがきつかったから、此処であの木の花初めて見た時にお前が持っていたのを思い出したんだけど」

 スピカは力ない足取りで自分よりも少し高いくらいの木に近づいた。白い木々の中、ぽつりと佇むそれにどうしようもないくらい違和感と哀しさを感じる。

 ここにあるはずのないもの。けれど、ここにある。

 スピカは小さく頷いた。見間違えようがない。小さな花に、強い花の香り。それは、スピカに遠い日の記憶を呼び起こさせた。何度も思い出しては心に沈んだ夢のように淡い記憶。その風景が色濃く呼び起こされる。

 地面に落ちた花を手の平いっぱいに掬う。どうして、此処にあるのだろうか。

 倒れるように膝を着くと、オスカが驚いたように目を見開き身を屈めた。

「おい、大丈夫か?」

 心配する声にスピカは苦笑し、力なく首を振った。疑問は尽きないが、きっとどれだけ考えても答えには辿り着けないだろう。もしかすると、ことこと共に此処へ来たのかもしれないけれど、それも知りようがない。

「全然大丈夫だよ。行こう」

 探して近づいたのに、スピカは立ち上がるとオスカの手を引いた。

 どちらも大切な記憶だから辛くなる。だからこそ、スピカは今までことこの記憶を片隅に追いやってきた。そしてそれはこれからもだ。いつか ことこ としての記憶は霞み、本当に僅かしか残らないのかもしれないけれど、もうそれでよかった。それを諦めるしかない。その記憶を断ち切るように小さな木から目を逸らす。

 森の中の泉でトトと話して以来、スピカはトトと会わなかった。

 スピカがトトの家に行くことを止めてしまえば、二人の不思議な関係はあっという間に切れてしまう。それでもスピカは以前のようにトトの家に行くことができなった。トトは「まだ手放すつもりはない」と言ったけれど、その時をはっきりと告げられるのが恐くてスピカは彼に近づくことを避けている。

 どうしてだろう、と思うけれどそれでもスピカのなかにはまだトトに対する想いが色濃くあった。この世界に繋ぎとめるトトへの執着と、色んなこと。もう後戻りはできないけれど、これから変わっていくことはきっとできる。そんな自分をスピカはまだ想像することはできないけれど、きっとできるはずなのだ。

 森での昼食を終え、日が暮れる前に二人は帰路についた。

 暫く言葉もなく黙々と歩いていると、目の前を歩いていたオスカが急に立ち止まったので、スピカはぎょっとして寸でのところで立ち止まった。スピカの家はもう目の前だ。すぐ前に立ちはだかる壁の様に動かなくなったオスカをむっとして見上げたあと、その身体を避けてオスカの視線の先を辿ったスピカは目を大きくさせた。

「イーノス……」

 家の軒先で、銀髪の青年が佇んでいるのを見てその名前を呟く。殆ど無意識に足を踏み出した途端、それを止めるように手を掴まれた。

 スピカが振り返ると、オスカは眉を顰めた渋い顔つきでいた。それを見たスピカも、一つのことに思い当たり眉を寄せる。

 そうだ。イーノスがいるということは彼も此処にいる可能性が高いのだ。

「トトも、いるの?」

 眦の下がった情けない表情になっていることに、本人は気付かない。

 オスカは返事を返すでもなく、静かに手を離した。スピカが行かないと判断したのか、行くのは彼女の自由だと判断したのか、そのどちらかもスピカには解らなかった。

 ただ、家の方を見る彼女の目には明らかな戸惑いが浮かんだ。それをオスカが見逃すはずもない。オスカが何かを言おうと口を開いた時、二人に気付いたイーノスがスピカの名前を呼んだ。そのあとでオスカを一瞥し、何か思案するような顔になったが結局何も言わなかった。

 呼ばれて無視をするわけにもいかず、二人は再び歩き出す。その様子が悪戯が見つかった時の子供のように見えて、イーノスは一人苦笑したが当の二人はそれに気付かない。二人は彼の目にも、仲の良い兄妹のように映った。

「何処かに行っていたのか」

 相変わらず小さな子供に訊くように言うイーノスに対して、頬を膨らますわけでもなくスピカは小さく頷いた。以前とは違う反応に、イーノスは彼女の小さな変化を見て取り複雑な気持ちになる。

「スペルカ様が来られているが……どうする?」

 まさか訊かれるとは思わなかったスピカは、目を円くさせたあと、途方に暮れたように隣りに佇むオスカを見上げた。そこには、スピカの予想通り不機嫌そうに歪められた顔があった。

「訊くなよ」

 そう言って、イーノスを睨むように見た目には強い感情が篭っているようだった。彼の気持ちとしては、スピカをトトに会わせたくないのだろう。けれど、それはスピカの選ぶことだとも思っている。抗いようのない感情が、スピカの内に強い支配力を持って秘められていることも知っている。スピカは、いつだってトトに会いたがっているのだ。けれど、トトに想いを寄せるからこそそれを恐れている。最後の儚い繋がりを絶たれることに強い不安を感じている。オスカの言葉は、それを知った上でのことだった。

 スピカは暫く戸惑いを隠さずに視線を数度彷徨わせた。その間もイーノスは辛抱強く彼女の言葉を待っている。やがてまっすぐにイーノスに視線を向けたスピカは、自分自身に言い聞かせるように小さく頷いた。

「……会う」

 短く言われた言葉に、イーノスは何の感情も見せずに頷く。黙って歩き出したイーノスに従って、スピカとオスカの二人も歩き出した。スピカはオスカが付いてきたことに少し驚いて彼を見たが、彼はスピカの方を見ようとはしなかった。ぴんっと張り詰めた空気のなか、三人は黙々と歩く。スピカの家を通り過ぎて暫くすると、大きな木の根っこに座り目を閉じているトトの姿が見えた。木漏れ日を受けるその姿は神秘的で、司祭や他の人々が見たのならきっとため息を漏らしたことだろう。三人は誰からともなく立ち止まる。スピカはその様子をじっと眺めた。それだけで胸の内に哀しみに似た感情が溢れ出してくる。トト、とほとんど無意識に呟くと、その声が聞こえたのかイーノスが振り返った。此処からは一人で行けということなのだろう。スピカはまたオスカを見上げたが、彼からは何も返されなかった。

 スピカが少し緊張した面持ちで歩き出すと、イーノスは道を譲るように一歩下がった。その前を通り過ぎながら、スピカはもしかすると今目の前にいるトトはスペルカなのではないかと少し期待した。今までも唐突な彼との出会いの時、その殆どが実はスペルカだったからだ。

 スピカがすぐ横までやってくると、トトは閉じていた目をゆっくりと開けた。どうやら寝ていたわけではないらしい。その様子だと、スピカたちがやってきていたことに最初から気づいていたのだろう。目を開けたトトは静かにスピカを見上げた。スピカは何も言えずに、ただその視線を受け止めるだけだ。そこに今、どんな感情があるのか彼女にはもう分からなかった。以前なら少しは伝わってくるものがあったのに、今ではそれもない。その変化にスピカはもう悲しむこともなかった。無感情にその事実を受け止める。

 トトはスピカから視線を外すと、イーノスの方に視線を向けた。それだけでトトの意図を察したのであろうイーノスが、オスカを連れて去る姿をスピカは横目で見た。そのことに少しの心細さを感じたものの、スピカはトトから離れようとは思わなかった。本当は逃げ出したい気持ちも強くあったのだけれど、トトが目の前にいることに大きな安堵感のようなものも感じていた。そのことにスピカ自身戸惑いながらも、じっとトトを見る。

「もっと近くに、スピカ」

 スピカは戸惑いを残した表情のまま、一歩前へと進んだ。膝にトトの座る木の根が当たる。伸ばされた手がスピカの手首を柔らかく掴んだ。優しく触れるその感触だけで、スピカの心は絡めとられてしまう。

 先日、トトに言われた言葉はまだ彼女のなかで強い力を保っている。それを思い出す度にきりきりと痛む胸を押さえたくなった。トトを目の前にしている今もそうだ。そのうちに彼の口から放たれるだろう言葉を恐れ、先日のことを口に出すことはできなかった。

「最近、家に来ないね」

 何でもない、世間話しをするようにトトが穏やかな口調で切り出したので、スピカは一瞬呆気にとられた。先日泣き叫んだ自分を思い出し、今の状況に違和感を感じる。あくまでトトは以前と同じ様にスピカに接するつもりらしい。

 スピカが返事を返せずに黙り込んでいると、トトは微笑んだ。そこにほんの少しの哀しみが入り交じって見えたのは、スピカの気のせいだろうか。腕はまだ掴まれたままだ。スピカはそれを意識して身じろぎした。それに反応するように、手に力が篭められる。

「逃げないで」

 そんなつもりはなかった。スピカはトトに勘違いさせてしまったことに少しの罪悪感を感じながら、じっとトトのことを見つめた。どれだけ探ろうとしても深い水底の様なそこに、やはりなんの感情も見つけだすことができずに居心地が悪くなる。それでも往生際悪く彼の真意を探ろうとしてしまう。

 所在無さ気にスピカは視線を彷徨わせた。もうすでにオスカとイーノスの姿は何処にも見当たらない。静かな木々のさざめきが森の中を満たしている。

「村を出て行かなかったんだね」

 ぽつりと言われた言葉に驚いて、スピカは再び彼に目を向けた。それにトトは満足気な笑顔を返してくる。

 トトは、スピカがこの村を出て行くと考えていたのだろうか。それとも、レナンの先日の誘いを知っているのだろうか。どちらにしてもトトの言葉は真実で、だらかこそスピカは今も此処にいる。スピカは可哀相だ、とレナンは言った。その言葉を唐突に思い出し、眉を顰める。

「もしかして、また声が出なくなった?」

 本気でそう思っているわけではないと分かる口調に、スピカは思わずむっとした。それさえもどこか楽しそうにトトはスピカを見つめる。スピカは何かを言おうと口を開いたが結局言葉を見つけられずに噤む。それと同時に足元に視線を落とした。こうなったら意地でも口をきくものかと思い、それと同時に先ほどまであった不安が遠退いていることに気付く。

 ふいに、腕を掴んでいたトトの手が腕を伝いながらゆっくりと下降した。小指がきゅっと一瞬握られ、次いで指同士を絡ませられた。トトの顔を見ずにその指の動作だけを見守っていたスピカは、心臓が大きく波打つのを感じた。それにはスピカ自身戸惑い、瞳を揺らした。

 ふと目線を上げると、そんなスピカをトトは何か不思議なものを見るような、少し驚きの混ざったような表情で見つめていた。その表情に、スピカも目を大きくする。そんなトトの表情を見るのは、もう随分と久しぶりのことだった。

「……逃げない、よ」

「へえ」

「だって、約束したもん」

 すっと、トトの顔から先ほどの表情が消えた。

 約束がなければ、スピカはトトから、この村から逃げようとはしなかったのだろうか。これではまるで言い訳だ。自分自身に対しても、トトに対しても。スピカは言ったあとでそれを口にしたことを後悔した。そもそも、スピカは一度目の約束を破ったのだ。けれど、トトは、スピカのその浅ましさに気付いているだろうに、何も言わなかった。ただ以前と同じように優しく細められた目でスピカを見る。

 スピカは繋がれていた手でトトの手を握り返した。小さな頃はよく繋いでいた手は、スピカのよく知るものからすっかり変わってしまっている。もう知らない人のように大きいその手は、けれど相変わらず少しひんやりとしていた。冷たいのに、そこから熱が伝わってくるようだ。それはゆっくりと拡がって、スピカを満たす。

 麻薬のような――。

 そうだ、あれは自ら命を絶ってしまった老人の言葉だった。スピカはあの時、老人の言うことの半分も理解できなかったが、今ならよく解る。

 体中に染み渡るその熱を、スピカは手放したくはなかった。離れてしまえば、またきっと求めてしまう。心の片隅に残る熱を求めて、スピカはそれにその先ずっと満たされないことを知ると、老人のように絶望感に打ちのめされるのだろうか。

「トト」

「なに、スピカ」

「トトにはこわいものがないの?」

 視線が絡まる。ほんの一瞬、あおい瞳の奥が揺らいだ気がして、スピカはじっとその目を見つめた。

「……ないよ」

 それが本心なのかそうではないのか、スピカには判らなかった。









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