58.
大きな木がぽつんと立つ、村の外れにある小高い丘の上。
長い黒髪を後ろで一つに結んだ女性が、じっと木の根元を見つめていた。
木の根元には、何かの目印のように白くてさらりとした流木のような木の棒が立てられ、それを囲むようにしてたくさんの花が添えられていた。
それだけでそこが誰かの墓だということが分かったが、その墓には名前も何もない。けれど、じっとそれを眺める女性にはその墓が誰のものだか分かっていた。女性だけではない、村の誰もが知っている。
しかし、いつかは花も絶えることだろう。この墓は村人達の罪の証で、隠されてしまった事実だ。その事実を知る大人達は、胸を傷めつつもそれを子供達に伝えることはしないだろう。
青々と生い茂った草木を優しく撫でる風が通り過ぎると、辺りはしんっと静まり返った。
暫くして、村の中心部から陽気な音楽が聞こえてくる。慣れ親しんだその音楽に、女性は頬を緩める。村を出てからもう何年も経つが、小さな頃から耳にしていた弦の音やそれが奏でる音楽は、体の奥底まで染み込んでいる。
きっと今日は誰かの結婚式なのだろう。陽気な音色は結婚の祝いの時に奏でられるものだ。もっと近くまでいけば、娘たちの合唱する歌声が聞こえてくることだろう。女性も少女時代、その歌を他の娘達と共に唄ったことがあったし、唄ってもらったこともあった。
彼女が暫くその音色に聴き入っていると、草を揺らす音が聞こえてきた。少しずつ近づいてくる音の方向を見ると、二人の男性が歩いてきているところだった。一人は少し厳しい表情をした銀髪の青年で、もう一人は、まだ幼さの残る顔立ちをした金髪の美しい青年だ。
その青年の姿を見た女性は、僅かに目を見開いたあとこみ上げてくる感情の波を抑えて小さく微笑んだ。僅かに湧き上がってくる胸の痛みと、いくつもの光景をゆっくりと呑み込んで瞬きをする。
「――こんにちは、スペルカ様」
なんとか搾り出した声は意外とはっきりと響き、女性は少しほっとした。
風が吹いて墓に添えられた花束の花びらを散らす。ふわふわと舞う花びらが一瞬彼女の視界を遮った。
声を掛けられた青年も静かに微笑み、昔と変わらない仕草で、小さく首を傾げて言葉を返した。
ある日の夕方、小さな少女が森を駆けるのを目にしたグリムルは目を円くした。
首都に向かう途中の道で、たまたま同行した男に騙されて馬車を奪われたばかりのことだった。大切な荷と命を奪われなかっただけでもましなことなのかもしれない、となんとか自分を慰めて旅路を急いでいた。彼は、まさかこんな森の奥深くで人と会うとは思わなかったから、その音を聞いて賊か狼かと、身を潜めていたのだ。
遠回りをする気力も余裕も残っていなかった彼は、大変ではあったが近道であるセラントの森を抜けることに決めた。赤く色づく果実がぽつぽつと木に生っているのを見て、早くも意気消沈しかけたが、なんとか気力を振り絞った。その時だった。草を掻き分けて走る音が聞こえたのは。まだ若い木の根元に身を屈めたグリムルは、その音の方向をこっそりと覗いて拍子抜けした。
走っていたのは、黒髪の幼い少女だったのだ。青い服に身を包んだ少女は、ずっと走っていたのか、疲れた様子でちょうどグリムルの手前で立ち止まった。どうやら、グリムルの存在には気づいていないらしい。
暫くして、はあはあと肩で息をしていたその少女の目からは、堰を切ったかのように涙が溢れ出した。木陰から出ようか迷っていたグリムルは、その様子を見てぴたりと止まった。
少女に見覚えがあることに、その泣き顔を見てようやく気づいたのだ。
そして、それと同時にこの近くにある小さな村の存在を思い出した。どうしてその時まで忘れていたのだろうか。平和で恵まれたその村の存在は、かつてグリムルに強烈な印象を残した筈だったにも関わらず、その瞬間まで少しも思い出すことはなかった。
スペルカさまのいる村。
昔、気ままな旅人を気取っていたグリムルは、その気まぐれなかみさまが一人の病弱な少年に宿る瞬間を目にした数少ない者の一人だった。
色んな所を旅していた彼は、都の近くにあるにも関わらず緩やかな空気の流れるその穏やかな村をいたく気に入った。長期間の滞在を望んだグリムルを村の誰もが快く迎え入れてくれた。
村は、本当に恵まれた場所だった。豊かな自然に澄んだ空気、季節ごとにたくさんの作物が実り、村の誰もが幸せに包まれていた。
村人たちとともに安穏とした空気に包まれて過ごしていたある日のことだった。小さな少女と少年に出会ったのは。たまにその二人組を見かけることがあったが、特に気にかけることもなかった。幼い少女と少年は村では少し珍しかったが、全くいないという訳ではなかったし、そんな二人のことを覚えていたのは、たまたまその時グレニエが宿をとらせてもらっていた民家の前を毎日のようにその子たちが通り過ぎていたからだ。それに、少女がいつも着ている青い服が印象的だったこともある。
グリムルは最初彼らを仲の良い兄妹だと思っていたが、どうやら違ったらしい。宿主である老婆の「いずれはあの子たちも結婚するんだろうねえ」という言葉に苦笑した覚えがある。そしてそれと同時に、村を出ようと思ったことも。あまりの心地よさにこのままこの場所で一生を終えることも考えはしたが、自然に閉ざされたこの小さな村は、やはり自分には少々狭いと感じたのだ。村人たちは純粋で、本当の穢れなど知らないような空気を纏っていた。それは、各地を旅してきたグリムルが見たこともないほどだった。
後から思えば、少し不思議な村だったかもしれない。都の近くにあるにも関わらず、その村の存在はあまり多くの人には知られていなかった。月祭りと云われる祭りの存在は噂で聞いたことがあったが、どこで行われているのかもあまり知られていなかったのだ。その祭りがたまたま行き着いたこの村で行われているものだと知った時、グリムルはひどく驚いたものだった。
ともあれ、目の前にいる少女の姿で村の存在を急激に思い出したグリムルは、眉を顰めた。忘れていたが、このセラントの森を抜けた先にその村は存在していたのだ。だとすると少女が一人こんなところにいてもそう不思議ではない。
けれど、同時に彼の中には違和感が湧いていた。少女の雰囲気は、以前のものと随分変わっているように感じたのだ。見た目は何も変わりはない。耳を隠すように短く切られた真っ黒な髪と、青い服。大きな薄茶色の瞳に愛らしい顔。
笑っていないからだろうか。以前グリムルが少女と会った時は少女はころころと表情を変えはしたが、よく笑う無邪気な子供だった。けれど、今は酷く追い詰められたような、途方に暮れたような表情をしていた。絶望感さえ浮かぶその表情は、グリムルの持つ村人の印象とはかけ離れたものに見えた。
「お嬢ちゃん……?」
小さく聞いたその声は、静かなこの場所では大きく響いたらしい。少女は驚いた様に体をびくりと震わせて振り返った。大きく見開かれた目から、また涙が流れる。
少女はグリムルのことを覚えていないらしい。怯えた表情で肩を竦ませたが、動くこともできずにただ立ち竦んでいるようだった。
その様子にグリムルは苦笑した。何度も遊んだことがあるのに、すっかり忘れられているらしいことに少なからず落胆したが、お互い様だ。それにしても、少女の名前をどうも思い出せない。
「どうしたんだ? こんな場所で。誰かと喧嘩でもしたのか?」
少女は不思議そうに首を傾げた。
少しの怯えは残っている様だが、先ほどより落ち着いた様子でグリムルを見る。けれど、その瞳にあるのは強い警戒心だ。
その様子に彼の中の違和感は益々大きくなった。以前の彼女は、まるで警戒心など持たないような子供だったのだ。疑心などともまるで無縁に見えた。あれは、村の中にいたからそう見えたのだろうか。
「……スピカ」
ふいに思い出した少女の名前を口にのせると、同時に当時のことを思い出した。
少女は、死んだのではなかったのか。グリムルは、確かにその瞬間を目にしたのだ。病床にいた少年がかみさまになると同時に、少女が倒れてしまった瞬間を。
けれど、そのあとのことを思い出すことのできないグリムルは、少女が無事であったことに少し安堵した。
グリムルの小さな呟きに、少女は顔を歪めると両手で頬に掛かる短い髪を掴んで首を振った。全てを否定するようなその様子に、グリムルは困惑した。ぎゅっと閉じられた目から流れる涙はとめどない。自分が何かを間違っていることに気付いたが、その間違いが何か分からないグリムルは眉を潜めた。
暫くして泣き止んだスピカを彼は村まで送り届けることにした。スピカは抵抗もせず、何も喋ることもなく黙ってグリムルに付き従った。
グリムルがどれだけ話しかけても首を傾げるか無視をするかどちらかだったので、グリムルもそのうち彼女と会話することは諦めた。
セラントの森は、実が種を飛ばす時期にも関わらず、二人が通る間静かだった。離れたところでパンッと実が弾ける音は聞こえたが、彼らにそれが降りかかることはなかった。まるで迎え入れられているような奇妙な気分になり、グリムルは一人苦笑した。そういえば、スピカも森を走り抜けて来たにもかかわらず、一つも赤い染みなどついていない。もしかすると、まだ時期ではなかったのかもしれない。
村に着く前に、村人であろう男たちが二人を見つけた。どうやらスピカを探していたらしい男達は、グリムルを見て怪訝そうな顔をしたが、グリムルが説明をするとほっとした顔をした。その時、グリムルは以前村に来たことがあること、少年がかみさまになる瞬間にその場にいたことを言わずにいた。なんとなく言わない方がいい気がしたのだ。そして、いつもそういう勘はよく当たる。彼は長年の旅でいやという程それを実感していた。
少年がスペルカ様になったことで、村に変調があったのかもしれない。いくら穏やかで変化のない様な場所に見えても、全く変化のないものなどないのだ。かみさまが現れたというのが、一つの大きな変化だったのだから。それに、村を出てからそう長くはない年月だが、明らかな時間が経っている。
「……スピカ、じゃないよ」
ほんの、小さな声だった。呟くようなその声が聞こえたのは、偶然だった。
グリムルは村の前で、小さな少女が男達に連れられていくのを呆然として見た。少女や男達の向こうに見える村からは、子供達の楽しそうな声が響いている。そして、母親達が夕食の仕度をしているのだろう。白く立ち昇る煙が見えた。以前見た穏やかな村の光景がありありと目に浮かぶ。
男達に村に宿をとるかを訊かれたが、どうしても村に立ち寄る気にはなれず、グリムルはそのまま都へ向かった。
少女と再び再会したのは、いくつもの季節が巡りグリムルが村のことを余り思い出さなくなってからだった。
その時グリムルは旅芸人一座の一員として旅をしていた。長い期間旅をしていると、出会いや別れはつきものだ。それまでに彼は幾人もの人と旅をしては別れ、たまにどこかに滞在しては転々と自分の居場所を変えていた。旅芸人一座とはたまたま目的地が一緒だった為に同行させてもらったのだが、どういう訳かその後も旅をすることになった。特別居心地が良い訳でもなく、悪くもなかった。あまり係わり合いのない一座との旅は、一人旅と余り変わりがなかったのだ。
ちょうど二度目の春を迎えた頃に、スピカとイシュと名乗る男が同行することになった。
背の高いイシュと低いスピカは対照的で、話している様子などを見ると兄妹のように見えないこともなかったが、それぞれが持つ色彩や顔立ちを見れば、兄妹ではないことが明らかだった。グリムルも一座の誰もがその関係を気にはしたが、誰も尋ねようとはしなかった。それぞれの事情は本人から話さない限り聞かないのが、一座での暗黙の了解だ。
少女を見たグリムルは、すぐにあの村の娘だということが分かった。確かな年月が過ぎていたから、少女も成長していたが、見間違えるはずはなかった。長くなった黒髪に印象的な薄茶色の大きな目、ころころとよく笑う少女は、確かに村で会ったスピカのものだった。名前を聞いて、それが間違いではなかったことを確認したグリムルは、けれどスピカにあの時、セラントの森の前で会った時のことを聞くことはなかった。スピカはまたしてもグリムルのことを忘れているらしかった。グリムルにとってはあっという間の年月だったが、幼かった少女が大きくなるまでの年月は長かったに違いない。
それにしてもなんという偶然だろうか、とグリムルは内心驚いていた。旅をしていると驚くことはたくさんあるが、この時の驚きは大きかった。あの時の少女が旅をしているのにも驚いたし、それで偶然同行することになるなどと思いもしなかった。
馬車の中で話しかけると、スピカは少し怯える仕草を見せたが、すぐに打ち解けてくれた。旅を続けているうちについてしまった顔の大きな傷跡で恐れられることはよくあったが、スピカはそんなに気にしていないようだった。それよりも、大きな声で話しかけられたのが少し怖かったのだという。
スピカと共にいた男は、背は高いが甘ったるい顔とひょろりとした体つきの優男だった。けれど、話しをしているとのらりくらりとしている割に随分と頭がいいことが分かった。どうやらその男、イシュは随分旅慣れしている様だった。元々吟遊詩人をしていたらしく、少し変わった弦楽器を操り物語を語った。
スピカは一座と同行している間、雑用をしていたが一度子供たちと一緒にいる時に唄ったことがきっかけで、時々歌を唄うようになった。少女らしい繊細な歌声は、観客に好評だったがスピカは舞台の上、大勢の人の前で唄うのが苦手らしかった。
二人はとても仲が良く、殆どの時間を共に過ごしていた。イシュはスピカに対して随分と過保護に見えたが、グリムルとレナンがスピカと共にいる時は、少し安心したような顔つきで離れたところでいた。
そんなイシュの様子を見る度に、グリムルは村で何かあったのだろうと勘繰ってしまったが、スピカの笑い顔を見るとそんな疑念もすぐに薄れた。そう、スピカの笑顔は完璧なものだったのだ。
二度目の再会は、あの村でだった。
村に呼ばれたのは偶然のことだったが、まさかスピカが村に帰っているとは思わなかったグリムルは再び驚く羽目になった。
人ごみのなかから見たスピカは、微笑みを浮かべてはいるもののどこか暗い表情をしていた。
『スピカじゃ、ないよ』
か細く言われたその言葉を思い出した。初めてあった時のスピカと、あの村で会った時のスピカ、そして旅を共にした時と今とでは随分と違う表情に見えた。まるでスピカは二人いるかの様な錯覚さえ抱いてしまう。
落ち着いてからレナンとともに村人から聞いたスピカの家に向かうと、スピカは心底嬉しそうに二人を迎え入れた。はしゃぐその姿にほっとしたのも束の間、彼女の声が出なくなってしまっていたのだと知った。そのことに湧いた村への懐疑心をグリムルは心の隅へと押しやった。薄情かもしれないが、余り深く入り込まない方がいいと思ったのだ。一見大らかに見える村は、余所者が立ち入ることのできない何かを持っている。村とスピカの声はもしかすると関係ないのかもしれないが、声を失ってしまうほどの何かがあったのだろう。
スピカに案内された家の中は、こじんまりとしていたがスピカが一人で住んでいるのかと思うと少し広くさえ感じた。家を教えてくれた村人によると、スピカは長年祖母である老婆と共に暮らしていたらしいが、随分前に亡くなったのだという。両親は生きてはいるが仕事の関係で都にいると聞いて、グレニエは密かに眉を顰めた。どうして、スピカは両親と都へ行かず村で一人でいることを選んだのだろうか。聞けば、親子はとても仲が良かったと言うのに。
隣りで歩いていたレナンも、同じことを思ったらしい。どうしてスピカはこの村に一人でいるの、と聞いた。
道案内をしてくれていた若い青年は、少女の姿でいるレナンに質問されたことに頬を綻ばせた。
「スペルカ様が、いらっしゃるからだよ」
当然のように言われた言葉に、グレニエとレナンは目合わせた。スペルカ様がいるから、この村にいる。噂には聞いていたが、実際にそのかみさまを会ったことがない二人には、その影響力がどのようなものなのか分からなかった。グリムルは実は一度会っているのだが、その時のことなど殆ど覚えていなかった。
旅をしている最中に彼らが聞いた話しは、こうだ。
小さな村に住む美しい少年に、ある日かみさまが降りて少年は生き神となった。そしてその神様は、都にやってきて病人や怪我人を治して下さるという、そんな夢物語のような話だった。そしてその夢物語には、尾ひれはひれが付いたのだろう。人によっては全く違うことをいう人もいた。
ともかく、二人はこの噂話しを信じてはいなかった。都に一人の少年が神様として奉られているのは本当らしかったが、それが本物などとは思わなかった。けれど、興味はあった。信心深い人たちが信じるその神様とは、一体どんな存在なのか。そして、途中旅を共にした少女であるスピカが、その神様のいる土地の人間だったことは意外だった。彼女は慎ましやかだったけれど、けして信心深かったわけではない。それよりも、そんな話題が出ると、いつもきょとんとした顔で小首を傾げていた。
けれど、思い返してみればスペルカさまの話題が出た時の彼女の様子はいつも少し不自然だったような気もした。
この時、以前少女に言われた言葉の理由が、まさかかみさまに直結するなどとグレニエは考えもしなかった。
スピカの家に向かったレナンが、酷く沈んだ様子で馬車に戻ってきたのは日も沈みかけた頃だった。
まだ酒の残る体を長椅子の上に横たえていたグレニエは、おや、と僅かに上半身を起こしかけたが、その重さにまた再び寝転がった。
自分でも酒臭いのが分かる。また小姑のようにレナンに怒られるのかと思えば少しうんざりしたが、今日はそんな様子もない。何かあったのかとグレニエが尋ねる前に、レナンの方が口を開いた。
「スピカを、連れて行こう。グレニエ」
掠れた、振り絞るような声で言われた予想外の言葉に、グレニエは目を円くした。
「なに言ってるんだ、急に」
彼の様子を見ればふざけている訳ではなく本気で言われたのだと分かったが、その言葉はふざけているとしか思えない言葉だった。
以前と今とでは状況が違うのだ。以前はスピカも旅をしていて、行き先も特になかったような彼女たちと一座は同行した。けれど今は、スピカは自分の家に住む村人の一人だ。時たまそういう人物が旅芸人一座の一員に加わることもあったが、彼女はそういう部類ではない様に見えた。
「……ここの人に聞いたんだけど、スピカはこんな村にいない方がいいよ……この村の人たちは、酷い。スペルカ様もだ」
「……なにか、聞いたのか?」
グレニエはようやく体を起こすと聞いた。
違和感の正体、自分が知ることのなかった真実に彼が触れたのだと思うと、酔いも醒めてくる。あるいは、無粋な好奇心だったのかもしれないが、レナンの言葉を聞いて嫌な予感がしたのも本当だ。
「今のスピカは偽者だって。スピカは死んでしまったから、代わりにそっくりな娘をスピカにしたって、村の奴が言ってた」
到底信じがたいその話を、けれどグレニエは疑わなかった。その必要もなかった。
ぱたん、と人形の様に力なく倒れていく小さな少女の姿を思い出す。別れ際に言われた少女の言葉を思い出す。
あの、倒れた瞬間。スピカが本当に命を落としてしまっていたのなら、あの時言われた言葉の意味も、辻褄も合う。
けれど、二人は本当にそっくりだったから、グレニエは本当に別人などとは思わなかった。そこまで、そっくりな少女など運良く見つかるものなのか。そして、幼い少女の代役が必要だった訳は。
「どうして……」
グレニエが呟くと、レナンは眉ねに寄せていた皺を深くさせた。
ぽつりぽつりと落とされた言葉に、グレニエは声も出せなかった。
穏やかな村に隠された真実は、あまりにも酷いものだった。
森の前で泣いていた少女の姿を思い出す。どうして、あの時村の方向から逃げる様にスピカは走ってきたのか。その姿は、自らそれを望んでいる者のそれではなかった。
逃げてきたスピカを、グレニエは再び村人に引き渡してしまったのだ。
「なあ、グレニエ。スピカを連れて行っていいだろう? だって、スピカ旅をしてた時はあんな楽しそうだったじゃないか。だけど、この村にいるスピカは変だ……変だよ」
「俺に聞くことじゃないだろう。スピカに聞け」
座長は、恐らく彼女を快く迎え入れてくれるだろう。彼は旅の途中同行した大きな青年と小さな少女をいたく気に入っていたから。
けれど、スピカの答えはなんとなく分かっていた。答えは、きっと否だ。彼女は、この村に残ることを望むだろう。
それは単なる勘だったけれど、外れることのない様な確信めいたものがグレニエにはあった。
結婚式が行われるまで毎日続いた祝宴に、スピカはあまり顔を出すことはなかった。
逆に毎日参加していたのはオスカで、グレニエはその青年が幼い頃スピカといつも一緒にいた子供だったということに気づくのに時間がかかった。気づいてみれば、面影は残っている様な気もしたが、グレニエもその姿をはっきりと覚えていた訳ではなかったし、十分に成長したその姿を見て子供の時の姿を容易には想像できなかったのだ。それほど時間が経っているのかと思えば、自分も歳をとったものだと一人苦笑してしまった。
オスカも、グレニエを覚えていないようだった。
彼も、あの少女がスピカになることを望んだ者の一人なのかと思うと、グレニエはまた違和感を感じた。
倒れたスピカに真っ先に駆け寄ったのは、オスカだったのだ。大きな声でスピカの名前を呼びながら、その体を起こそうとしたのはオスカだけだった。他の誰も、大人たちでさえ動けないその中で、オスカは必死に眠ったように動かないスピカを起こそうとした。まるで、そうすればスピカが目を覚ますかのように。
そんな少年が、スピカの代役などを望まない様な気がした。
いつも一緒に行動する二人を見ていれば、オスカがスピカに恋心を抱いていることなどすぐに分かった。そのことに幼いスピカは気付いていなかったし、もしかするとオスカ自身も気付いていなかったのかもしれない。けれど、スペルカ様によってスピカが命を落としてしまったことを、彼が何とも思わないとは思えなかった。
今のスピカである少女を取り巻くもの。
村人達は、無関心を装っている訳ではなく、村人の一員として彼女を扱っているように見えたが、それでも彼女はぽつんと村人達の中からは浮いているように見えた。それとは逆に、オスカは大勢の人の輪の中に自然と溶け込んでいる。誰もが彼を慕い、年長の者達は彼を子供や孫を見るような優しい眼差しで見ている。
そして、全ての元凶となった、かみさまになった少年は、一体どうしているのだろうか。
グレニエたちは、この村に来てからまだ一度もスペルカ様の姿を目にしてはいなかった。短い滞在の期間に、その姿を見ることはもしかするとないかもしれない。
広場で集まった村人達は、歌や楽器で奏でられる音楽に合わせて踊っていた。最初はそれに参加していたグレニエは、そっとその場を抜け出した。
流れてくる特徴的な音楽は楽しげで、グレニエはそれを聞いて微かに眉を顰めた。
昨日、レナンにスピカの話しを聞いてからというもの、村の空気を少しばかり重く感じるようになっていた。楽しげな声も、歌声も、踊る姿さえも、上辺だけのもののように見えてくるから困ったものだ。自分から聞いておいて何だが、できればあまり知りたくない真実だった。知っても、自分達にはどうしようもないことだと薄情だとは知りつつも思った。
スピカは愛嬌のある少女だったから、グレニエも気に入っていたが、所詮はそこまでだ。長年の旅が薄情さを生み出したのかもしれない。けれど、レナンは違うのだろう。村人達に嫌悪感を抱き、今でもきっとスピカを助ける手段を探している。
木々の間を通り過ぎながらそんなことを考えていると、ふと人の気配がした。顔を上げると、グリムルよりも先に広場から姿を消していたレナンが、大きな木の根元でじっとグリムルを見ていた。真っ直ぐなその瞳が苦手で、グリムルは時たまそれに気付かないふりをする。この時もそうだった。誤魔化すように笑い、僅かに視線を逸らした。
「最初はさ、いい村だと思ったんだ。けど、なんかもうはやく出て行きたいよ。その必要もないけど、好きにはなれない」
ぽんっと投げかけられた言葉に返す言葉も見つけられずに、グリムルはただ曖昧な笑みを浮かべた。どちらともなく歩き出し、その向かう方向がスピカの家の方向だと知った時は、一瞬立ち止まりそうになったがレナンに付き合うことにする。どの道答えは分かっていることだ。
家に着き、二人を迎え入れたスピカは昨日は違って声が出るようになっていた。何気なく聞くと、特に理由もなく急に出るようになったのだという。
けれど、昨日話していた通りレナンが共に行こうと誘っても、曖昧な微笑みを浮かべて何も言わずに、ただ小さく首を横に振るだけだった。