57.
その夜、スピカは長い夢を見た。
夢は、おばあちゃんに起こされる朝から始まり、トトの家に通ったことやオスカと森で遊んだ記憶をなぞった。そして、都へ行ってセスティリアスやリュシカニア、イーノスと出会う。塔で父親は哀しそうに何かを話すが、ぼんやりとしてスピカの耳には届かない。老人の渇いた血がてらてらと灯りを反射する。
そのどれもが淡々とした流れで、過ぎ去っていく夢。
けれど、目が覚めてしまえばそれは夢でしかなく、その殆どが曖昧なものとしてスピカの中に残った。
目が覚めてから、スピカはいつも通りにパドルの入った鳥かごに被せた布を取り、そのままその鳥かごを持って一階に下りる。寒がるパドルをキルトの上にのせて、鳥かごの中を掃除してから小さな餌箱に餌を入れ、掃除している間に凍ってしまった水を溶かして、水入れに注ぐ。一緒に溶かした水で顔を洗って、畑へ行く準備をする。
まだ薄暗い外へ出ると、村の方向から音楽が微かに聞こえてきた。恐らく一晩中祝宴は続いたのだろう。そんなことを思いながらスピカは小さな桶と鍬を持って、畑へ向かった。
家から畑はすぐ近くの場所にあった。動物たちに食べられてしまわない様にと、畑は茨で囲まれている。けれどおばあちゃんが丁寧に育てた畑は、スピカが都へ行っているうちに野生化して、殆どが雑草で覆われていた。育てていた野菜は逆に貧弱になったり、大きくなりすぎて腐ったりと、殆ど食べられるものは育っていなかった。
スピカは村へ戻ってきてから、オスカに手伝ってもらい畑を綺麗に整え、種や苗を分けてもらい、おばあちゃんが育てていたものと同じ種類の野菜や果物を育てている。残っていたものの中で、根菜は唯一丈夫にも育っていた。そのいくつかを採り、水を汲んだ桶を持って家へ帰る。家に着く頃には、強い日差しが木々の間から差し込み始めていた。夕日に似た明かりに、スピカは目を細める。何かを思い出しそうになって、それから目を逸らす。
家の中に入る直前、ふと村の方向に目をやると、レナンがむすっとした表情で歩いてきていた。スピカと目が合っても、不機嫌な表情は変わらなく、ますます怒った感情を露わにする。
「手を握られた!」
その一言で、スピカは思わず噴き出した。
「本当に最悪だよ! 酒臭いし、尻まで触られそうになってぞっとした」
家の中に入ってからも、レナンは愚痴を吐き続けた。次々と出てくる言葉にスピカはくすくすと笑いながら、持って帰ってきた根菜を籠へ入れる。たった今汲んで来た水を鍋へ移し、火を焚く。
一座と共に居た頃も、レナンは男たちに言い寄られたりしていたが、その時は笑顔でかわしても、後からよくスピカに文句を言っていたのだ。グリムルに言うと、馬鹿にした様な言葉を返してくるらしい。
昨晩焼いておいたパンを網の上で温め、昨日の夕食の残りのスープを温めなおして二人分用意すると、スピカは卓子に並べた。お腹が空いていたのか、レナンは嬉しそうに微笑む。
「ありがとう」
言うレナンの手を取り、スピカは文字をのせる。今日はグリムルはいないのか尋ねると、レナンは面倒くさそうにため息を吐いた。
「酒の席に誘われて、喜んで飛びついたよ。酒に弱い癖に好きなんだから、性質が悪い」
二人は朝食を食べ終えると、沸かしたばかりのお湯で淹れた熱いお茶を飲んだ。レナンはまだ慣れていないのか、家の中を物珍しそうに眺めていた。彼の目を一番引いたのは、台所に並べられたたくさんの硝子瓶だった。その全てに保存用の食料が入っている。砂糖で漬けた果物や、酢で漬けた野菜、夏の間にテアタが甘い果実を漬けて作ってくれた果実酒。色とりどりのそれらは、寒い冬を過ごす村人たちにとってとても大切な物だったが、レナンには少し珍しかったらしい。感心したような表情で、まるで綺麗な絵を観賞するようにそれらを眺めた。
お茶を飲み終えると、レナンは思い出した様にスピカに訊いた。
「そういえば、かみさま とスピカって仲がいいんだってね」
なんでもないことの様にぽんと訊かれて、スピカはきょとんとする。酔っ払った村人から、なにか聞いたのだろうか。レナンはお茶を飲みながら、鳥かごの中で寒そうにしているパドルを撫でている。スピカは暖炉に火を灯していなかったことに気付いて、立ち上がった。
「旅をしてたらさ、色んな人に色んな噂を聞くんだ。特に女の格好してるとさ、気が緩むのかな。流れ者だし。普通に生活していたら滅多に聞けない様なことも、たまに聞く」
上手く火を点けられずに、スピカは何度も火打ち石をカチカチと鳴らす。暫くしてからようやく火が燻り始め、スピカがほっとして顔を上げると、レナンはじっとスピカを見つめていた。
「スピカはどうしてこの村にいるの?」
カツッと硬質な音がして、スピカはいつの間にか熱くなった火打ち石を床に落としていた。
頭の中が真っ白になって、固まったように動けなくなってしまう。
どうしてこの村に。
考えてはいけない。スピカはなんとか笑みを作ると、小さく首を傾げた。声が出なくてよかったなんて思ったのは初めてのことだった。声が出ても、きっとスピカは答えられない。
そんなスピカを見て、レナンは哀しそうに目腺を下げた。
「ごめん……でも、スピカは大切な友達だから、心配なんだ」
レナンは一体どこまで話しを聞いてしまったのだろうか。そんなことが気になったが、それよりも友達と言われて嬉しくなり、スピカは今度は本当に微笑む。覚えてもらえていただけでも嬉しかったのに、その言葉はスピカを本当に幸せにしてくれる。
泣きそうに顔を歪めたレナンは、一度はスピカに戻した目をまた辛そうに逸らした。どうしてレナンがそんな表情をするのか解らないスピカは、また首を傾げる。
「スピカは、かわいそうだ」
スピカはどうして、と思う前に、そんなことはない、と思った。何も可哀想なんてことはない。全てスピカが自分で選んできたことなのだから。トトがスピカを呼んで、スピカがトトを選んだ。それだけのこと。それはこの先変わることかもしれないけれど、スピカは可哀想じゃない。
静かになった部屋の中で、パドルの足が止まり木を叩く音がする。窓の外からは鳥の鳴き声と、村の方から微かに音楽が響いてくる。
「スピカは、かわいそうだよ」
スピカの思いに反対するように、レナンはぽつりともう一度言った。
暫くして、レナンが帰ってからスピカは椅子に座り、燃える暖炉をぼんやりと眺めていた。
どうしてレナンはあんなことを言ったのだろう。レナンの目には、どうしてそんな風に映ったのだろうか。
そんなことが、ぐるぐると頭の中を這い回る。スピカがこの村に居る意味。そんなことは、少しして考えてみれば簡単なことだった。家があるからだ。此処に、スピカの帰る家がある。殆どの人が自分の家に帰ることを当たり前としているから、スピカが出した答えは当たり前のことだった。けれど、そんな簡単な答えが先ほどは少しも浮かんでこなかった。
唯一思い浮かんだのは、トトの姿だ。
開放を望んだ時期も確かにあったはずなのに、離れていく心を思うと寂しい。スピカがこの村にいる一番の理由は、トトかもしれなかった。けれど、トトと関わらなければ、スピカは村に対して今あるほどの違和感も感じなかったはずだ。スピカの世界は、トトが離れつつある今でも、トト中心にまわっている。
寒気が走り、スピカは椅子の上で体を丸めた。ひざ掛けに顔を埋める。そのひざ掛けは、ずっとおばあちゃんが使っていたものだ。乾燥花を入れてしまっておいたから、花の甘い香りがする。パチパチと薪の爆ぜる音を都へ行く前もずっと聞いていた。何処へ行ってもその音も、においも変わらない。
スピカはいい子だね。
まどろみの中、スピカはおばあちゃんの言葉を思い出す。おばあちゃんはいつも、スピカがトトの家に出かける前にスピカのおでこに口付けをして頭を撫でてくれた。ずっと続けられたそれは、おやすみの挨拶の様に当たり前のことになっていた。そして、トトの家へ向かうことも。
それに疑問を感じ始めたのはいつだったのか。思い出そうとして、スピカは霞がかる頭を振った。そんなことは考えなくていい。晴れた先に恐いものがあるかもしれないのなら、霧は晴れなくてもいいのだ。ぼやけた景色に足が絡まることがあっても、そこに目を凝らす必要はない。
拠り所のない心細さで、スピカは身を捩った。むしょうにおばあちゃんに会いたくなり心の中で呼んだが、部屋の中は静かで誰も応えてはくれなかった。
甘い香りがして、スピカはゆっくりと目を開けた。
いつの間にか眠ってしまったのだろう。部屋の中はもう暗い。煌々と燃えていた暖炉の火も消えかけて、燻っているだけだ。椅子の上で身を縮めていたスピカは、足を下ろすと肌寒さに身震いした。眠る前と同じ心細さに、また身を縮めたくなったがそれを我慢して立ち上がる。先ほど感じた甘い香りの正体を探そうと、暗い部屋の中を見渡したが、そんなものに覚えはなかった。ひざ掛けについた爽やかな乾燥花の香りとは違い、本当に甘ったるい香りだったのだ。それをスピカはよく知っているはずだったのだけれど、どうしても思い出せずに胸にもやもやとした煙が立ち上ったような気分になった。
卓の上に置いてあった蝋燭に火を灯す。窓からは月の光りが差し込んでいたが、それだけでは心もとない。以前は真夜中に家を抜け出したこともあったのに、おばあちゃんのいない今ではこの家はスピカに少し素っ気無く、前はこわくなかった真っ暗な階段も離れている間に少しこわいものに変わっていた。
いつかは、スピカがこの家で一人になることをおばあちゃんは知っていたのだろうか。今思えば、パドルを拾ってきた時のおばあちゃんの言葉は全てを知っているかのようだった。あの時スピカはおばあちゃんが寂しいのかと思ったが、スピカが寂しくないようにということだったのだろう。
優しい表情のおばあちゃんを思い出して、また鼻の奥がつんっとなった。それを振り払うように頭を振る。いつまでもうじうじしていられない。
こんこんと扉を叩く音がして、スピカは慌てて振り返った。
いるという証拠に卓を叩いて音を鳴らすと、鍵も掛けていなかった扉はぎいっと低い音を立てて勝手に開かれる。
けれど、開かれた扉の向こうには夜の森が広がっているだけで、誰もいなかった。その様子に、スピカは固まったように動けなくなり、ただじっとその扉の向こうに広がる暗闇を眺めた。
もしかすると、オスカの悪ふざけかもしれない。そうは思いつつも体は小さく震えた。いくら待っても半分開いた扉の向こうから誰かが出てくる気配はない。そういえば今は祭りの最中だ。少し村の中心から離れているからとはいえ、少し無用心すぎたかもしれない。以前、扉を開けた途端に袋に入れられて攫われたこともあるのだ。そのことを思うと、苦い気持ちがこみ上げてきた。
スピカは椅子の背もたれに掛けてあった肩掛けを羽織ると、角灯に火を灯して恐る恐る扉に近づいた。暖炉の脇に立てかけてあった鉄棒を持とうとして、やはりやめておく。本当に扉の裏に人が潜んでいて、飛び出してきたとしたら大怪我を負わせてしまうかもしれない。
こわごわと扉を引いても、やはりそこに人はいなくスピカは諦めたように外へと顔を出した。けれどやはり、外には誰もいなくて薄ら寒い思いをする。スペルカの存在を知っているのに、幽霊の類をこわいと思うなんておかしいかもしれないが、それとこれとは別だ。特別信じている訳でもないけれど、こんな状況ならば不気味に感じてしまうのも仕方がない。
右を見ても左を見ても誰もいないのを知り、スピカは慌てて家の中へ引っ込もうとしたが、ふと名前を呼ばれた気がして無意識にまた外を見る。ふわふわと漂ってくる甘い香りに気付いて目を細めた。
急激になにかを引き戻されるような感覚に呑まれ、必死に抵抗しながら、スピカは暗闇に目を凝らす。
夜の鳥の鳴き声に紛れて、空耳かと思いそうなほどの微かな声が耳に響いた。
さわっと森の木々が風に揺れて、スピカは気付けば無意識に走り出していた。
暫くすると、空気はますます冷たくなってくる。澄んだ甘い水の香りがしてきて、スピカは足の動きを緩めた。
青空を映したような青い湖が、月の光りを受けて微かに発光していた。もしかすると水底にある宝石の原石が光りを反射しているのかもしれない。青い光りは水面の揺らめきに合わせてゆらゆらと揺れ動く。周囲を取り囲む木々にその光りが映る様子をスピカはいつの間にか立ち止まって眺めていた。
湖の淵に佇む人の姿を見て、目を細める。反射的に名前を呼びそうになって、遠すぎる距離に気付き口を閉じた。それ以前にスピカは自分の声が出なかったことに気付き、ぐっと手を握り締めた。
ゆっくりと距離を縮めるように歩み寄ると、トトは最初から気付いていたのか湖をじっと見つめていた顔を上げた。目と目が合って、スピカは途端どうしてか気まずい気分になり、目を伏せるとまた立ち止まった。
トトと会うのは久しぶりだ。村に帰ってきてからはめっきり会う回数も減っていたし、それにトトは変わらずスピカに対して優しい笑顔を見せるが、以前のように異様なほどの執着心を見せることはなくなっていた。それが、スピカにとってはおそろしい。もうスピカはトトにとってはいらない存在になってしまったのかもしれないと思う。
立ち止まったまま動こうとも、トトの方を見ようともしないスピカにトトは首を傾げた。
「どうしたの? スピカ。……おいで」
静かな声に言われて、スピカは従った。目線を下げたまま進むと、トトの靴が見えてきた。立ち止まり、ようやく顔をあげると、湖の色をそのまま映したような目と目があった。その目が湖と同じ風にうっすらと青く発光する様を見て、スピカは声の出ない唇を無意識に動かして、スペルカの名前を呼んでいた。
「ちがうよ、スピカ。僕はちがう」
その言葉に、スピカは思わず口元に手を当てて目を見開いた。自分の失敗に気付いて血の気が引く。
強い風が吹いて、散った葉っぱが湖に降り、水面が揺れた。
「そんなに怯えなくてもいいよ。もうずっと前から知っていたことだから」
トトが言ったことをすぐには理解できなくて、けれど足から力が抜けたスピカはその場に膝を付きそうになりトトに支えられた。見開いたままの目で見上げると、彼は懐かしさを感じさせる表情で苦笑した。
いつから、と唇を動かすと、トトにはそれだけでわかったらしい。高熱が引いた時からだよ、と答えた。だとしたら最初からだ。スピカがスペルカに気付くよりもずっと前から、トトはスペルカの存在に気付いていたということになる。それにしても、一体どこまでトトは知っているのだろうか。スピカがスペルカと話した内容まで知っているのだとしたら、と考えて、スピカは眉をしかめた。だとしたらなんなのだというのだろう。
それにしても、先程から香る甘いにおいが鼻を突いて仕方がない。その香りを嗅いでいると、思考がぼんやりとして一つのことを考えられない。
「……スピカ、」
支える為に添えられた手で両腕を掴まれたまま、青い瞳が覗き込んでくる。ここ数年で背が伸びたトトは、身を屈めないとスピカと目線が合わない。
スピカがじっと揺れる青い瞳を見つめ返すと、トトは少し顔を遠ざけた。
「この村に帰ってきてから、寂しい?」
予想もしなかったことを訊かれて、スピカは目を円くした。
スピカは、ずっと寂しい。
ふとそう思ったが、それを伝えようとは思わなかった。トトがいないとずっと寂しい。楽しい未来なんてスピカには見えなかった。トトの心は確実に離れていくだろう。仲の良いオスカも、いずれは誰かと結婚して家族を作る。いつまでも小さな幼なじみのままではいられない。他に一番のものができたら、それを一番に大切にしなければいけない。
世界を垣間見たスピカは、もう村人たちの輪の中に入っていく勇気も、努力する気力もない。たった一人の老人の死と共に、スピカの内に残っていたほんの僅かなものも砕けてしまった。
スピカには、この先ずっとトト以上の存在は現れないだろうと思う。こんなにも感情を揺さぶられる存在はきっとトトだけだ。だからきっと、トトがいなくなればスピカの心には穴が開いてしまう。トト本人を目の前にしても、どうしようもなく寂しいと感じてしまうのだから。
スピカは否定も肯定もせず、腕に添えられた手元の袖を掴んだ。その様子にトトは一瞬驚いた様に目を円くしたが、すぐに苦笑いを浮かべた。
「君は懲りないね」
その声と共に、袖を掴んでいた手を逆に強く引かれ、倒れそうになって一歩前に出た。
近すぎて焦点の合わない目で、スピカは深い青色を捉えようとした。触れそうな距離で、唇が動く気配がする。唇にかかる吐息は、トトのものだ。
「いいことを教えてあげるよ、スピカ」
その声がやけに低くて、スピカは身を強張らせた。
「ずっと、同じものなんてないんだよ」
そんなことはスピカでも知っていた。どれだけ頑張っても、保たれるものは少ない。緩慢とした年月は、意外と呆気なく過ぎ去ってしまっていたことを村に帰ってきてから益々強く感じた。けれど、トトの口からそんな言葉が吐き出されるなんて、少し前までは考えられなかった。同じであることを望んでいたのはトトだからだ。
「……甘い花の香りがするね。なんの花?」
知らない、という風に小さく首を振ると、トトは苦笑した。
「小さい頃にも、君からしてた匂いだ。黄色い花だよ」
ぞっとしてスピカは今度は必死に首を振ってそれを否定する。こんな香りは知らない。知っていてはいけない。
じわりと目に涙が浮かび、スピカはトトを睨みつけた。今にも零れ落ちてしまいそうな涙を必死で抑える。
トトはひどい。折角上塗りされた記憶に身を任せて忘れてしまおうとしたのに、それを望んだのはトトのはずだったのに、どうして呼び起こすような真似をするのだろう。あと少しで、トトに与えられたスピカの記憶は本当にスピカのものになり、本物のスピカになれるはずだったのだ。楽しい未来が見えなくても、それで辛い気持ちは少しばかり軽くなったはずだった。
あの夕暮れに染まった公園や、泣きじゃくる妹の声を思い出すと、どうしようもなく胸が切なくきりきりと痛む。友達の顔も、妹の顔も、両親の顔でさえ薄ぼんやりとしてはっきりとは思い出せない。それがますますスピカを哀しい気持ちにさせた。
その感情はスピカの体中に付き纏い、胸を締め付ける。もういいと思い、それらをスピカの記憶の影に隠したのだ。
「――どうして? スピカじゃないと、いけないのに」
久しぶりに出した声は、少し掠れて小さかった。
出せなかったはずの声を出して喋ったスピカに、トトは驚いた様子もなく小首を傾げた。
「それは、どういう意味?」
訊かれて、スピカはぐっと下唇を噛む。
言ってしまってもいいのだろうか。スピカの嘘は、もうとっくにトトにばれているだろう。けれど、それを言ってしまえば本当におしまいになってしまうかもしれない。それとも、始まりになるのだろうか。そんな小さな希望に賭けて、もしトトがスピカの名前を呼ばなくなってしまったら。
「まあ、いいや」
スピカが戸惑っている間に、トトは本当にどうでもよさそうにぽつりと言った。
「もう潮時なんだよ、スピカ。分かるだろう?」
長くなった黒髪を一房トトは掴んだ。するすると指の間から零れ落ちていく髪は、おばあちゃんが死んでしまってから切っていない。毛先が頬に当たるほどの短さだった髪が、胸下まで伸びるのは過ぎてみればあっと言う間のことだった。スピカはその間にも変わっていくものから目を逸らそうとして、心の中では諦めていた。
「村に帰ってきて、分かっただろう? 君は変わってしまった」
ぐらりと体が揺れる様な感覚がした。変わってしまった、という一言がスピカの胸を突き刺した。痛みに眉ねを歪めた拍子に、目尻に溜まっていた涙が零れ落ちた。
湖を通り過ぎてやってきた風は冷たく、足元を過ぎていく。さわさわと木々がざわめく音がして、遠くから微かに弦と太鼓の音が響いてきたが、すべてが遠くの世界で起こっているようだ。
スピカはじっと離れていく指先を見つめたあと、水底の様な深く青い瞳を見つめた。
「だから、はなれるの?」
どこか苦しそうに歪められた綺麗な顔も遠くのものに感じて、スピカは目線を落とした。
「スピカは、もういらない?」
答えはない。ただ、髪に触れていた手が離れていくだけだ。
泣きたいわけではないのに、ぼろぼろと落ちていく涙を止めることができずにスピカは顔を歪める。
もう、どうしようもないのだろうか。随分と前からこうなることを諦めて受け入れていたはずなのに、心の中では必死にそれを食い止める術を探している。そして、色んなことを後悔している。もっと早くから、スピカが ことこ であった頃のことを諦めていたら、何かが変わっていたかもしれない。深みに嵌る前に、イシュに村から連れ出してもらっていたらよかったのかもしれない。
けれど全てはもう過ぎ去ってしまった時間のことだ。いつも、今まで後悔ばかりしていた。もしものことを思っていた。
スピカが、本物のスピカだったら、トトの心は離れていかなかっただろうか。
トトの目の前にいるのが心苦しいのに、足裏が地面にくっついた様に動けずにいた。トトは何も言葉を返してこない。スピカにとってそれはとても長い時間だった。
不意に土を踏む音が近くからして、トトが僅かに動いた。それにつられるようにして、スピカもようやく僅かに顔を上げてトトを見た。トトの視線はスピカの後ろにある。
「……選べよ。言えよ。縛り付けるなら縛り付けて、逃がすなら逃がしたらいいだろ」
聞き慣れた、けれど普段よりは幾分か低い押し殺したようなその声が後ろから聞こえてきて、スピカは驚いて振り返った。声の主は、いつの間にかスピカたちから少し離れた木の根元で立っていた、オスカだった。上目で睨むようにトトを見るオスカは、驚きで目を大きくするスピカを見ることもなく苦しそうな表情で、けれど目には怒りを湛えていた。
「宙ぶらりんでいたら、スピカはあんたから逃げられない」
「逃がすつもりはないよ。僕が飽きるまではね」
飽きるまで。それはスピカにとってはとても酷い言葉だった。けれど、スピカは失望感と共に安堵を覚えた。少なくともそれは、今すぐという訳ではないのだから。
静かに涙を流し続けるスピカの頬をトトは黙って拭う。その手つきはどこまでも優しく、スピカの胸を締め付ける。けれどそれは一瞬のことだった。トトはオスカを一瞥すると、何事もなかったかのように村の方向へと去ってしまった。
トトが去ってしまったあと、スピカとオスカの二人は暫くお互いに声を掛け合うこともせず、静かな風の音だけが鳴り響いていた。オスカの方からスピカに声を掛けたのは、夜鳥の鳴き声が二度響いてからのことだった。
「声、戻ったんだな」
先ほどまでとは違い柔らかな、安堵交じりの声にスピカは顔を歪めた。
戻ったのは、声だけではない。押し込めていた筈の ことこ の記憶と共に、声が戻ってきたのだ。オスカはもしかすると違和感ぐらいは感じていたかもしれないが、そんなことは知らないのだろう。ことこ はほんの一瞬、スピカになりかけていたのだということなど。ことこ 自らそれを望んだことなど。
「てか、いつまで泣いてんだ」
オスカは、呆れた様子で言ったがそこには間違いなく心配そうな雰囲気も混じっていた。
オスカに言われてそのことにようやく気付いたスピカは、目を円くしたあとすぐに服の袖でそれを拭ったが、次から次へと流れる涙はスピカの意思に反して止まってくれる気配がない。それをオスカに知られるのがなんとなく癪で、スピカはそれを隠す為に俯いて目元をごしごし擦り続けた。
こんなにも、こんなにもトトと離れるのが辛いことなんてその瞬間にならないと分からなかった。予感すると共に想像もしていたけれど、ここまでには至らなかった。トトがいないと、スピカはどうしたらいいのか分からない。スピカにとって、トトはある意味この世界での道標のような存在でもあったのだ。いや、それだけではない。それ以上に、スピカはトトのことがどうしようもないほど大好きなのだ。憎しみも寂しさもごちゃまぜになって、スピカの全身に染み渡るその感情は留まってくれそうもなく、なくなってしまう気配もない。
「トトはもうすぐしたら……スピカのことがいらなくなる」
「……スピカ」
「どうしよう、オスカ」
弱弱しい声で訊かれても、オスカが返せる言葉はなかった。きっと気休めの言葉など役に立たないことも彼は知っていた。ただぎゅっと唇を噛む。目の前で弱弱しく泣き続ける幼なじみに、同情心と哀しさを募らせることしかできない。
初めて会った時も、この小さな娘は泣いていた。あの時も今も、トトのせいで涙を流す。昔は間接的ではあったかもしれないが、今は間違いなくトトの存在がスピカを苦しめている。自分はいつもそこに入り込むことはできないただの傍観者でしかない。
昔は三人で輪を作るようにしていつも一緒にいたのに、今ではオスカはその輪からはじき出されて、紛い物のスピカとかみさまになってしまったトトが、歪なかたちを作っている。
けれど、それももうすぐしたら壊れてしまうのだ。それはスピカでなくとも分かることだった。いつも二人には今にも壊れてしまいそうな危うさがあった。それは事情を知る者の目線だったのかもしれない。いつだったか、イシュもそんなことを言っていたのだ。その危さに妙に惹かれるところもある、と。それはオスカも同じだった。その儚さのわりに絶対的とも思える繋がりを二人は持っているように見えた。そこには、強く惹きつけられるものが確かにあったのだ。けれど、全てが壊れてしまってから残るものは、一体なんなのだろうか。
ぽたぽたと、雨のように涙が草の上に落ちる音が聞こえた。スピカは涙を流し続けている。もう隠す必要もないと思ったのか、顔を拭ってはいるが俯かずにその表情を隠してもいない。歪められた顔は涙でぐちゃぐちゃになっている。ぎゅっと閉じられた目は、色んなものを否定しているようだ。
「トトがすきだよう」
「うん」
「だいすきだよう」
「……うん」
搾り出すような声に、オスカは胸を痛める。
スピカはこんなにもトトに恋焦がれているのに、トトは一向にこの少女の真実を見ようとはしない。それは、村人達が隠そうとしたからかもしれないし、トトが目を逸らし続けたからかもしれない。今となっては、全てのことがぐちゃぐちゃに絡まりすぎて、はっきりとした真実など見つけられない。
けれど、分かることが一つだけある。もう、なにも元どおりにはならないのだ。