56.
本格的に寒くなり始めると、森では細長い葉が一足遅れで散り始める。それは幻想的な風景で、村人には慣れ親しんだ光景だった。テレトレの木に生えた硬く細長い葉は他の葉とは違い、重い葉の付け根部分を中心にくるくると回りながらゆっくりと地に落ちる。その葉が落ちる音は、雨の様だ。肌に直接当たると少し痛い。
おばあちゃんの墓参りに来ていたスピカは、頬に当たった葉に顔を顰めた。隣りでオスカが自分と同じく顔を顰めるのを眼の端で認める。
「おもしろいんだけどなあ、当たると痒い」
たった今葉が当たった手の甲を撫でながら、オスカは微妙な顔をして言った。スピカも微妙な顔をして頷く。
小さな頃は硬い葉を利用して、オスカが風車や動物を作っていたりした。いつもそれをトトへのお土産にしていたのだ。
スピカとトトが帰ってきてから、村は以前のように何も変わることなく動いていた。みんな明け方に起き出し、各々の仕事を始める。母親たちは朝食を作り、父親はそれぞれの仕事を始め、子供達は寺院に文字などを習いに行く。冬の前に採れたきのこや根菜を干し、それを使ってスープを作る。食べれる野草摘みに、木の実を拾いに、森に足を踏み入れる。
それらの営みとは別のところで、トトだけは一人生きていた。
一つ変わったことといえば、トトがたまに出かける様になったことだ。けれどスピカも、付きの騎士であるイーノス以外、他の誰もトトの行き先は知らなかった。騎士と共にふらりといなくなって、出かけた時と同じように気がつけば部屋に居るのだという。最初はシュトゥも他のみんなも慌てたけれど、それが何度か続くうちにあまり誰も気にしなくなった。それに、トト自信が「散歩に出ていただけだから、気にしないで」と言うのだ。誰が訊いても、イーノスもトトがどこへ行っているのか何も言わなかった。スピカもトトが何処に行っているのか気になって、何度か訊いたけれど、トトは同じ風に答えるだけだった。
帰り道、二人は並んで落ちてくる葉を払いながら歩いた。森は落ち葉の香りで満たされている。二人が一歩進むたびに、乾燥した葉や枝が割れる音がした。
「あれ? なんか聞こえねえ?」
落ち葉を踏むことに一生懸命になっていたスピカは、オスカのその言葉に顔を上げて、耳を澄ました。
聞こえるのは、テレトレの葉が落ちる音だけだ。たまに鳥の鳴き声が響く。
スピカが首を横に振ると、オスカは首を振り返す。
「聞こえるって、音楽みたいな……楽器の音だ」
その言葉にスピカの表情はぱあっと明るくなった。イシュかもしれない、と思うと嬉しくなる。けれど、オスカはスピカのそんな心情を察したのか、もう一度首を振った。
「ちがう、イシュじゃないよ。音楽隊くらい騒がしいぞ」
相変わらずのオスカの耳の良さにスピカを眉を顰めた。スピカにはそんな音は一切聞こえないのだ。オスカは本当に獣じみた五感を持っている。
それを口に出すことができていたのなら、今頃口喧嘩になっていそうなことをスピカは考えながら、歩みを速めたオスカに手を引かれて歩いた。
スピカとオスカが村の広場までやってくると、村中の人が集まっているかもしれないというくらいの人だかりができていた。広場へ続く道を歩いている途中に、スピカもオスカの言っていたような賑やかな合奏を聴いていたが、広場に来てその正体に気付く。人だかりの向こうには、大きな馬車が停まっていた。それはスピカも見たことのある馬車で、驚いたスピカはその馬車が見えた時点で足を止めた。
「どうした? スピカ?」
オスカが訊くが、スピカは人だかりの中心にある存在に釘付けになって何も応えることができなかった。
それは、スピカがイシュと旅をしている途中、少しの間路を共にした旅芸人一座だった。朗らかな音楽に、楽しそうな歌声。少し派手な服装の人たち。
「旅芸人一座だよ。ピオニオの娘のために、父親が呼んだんだ。なんでも知り合いがいるらしい」
人だかりの一番後ろでいたおじさんが、スピカとオスカに言う。ピオニオの娘とは、近々都の商人の家へ嫁ぐ若い娘のことだ。村では、その娘の為に、婿になる商人の息子も招いて祝宴を開く予定だった。商人の家族は、かみさまのいるこの村で婚儀を上げるのもいいと考えているらしい。
「祝いをあげるのは、三日後じゃないのか?」
オスカは旅芸人一座の興行を眺めながら、首を傾げる。
「三日間、村に滞在するらしい。……おっ」
おじさんが答えてから、嬉しそうに声を上げた。それと同時に周囲からはため息の様な歓声があがる。一人の少女が、水の中のようにふわりと空中で体を一回転させたのだ。その少女は幻想的な衣装を身に纏い、愛らしい顔にも神秘性を持っていた。
スピカはオスカの手を掴むと、その手のひらに文字を書く。
『この人たち、知ってる』
すると、オスカは少し目を円くしてスピカを見た。
「え、なんで? 都で知り合ったのか?」
『ちがう。イシュと旅してた時に会った』
「ええっそりゃ、凄い偶然だなあ……あ、そういえば手紙に書いてたことあったか」
感心したように言いながら、オスカは頭を掻いた。
いつの間にか設置された壇上では、前座を終えた芸人たちが円を描く様に並んでしなやかに礼をしていた。その中にはスピカもよく見知った顔もあれば、初めて見る人もいたし、知り合って仲良くなった人の中にはいなくなっている人もいた。旅芸人たちは各々、何らかの事情を抱えて旅をしている者が多いと、一番仲良くなったグリムルと云う男が言っていたことをスピカは思い出す。
「――この度は、お招き頂きありがとうございます!」
大袈裟な素振りで言う、縫いぐるみの様な体型をして髭を蓄えた男は一座の座長だ。快くスピカとイシュを馬車に同乗させてくれた。
「神の御座すこの土地で、芸を披露できること、一座の皆々、大変光栄に思っております。この地の花嫁は、必ずや幸福になれることでしょう!」
演技染みた話し口は、最早座長の特徴でもある。普段からあの喋り方なのだ。村人たちは楽しそうに見守りながらも、歓声を上げた。
「まるで本番だな」
呆れたように言うオスカも少し楽しそうだ。村人たちは祭りごとが大好きなのだ。そうでないと、体力勝負だとでも思える三日間の月祭りを心の底から毎年楽しむことなどできないだろう。
スピカがふいに顔を上げると、窓の中からその様子を見ていたのだろうトトの姿があったが、スピカが見ると同時に興味が失せた様に部屋の奥に引っ込んだ。
ピオニオ家の娘は、大人しいが美しい娘だった。月祭りでヨルカや他の娘たちと舞娘を務めたこともある。都からわざわざ娘に会いにやってくる商人の息子と逢瀬を重ねている姿は、スピカも村へ帰ってきてから一度見かけたことがあった。二人共とても幸せそうで、それを見守る者たちも幸せそうだった。
旅芸人一座がやってきてからは、村中が幸せな雰囲気に包まれた。オスカはひっきりなしに祝宴に呼ばれ、村に帰ってきてからはよく行動を共にしていたスピカは、家で過ごす時間が多くなった。いつも人だかりの中にいる旅芸人一座の人たちとは、まだ挨拶を交わしていない。各地を旅する芸人たちは、もしかするとスピカのことを覚えていないかもしれなかったが、頃合いを見てスピカは挨拶をしに行こうと考えていた。
台所で、森で拾った木の実を燻して、硬い殻を割りながらその日の夕食を何にしようか考えていた時だった。
扉が何度か叩かれて、スピカは布を広げた膝の上に散らばった殻を慌ててくず入れに捨てた。オスカやよく見知った村人なら、返事をすれば勝手に扉を開けて顔を覗かせるが、あいにくスピカはまだ声が戻っていない。黙っていたらいないのだと思われて帰られてしまうことがある。
ぱたぱたと急いで玄関に向かうと、おーい、と声がした。それが懐かしい声だったので、スピカの頬も自然と綻んだ。グリムルだ。
「おおい、嬢ちゃん。……いないのか?」
その声で、スピカは慌てて扉を開けた。
「いるなら、返事してくれたらいいのに」
開口一番にそう言った子供は、先ほど壇上で歓声を集めていた娘姿のレナンだった。レナンもスピカと仲良くしてくれた年下の子だ。グリムルとレナンは、スピカの姿を見てにっこりと微笑む。
「いやあ、嬢ちゃん、髪伸びたな。すっかりと娘らしくなって」
「スピカは子供らしいよ」
自分よりも年下の子供に子供扱いをされて複雑な気分ではあるが、それに慣れていたスピカはにっこりと微笑みかえす。入って、とは言えないので、二人の服の袖を引っ張った。
「一緒に旅をしてた時にスピカがこの村で住んでたって言ってたから、もしかしたら、と思って村の人たちに聞いたんだ」
レナンの声を後ろ手に聞きながら、スピカは二人を居間まで案内した。小さな卓子の前に二人を座らすと、居間と連なる台所でお茶の用意をする。木の実の殻を剥く作業を途中で中断いてしまったから、飛び散った殻や実が散らばっていたが、それを避けて湯を沸かす。
その様子を見た客人二人は、顔を合わせた。
「どうして何も喋らないんだ?」
不思議そうに首を捻るグリムルを見て、スピカは喉を指差し、喋る仕草をした。それひとつで二人は事情を察したらしい。眉を顔を顰める。
「声が出せない? ……まあ、いいや。遅れたけど、久しぶりだな。スピカ」
そう言ったのは、レナンだった。その言葉にスピカは内心安堵して頷く。旅芸人たちは、気にはしても事情を余り訊いてこない。イシュと旅をしている最中もそうだった。兄妹か聞かれたことはあったけれど、違うと答えてもそれ以上は訊いてこなかったし、どうして旅をしているのかも訊いてくる人はいなかった。最初馬車に乗った時は、興行の時とは違う閉鎖的な雰囲気に戸惑ったが、最初に話しかけてきてくれたのはグリムルとレナンだった。
「それより、嬢ちゃん聞いてくれ。こいつ、この村でもやっちまったんだ! 哀れな男たちを虜にした! 前座を終えて、舞台を下りてみれば早速若い男たちに群がられたんだよ」
グリムルは悲劇とばかりに大袈裟にそう言った。長く座長といるせいか、そう言う仕草は座長のものとそっくりだ。
スピカがきょとんとしながらレナンを見ると、レナンは首を傾げて微笑んで言う。
「黙ってるつもりだけど」
レナンは可憐な少女姿で舞を演じるが、少年だ。少年姿の時には剣舞をし、少女姿の時には幻想的に見えて軽業的な舞を踊る。元々少女の様な容姿をしているからか、その姿に違和感はなく寧ろとても似合っていた。それとは対象的に、グリムルは強面の大男だ。顎髭を蓄え、頬には大きな傷跡があるが、一座で一番明るく親しみやすい男でもあった。
「それにしても、嬢ちゃんこんな森奥で一人で暮らしてるんだなあ。感心するよ」
そう言ってグリムルはぐるりと辺りを見渡した。イシュと同じ風に、グリムルに対してこの家は小さすぎる。扉を通り過ぎる時には身を屈めないと入れないくらいなのだ。天井も低く見える。その様子を見て、スピカはイシュを思い出しくすくすと笑った。スピカの家に旅の途中のひと時を共にした二人がいるのは、スピカに少しの違和感をもたらしたが、それと同時に凄く嬉しいことだった。二人が覚えていてくれたことがなによりも嬉しい。
スピカがパドルの入った鳥かごを指差すと、グリムルはきょとんとする。
「ああ、お前がいたのか。悪かった」
グリムルが謝って指先を鳥かごの柵の間から差し込むと、パドルは嘴で大きな指を突いた。
二人はスピカたちと別れたあとの話しを一しきり喋ると、満足したように「また来るよ」と言って帰っていった。その頃にはもう日も暮れかけていた。
もしかすると二人に気を使わせてしまったのかもしれないと、静かになった家に入ってスピカは思った。
森奥とグリムルが言ったことを思い出す。村からそこまで離れているわけではないけれど、グリムルにはそう感じられたのだろう。そんなところでパドルがいるにしろ、スピカだけで生活をしている様は、傍から見れば寂しいものなのだろう。今でも、シュトゥやオスカの家族には家に来なさいと誘われるのだ。
慣れ親しんだ家でも、確かに寂しいと思うことはよくある。おばあちゃんがいなくなってしまってから、すぐに都へと連れて行かれたから分からなかったが、一人での生活は確かに寂しいものだった。おばあちゃんがいた頃とは明らかに違う。たまにオスカやオスカの家族が来てくれることもあるが、朝起きても台所には誰もいないし、夕食も殆ど一人だ。それなのに、最近ではトトの家に行く時やオスカが誘ってくれた時ぐらいにしか村には行かない。帰ってきてからはどうしてか、村の中に自分の居場所がないように感じることが多くなったのだ。
スピカがやってくるまでは、おばあちゃんもこんな生活をしていたのか、とスピカは思った。きっとその内慣れるだろうとも思ってはいる。
朝を起きて畑の世話をし、森の泉で水を汲む。パドルの鳥かごを掃除して餌と水を与え、遅めの朝食を食べて、トトの家に向かう。トトの家から帰る道の途中その日の夕食の献立を考え、家に帰ると火を灯しそれを作り始める。
最近ではスピカが家に行っても、トトの姿がないことが多くなった。そんな時、トトは『散歩』に出かけているのだ。そういう時は諦めて帰るから、トトと何日も顔を合わせていないこともあった。
そろそろ潮時なのかもしれないと、スピカは感じ始めていた。
スピカがトトに会いに行き共に時間を過ごすのは、村に帰ってきてからも続くのだろうと、スピカも他の誰もが思っていたが、二人が一緒にいる時間はトトの不在が多くなってから極端に減っていた。村人たちも二人のそんな微妙な変化に敏感に気付いていたが、誰も何も言わなかった。
スピカはそのことを考えると胸が苦しくなったが、どうしようもないことだった。近々やってくると思っていた時が、遅れてじわじわと気配を漂わせながらやってきたのだ。
トトがおしまい、と言えば、そこでおしまいになる。スピカはお役ごめんだ。いつも頭の中の半分以上を占めていたトトの存在が遠くなってしまうのは、まるで半身を失うかのような痛みをスピカに齎すかもしれないし、もしかすると案外平気なのかもしれない。そのことを考えるといつもスピカはぞっとして絶望的な気持ちになるから、頭の中からそんな想像を追い出そうとしていたが、一人になるといつも考えてしまっていた。
興行の二日目。
都からやってきたピオニオの娘の花婿は、村人たちに盛大に歓迎された。流石にその日はスピカも他の村人たちと共に出迎えに参加した。声が出ないスピカは、合唱する娘たちと並ぶことはせずにオスカの隣りで拍手をして、時折花びらを投げた。
村のセラントの名手であるおじいさんたちは村に伝わる歓迎の音楽を奏で、旅芸人たちはそれに合わせて様々な楽器を演奏し、唄った。
「セラントの森をくぐってきたのかよ」
呆れた声で言われたオスカの言葉に、隣りにいたスピカは思わず噴き出した。
花婿は、セラントの実のような真っ赤な服を着て登場したのだ。今の時期、セラントの森の実が弾けるのも納まっているはずだ。実際は通ってもなんら支障はないはずだが、そう言われれば、スピカは花婿がセラントの森で弾ける実の中この村までやってきたよに思えてならなくなってしまい、それがおかしくてなかなか笑いを止めることができなかった。
派手な出迎えが住むと、村人達は花嫁と花婿、その家族たちを中心に、広場で祝宴を開き始めた。村人と旅芸人たちは楽しげな音楽を演奏し、ピオニオの娘の友人たちは軽やかな足踏みで踊る。そこにはヨルカの姿もあった。気付けば広場中の人たちがその踊りに参加し、スピカもカムシカを相手に踊った。オスカの相手は酔っ払った花嫁の母親だった。
「小さい頃は手がつけられない程の悪ガキだったのに、本当に立派に育ったねえ!」
花嫁の母親の大きな声に、オスカの幼少時代を知る大人たちは同意して大きく笑う。それにはオスカも苦笑いするしかなかった。
スピカも久しぶりの村の祭りの雰囲気に、村人達とともに盛り上がった。広場は幸せな空気で満たされ、みんなが笑う。村中が家族だと、いつか誰かが言っていたことをスピカは思い出した。けれど自分はどれだけ笑いあっても、その輪の中には入りきれない様な気がしていた。言葉が出せないせいかもしれない。少しずつ自分の中で何かが溜まっていくことをスピカは感じていたが、その正体が何かは分からなかった。おばあちゃんの家に帰りたいと思っていたのに、自分の居場所は此処ではないように時々感じる。けれど、それは何処かということも分からない。
三曲目が始まる頃に、スピカはその輪の中から抜け出した。楽しんでいたけれど、ふとした瞬間に自分の内にある違和感に気付いてしまうと心が凪いでしまうのを止められない。それに気付かれないように、そういう時は村人たちから離れるのが一番だ。
家々の裏を通って帰る道中、スピカは離れた場所にトトの姿を見つけて唖然とした。
村中の人たちの殆どが、その時広場の方に集まっていたから、帰り道は誰とも顔を合わすこともなければ見かけることもなかった。広場から聞こえてくる歓声や音楽は、遠いもののように響く。
トトは、誰もいない村の中を何事もないように歩いていた。後ろにはイーノスも控えている。スピカはトトが時々いなくなってしまうことを思い出しながら、こっそりとその後を付けた。トトは迷うことなく細い路地裏を通り、畑の前を通り歩いていく。スピカは途中付けることに後ろめたさを感じたり、自分に呆れたりもしたがトトが村の中を歩いている事実に目を奪われて離すことはできなかった。「散歩」をしていることはスピカも知ってはいたが、本当に村の中を普通にトトが歩く姿など、想像できなかったのだ。けれどその足取りは、どこかを目指すもののようだった。
それに気付いたスピカは、ふと足を止めた。向かう先は、丘の方向だ。
凪ぎがまたじわじわと心の中を満たしていくのを感じて、スピカは身を翻すと、再び家へと帰る道を急いだ。