55.
芝を敷かれて整えられた丘のてっぺんにある道。そこから亜子の姉が消えたのは、瞬きする間のほんの一瞬のできごとだった。
その時、亜子は泣きながらも丘を登っている最中で、歩いても歩いても、はや歩きで行く姉との距離を詰めることができずにいた。自分が姉を怒らせてしまったことを理解してはいたけれど、姉はきっと自分のことを許して振り向いてくれるはずだと、期待していた。
そして、その期待通りに姉は振り向くしぐさをみせた。その瞬間だった。本当に文字通り消えてしまった。残像のように、ワンピースの赤い染みを彼女の目に残して。
亜子は泣くことも忘れて、姉がいたはずの場所をぽかんと見上げた。いくら見ても姉は現れない。ふらふらと丘の上まで上がると、その向こう側で野球をしている男の子たちが見えた。呼び声や、少し離れた場所にある道路で車の走る音がする。道の脇にぽつぽつと植えられた木が、長い影を作っている。
こんなに見晴らしのいい場所で、隠れる場所なんてない。
亜子はとうとう怖くなって、大きな声で姉を呼んだ。自分の声が響くのが分かる。それでもそれに返事はない。長い柱のてっぺんに付けられたスピーカーから流れる音楽が、公園中を満たす。
それから亜子は、暗くなるまで広い公園中、姉の姿を求めて巡った。
けれど、いくら探し回っても姉がその姿を現すことはなかった。
村は、トトと共に帰ってきたスピカを喜んで受け入れた。
村中の人たちが、馬車が帰って来ると共に歓声に似た声を上げた。トトが村を出て行った時の自分達の感情を忘れたように、みんな明るい表情で、護衛として付いてきた騎士たちも巻き込んで、その日はお祭りのような騒ぎとなった。
大人たちは杯を交わす。子供達ははしゃぎ回り、村で古くから唄われてきた歌を唄った。冬はもう目前で、朝には桶にはっていた水が凍る程の寒さでも、誰も家に帰ろうとしなかった。
スピカはそんな様子をじっと窓の内側から眺めていた。声は、まだ戻っていない。帰ってすぐにシュトゥが喉に効くという薬湯を飲ませてくれたけれど、効果はなかった。
「スピカ、お茶が入ったわよ。冷めないうちにどうぞ」
後ろから声をかけられて、スピカは振り向くと笑顔で頷いた。シュトゥが淹れてくれたお茶は、格別だ。テーブルの上を見ると、おばあちゃんが昔よく作ってくれた、乾燥させたテヌーの実が入った白い砂糖菓子も用意されていた。
シュトゥの向かいの席につくと、差し出されたお茶を飲む。良い香りのそのお茶は、春の間に摘まれた葉を燻したものだ。砂糖菓子を口に含むと、じんわりと甘い味と香りが口中に広がる。
「イーノスも、どうぞ」
シュトゥがトトに似た笑顔で言うと、窓辺に凭れていたイーノスが頷いてスピカの隣に腰掛けた。スピカがそれを見てお菓子を頬張ったままへらっと笑うと、鬱陶しそうに顔を顰める。卓上に置かれた鳥かごの中で、パドルが首を傾げた。
セスティリアスとリュシカニアと共に、イーノスは帰らなかった。トトに付いて、村まで一緒にやって来たのだ。セスティリアスがお母さんと、もうどれくらい過ごせるか分からないと言っていたから、母親に会えないのは悲しいのではないかとスピカは思ったけれど、イーノスはいつもと何も変わらないように見えた。それに、スピカは自分勝手な思いだと分かっていたけれど、イーノスとだけでも別れずにすんだのが心強かったし、嬉しいことだった。
トトはやはり、優しい口調は変わらないのに、時々発作のように唐突にこわくなる。村人達は以前と何も変わっていない筈なのに、スピカは以前よりも強い疎外感を感じてならない。都へ出て、旅をして、ほんの少し広い世界の一部を垣間見たスピカの、村人に対する視線がきっと変化してしまったのだ。村を出た時に、スピカを攫った老人のように自ら命を落とした人が村人の中にいなかったことが、スピカにとってせめてもの救いだった。
「ねえ、スピカ。スピカさえよければ、この家で暮らさない? いくらここが平和な田舎だと言っても、あなたは女の子だし、まだ子供だもの。不安だわ。それに、家族がたくさんいた方が寂しくないでしょう?」
スピカはふるふると首を横に振ると、パドルの方を指差した。全く一人というわけではない。
テアタにも言われたことだけれど、スピカは断った。寂しくないと言えば嘘になるけれど、村で暮らすのならば、スピカの居場所はあの小さな家がいい。将来的なことはわからないけれど、唐突になにが起こってどうなるのか分からない未来のことなんて考えなくてもいいと思った。
スピカは以前村に住んでいた頃と同じように、トトに会いにくる。少し前に予感した終わりは、スピカの予感からは外れてずっと先の未来にあるのかもしれない。どうしてあの時急激に、お別れの予感が心の中に広がったのか、スピカには分からなくなっていた。
スピカが無意識に二階の方へと目を向けると、イーノスが小さくため息をついて立ち上がった。スピカも慌てて立ち上がると、階段の方へ向かうイーノスに付いて行く。
階段を上っている途中で、イーノスはふいに立ち止まり振り返ってスピカを驚かせた。
「なにか、大切なことを忘れてないか?」
そんなことを訊かれて、スピカは小首を傾げながら必死で考えた。大切なこと。そんなことを忘れているのなら、思い出さないといけない。パドルのごはんは朝あげた。荷物は都から全部持って帰ってきたはず。また暮らすおばあちゃんの家の掃除は、これからだ。スピカがいない間にもシュトゥやテアタが掃除をしていてくれたらしいから、きっとそんなに大変ではない。
考えても思いあたることがなく、スピカが顔を顰めると、イーノスはなにかを見定めるようにスピカを見つめた。
「……お前は、村のはずれにあるあの小さな家に一人で暮らすのか?」
どうしてそんなことを訊くのだろうと思いながらスピカは頷く。イーノスはトトの家で滞在するらしい。
「どうして一人で暮らさないといけないんだ?」
シュトゥと同じように、イーノスもスピカのことを心配してくれているのかもしれないと、スピカは少し思ったけれど、そういう口調でもないようにも感じられた。なにかを諭すような、それでいて探るような言い方だ。
どうしてなんて、おばあちゃんがいなくなってしまったからだ。それに、おばあちゃんのいなくなった村に帰ってきたから。それでもスピカはあの家が好きだから、あそこで住む。他に理由なんてない。
スピカがぽかんと階上にいるイーノスを見上げていると、イーノスはやがて諦めたようにため息をついてまた階段を上り始めた。ずっと上を見上げて首が少し痛くなったスピカも、首の後ろを擦りながらそれに続いた。
トトの部屋の前までやってくると、イーノスは扉の隣で立ち止まった。代わりにスピカが扉を叩く。いくら待ってもトトの返事がなかったから、勝手に開けて中を覗き込んだ。
トトの部屋は、トトが都へ行ってしまう前から何一つ変わっていない。窓辺にある寝台に、少し古びたテーブルに椅子、壁に寄せられた大きな本棚には分厚い本や薄い本が綺麗に並べられている。そしてその本棚の横には、机が置かれている。
部屋の主は、寝台の上にいた。珍しく寝ているらしい。スピカが伺うように、隣にいて部屋の中を見ようともしないイーノスを見ると、イーノスに首で行くように指示された。
スピカだけが部屋に入って、足音を立てないようにゆっくりと寝台に近づいた。こうやって、昔オスカと一緒にトトを驚かせたことがあったから、スピカは悪いことをしているという気持ちよりも、悪戯をする前の様な少しわくわくした気分になった。そっと寝台に近づいて、覗き込む。トトは寝ている。けれど、覚えている幼い子供の姿からは離れて、少し大人に近づいた姿で目を閉じていた。
スピカはほんの少しの違和感を感じて、目を細めた。なにかがおかしい。けれど、その小さな疑問も、目を覚ましたトトと目が合って、すぐに消えてしまう。
「来てたんだ」
優しそうに笑ってトトは言う。だからスピカも微笑んで頷いた。こんな時だけは、トトの恐さを忘れる。
別に久しぶりに会ったわけでも、声を聞いたわけでもないのに、スピカはトトに久しぶりに会ったような気がした。都から帰って来る馬車の中ではぼんやりとしていたからか、記憶も曖昧だ。もしかしたら寝ていたのかもしれない。村に着いてからは、スピカはオスカとヨルカとテアタと四人でおばあちゃんの家に久しぶりに帰り、トトとイーノスはトトの家にそれぞれ帰った。それが昨日のことだ。
スピカはまたこうしてトトに会いにやって来た。トトになにかを言われたわけではなく、スピカの意思で、以前のように。
「スピカ」
右耳にトトの手が触れて、スピカはくすぐったくなり、くすくすと笑った。
「久しぶりのおばあちゃんの家はどうだった」
訊かれて、トトの手のひらをとるとそこに指を這わせる。ゆっくりとそこに文字を綴っていくと、トトは頷いた。
「小さかった? 都の寺院に暫く住んでたから、そう感じるんだろうね」
スピカは頷く。都の寺院と比べたら、おばあちゃんの家は豆つぶみたいだ。けれどそんな豆つぶみたいな家の方が、スピカには合っている。
まだ微睡んでいるような表情で、トトは眩しそうに窓の方へ目を向けた。それにつられてスピカも窓の方を見ると、窓辺には小鳥が三羽とまっていって、部屋の中を覗いていた。いつか見たような光景だ。その後ろに広がる空には薄っすらと白い雲がかかっていた。
「雨が降るよ」
ぽつりと呟かれて、スピカは無意識に頷く。景色はスピカが家を出る前よりも暗みを帯びている。
トトは、いつも雨を予知する。
「声はまだ戻らない?」
トトはぽつぽつと言葉を紡いでいく。
スピカが頷くと、トトは悲しみを滲ませたような笑い方をした。
「お前は、捨てたのか」
悲しそうな笑顔のままそう低い声で言ったトトに驚いて、スピカは思わず後ずさると、後ろに置いてあった木の椅子に肘をぶつけた。それを見たトトに今度は愉快そうに笑われて、むっとしたスピカはトトの手を引っつかむと乱暴に手のひらに文字を綴る。
「ご名答」
にやっと笑って、スペルカが今度はスピカの手を掴んだ。
「スペルカと会うのは、久しぶりだろう? スピカ? もっと嬉しそうにしてほしい」
スピカが睨みを利かせても、スペルカは笑い顔のままだ。逆撫でされているような嫌な気分に顔を顰めながらも、スピカは苛立ちを収めようと我慢した。スペルカを相手に怒っていたら、ますます腹が立つだけなのはわかっている。
苛立ちを抑えようと必死になっているスピカは、スペルカの言った言葉の意味を考えることも忘れてしまった。
「村に帰ってきた気分はどうかな? スピカ?」
おどけた調子で言うスペルカを横目に、スピカは答えようともせずに窓の外に目をやった。
気分は、悪くない。スピカは懐かしい村に、あれだけ帰りたかった村に帰ってきたのだから。けれど何かがしっくりとこないのは、やはりスピカが外の世界で成長してしまったからだろう。
「相変わらずこの村は澱んでいる。けれど、居心地はいい」
寝台の上で伸びをしながらスペルカは言う。
「おもしろくないと、つまらない」
両極端な言葉に、スピカは逸らしていた目をスペルカへと向けた。それにしても相変わらずスペルカの言葉は要領を得ない。スピカにその言葉の意味を推し量ることは難しいことだった。
スピカはいつもと違う表情で笑うトトの顔を眺めながら、スペルカに聞く。
『スペルカは、どうしてスペルカなの?』
まるでどこかで聞いたことのあるような台詞だと、文字を綴っていた手を止めてスピカはぼんやり思った。スペルカの顔を見ると、スペルカはスピカの想像とは違って、不思議そうな顔をしていた。
「どうしてと言っても、スペルカはスペルカでしかない」
『おじいさんが、じぶんでじぶんをころしたのをしってる?』
そう問いながらも、スピカはその時の光景を思い出したのだろう、躊躇したように一瞬手を止めた。その表情は硬く、けれどどこか泣いてしまいそうにも見えた。
スペルカはいつもの悪戯っぽい笑顔ではなく、トトの表情に似た微笑みで首を傾げた。
「スピカ、命はこわれものだよ」
言って、スペルカの手の上で止まっていた手を両手で包み込む。
「大切に大切にしないと、簡単に壊れてしまう。けど、あの老人は自分でそれを選んだ。壊れやすいものを持ち主が壊そうと決めたのなら、それを止めるのは難しい」
『スピカは』
スピカはスペルカの手から自分の手を引き抜くと、またスペルカの手のひらに文字を書き始める。
伏せた黒い睫が、その瞳にある色を隠す。
『スピカは、しあわせにはなれない』
ああ、そうだろうな。とスペルカは伏せられた睫を見つめながら思う。
スピカはもう、心の底から幸せを望むことができないだろう。傍から見て幸せに囲まれていても、本人がそれを望まないと幸福な気分になんてなれない。幸せに浸って、いざやってくるかもしれない絶望に、スピカは怯えている。それから、老人の死を目の当たりにしてからは罪悪感を抱え続けている。
スピカの内には、怯えや罪悪感でいっぱいだ。それと一緒に、優しさや温かい気持ちもある。普通の人間だ。なにかが変な訳ではない。その愚かさも含めて。
「馬鹿だなあ」
スペルカは優しさを含ませた顔で微笑んだ。