54.
都へ戻ると、寺院ではたくさんの騎士や尼僧たちが馬車のもとへ集まってきた。皆深刻そうな表情をしていたけれど、トトが馬車から降りてきても、何も聞かずにただ黙礼した。おそらくトトは、何も言わずにイーノスと手近の騎士を連れて、あの集落へやってきたのだろう。
司書に似たあの壮年の騎士が、一番歳をとった尼僧になにかを話しているのを視界の隅に、尼僧や騎士たちを置いてスピカとトトは寺院に入った。ひょこひょこと歩くスピカを見かねたのか、トトは途中スピカに肩を貸して階段を上った。
スピカはトトの横顔をちらっと見て、視線を落とした。トトと二人になると、またあの光景を思い出してしまう。弾け散ってしまった狼と、血まみれでいた老人の姿が重なる。
トトもそれが分かっていたのか、歩いている間スピカに話しかけようとはしなかった。
「二日後に、村に帰るよ。それまでにお別れの挨拶をしておいで。とりあえず今は、もう一度傷の手当をしたほうがいいな」
部屋に入ってトトはようやくそう口にすると、見計らったかの様に扉を開けたイーノスが持っていた手当ての道具を受け取った。逃げようとするスピカを捕まえて寝台に座らせた。観念したようにスピカが足を差し出すと、トトはぺりぺりと血でくっついた包帯を剥がし始める。瘡蓋を無理矢理剥がすような痛みに、スピカは顔を歪める。赤黒い傷口では血と透明な体液が固まっている。薬を塗られて悲鳴を上げるような表情をしたスピカからは、やはり声は上がらなかった。
それからスピカは、セスティリアスと会うために噴水のある広場に向かった。都の街は、村とは違って人が溢れかえっていてうるさい程で、その賑わいにもスピカは慣れ始めていた。市場ではたくさんの果物や、野菜、少し怪しい宝石店や古物屋などが立ち並んでいる。スピカは色んな香りを嗅ぎながら、人ごみの中を歩いて行く。途中、近くで物が壊れる大きな音がして、驚いて立ち止まると、男達が喧嘩をしているようだった。思いの外それは近かったらしく、スピカはその様子を凝視してしまう。何かを思い出すような光景だったが、それよりもスピカは驚きで茫然としてしまっていた。
「危ないよ」
服を引かれてこけそうになりながらも、スピカが振り返ると、後ろにはちょこんと大きな犬が座っていた。アルカだ。
「あいつら、喧嘩してるふりして、露店の商品を盗むんだよ。いい加減、みんな気付けばいいのに」
呆れた声で言ったのは、アルカの隣に立っていたセスティリアスだった。そう言いながらも、セスティリアスはみんなに言ってやる気はないらしい。驚き顔のスピカと目が合うと、にやりと悪戯そうな笑みを浮かべた。
「とりあえず、広場の方に行こう。スピカ。足の怪我は大丈夫?」
セスティリアスはなんでもお見通しらしい。もしかすると、スピカがひょこひょこと歩く姿を見ていたのかもしれないけれど。スピカが頷くと、セスティリアスはにっこりと笑った。
出会った時と同じような状況だったけれど、セスティリアスはあの頃とはもう随分と変わっていた。長かった髪は短く切られ、血管が透けて見える程白かった肌は、相変わらず白いけれど少し日に焼かれて色みがある。目は、透き通るような金緑だ。それに比べて、スピカは余り変わっていない。
そんなことを前にも考えたことを思い出して、スピカは一人くすりと笑った。
広場に着くと、そこにはリュシカニアの姿もあったので、スピカはきょとんとした。リュシカニアは、いつもの尼僧の姿ではなく、服装は街を歩く若い女性のそれと似たような格好で、長いぎんいろの髪を背中に垂らしていた。
リュシカニアがここにいる理由を求めるようにスピカがセスティリアスを見ると、足にじゃれ付くアルカの頭を撫でるのを止めてセスティリアスは微笑んだ。
「おわかれだね、スピカ」
日の光りを受けて、セスティリアスは眩しいほどの笑顔で言う。
そうだ、スピカはセスティリアスとアルカにお別れを言うためにここに来た。セスティリアスはこの日この場でスピカがお別れを伝えることを予見していたのだろうか、とスピカは思う。お別れと言っても、村と都の距離では会いたければ会いにいける。一生のお別れという訳ではないから、スピカは少し寂しいと思いつつも、気軽な気持ちでやってきた。けれど、先にお別れを言われたからか、呆気にとられると同時に少し寂しい気持ちが湧いてくる。
「これで、最後だよ」
スピカの気持ちに反応したかのように、セスティリアスが言う。
スピカは意味を理解できなくて首を傾げた。
「私たち、国へ帰ることにしたのよ、スピカ。国と言っても以前住んでいたところとは少し違うところだけれど……両親と暮らすことになったの」
リュシカニアの言葉に、スピカは大きく目を見開いた。
北国は遠い。セスティリアスたちのような色素を持つ人たちが暮らす地域は、特に。それをスピカはイシュとの旅で知った。一日や二日なんて距離ではない。何週間も、何ヶ月も旅をしなければ辿り着くことはできない。それに、道のりは危険なものだろうということも聞いていた。
「まあ、絶対に二度と会えない、って場所でもないんだけどね……私達の場合、これで最後。お別れだよ、スピカ」
それは、いつもの予見なのだろうか。セスティリアスが匂わせた本当の別れの予感に、スピカの心はじわじわと湿らされていく。
「実はね、お母さんが病気なんだ。多分、そう長くはない。旅に耐えられる体じゃないから、かみさまに治してもらうこともできないの。最後に過ごせる時間がもうどれくらい残ってるか分からないから、このあとすぐにでも都を出てくよ。イーノスは、かみさまに忠誠を誓ってるから、かみさまから離れないけど」
言いたいことはたくさんあったけれど、どうしても声が出なくて、スピカは悔しそうに唇を噛む。最後のお別れなんて言わないで、きっとまた、絶対に会えるよ、と叫びたかった。
日はもう、傾き始めている。
「いっぱい振り回してごめんね、スピカ。信じてもらえないかもしれないけど、私、スピカのことが大好きだよ」
ぽろぽろと泣き出したスピカの顔を覗き込んでセスティリアスが言う。アルカも慰めるようにスピカの手を舐めた。
「私もよ、スピカ。もう一人妹ができたみたいだったわ。私たち遠く離れていても、スピカの幸せを願っているから、あなた自身も、幸せになる努力を惜しまないで。あなたが幸せになって、誰かが不幸になるわけじゃないのよ…… あと、それからちゃんとご飯を食べて、夜更かしもしちゃだめよ」
「……お姉ちゃん、それじゃお母さんだよ」
「あら、やだ」
三人ともくすくすと笑うと、足元でアルカが大きく首を傾げた。
そのあと都の門前で待っている馬車まで向かう二人と一匹を見送るために、スピカはセスティリアスに付いていくことにした。これで本当に最後なのかと思う度に、一度は引っ込めた涙がじわじわと湧き出してくる。もっと一緒にいたいと思ってしまうと、涙がまた零れた。
いつまでもめそめそとしているスピカに対して、年下であるセスティリアスはいつもと別段変わらない様子で、スピカの手を引きながら歩いている。その様子を見ながら、後ろを歩いていたリュシカニアは思わず苦笑した。これでは、いつも以上にスピカの方が幼く見えてしまう。
セスティリアスは口が達者で表情が豊かだけれど、そう見えて実は感情は薄い。予見の力のせいもあるのかもしれないけれど、おそらく元から持つ性質もあるのだろうとリュシカニアは考えていた。けれど、そんなセスティリアスでも、昨日の晩一人静かに泣いていたのをリュシカニアは知っている。セスティリアスも、初めてちゃんとできた友達であるスピカと別れる、寂しいのだ。
都の門前は、いつも通り人が多く、馬車の量も多かった。その中から一瞬で自分達が乗る馬車を見つけたセスティリアスは、その場に着くと同時に馬車のある場所を指差した。御者台の上で、若い男が煙管を吹かせて暇そうにぼんやりとしている。
「じゃあね、スピカ。手紙書くから。まあ、手紙が届くのも何週間もあとになっちゃうんだけどさ」
「セス、私は先に行ってるわね。じゃあね、スピカ」
リュシカニアはスピカの頬に自分の頬を合わせる。周囲でも、人たちが同じように頬を重ねている人たちが所々にいた。最後の、お別れの挨拶だ。
「あなたにも、幸せが巡りますように」
スピカはぽろぽろと涙を流しながら、馬車の方に向かうリュシカニアに大きく手を振った。
「ねえ、スピカ……誰も気付かないけれど、何年かに一度、ここら辺では、全く同じ空気が流れる時があるの。同じ天気に、同じかたちの空、同じ強さの風、同じ月」
スピカは涙を拭いながら、首を傾げた。セスティリアスはスピカを見ているのに遠くを見るような目をしている。
「三年後だよ、スピカ、三年後に、また同じ空が巡ってくる」
同じとは、たった今と同じという意味だろうか。スピカは相変わらず唐突で意味の掴み難いセスティリアスの言葉に困惑してしまう。
「お別れは、いつも唐突でしょ? スピカ。これが最後だって分かる私達って、幸せなのかも。ちゃんと、お別れの挨拶ができるんだから」
これが、本当に最後だとやはりセスティリアスは思っているようだ。思っている、というより、知っていると言った方が正しいのかもしれない。スピカは、それが本当なのかも分からないから、ただ、セスティリアスが醸し出す別れの雰囲気に呑まれるだけだ。納得はし難いけれど、これが最後なのだと、心のどこかで思っている。
「スピカと別れるのは哀しいけど、私は幸せになるよ。スピカとは別々の場所で、友達を作って、いつか誰かと結婚して、子供を産んで、歳をとっておばあちゃんになるの。スピカのことは忘れない。絶対に」
猫の様な瞳がスピカの目を見つめて、細められる。スピカも泣きながらもなんとか微笑むことができた。それでも哀しさや寂しさが次々とあふれ出してきて、止まらない。
セスティリアスはそんなスピカの頬に、自分の頬を重ねて言った。
「コトコにも、幸せが巡りますように」
二人と一匹を乗せた馬車が都の門をくぐり抜けるのを見届けたあと、スピカは泣きながらとぼとぼと寺院に帰る道を歩いた。別れてしまったあとは、ますます哀しくなって涙が止まらなくなってしまった。横を通り過ぎる人が、不審げに見てきても構ってなどいられなかった。
お別れは、いつも唐突というセスティリアスの言葉は、全くその通りだった。今まで人生の中に干渉していた人が、唐突にその場から外れてしまう。別々の場所で、係わりのない人生を送る。セスティリアスやリュシカニアとは、できればもっと係わっていきたかったとスピカは思う。スピカにとってセスティリアスは、得体の知れないところもあったけれど、この場所で初めてできた同世代の女の子の、大切な友達だった。リュシカニアは、姉のようで、アルカはスピカを子分のように思っていたかもしれなかったけれど、大好きだった。
いつかは、誰とだって必ず別れは訪れる。その度に、スピカはこんな風に哀しくなるのかと思うと途方もなく寂しいような気分になって、賑やかな市場を彩る人々に目を向けるようにしながら歩いた。
市場の人々は、スピカの哀しみなど知る由もなく、楽しそうに声を張り上げたり、歌を歌ったり、つまらなそうに煙草を吹かせたりしている。喧嘩はもう終わったのか、先ほど男達がつかみ合いをしていた場所では、人々がすたすたと歩いている。一目見ただけでは、その人たちがどんな生活をして、どんな人生を歩んできたかなんてスピカには到底分からない。
お互い生きている限り、なにが起こるかわからない。セスティリアスの予見がはずれることだって、たまにはあるかもしれない。それにもし当たっていたとしても、別れは辛いけれど、乗り越えられないほどじゃない。スピカはそう思って、しゃくり上げながら涙を拭った。
スピカは明日トトと一緒に村に帰る。都とも、暫くはお別れだ。トトが村に帰れば、月祭りはまた村で行われるようになるだろう。
おそらく全ての事実を知っているトトと、偽者のスピカ。以前と全く同じ状況ではないけれど、村に帰って、スピカはスピカであり続ける。セスティリアスは ことこ の幸せを願ってくれたけれど、スピカはスピカのままトトの傍でいる。
きっとそのうちやってくる、お別れの時を待ちながら。
スピカが寺院についた頃には、もう空は茜色に染まり、空気は少し冷え始めていた。都の中心にある寺院から都の門のところまでは、普通に歩いていても時間がかかる。とぼとぼと泣きながら歩いていたから、かなりの時間をかけてしまったのだ。
階段の前から寺院を見上げてようやくそのことに気付いたスピカは、少し慌てて階段を上った。夕食の時間までに戻らないと、怒られてしまう。そう思って、怒る人がもういないことに気付いたスピカは歩みを緩めた。また寂しさが胸を覆いつくそうとした時、懐かしい歌が聞えて階段の途中で振り向く。
歌は、礼拝者の列のところから聞えてきていた。幼く、たどたどしい歌声だ。けれど、間違えようがない。
スピカは目を見開くと、列の中からその声の主を探した。
そんな訳がない、と思う。この場所で、その歌を歌う人なんていない。赤く染まる公園のなか、途切れてしまった歌。
歌を歌っていたのは、腰を曲げた老婆に手を引かれて列に並ぶ、幼い少女だった。ちょうど、スピカが村へやってきた時と同じ年頃に見えた。こげ茶色の長い髪を、左右で編みこんでいる。その少女はスピカの視線に気付くと、少し驚いたように目をぱちくりさせ口を閉ざしてしまった。
スピカが近寄っていくと、その少女は目を逸らすこともなく、大きくした目でスピカを見つめた。スピカが近づいてきたことに気付いた他の礼拝者たちは、微かにざわめく。その誰もが月祭りの日に、スピカを見た者たちだった。
「わたし、お姉ちゃんのこと知ってるよ」
そう言ったのは、じっと見つめてくる幼い少女だった。
スピカは列の数歩横で立ち止まると、じっと少女を見つめ返した。どこにでもいそうな、普通の少女だ。愛らしさのある顔立ちもどちらかと言えば平凡なもので、けれど ことこ のいた場所では滅多に見ることのないような人種の顔立ちだった。昔見たことのある ことこ のおばあちゃんの少女時代の写真をふと思い出す。ことこ のおばあちゃんは、ことこ が住んでいた国とは違う国の人だった。
最近はそんなことを少しも思い出さなかったのに、歌のせいか、今スピカは唐突にけれど違和感もなく思い出していた。
「わたしね、都に住んでるんじゃなくって、違う町に住んでるんだけどね、その時にお姉ちゃんを見たよ。大きな男の人が楽器を弾いて、お姉ちゃんが歌を唄ってたんだ」
少女はスピカがなんの反応を返さないのも気にせずに続けた。
少女の右手を握る老婆は、人形のように動かない。ただ、列が動くとゆっくりと階段を上るだけだ。
「おばあちゃんの耳、聞えないの。だから、かみさまに治してもらうんだ。そしたら、お姉ちゃんの歌ってた歌を、聞かせてあげるの」
そう言うと、にかっと笑う。生え変わりの時期なのか、前歯が一本なくて、妙に愛嬌のある顔になっていた。
「お姉ちゃんも、かみさまに会いにいくの?」
こくんと頷いてから、スピカは寺院の方を見上げる。列の先を進む巡礼者の中の人たちと、目が合っては逸らされることに居心地の悪さを感じながらも、スピカは改めて、今までは何か大きな動物のようにも感じていた長い行列の人たちをまじまじと見た。
みんな、トトに何かを求めてこの長い列に並んでいる。トトが村に帰ってしまったら、この人たちはどうするのだろう。トトの影響力は、スピカには計りしれない。集落で自ら命を落としてしまったあの老人には、分かっていたのだろう。
村にいた間、どうしてか かみさま を求めて村にやってきた人は殆どいなかった。あとでイーノスに聞いたはなしだったが、村は都とは違うから、トトが村にいる間は殆どの人が、月祭りの時以外は村へ行くことができなかったのだという。つまりは封鎖されていたのとほぼ同じ状況だったのだろう。村はあくまで、昔と同じ空気を保たないといけなかった。
「きんいろの髪に、あおい瞳のかみさま。すっごく綺麗なんだって。早く会いたいなあ」
少女は夢みるように言う。
少女が、この行列の人たち全員が、あの老人と同じ毒に侵されるのだろうかと思うと、スピカはこわくなる。誰もあの末路を辿らないとは、言い切れない。げんにトトは、何度もあのようなことがあったと言っていたのだ。
けれどスピカは、少女も、他の人たちのことも止めようとは思わなかったし、できなかった。きっと救われる人もいる。スピカはなにも断言できない。
スピカが視線を落とすと、少女が心配そうに覗き込んできた。
「だいじょうぶ? お姉ちゃん。泣いてたの? 今も、泣いてる?」
スピカは目元に指先を当てた。少し目が腫れている。
あまりにも心配そうな声色で聞かれたので、なんとか笑い顔を作ると首を振った。
「そう? それならいいけど……どんなかなしいことだって、きっとかみさまが消してくれるよ!」
疑うことをしらないような雰囲気でいう少女に、反論する言葉さえ見つけられずに、スピカは小さく頷く。ちょうどその時、止まっていた列がまたゆっくりと動き始めて、老婆に手を引かれた少女はスピカに向かって手を振ると、前が進むのに続いた。
一度は止められた歌が、また聞こえてくる。少女が歌っているのは、スピカが忘れてしまっていた、公園で途切れた歌の先だった。
どうしても思い出せなかったのに、その音色はスピカの耳に自然と馴染む。少女の歌声が、公園を流れる歌と重なる。景色は夕焼けに染まり、甘い香りと、ほんの少し雨が残した湿ったにおいがした。
セスティリアスとの長い別れが本当なら、もう ことこ の名前を呼んでくれる人はいない。
やっと思い出した歌と、ことこ の様々なことを打ち消す。スピカの記憶を辿る。
もう、辛い思いや哀しい思いはしたくないな、と思った。
そして、その殆どの原因がスピカが ことこ であったことにあるとスピカは知っていた。村には、オスカがいる。けれど、心を覆っていく暗雲は止まってくれない。ほんの一瞬見せられた灯りも、じわじわと染み出して、いつの間にか大きくなっていた絶望によって消えてしまう。
空が橙から紺色に変わっていく。景色は驚くほどの速さで、赤から蒼を含んだ薄闇に。家々の窓からは橙色の灯りが漏れ始めている。煙突からは、夕食の白い煙が立ち上り風に流れる。
大きな絶望感と、一つの決意で、スピカのなかの ことこ がまた少しずつ薄れていっていることに、スピカ自身、もう気付くこともなかった。