53.
「きょおは、どこにいこう」
そう楽しそうに言ったのは、妹だった。その様子を ことこ はぼんやりと眺める。妹は、今日の予定を頭の中で組み立てている最中なのだろう。大きな目はきょろきょろと動いて、まるで何かを探しているようだ。
大きな液晶テレビの中では、綺麗なお姉さんが今日は全国的にくもりとなるでしょう、と告げている。
そんなことはテレビを見なくても分かっていた。昼間なのに空はどんよりと暗く、晴れる兆しは欠片も見当たらない。それでも妹は気にした様子もない。むしろそんなくもりの雰囲気を楽しんでいる様にも見える。
ことこ もくもり空が嫌いなわけではなく、どちらかと言うと好きな方だった。どんよりとした空気や風景は、いつもと違った雰囲気で、何か違うことが起こりそうな予感がする。
「ごじになったら、帰ってくるからね」
そう言って妹は小さな手で、飼い猫の額を撫でた。夕方の公園のいつもの風景を思い出したのか、歌を歌い始める。結局行き場所はいつもの児童公園に決まったのだろう。
ことこ はその幼い歌声を耳にして、立ち上がった。
妹の歌声は、だんだんと靄がかかるようにぼんやり遠のいていく。
「まって」
ことこ は呟いた。その歌の続きを聴かせて欲しいと思って、妹に近づく。
どうしても思い出せない歌の続きを。最後に見た風景さえ忘れてしまったら、誰も本当の ことこ を知る人はいなくなってしまう。
確かに ことこ はここにいるのに、その ことこ を知る人がいなくなってしまって、自分さえも忘れてしまったら、ことこ は終わる。
最初からいなかったように。
「スピカ」
呼ばれてスピカが目を覚ますと、そこは馬車の中だった。
ぼんやりと低い天井を眺めていると、あおい瞳が覗き込んできた。
「……」
「大丈夫?」
苦笑しながら訊いたトトは、小首を傾げた。
スピカは声を出すような仕草で口を開けたけれど、顔を顰めてまた口を閉じた。
ゆっくりと覚醒していく頭は、最後に見た老人の顔を思い出していた。どこかぎらぎらとして鋭かった目はすっかり乾いて光りを宿していなかった。最後に残ったのは、明らかな死の印象と、異臭だ。
思い出しながら、スピカは両手の平で目を押さえる。すぐに視界は暗くなり、自分の呼吸する音がやけにうるさく感じられて、意識し出すと規則正しかった呼吸も乱れてくる。生まれた瞬間からたった今まで当たり前のようにしていたことなのに、どんな風に呼吸していたのか思い出そうとしても、思い出せない。溺れたような感覚に、スピカはぎゅっと自分の服を掴んだ。
「落ち着いて、スピカ。今、村に向かっているところだよ。オスカを治しに行くんだろう?」
手を重ねられて、呼吸が自然に戻ってくる。妙な安堵感が心の中で広がってくるのを感じて、スピカはトトを睨むようにして見た。
何か言おうとして、また諦める。どうやら声の出し方も忘れてしまったようだ。いつも通りに声を出そうとしても、吐息が出るばかりで、何かが喉に詰まってしまったように一つの音も出せない。
隣に座ってスピカの様子を眺めていたトトは、スピカの異変に気付いたのか、最初から気付いていたのか、さして慌てた様子もなく小首を傾げた。
「声、出せない?」
スピカが座席に仰向けになったまま頷くと、トトがまた手を伸ばしてきたから、スピカはぎょっとしてその手を払い退けた。その瞬間痛んだ足に、顔を歪める。足を怪我していたのをすっかり忘れていた。
伸ばされた手を咄嗟になぜか、こわいもののように感じてしまったから、スピカは恐る恐るトトを見上げた。
トトはなんの感情も浮かばない静かな瞳で、スピカを眺めていたけれど、またゆっくりと手を伸ばすと、スピカの顎から鎖骨のところまで、ゆっくりとなぞった。数度それを繰り返されて、スピカの喉はひくっと動いたけれど、それだけだった。声を出そうと努めてみたものの、何の音も奏でてくれない喉に苛立ちを感じたスピカは顔を顰めると同時に、急に不安になり泣きそうになった。
「続けざまに心が衝撃を受けたから、そのせいで声が出なくなったみたいだね。ずっと続くことじゃないと思うから、そんなに不安がらないで」
トトは言って、また手を伸ばしかけたけれど、途中で止めてしまう。スピカは小さく頷くと、トトの方を見ないように顔を背ける。馬車の窓は垂れ幕で塞がれていて、薄暗かったけれど、隙間から差し込む糸のような光りで、今が朝か昼だということが分かった。
本当に、少しの間に色んなことがありすぎた。スピカは立ち上がる暇すらなく叩きのめされてしまった。空気を押し出したり引き入れたりして緩やかに上下する胸に、嫌悪する。何かそれが不自然なものに感じてしまう。
悲しみや怒りはトトの力のせいなのか、もう湧いてこなかった。心の中は静かに凪いでいるのに、どこかに凝縮された感情が渦巻いている。
トトが悪いわけではない。ぼんやりと、そう考える。
老人が言った言葉。スペルカが、トトから離れたら、きっとこんなことはもう起こらないだろう。けれど、それと同時にトトはまた昔のトトに戻ってしまうかもしれない。トトは戻れるのなら、命を落とす可能性を背負ってでも、スペルカと云う麻薬のような存在から、離れたいと願うだろうか。スピカは、今それを心の端で願い始めていた。
ふと思い起こされる古い記憶は、きっと本物のスピカのものだ。その中で、トトはひたすらに優しくて温かかった。その内にどれほどの苦痛を抱えているかなんて、幼いスピカは気付きもしなければ考えもしなかった。それでも、トトはまだ人としての強い感情を持っていて、だからこそスピカやオスカに優しくしてくれたし、ほんの少しの苛立ちや困った様子も見せた。
今のトトには、どれほどの感情が残っているのだろう。あの時、老人を見下ろしたトトの瞳には、何の感情も篭っていなかった。その目を見た時、スピカは強い絶望を感じたのだ。
暫くしてから、スピカは横たえていた体を起こして窓の外を覗き込んだ。豊かな緑が蔓延る山の小道を馬車は走っていた。前の方で、数頭の走る馬が見える。その馬に跨るのは、簡単な装備をした騎士達だった。恐らく馬車を守るようにして、前方と後方を騎士達の乗った馬が駆けているのだろう。イーノスも、きっとその中にいる。トトを守るために。イーノスは、他の人たちと同じようにかみさまであるトトに、何の疑問も抱かないのだろうか。
スピカは何度も疑問を持ってはいけないと思うのに、持ってしまう。これからも、トトといるつもりなら持ってはいけない疑問だ。
捨てないと、とスピカは思う。トトと一緒にいることに決めたのだから、その疑問は持ってはいけない。老人の命と、トトの命だったら、スピカは間違いなくトトを選ぶ。他の知らない人達よりも、トトを選ぶ。
卵から孵ったばかりの雛のように、この場所で、スピカは一番最初にトトによって心を揺さぶられ、縋りついたのだから。
スピカは窓に額を押し付けた。景色は流れていく。暫くその様子を眺めていて、スピカは馬車がもう村の前に聳え立つ御山の中にいることを知った。約束通り、トトは村に向かっている。あの老人は、もう埋葬されたのだろうか。
スピカは、オスカに早く会いたいと思った。ここは、どんよりと息苦しい。
馬車が村に着いたのは、それから一刻ほど経ってからだった。馬車は村の手前で停まるのではなく、迷いなく広場の方へと向かって行った。馬に乗った騎士達と、立派な馬車に驚いたのは、何も知らずにいた村人たちだ。広場では今日もたくさんの人たちがいたし、広場に到着する前の道でも、すれ違った人たちは茫然とした顔でその短い行列を見送った。小さな子供達は、馬車と騎士達のあとに続き走った。
夢の中とは違って天気が良く、立ち並ぶ木々の間からは日の光りがたくさんの帯のように降っていた。村の風景は変わらない。けれどスピカは、少し前に帰ってきた時とは、違う目線で村を見た。前に帰ってきた時とは状況が違うし、この間はシュトゥやオスカの家族以外には黙って、隠れて帰ってきていたのだ。前の時とはまた少し違った緊張が湧いてくる。
馬車が広場に着くと、その場にいた人たちや付いてきていた子供達がわらわらと集まってきた。じきに、誰かから馬車がやってきたという知らせを受けたのか、司祭が顔を赤くさせながら走ってやってきた。よほど慌ててやってきたのだろう。たくさんの汗を掻いていたけれど、それを拭うこともせず、馬車の方を凝視する。司祭と共にやってきていたのは、村の尼僧たちで、その中にはココセもいた。
馬から降りたイーノスが、馬車の扉を開けると、みんな目を見開いた。馬車がやってきた時から、なんとなくの期待と、あの感情が湧き始めていたのだろう。それは、トトの姿を目にした瞬間から、確実なものとして、村人達の内によみがえっていた。
トトが馬車を降りて、スピカもイーノスに手を借りてそれに続く。みんなの視線が痛くて、スピカは顔を上げることができずに、ただ地面を見つめた。
「スペルカ様が、戻って来られた!」
司祭は感極まった様子で、叫ぶようにして言った。その声に触発されてか、村人達は次々に喜びの声を上げる。その様子に何故かぞっとしたスピカは、服の裾をぎゅっと握った。前に戻ってきた時、みんなトトがいなくても平気でいる様に見えた。それは、スピカの勘違いだったのだろうか。中には、涙を流しているおばあさんもいる。
肩に手を置かれてはっとしたスピカは、顔を上げた。
「こっちだよ、スピカ」
スピカの肩に手を置いたまま、トトはそう言うとオスカの家の方へ歩き出した。付いてくる騎士はイーノス一人だ。見れば、騎士達の中には、あの老人に付いていた騎士達がいた。
トトは、自分の家には見向きもしないで、オスカの家の玄関口まで来ると、扉を叩いた。すぐにテアタの声がして、扉は開けられた。扉を開けたテアタは、大きく目を見開いて、固まったようにトトを見つめた。
「お久しぶりです。オスカを元に戻しにきました」
トトは謝ることもなく事実通りのことを述べた。テアタは放心した様子で「はい……」と呟くと、道を開けた。その目はトトに続いて横を通り過ぎるスピカに向けられることはなかった。カムシカは、おそらく狩りに出ているのだろう。家の中にいる気配はなく、二階に上がってオスカの部屋の扉を開けると、暗い目をしたヨルカとスピカは目が合った。ヨルカは、一瞬何が起こったかわからないような顔で、スピカを見たあと、その前に立つトトの姿を見て、みるみると目を大きくさせていった。その目には、色んな感情が渦巻いている。
「どうして……」
小さく呟くと、ゆらりと立ち上がり、数歩スピカたちに近づいて足を止める。
オスカは、相変わらずどこを見ているのか分からない目で、寝台の上で座っていた。枕元には、ヨルカによってなのか、スピカがオスカに手渡したにおい袋が掛けられている。
スピカはその様子をトトの陰からじっと見つめたあと、ヨルカに視線を戻した。ヨルカは、何かを言いたげな顔でトトの顔を見つめていたけれど、すぐに視線を落として、泣きそうに顔を顰めた。
「オスカを元に戻しにきました」
トトは、テアタに言ったことと全く同じ言葉をもう一度言った。
ヨルカは目を見開いて顔を上げると、今度は零れそうな涙を耐えるために顔を顰めて、そのままふらふらとした足取りで部屋を出て行ってしまった。スピカは心配になってヨルカのあとを追おうとしたが、トトに止められた。
「スピカが、ここにいた方がいい」
言って、トトはオスカのもとまで行くと、オスカの額に手をかざした。オスカの目はゆっくりと閉じられていく。完全に閉じられたところで、トトは手を離した。
それで、おしまい? と訊こうとして、スピカは自分の声が出ないことを思い出し、トトの服を引っ張ってトトを振り向かせると首を傾げた。トトはスピカの意図を察したのか、静かに頷く。見ただけでは、オスカにどんな変化があったのかなんて、全く分からない。眠っているようにも見えるオスカの体制も、先ほどと全然変わっていない。
トトが部屋を出て行こうとするので、スピカはオスカのいる寝台の前で躊躇した。
「スピカは、そこでいたらいいよ。外で待ってる」
トトに言われてスピカは一瞬迷ったものの、扉を閉められてしまったら、ヨルカが座っていた椅子に腰掛けた。
オスカは目を開けていない。スピカはオスカに呼びかけたかったがそれも叶わず、肩を軽く揺さぶった。反応はない。本当に元通りになったのかと心配になってしまう。更に力を篭めて何度も揺さぶる。揺れたオスカの頭がうしろの壁にぶつかり鈍い音を立てた。
「――いってえ!」
その声にびっくりしたスピカは、ぴたっと手を止めて目を見開いた。
「お前、少しは手加減しろよ……こっちは病人みたいなもんなんだからさ」
言って、オスカは唖然としているスピカの額を軽く叩く。何も言わないスピカを不審に思ったのか、オスカは少し顔を顰めて小首を傾げた。
「スピカ?」
そう言うオスカの目は、先ほどまでとは違っていきいきとしている。以前と何も変わっていない。変わったのは、少し髪が伸びたことくらいだ。
なおも何も言わずにオスカを凝視するスピカを見て、オスカは今度はバツの悪そうな顔をした。
「……心配かけて悪かったな。体とかは動かなかったし、声も出なかったんだけど、周りで何が起こってるかとかはなんとなく分かってたんだ。お前が来た時のことも、覚えてる……て、ええっ……どうしたんだ、お前」
オスカはぎょっとしてスピカの顔を見た。
スピカは堰を切ってあふれ出した涙を止めることもできずに、服の袖で何度も拭って、鼻を啜った。以前となんら変わらないオスカの様子に、ようやく安心して、今まで溜まっていたものが一気にあふれ出したのだ。声が出るのなら、大声を出して泣いているところだった。それから、オスカに会いたかったんだよ、と言いたかった。
「……お前、声が……?」
泣きじゃくるスピカを少し困ったように見つめながら、オスカは尋ねた。会ってから一度も声を出していない、静かに泣くスピカの異変にようやく気付いたのだろう。
「嘘だろ……スペルカさまに、やられたのか?」
スピカはその言葉に驚いたように反応すると、ぶんぶんと首を横に振った。
理由がトトに繋がっているとしても、トトのせいではないのは確かだ。そうか、と返したオスカは少しだけほっとしたように、スピカには見えた。
「だったら、どうしたんだ……って言っても、答えられねえか。字はへたくそで、文章もまともに書けないしなあ、お前」
オスカが心底呆れた様子で言うものだから、スピカは涙を流したままオスカを叩く。オスカは気にした様子もなく、そんなスピカの反応に少し嬉しそうに笑った。
「まあ、元気はありそうで安心したよ。元に戻るんだろ?」
スピカは答える代わりにこくんと頷いた。オスカの軽やかな雰囲気に、スピカの心の重さも少しましになった気がした。
そのあとすぐに、スピカはテアタとヨルカを呼びに走った。スピカが声を出せないことを知らない二人は、ただ必死に腕を引くスピカに困惑の色を見せたが、すぐにオスカのことだと気付きオスカの部屋へ行こうとしたところで、オスカが階段を降りてきた。服は寝間着のままだし、髪は少しぼさぼさだ。その姿を見てテアタとヨルカの二人は目を見開いたあと、目に涙を滲ませた。気の強いヨルカでさえも、涙を抑えるのに必死でその顔をオスカに見せまいと怒った様な顔をわざと作った。
そんな二人の様子を見たオスカは、少し気まずそうに苦笑する。
「心配かけて、ごめん。もう大丈夫だから」
「ほんとよ! あんたは一体どんだけ心配かければ気がすむの? ちっちゃい頃だって、キキロトに悪さをして……」
ヨルカの感情が本当に怒りに変わり始めているのに気付いたオスカは、テアタの方を向く。
「悪かった、母さん」
「あなたが謝ることじゃないわ……オスカ。スペルカ様が、元に戻して下さったのね」
「……ああ」
オスカは、何か感情を押し込めたような声で相槌を打った。
自分がされたことについて、怒りは抱いていないのだろう。スピカにはそんな風に感じられた。おそらくはテアタも、ヨルカも、トトに対して怒りや憎しみを抱いてはいない。
外ではたくさんの人の気配がある。おそらく村中の人たちが、トトのもとに集まってきているのだろう。スピカがぼんやりと窓の外を眺めていると、オスカに腕を突かれた。
「お前……いや、お前とスペルカ様、村に帰って来るのか?」
スピカは頷くと、何か書く仕草をして、紙と筆が欲しいと訴えた。
「え、どうしたの? スピカちゃん」
「声が出ないんだってさ」
オスカは一言そう言うと、近くにあった紙とペンをスピカに手渡した。テアタとヨルカはオスカに質問したそうだったけれど、文字を書き始めたスピカの手元をオスカと共に覗き込む。スピカはたどたどしい手つきで、時たま考え込む素振りを見せながら拙い文字を書き連ねる。小さな子供のようなその字は、オスカのよく知る字だったけれど、相変わらず読みにくく、オスカは思わず目を顰める。テアタとヨルカにとってはますます読み難い文字で、二人はオスカと同じような顔をした。
「なんだ? 『むらに、もどる。みやこに荷物をとってから』……? ああ、置いてある荷物を取りに一度都に戻るのか。お前、今まで都にいたんじゃなかったっけ?」
スピカはその言葉に一度ぴくりと手を振るわせたけれど、それ以上もう何も書かなかった。オスカもスピカの様子を見て、気にはなったものの深く尋ねようとはしなかった。
「てか、やっぱ相変わらず字汚いなあ、お前。小さい子供の字だぞ、それ」
オスカのからかうような声が、今のスピカにとっては気休めになる言葉だった。
オスカと共に家を出ると、馬車の前でトトが待っていた。周囲を囲む村人たちは、先ほどと変わらずトトをじっと見つめている。オスカはひょこひょこと歩くスピカを見て怪訝そうな顔をしたが、もう何も聞かなかった。声が戻ってから聞けばいいと思った。
スピカは隣に立つオスカを見上げて、袖を引く。オスカは一瞬驚いたような顔をしたあと、にやっと笑ってみせた。
「心配すんなって、食ってかかったりとかしねえよ。それよりも、お前はさ……本当に、ずっとスピカとして生きてくつもりなのか」
トトはもう知ってるんだよ、スピカはそう言いたかったけれど、伝え方が分からずにトトの方をじっと見た。トトと、二人はつらい。けれど、オスカや他の人が ことこ を受け入れてくれるのなら、スピカはきっと大丈夫だと思った。一番近くにいるのはトトなのに、トトに受け入れられないのはやはりつらいことだけれど。
オスカがそれ以上トトのいる馬車の方に近づこうとはしなかったから、スピカは一人トトの方へ歩いた。一度振り返ってひらひらと手を振ると、オスカの真似をしてにやっと笑う。オスカはきょとんとしたあと、自分もまたあの笑い顔を作った。
馬車に凭れていたトトは、スピカが戻ると何も言わずに馬車に乗り込む。スピカもそれに続いた。シュトゥとアラントとは、会っていかないのだろうか。スピカはそう思ったけれど、村に帰ってくるのなら、と思い直す。セスティリアスやリュシカニアやイーノスに会えなくなるのは少し寂しいことだけれど、村にはオスカやその家族、それにシュトゥやアラントだっているし、おばあちゃんはもういないけれど、スピカが小さな頃から暮らしていた大好きなおばあちゃんの小さな家だってある。
村に帰ってくれば、きっと少しは穏やかだった日々に戻れるはずだと、期待した。