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きみのこえ  作者: はんどろん
09.途切れた歌
52/63

52.

 血や泥を洗い流して湯殿を出ると、少女に傷を手当された。足からはまだ血が流れていて、ぱっくりと切れた傷口のまわりは湯でふやけて白くなっていた。その間の赤いところに、薬草を練って作ったべっとりとした薬を塗られて、スピカは湯に浸かった時と同じように悲鳴をあげた。

 湯殿の用意されていた部屋を出ると、トトがおかしそうにくすくすと笑って立っていたので、痛みのせいで涙が滲んだ目で睨んだ。

「……聞いてたの?」

「すごい声だった」

 そう言ってまたくすくすと笑う。

「痛む?」

 訊かれてスピカは必死で首を横に振った。本当はかなり痛い。傷を意識し始めると、一歩歩く度に縦に亀裂が入ったような痛みを感じていた。それに明るいところで見てみると、体中に細かい擦り傷や切り傷があり、転んだ時に擦り剥いた手のひらもひりひり痛む。けれどそれを口にしてしまうと目的を果たせなくなってしまう可能性が上がる。

「もう痛くない。大丈夫だよ。だから帰ろう? オスカを治しに、村に帰る約束をしたでしょう?」

「そのわりにはひょこひょこ歩いてるよ。傷に触るだろうから、少しゆっくりしてから行った方がいい。雨も降るしね」

 そう言ってトトは外に目を向けた。確かに星もあまり見えないし、月も見え隠れしているから曇ってきているのだろう。

「本当に、オスカをもとに戻してくれる?」

「ああ、本当だよ」

「約束して」

「信用ないなあ」

 トトは可笑しそうに肩を竦めると、小指を差し出した。茫然とその小指を見るスピカに、トトはまた笑う。

「これで約束は破られない。オスカを元に戻す。僕たちは一緒に村へ帰る」

 指きりげんまんだ。

 それは、ことこ のいた場所での約束の仕方で、この場所では小指同士を絡めて約束をすることなんてしない。

 スピカは殆ど無意識にその小指に自分の指を絡めた。そのまま何度か指は揺らされて、離される。

 スピカは離された手を追うように視線を落として顔を顰めた。

 どうしてトトは、スピカにスピカでいることを強要するのに、その方法で約束をするのだろうか。その方法は、確かスピカがまだ幼かった頃に、トトに教えたのだ。スピカの正体を知っているトトなら、指きりは ことこ がいた場所のものだと簡単に分かるはずだ。

 古びた木の床を眺めながらそんなことを考えていると、ふいにまたあの甘いキンモクセイの香りが鼻を掠めた。

「……甘いにおいがする」

 誰に言うともなしに、スピカが呟くと、トトは少し寂しそうに笑った。スピカはそれに気付かない。甘い花の香りは、またすぐに消え失せてしまった。

「スピカ、お腹が空いたんじゃないかな?」

 言われてみると、確かにお腹が空いていた。夕食を食べてからもう随分と時間が経っているのだ。けれども、ようやく安心してきたのか、体が温まったからか、空腹よりも眠気が急に強くやってきた。

「……お腹空いたけど、寝る。急に眠くなってきた……ねえ、明日の朝起きても、トトここにいるよね? 一緒に村に帰るんだよね?」

 なおもしつこく訊いてくるスピカに、トトは苦笑した。

「なんなら、一緒に寝ようか? そんなに信用ないなら、スピカが捕まえておけばいいよ」

「いい。狭いもん」

 トトの体も昔と比べると随分と大きくなっている。一緒に肩を並べて寝るには、今スピカがいる部屋の寝台では小さすぎるだろう。

 スピカの幼い返しに、トトはおかしそうにまた笑った。

 部屋に戻ったスピカは寝台に倒れこむと、そのまま目を閉じた。寝台は、枕の下に入れられた乾燥花の健やかなにおいがする。

 足の痛みはまだ鋭く、体中にある擦り傷も痛む。けれどそんなことよりも、胸が苦しい。一人になってみれば、暗いことばかり思い出してしまう。

 イサと会話をしたのは、ほんの少しだ。けれど、皮肉にもこんな風に攫われたおかげでイサとは少し近づけた筈だった。だからこそ、スピカから逃げたというトトの言葉が衝撃だった。

 温かで優しい人たちは、スピカの中では裏切りや嫌悪とは程遠い存在だ。スピカ自体、そんなものからは離れたところで生きてきた。だからトトの言葉は俄かには信じられない。けれど、イサは実際あの場所にはいなかった。

 ほんの少し触れた優しさや温かな言葉が、スピカの胸を締め付ける。考えなければいいのに、スピカはぐるぐるとそんなことを考えながら、寝台の上で体を丸めた。

 そのまま微睡み始めたスピカは、ぼんやりと窓を眺めながら思考はイサから離れて、古い歌を思い出していた。この場所へ来てからも、忘れたくなくて自分でも何度も唄った歌だ。ぼんやりとした頭では、何の感情も湧いてこなかったけれど、哀愁の篭った歌はあの日公園で流れていた ゆうやけこやけ だ。子供の時間の終わりを告げるその歌は、毎日五時になると公園のスピーカーから流されていた。その歌を合図に子供達は家に帰り始める。

「スピカ、もう寝た?」

 トトの声で意識を引き戻されたスピカは、だらだらと体を起こしはしたけれど、返事はせずにいた。ぼんやりとした目で扉を見つめていると、トトが顔を覗かせた。虚ろな目で今にも倒れこんで眠ってしまいそうなスピカを見て苦笑する。

「……眠そうだね」

「ねかけてた」

 眠さの為にむすっとしてスピカは答える。

「傷は?」

「いたい」

 寝惚けた状態でつい正直に答えてしまう。スピカは寝台の上に両手をつくと、そのまま猫のように伸びをした。そのままトトの目も気にせずに欠伸をする。

 トトはいつの間にかスピカのいる寝台の脇までやってきていて、スピカの様子を見て笑った。

 スピカは伸びの体制のまま、ずるずると倒れこむと頬を布団に押し付けて、薄目でそんなトトを眺めた。自分の真っ黒な髪とは全く違う金色の髪はもう見慣れたものだけれど、それでも綺麗だなと思う。寝惚けたまま何も考えずに、手を伸ばして髪に触れると、トトは目を閉じる。あまりに大人しく撫でられてくれるので、スピカはそのままくしゃくしゃと髪を混ぜた。

「スピカ、村に帰ったら……」

 スピカは手を止めてトトを見た。トトは俯き加減で目を伏せている。瞳の色は、暗くてよく見えない。

「村に、帰ったら?」

「……お墓参りに行こう」

「だれの……?」

「誰のって、ピノばあのだよ。他に誰がいるの」

 トトの細められた目を見ながら、スピカはゆっくりと体を起こした。

「おばあちゃんの。うん、そうだね。一緒に行こう」

 へらっと笑ってスピカが言うと、トトはまた観察するような目に戻ってスピカを見た。

 その目線で急に居心地の悪さを感じ始めたスピカは、目を逸らす。トトにはもう、スピカが偽者だということが分かっていたことを思い出す。後ろめたくて胃が縮こまる気がして、徐々に眠気が覚めてきたが、スピカは眠たそうなふりをした。後ろめたさや悲しさや嫉妬心、嫌なものばかりがまた胸に渦巻きそうなのを必死で押さえ込む。

 今だに平気でスピカのふりをすることを少し恥ずかしく思う気持ちもあるのに、スピカをやめることはできない。トトがこの舞台の幕を下ろさない限りは、終わらない。けれど何かをきっかけに、唐突に閉じてしまうのかもしれない。だから、こんなにも不安定なのだ。

「血が滲んでる。包帯を替えよう」

 言われて見てみれば、足に巻かれた包帯にはたしかに血が染みて濡れていた。このままでは生成りの敷き布を汚してしまうと思い、スピカは体を起こすと包帯を巻かれた方の足を立てた。手当ての道具は、籠に入れられて窓辺に置かれている。あのべっとりとした薬もだ。

 トトは黙ってスピカの包帯を解くと、籠の中から包帯と薬の入った硝子瓶を取り出して、どろっとした薬を指につけるとスピカの傷口に近づけた。塗られた時の激痛を思い出したスピカは、怯えてつい寝台の上で後ずさったが、トトに足を捕まえられて結局その薬を傷口に擦りこまれ、小さな悲鳴をまた上げた。声を必死で抑えた反動か、ぽろぽろと涙を流すスピカを見て、表情をなくしていたトトもまた苦笑した。

「治せたらいいんだけど」

 トトは静かに言って、包帯をくるくるとスピカの足に巻いていく。確かに、トトが寺院で怪我人や病気の人々を治していたことをスピカは知っていたので、どうしてトトは傷を治してくれないのだろうと少し思っていたけれど、治してくれないのではなく恐らく治せないのだろう。

 スピカは綺麗に巻かれていく包帯とトトを交互に眺めた。お互い分かっているのに、演じ続けるこの奇妙さ。

 トトが綺麗に巻き終えるのを見届けると、スピカは目を伏せて「ありがとう」と言った。

 その後もトトは部屋を出て行こうとはしなかったので、スピカは交わす言葉も思いつけずにただ寝たふりを決め込むことにした。寝台の脇に置かれている椅子に座っているトトの存在が気になったけれど、寝たふりをしているうちにいつの間にか本当に眠気が強くなってきた。

 微睡みは、またあの歌を連れてやってきた。それは、あの風景や香りや空気も一緒に。どこか悲しげな音楽に子供達の幼い歌声が重なる。少し離れた場所からは、妹の鳴き叫ぶような声と、自転車のベルの音が聞こえた。湿った土の甘い香りとそれに混じるアスファルトのにおい。風に乗ってやってくるのは、強いキンモクセイの香りだ。それに ことこ 自身、手にキンモクセイの花を握り占めていた。友達にバイバイをして、トトの声に呼ばれて振り返って、おしまい。

 何度も思い出したり夢に見てきた最後の光景。歌はいつも、トトの声を合図に途切れる。だからだろうか。スピカは少し前までは覚えていたはずのその歌の続きを、今ではもう思い出せなくなってしまっていた。スピカでいることを決めてから、ことこ の記憶は薄れる一方だ。このままだと、ことこ はいつかなくなってしまう。ことこ が消えることと、トトが幕を下ろすのは、一体どちらの方が先にやってくるのだろうとスピカは考える。

 ふいに手を握られて、スピカは薄っすらと目を開けた。目の前にある左手に重ねられた手を眺めてからトトを見ると、トトは表情のない顔でスピカを見つめていた。長い指をした手は、以前よりも骨ばって大きくはなっているものの、相変わらずひんやりとしている。スピカは無意識で、まるで条件反射のようにその手を握り返した。

 顔に表情はないままだけれど、なぜか静かな悲しみが伝わってきている気がして、少し悲しくなる。

「……どうしたの? トト」

 少し様子がおかしい。

 そうは感じながらも、スピカは押し寄せてくる眠気を避けることができずに目を閉じる。

「……あれが人だったとしても、きっとああしてた」

 体がふわふわする感覚を心地よく感じながら、トトの言葉の意味をスピカは考える。

 森でのことを思い出し、繋いでいた手をぴくりと動かしたスピカは細く目を開けた。

「トトが、狼を殺したの?」

「そうだよ」

「そう……たすけてくれて、ありがとう」

 トトは、一瞬で生き物をあんな風にすることができる力を持つ。スペルカの力は、スピカが思っていたよりも恐ろしい、畏怖すべき力だ。スピカはそう思いながらも、トトの手を離さずにお礼を言った。

 何かの拍子に、スピカもその力でどうなってしまうのか分からない。狼のようにとまではいかなくても、オスカのようになってしまう可能性がない訳ではない。そんな彼を恐れる気持ちはスピカにもある。

 トトは何も言葉を返さずに、強くスピカの手を握り締めた。

 静けさにスピカが再び目を閉じかけた頃、静かに扉を叩く音がしてトトが返事をすると、イーノスが顔を覗かせた。その顔は、いつもの表情の余り浮かばない顔ではなく、深刻さを表していた。

「どうかした?」

 トトが訊いても、イーノスはそこから進み入ることもない。

「お疲れのところ、申し訳ありません。不測の事態があり報告に来ました」

 スピカには言い難いことなのか、イーノスはスピカの方に視線を向けてから、確認するようにトトを見た。

 イーノスの出現で、眠りかけていたスピカも目を覚ましている。開けられた扉から入ってきた空気が冷たく寒かったので、布団の中で体を丸めた。

「いいよ。ここでどうぞ」

 トトが気にした様子もなくそう言ったものだから、イーノスは珍しく、また少し迷ったようにスピカを見てから口を開いた。

「エヴラール様が、自害なされたそうです」

 押し殺したような声で言われたその言葉は、スピカの耳にも届いた。けれどその言葉の意味を理解できずに、体も起こさずに寝転んだまま、茫然とイーノスを眺める。

 イーノスが言った名前のあとには、長々とした名前が更に続く。スピカが覚えられなかった、あの老人の名前。

「そう」

 トトは短くそう言った。

「じがいって、なに? どういう意味?」

 その言葉を耳にしたことがなかったスピカは、それでもその響きに不穏さを感じ、不安の混じりの声でトトに尋ねた。

「自分で死ぬってことだよ、スピカ。あの老人は、自分で命を断ったんだ」

「……うそだ。だって、あのおじいさん、トトのことがほしいって言ってたよ」

「子供のような人だった。けど、そのくせ大人らしく絶望したんだ」

「なにに?」

「かみさまが目を向けてくれないことに」

「うそ。トトに会った時だって、普通だった」

 別にスピカが信じる必要もないと思ったのか、トトはそれ以上何も返さなかった。

 スピカが簡単に信じられないのも無理のない話しだし、信じたくないという気持ちもあるのだろう。けれど、場の空気でスピカもその言葉が本当のことなのだろうと薄々は気付いている筈だ。

「信じられないなら、付いてきたらいいよ」

 トトは言うと、そっとスピカの手を離した。スピカはなにも考えずに起き上がり、部屋を出て行こうとするトトを裸足のまま追う。咄嗟に部屋履きが見つからなかったからだが、冷たい床はスピカの目を少しずつ覚ましてくれた。燭台を手にしたイーノスは、扉の横でトトが通り過ぎるのを頭を垂れて待っていた。家の中はほんの少しの灯りはあるものの、薄暗い。それに、空気は冷たかった。

 トトは付いてくればいい、と言ったのに、スピカを待つつもりがないのか、速い足取りで歩いていく。スピカはそれに付いていくことに必死になって、自分が付いて行く意味を深く考えもしなかった。色んなことが一気に起こり過ぎて頭が付いてきてくれない、ということもあったけれど、急いで下りた階段も、冷たい木の床もふわふわとして妙に現実感がなく、夢のようだったからだ。足の裏に伝わる冷たさは確かに現実のもので、頭は覚醒しているのに、それさえも夢の中の出来事のように感じてしまう。

 家の外へ出たあとも、トトはさっさと歩いて行った。イーノスはちらっとスピカを見たものの、トトに黙って付いていっている。スピカは流石に裸足のままだったから、一瞬扉の前で躊躇したけれど置いていかれそうになり、焦って飛び出す。足の裏にちくちく小石が食い込むことを少し気にしながら、トトを追いかける。

 トトが立ち止まったのは、小さな寺院のような建物の扉の前だった。スピカの村にある寺院とかたちは似ているものの、長く使われていないのか、他の建物とは違って、古びていて廃墟のようだ。中でちらちらと灯りが動いているのが窓越しに見えた。

 トトが躊躇なくその腐った木の扉を開けると、少し埃っぽいにおいがした。中にはもう一枚大きな扉があって、窓越しに見えた灯りはその向こう側にあるのか、中は暗い。不気味さにスピカはトトの傍へ駆け寄った。

 トトはもう一枚ある扉の方へ迷いなく進む。扉を開けようとする手をスピカは思わず掴んだ。

「……見たくないなら、付いてこなかったらよかったのに」

 トトは言ってスピカの手を離して、そのまま扉を開けた。

 その途端ひろがったむせ返るような花の香りにスピカは顔を顰める。狭いけれど天井が高くまるい為か、そこまでの狭さは感じさせないその部屋の中は薄暗かったが、数人の人がいて、その人たちが手に灯りを持っていた。

 その人たちは、老人についていた騎士たちと、この集落の男二人と、スピカの世話をしてくれた少女だった。扉を開けたトトを見ると、驚いた顔をして一斉に跪く。薄暗さのせいか、みんな表情が暗い。

 少女は両手が抱えるのがやっとな程の量の乾燥花を持っている。扉を開けた時にひろがった香りは、彼女の持つ乾燥花のものだったようだ。

 けれど、それに混ざってなにかおかしなにおいがすることに気付いたスピカは、微かに首を傾げた。

「首を切ったか」

 トトの平坦な声が、静まり返った部屋に響く。

 ぎょっとしてスピカは騎士たちが跪く、その向こう側を見た。床には大きな白い布があって、それはよく見れば人が横たわっているかたちに膨らんでいる。それに、布の所々が黒く変色していた。

 スピカは花の香りに混ざっているにおいの正体に気付き、体を強張らせる。

 あれが、あの老人だというのだろうか。

 微かな心の動きを見せることもなく進み行こうとするトトの腕をスピカは掴んだ。あの布の下を見たくないと、咄嗟に思ったのだ。

「こわい? スピカ。あの布の下にあるものの正体を知りたくない?」

 トトは笑みの混ざった表情で、訊いた。スピカは必死で首を振った。

 早く、村に帰りたいと思った。相変わらずはっきりとした現実感はないのに、恐怖心だけが溢れて止まない。悪い夢のようだ。夢だったらいいのにと思う。

「おいで」

 トトは優しく言うと、その声とは逆に、強引にスピカの手首を掴んで引いた。スピカが立ち止まろうとしても、トトは構わずにスピカを連れて行こうとする。振り払おうとしても、手に篭められた力は強く、敵わなかった。

 スピカは助けを求めるように後ろを振り返ったが、イーノスは厳しい顔で付いてくるだけで、助けてはくれない。部屋に足を踏み入れた途端、においはきつくなる。布の前までくると、そのにおいは最早花の香りだけでは誤魔化しようがなかった。

「いやだ」

 なおも抵抗しようとするスピカをトトは逃がさない。

「避けようのない、もう起こってしまった現実だよ、スピカ。こんなことは今まで何度もあったんだ」

 トトは言うと、布を足に引っ掛けて引っ張った。

 トトの言葉にスピカは目を瞑ることも忘れて、見てしまう。服は、スピカが最後に見た時のままだったけれど、腹の辺りまで赤黒く変色していた。首には騎士達によってか、包帯が巻かれていたけれど、それも赤く染まっている。薄く開かれた目は乾燥していて、光りもなにも映すことはなかった。

 スピカは動揺で動けずにその様子を凝視した。頭のてっぺんがさっと冷えていく。

 スピカが一目見ても分かるくらい、老人の体中、どこにも生気というものがなかった。おばあちゃんの様に、眠っているように安らかな様子はどこにもない。薄く開かれた口が、スピカには大きな奈落のように見えた。小刀を握ったままの手にも、もう力はない。生きている者と、死んでしまった者との大きな違い。体は同じなのに、明らかに違うものに、老人はなってしまったのだ。

 トトは、今までにこんなことは何度もあったと言った。スピカの、知らないところで。

「可哀想だと思う? それとも、この人を愚かだと思う?」

 トトは感情の篭らない声で訊く。その声がスピカの頭の中で響く。

 分からない、と思った。目の当たりにした死に動揺はしても、頭の中は混乱していて感情はまだなにも湧いてこない。ただ、どうして、と思う。トトに目を向けられなかった、たったそれだけのことで自分を死に追い詰めてしまった老人の盲信的な感情が、スピカには全く理解できなかった。

「この人の感情は、そこまで強いものだった。この人だけじゃない。色んな人が、かみさまにそんな感情を向ける。それを僕はどうすることもできないんだよ。それに、その人たちも、避けようがない」

 老人に、スピカは言ったのだ。まやくはわるくないよ、と。確かにその通りだろう。トトは悪くない。けれど、だとしたら、何が悪かったのだろう。

 スピカは崩れるようにその場にへたり込んだ。

「うんざりだ」

 ぽつりと呟かれたトトの言葉を耳にして、スピカは顔を上げた。

 トトは、じっと老人であったものを見つめている。その顔に表情はない。

 スピカはそれを見て、自分でも理由の分からない涙が溢れ出してくるのを止めることができなかった。全身を寒気が襲うのに、おかしな汗が出てくる。様々な感情が綯い交ぜになって、何も考えられない。何かに頭を鈍く、重く揺さぶられているような錯覚を起こす。

 スピカは自らの限界を感じて、上半身をうつ伏せた。ますます強く濃く香るにおいで、めまいがする。狼が弾け散った時の光景を思い出して、ぎゅっと目を閉じた。

「大丈夫? スピカ」

 少し心配そうな声が聞こえるけれど、その声に反応することもできなかった。血の気と一緒に意識も遠のいていくのを感じながら、スピカは体を倒した。








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