50.
夜が明けると、騎士たちに連れられてスピカは塔を下りた。昨日乗った馬車にまた乗せられて向かう場所がどこなのか、スピカには想像もつかなかったけれど、都から離れているのは確かだった。こんなことをしていてもいずれトトのもとに戻ることになるだろうと、スピカは信じていたが、長引けば厄介だ。オスカを早く元に戻してもらいたいのに、早くどころか下手したら元通りにしてもらえなくなってしまうかもしれないのだから。
スピカは少しずつ大きくなっていく焦りを抑えながら、向かいの席につく老人を盗み見た。
老人はゆったりと、けれど上品に座席に腰掛け、窓枠に肘をつき流れていく外の景色を眺めていた。
馬車は走り続けているけれど、もうずっと人気のあるところを通ってはいない。見えるのは野原に薄暗い森に、周囲を囲む山々だ。晴れ渡った空の下で、山は昨夜とは違い青々とした姿をしている。
スピカの視線に気付いたのか、老人はスピカを見ると薄く微笑んだ。
たちまちどうしてか気まずくなったスピカは反対に視線を落とす。この老人は全く何を考えているのか分からない。立派な老人らしく威厳や上品さに満ち溢れているのに、子供のようなことを言う奇妙な存在だ。
何のしがらみもなく出会っていたのなら、スピカはこの老人に興味を惹かれたかもしれないが、今の状況ではスピカにとって不気味な存在でしかなかった。この老人は偉い立場の人間のようだが、スピカにはその立場もよく分からないから、それが不気味さに拍車をかけていた。単純に言えば、少し恐いのだ。
「お譲ちゃんは、あの方のことをどう思う」
老人は低く少し掠れた声で、まるで独り言のようにぽつりとそう訊いた。
「私は、恐ろしくてしかたないよ。それなのに、これ程に惹かれる」
「おじいさんは、おじいさんなのに子供みたいだ」
スピカは思ったことをそのまま口にした。
その感情の強さはスピカには計り知れないが、今独り言のように呟いた老人は、老人でありながら、親を具体的な理由もなく慕う子供のようにも見えたのだ。本来ならば、トトは老人の孫ほどの年齢の青年であるのに。
老人は一瞬目を丸くすると、すぐにくっくっと喉を鳴らして愉快そうに笑った。
「そうだ。これではまるで子供だ。あの方の前では誰もが子供のようになる」
「じゃあ、トトは、子供の時にかみさまになって、その時から周りに大人の人がいなくなっちゃったんだね」
「……そうなのかもしれないね」
まだ大人に心を寄せる子供の頃に、周囲からかみさま扱いされるようになってしまったトトが、心の拠りどころにしたのがスピカとの約束と、スピカの存在だったのだろう。
「スピカも、トトのことたまにこわいと思うし、好きだよ。かみさまみたいに綺麗だし、賢いけど普通の子にも見える」
スピカが逸らしていた目を老人に合わせて言うと、どこか鋭かった老人の目元が少し和らいだ。何か懐かしいものでも見るような眼差しに、スピカは少しだけおばあちゃんのことを思い出した。けれどまたすぐに鋭さを取り戻した瞳が、スピカをとらえるように見つめる。
スピカはなぜか叱られているような気分になって、また目を逸らすと服の裾を掴んだ。
「『かみさまみたい』なんじゃない。あの方は間違いなく、お譲ちゃん以外の人にとっての『かみさま』なんだよ」
「……おばあちゃんも言ってた。トトをかみさまじゃなくする方法はないの?」
「それは、あの方をかみさまになる前の、村人に戻すということかね」
スピカは深く頷いた。
「病弱で、弱弱しい命を持った少年に?」
老人は念を押すように問いかけた。スピカは言葉を失ってしまう。
トトは元々スペルカのお蔭で生きながらえたのだ。本来だったら、あの熱病に魘された晩に命を落としていた筈だった。もしこの先、ある日突然スペルカがトトの体に棲みついた時と同じように、トトの体からいなくなってしまったら、トトは一体どうなってしまうのだろうか。
「けど、トトはかみさまの力で病気や怪我の人を助けているんでしょ? だったら、トトの体だって」
「確かに、かみさまになられた時に罹っていた熱病がぶり返すということはないだろう。あの方は怪我だって治せるし、病気も取り除ける。けれど、奇跡の力は元々あった生命力を強めることはできない。かみさまがいなくなって、体の弱い少年が再び病気に罹ってしまった時助けられるのは医者だけだよ」
それは至極当たり前のことだった。病気に罹った時、助けてくれるのは医者や周りの人たちだ。けれど助けきれなかったから、トトは命を失いかけた。
当たり前のことなのに、そうなってしまった時にスピカは酷く後悔して、スペルカという大きな力の存在を失ったことをその先もずっと悔やみ続けることだろう。
それに、トトがいなくなってしまった時、スピカが存在する意味はなくなってしまう。スピカもトトと同じふうに、この場所で生きていくの為にトトの執着心を長い間、心の拠り所のようにしていたのだ。
「あの方は、かみさまであるべきだとは思わないかね?」
問われてスピカは唇をかみ締めた。馬車の揺れのせいだろうか。少しだけ胸が気持ち悪い。ちゃんとした道がないような野原を走っているからだろう、時々馬車は大きな音を立てて派手に揺れた。騎士たちの乗る馬の蹄の音も、馬車の揺れる音にかき消されて余り聞えない。
「はて、少し喋り過ぎてしまったかな」
老人はわざとらしくそう言うと、小さく肩を竦めた。
外では真上にあった筈の太陽が、いつの間にか傾きかけていた。
パタンパタンと規則正しく、耳に心地のよい織り機の音が聞えてきた。昔から聞きなれた音だ。時にそれは子守唄代わりにもなってくれる。織り成された布には、繊細で複雑な刺繍が縫われることだろう。村では昔から女達の間にだけ伝わる様々な刺繍があった。それらはそれぞれが深い意味を持つ。女達にしかその意味を伝えられない秘密の刺繍もあった。
リスティピノが施す刺繍は見事なものだった。盲いた目では困難な筈の細やかな刺繍もすらすらと作りあげてしまう。小さな頃から数え切れない程たくさんの刺繍をそれこそ手が、指先が覚えてしまう程縫ったからだ、とリスティピノは言った。
孫娘であるスピカはそんな細かな作業を嫌った。リスティピノが刺繍を紡いでいく様は、まるで魔法のようで心奪われるものがあったが、針が怖かったのだ。スピカは何より外で遊ぶのが好きな元気な娘だったから、時に母親のティピアはそんな娘の将来を心配したけれど、元気でいられることがどれだけありがたいことかも十分に分かっているつもりだった。
父親であるイサは、できるだけ多くの時間を可愛い娘と共に過ごせるように、都での仕事を早く切り上げて帰ってくることが多かった。いつもたくさんのお土産を持ち帰っては、ティピアに呆れられたり叱られたりしていた。
スピカは孤独を感じることが余りなかった。夕方になっては迫ってくる闇に恐れたり、心細さを感じることはあったけれど、いつも誰かが傍にいた。
幸せな子供だった。周囲の人たちの温かさに守られた、元気で平凡な子供だった。
風が窓を鳴らす音で、スピカは目が覚めたように、意識の中に入ってきた目の前の風景をぼんやりと眺めた。
近頃はぼうっとしている最中にも、まるでふと何か自分の思い出を思い出すようにスピカの記憶が思い浮かぶ。以前のように、本物のスピカの記憶を思い出す度にやってきた気分の悪さは、もうどこか遠いもののようだ。違和感も殆どなく、それらは今のスピカの記憶と混ざり合うこともあった。
「……パドルに、ごはん」
スピカは誰に言うでもなく、小さく呟いた。パドルは寺院に置いてけぼりだ。だれかパドルの世話をしてくれているのだろうか。
スピカは今狭い部屋に一人でいた。狭いと言っても、おばあちゃんの家のスピカの部屋よりは広い。壁や天井は白く塗られていて、床には古ぼけた大小さまざまな木の板が敷き詰められていた。小さな一枚扉があって、その正面には天井近くまである大きな窓があった。窓際には寝台と、寝台の横には木彫りの椅子が置かれている。きっと今も使われている誰かの部屋なのだろう。至って普通だ。窓の外には小さな家が数件と、幌馬車や古びた小屋が見える。村と言っていいかわからない程の、恐らく小さな集落だ。
夕方になる少し前に、スピカたちが乗った馬車が着いたのがこの場所だった。集落の男らしき青年が、スピカたちを迎えいれようとした時、スピカはこの集落の人に助けてもらうことを考えたが、青年が喋る言葉を聞いて固まってしまった。何を言っているのか、全く聞き取れなかったのだ。本当はよく聞けば少しはスピカにも分かる程の訛りだったのだが、逃げるという緊張から、スピカはその言葉を落ち着いて聞いて理解するということができなかった。
言葉が伝わらなくても、ある程度は伝えることもできることをスピカは知っていたけれど、騎士や偉そうな人物である老人が何かを言えば逃げることはきっと叶わない。短い時間で、逃げて都にどうしても戻りたいのだと上手く伝える自信がスピカにはなかったのだ。
そうして、連れてこられたのが今いる部屋だった。どうすればいいのか考えあぐねてぼんやりと窓の外を眺めている内に、溶け込むようにスピカの記憶を見た。落ち着いて、意識をその記憶に向けてみれば、スピカは本当にスピカなのだということが分かった。いつの間にか似てしまったのか、それとも元からなのか、とにかく二人は近づき過ぎていた。
元からではなかったと、スピカは思い正す。ことこ はスピカほど無邪気ではなかったし、たくさんの友達はいたけれどその中でも少し気の強い方だった筈だ。いつも付いて来る妹が鬱陶しくて、わざと冷たく当たったことも何度もあった。スピカになったばかりの頃はそんな妹でさえも恋しかった。こんなことになってしまうのなら、もっと優しくしてあげればよかったと思ったし、泣き叫ぶ妹を置いてけぼりにして帰ろうとした罰なのかもしれないとも思った。けれど、後悔しながらもそんな風だった自分自身を、いつも他人を思い出す様にスピカは思い出していた。
スピカはそんな考えを振り払うように軽く頭を振ると、立ち上がった。ぼうっとしていたら、あとの三日なんてきっと直ぐに過ぎ去ってしまう。多分どうにもならないこともない。
スピカは立ち上がると窓の下を覗き込んだ。家の前で壮年の騎士と若い騎士が会話している。おそらく壮年の騎士が何かの指示を出しているのだろう。そこに老人の姿はない。老人はスピカをこの家の者に引き渡すと騎士を一人だけを引き連れて、この集落の男と共にどこかへ行ってしまったのだ。
スピカは老人の姿がないことを確認すると、そっと部屋の扉を開けて人がいないか注意を払いながら、そのままできるだけ足音を立てないように部屋を出た。部屋を出るとすぐ左にあった階段をゆっくりと下りる。階段を下りれば直ぐに玄関だ。
馬に乗れたのならば、馬を一頭借りて逃げることもできるが、スピカは上手く馬を操ることができないし、操れたとしてもどこへ進めばいいのか方向も分からない。自分一人で逃げる方法が思いつかなかったスピカは、壮年の騎士と二人で話す機会を伺うことにした。あの騎士なら、スピカの話しを聞いてくれそうだ。もしかしたら、手を貸してくれるかもしれない。
階段を下りきるとすぐ近くの部屋で話し声がしたけれど、スピカは気にせずにそっと玄関から外へ出た。
「おじさん、おじさん」
物陰に隠れながら騎士たちの近くまで寄って、小さな声で呼びかけると壮年の騎士がスピカに気付き眉ねを動かしたが、そ知らぬ素振りでその場を離れた。草木が生い茂る森の方へ歩いて行くのを見て、スピカもそれにこそこそと付いて行く。
「なんなんだ、お嬢ちゃん」
集落から随分離れた所で、騎士は立ち止まるとそうスピカに聞いた。スピカも大丈夫だとは思いながらも、きょろきょろと辺りを見渡してからようやく騎士の前に姿を現す。
「おじさん、助けて」
へらっと情けない笑みを浮かべながら言うと、騎士は虚を突かれた顔で暫くスピカの顔を眺めたあとに、ため息をついて頭を垂れた。
「そりゃないよ……お嬢ちゃん」
「どうして?」
「分かっていながら言ってるんだろう? もうそこまで小さな子供でもないんだから」
「あのおじいさんの言うことを聞かないのは、そんなに大変なことなの?」
「……こりゃ、とんだ箱入りだ」
騎士は独り言のように呟くと、少し困ったように眉を顰めて乱暴に頭を掻いた。
「あの方は、凄く偉い人なんだよ。あの方だけじゃない。スペルカ様を……今回こういう形でお嬢ちゃんを連れてきたのは、偉い人たちの意思なんだ。一介の騎士でしかない俺が逆らえるわけがない」
「けど、どの道上手くいくわけがない。トトがもしスピカを必要とするなら、スピカはきっとトトの元に戻ることになるし、もしもういらなかったとしても、おじいさんたちがスピカを連れ出した意味もなくなる。だからお願い、助けて。今トトと村に帰らなきゃ、オスカを元に戻してもらえなくなるかもしれない」
「……酷なことを言うなあ」
「おじいさんがいくら偉い人だって、トトには逆らえないんでしょ?」
騎士はまた盛大にため息をつくと、目を閉じて眉ねを摘んだ。悩んでいるような素振りだが、もう心は決まっているのだろう。
最初からこの騎士がこの無謀な計画に乗り気ではなかったのには、スピカにも分かっていた。なによりこの騎士は、オスカが今どんな状態でいるのかを目の当たりにしているのだ。スピカを連れ去ったことで、オスカが元に戻してもらえなくなるかもしれないという現状を知り、複雑な心境でいたことだろう。
ただ、スピカに手を貸すと、騎士の立場が悪くなるということもスピカも少しは理解していた。トトが口ぞえしてくれれば、きっと酷い状況にはならないだろうが、それも補償のできないことだ。
騎士の良心を利用しようとする自分に嫌気がさしながらも、スピカはオスカを元に戻すことを第一に考えることにした。
「……見ての通り、人が少ない。お嬢ちゃんをスペルカ様の下へ帰すだけなら、はっきり言って簡単なことだよ」
騎士は観念した様に言った。渋い顔をしながら、木々の間に鋭く視線を走らす。
「けど、あの方を裏切ってお嬢ちゃんに手を貸したとしても、俺にはあの方を守る使命がある ……そうだな、お嬢ちゃんはスペルカ様に見つけてもらった方がいいかもしれないな」
「けど、それじゃあ間に合わないかもしれないの……」
「お嬢ちゃんの血を地面に染みこませるんだ」
「へ?」
「地面を伝って遠く、スペルカ様はお嬢ちゃんのことを知る」
「どうしてそんなことが分かるの?」
「血には、たくさんの情報が詰まってるんだよ。スペルカ様にとってお嬢ちゃんが見つけにくい存在でも、その体を流れる血でスペルカ様は君の居場所を知ることができる」
「見つけにくい存在? どうしておじさんが知ってるの?」
「……君たちは、たくさんの人間の監視下にあるんだ。それは、どこにいてもだよ。そのことだけは覚えておくんだ。さあ、手を出して」
「い、いい。自分でするから!」
スピカは騎士が取り出した小型の剣に慄き両手を振った。小型でも切れ味はとても良さそうだ。地面に染みこませる程の血なんて、流した記憶がスピカにはない。ましてや今、剣を手にしているのは騎士だ。血どころか手もぽとりと落ちる想像をしてしまって、スピカは背筋を凍らせた。
「こういうのは素人が扱って下手なところを切ってしまった方が、危ないし痛いんだ。ほら、早く」
「うう……」
スピカは唸りながらも、渋々と腕を差し出した。服の袖を肘までたくし上げられてぎょっとしたスピカを見て、騎士は苦笑した。
「そんなに切らない。ほんの少しでいいんだ。本当は指先でもいいんだがあの方は勘が鋭いから、念の為服で隠れるところにしとくよ」
スピカはもう声も出せずに腕から顔を出来る限り離して、勢いよく数度頷いた。
痛みはほんの一瞬だった。
スピカが瞑っていた目を開いて横目で見ると、騎士が小さな傷口にできた赤い血の玉を指で掬っているところだった。そしてそのままそれを地面に擦り付けた。
「それだけ?」
「そう、これだけ。怖がらせて悪かったね」
「……本当に、それでトトが気付くの?」
「ああ。試したことがあるから」
「へえ……」
どういう風にかは、スピカはもう深く訊かないことにした。そんなことよりも安心してどっと力が抜けてしまう。
「さあ、早く部屋に戻った方がいい。スペルカ様はじきに君のいるところへやってくるだろう。周り道をしたけれど、ここはそんなに都から離れてはいない。急げば一日で着く場所にある」
そんな魔法みたいなことが本当にありえるのだろうか、とスピカはやはり完璧に騎士の言うことを信じきれずに暫く血が染み込んだ地面を見つめていたが、いつまでもそうしている訳にもいかずに、もと来た場所へ戻ることにした。
都からそんなに離れていないという事実が意外だったけれど、それならトトも本当にすぐにやってくるだろう。トトが迎えにやってくるのをただ待つという状況は少し情けなかったが、仕方がない。
スピカはこそこそとまた部屋へ戻った。