49.
馬車は長い時間走り続けた。
どこら辺まで来てしまったのかは、布袋を被せられたままのスピカには知りようもなかったが、時折激しく揺れる馬車には、早く止まって、と願った。体を起こすこともできずに諦めて椅子の上に寝そべったままでいたから、たまに眠気がやって来たけれど、その度にガタンと揺れるから結局眠ることはできずに、長い時間を袋に包まれたまま過ごすしかなかったのだ。
酔って悪くなった気分も徐々にましにはなっていたけれど、今度は体が痛み始めていた。
どこに連れていかれるのだろう、誰がこんなことをしたのだろう、と長い時間の間にスピカは考えたけれど、結局答えは見つからなかった。
全く覚えがないわけではない。トトのことでスピカに嫉妬心を持つ者もいるだろう。けれど、そんな人たちがトトに逆らうようなことをするとは、スピカには到底思えなかった。オスカみたいに例外はいるかもしれないけれど、スピカの見てきた人たちは大体トトにあの不思議な感情を抱いて、その感情の余りの強さに、誰もトトに逆らえない。
だとすると、やはりトトだろうかとスピカは思ったけれど、それも違うような気がしていた。トトならこんな周りくどいことをする必要がない。
どちらにしても、スピカはオスカを治してもらう約束をしたのだから、四日後にはトトの傍にいないといけない。最近の気まぐれなトトは、ちょっとしたことで約束を簡単に破ってしまうかもしれないのだ。
スピカがそんなことをのん気に考えている時に、馬車はようやく止まった。
外で物音とぼそぼそと人の声が聞えたけれど、何を喋っているのかはスピカには分からなかった。ただ、その声は聞いたことのあるもののような気はした。
もぞもぞと動いていると、扉が開けられる気配がして冷たい外の空気が流れこんでくるのが布越しに分かった。新鮮な空気が吸いたかったけれど、布の中の空気は相変わらず淀んでいる。スピカは大きな手で抱き起こされると、そのまま馬車から下ろされて、地面に立たせられた。慣れ始めた揺れがなくなって、体がふらふらと揺れる。足は縛られたままだから、不安定だ。地面は柔らかくぬかるんでいた。
外はもう真っ暗なのだろう。時折袋の外でいくつかの明かりが揺らめく。
「どこに行くの……?」
喉が渇いていて少し擦れた声になったけれど、スピカは近くにある明かりにできるだけ大きな声で尋ねた。明かりはスピカの問いかけに反応したのか、一度大きく上下に動いた。近くにいたいくつかの明かりたちも、それに合わせるように大きく蠢いて不気味だった。
「もういいだろう」
「そうですね」
低い男の人の声だった。片方は少し枯れたような、老人の声だった。
両足を縛っていた縄が解かれる。そんなにきつく縛られていたわけではないけれど、スピカはほっとして、不安定だった足を開いてしっかりと立った。ようやく開いた袋の口から、夜の冷たく澄んだ空気が立ち上ってくる。スピカがそのまま殆ど全身を包んでいた大きな袋を脱ごうとするのを誰も止めなかった。それどころか、上から引っ張って脱ぐのを助けてくれた。
ようやく袋を脱げた開放感を味わう間もなく、スピカは自分を取り囲む人たちをぽかんと口を開けた状態で見つめまわした。
スピカがいる場所は大きな塔の前だった。周囲に建物はなく、広い草原の中にぽつぽつと木が生えている程度だ。少し離れたところでは、真っ黒な山々がそびえたち、広い空ではたくさんの星が瞬いている。
スピカが袋を脱ぐのを手伝ったのは、あの司書のような壮年の騎士だった。その騎士はスピカに見られると、一瞬バツの悪そうな顔をしたが、すぐに生真面目な顔に戻った。もう一人、スピカの前に立っていたのはスピカの知らない、上品な外套を羽織った老人だった。おそらく先ほどの声はこの老人のものだろう。この老人は少しこわい顔で、観察するようにじっとスピカを見つめていた。
他にも三人の若い騎士が手に明かりを持って立っていた。その三人のうち二人は寺院の門でスピカを捕まえたことのある騎士だった。
そして、もう一人。
老人と壮年の騎士の後ろには、スピカの、家族がいた。
「……おとうさん?」
スピカが呟くように言うと、スピカの父親であるイサは、苦しそうな表情をして顔を逸らした。
「私たちは、あの方から君を逃がしてあげようと思っているんだよ」
老人は静かな、けれど威厳のある声でゆっくりとそう言った。
スピカが今いるのはそんなに広くはないけれど、天井が高くて薄く青掛かった白い部屋だった。置かれている物と言えば、スピカと老人が座っている木の椅子と、二人の間を埋める長い卓くらいだ。壁にはたくさんの模様が彫られていて、空気は冷たかった。多分人の家ではないのだろう。今この部屋にいるのは老人とスピカだけだった。
スピカは老人が言っていることをいまいち理解できずに、顔を顰めた。言葉の通りなら、今更なにを言っているのだろう、と思ってしまう。
老人が言うには、スピカがこんな風に攫われたのは、トトが村に帰ると言い出したことが原因らしい。どこかの偉い人たちが、それを嫌がったのだ。その偉そうな人たちの名前は、スピカが始めて聞くような難しい名前ばかりで、一度で覚えることはできなかった。老人が当たり前のように名前を出すから、有名な人たちなのかもしれなかったけれど、スピカは知らなかった。スピカの住んでいた村はスピカの思っていた以上に閉鎖的だったのかもしれない。もしかすると、スピカに伝わらないようになっていただけかもしれないが、村ではどこの家で子供が産まれたとか、そろそろきのこ狩りの季節だとか、村の中での日常的な話ししか聞かなかった。イシュと旅している時に色んな国があることも知ったけれど、そんな知識もスピカには殆どない。途中で同行した旅人たちは、どこの国の誰々がどうだとか、そういう類の話しはなぜか余りしなかったのだ。小さなスピカにしても分らない話しだと思っていたのかもしれない。
ともかく、老人やその偉い人たちは、トトが村に帰ろうと言い出した理由が、スピカだと思っているらしい。確かにそうだけれど、スピカはつい疑問に思って口を挟んだ。
「トトが、こわくはないの?」
本当に単純にそう思って聞いただけだった。老人は表情こそ変えはしなかったが、長いテーブルの上で組んでいた皺枯れた手をぴくりと動かした。
「……あの方をおそれない人など、私は見たことないよ。お嬢ちゃん」
いくつか砕けたような口調で老人は言った。
「だったら、どうして?」
「それは先ほど、説明した通りだよ」
老人は先ほど、スピカを逃がしてあげようと言ったが、ようは人質のようなものだった。スピカを無事でいさせる代わりに、トトに都にいろと言うのだ。
トトが都にいることで、色んな問題が解決するのだと老人はいう。たくさんの人々が平和に暮らせるし、象徴になるのだと。
やはりトトが村に帰るのは、スピカが思っていた以上に難しいことらしかった。老人の難しい話しの殆どをスピカは理解できなかったけれど、とにかくトトが都にいた方が、偉い人たちには都合の良いことらしい。けれど、そんなことが簡単にいくのだろうか、とスピカは思った。いざとなれば、誰もトトには逆らえない。その偉い人たちでさえもきっと、トトのいうことを聞いてしまうのだ。だとしたらこんなことをするのも、意味のないことのように思えた。
「うまくいくの? トトは、かみさまなんでしょ」
スピカが言うと、老人はうっすらと笑みを浮かべるだけだった。
その後、スピカは老人に連れられて塔の階段をのぼった。スピカの後ろには、スピカが逃げないようにか壮年の騎士が付いてきていた。騎士は以前見た朗らかな様子ではなく、どこか緊張している様子だった。スピカには事の重大さが分からなかったが、彼らはかみさまに背いているのだ。かみさまであるトトを捕らえようとしている。
長い螺旋階段をのぼりきると、ぽっかりと空いた空間が広がっていた。スピカの身長以上の高さの大きな窓がいくつもあって、広い夜空に浮かぶ大きな月と黒い山が見えた。
「明日、また別の場所に移動する。悪いがそれまで、お嬢ちゃんにはここにいてほしい」
老人は頼むような言い方をしたが、有無を言わせない声色だった。どの道ここがどこなのか分からないスピカには逃げ出すこともできない。
「イーノスは、知ってるの?」
騎士に向かって聞くと、騎士は苦笑いをして首を横に振った。
「おとうさんは……どうしてここにいたの?」
「君のお父上は、以前から君をあの方から逃がしたがっていたのだよ。娘であるお嬢ちゃんのことをずっと心配していた」
老人の言葉に、スピカは微かに首を傾げたけれど、何を言えばいいのか分からずに口を噤んだ。老人はスピカが偽者であることをもしかすると知らないのかもしれない。
騎士がいくつかあった燭台に火を灯すと、二人はスピカを残して扉を閉めた。鍵を閉める音はしなかったから、スピカが出ようと思えば出れるだろう。
スピカは今いる場所を見渡した。丸い天井もそのまま続く壁も床も下で見た部屋のように薄青掛かった白で、それに溶け込むように、ぽつりと白い毛布の掛けられた小さな寝台が置かれているだけだった。人が住むための場所ではなかったことが、スピカにも簡単に分かった。寝台はおそらくスピカがここへくる前に置かれたものだろう。スピカは仕方なくその寝台に腰掛けると窓の外へ目をやった。
広く続く野原には大きな生き物の気配がなかったが、どこからか夜の鳥が鳴く声が聞えてきた。ぽつぽつと咲いている白い花が月光を反射して、ほのかに発光しているように見える。光虫がふわふわと漂うようにして飛び交っているところを見ると、どうやら水辺が近いらしいことが分かった。都で見るよりも広い空では、たくさんの星と大きな月が瞬いて景色をぼんやりと照らしている。
こんな状態でもなければ、凄く幻想的で美しい景色だ。
スピカはここがどこなのだろうと辺りに視線をめぐらせたが、闇に包まれた山々が立ちふさがるように野原の周囲を囲っていた。
急に心細くなって、下へおりようか迷っている時だった。扉を叩いてから、ゆっくりと遠慮がちに開けたのはイサで、イサは笑おうとして失敗したような顔をしていた。
「入ってもいいかな?」
スピカが頷くと、イサは少しほっとしたようで、手に持っていたお盆と角灯に気を配りながら扉を閉めた。
「どうして……イサさんがここにいるの?」
先ほど「おとうさん」と呼んだ時のイサの表情を思いだして、スピカは名前で呼んだ。
老人にも聞いたことだったけれど、いまいち理解できなかったのだ。実はスピカの両親であるイサともティピアとも、顔を合わせたのは数えるほどしかない。二人がそれを拒んだからだ。最後に会ったのはおばあちゃんの葬儀の時で、それ以来同じ都にいても会うことはなかった。
スピカが呼び方を変えたからか、イサは微かに眉を顰めると、なんとか微笑みを作って持っていたお盆をスピカに手渡した。お盆に乗っていたのは、硝子の水差しと白い木のコップと、甘そうな蒸しパンと硬い殻に覆われた木の実が二つだった。
「すまないね。今はこんなものしか用意できなかったけど、明日になればもう少しましな物を口にできるよ……座ってもいいかな?」
スピカが頷くと、イサはスピカの隣に腰掛けた。やけに緊張してしまったスピカは、膝の上に置いたお盆の端をぎゅっと持った。イサにとってスピカはあまり心良い人物ではない筈だ。自分の娘の名前を名乗り、村に居ついたのだから。
スピカの緊張に気付いたのか、イサは少し申し訳なさそうな顔をして顎に手を当てると、窓の外へ視線を移した。数秒の気まずい沈黙が流れたあと、イサはスピカに水を飲むことを勧めた。喉がからからだったスピカは、コップに注いだ水を一気に飲み干した。冷たい水は少し甘い味がした。
「おいしいだろう。この辺りを流れる地下水だよ」
イサはできるだけ優しく聞えるように、気を使って話しているようだった。スピカは頷くと、イサが注いでくれた二杯目の水をまたごくごくと飲んだ。
「パンも、食べなさい。お腹が空いただろう?」
言われてスピカは蒸しパンを手に取った。パンはほんわりと甘くておいしかったが、緊張で喉を通らなかったから、水で無理矢理流し込んだ。
スピカの父親と、二人でいるのは初めてだ。思えば数える程しかない対面の時、いつも他に誰かがいた。それにまともに言葉を交わしたこともない。スピカを見た時、本物のスピカの両親は今にも泣き出しそうな顔をして、できるだけスピカの傍を離れたがった。
だからだろうか。労わるような優しい声で話しかけられて、スピカはふいに泣きたくなった。それを誤魔化すようにまたぐびぐびと水を飲み干す。
「此処にいるのは……そうだな。今更だと君は思うかもしれないが、君をあの村の縛りから逃したかったんだ。ティピアと僕は、君から逃げ出してしまったけれど、けして君が嫌いだったわけじゃないよ。ただ、元気だった娘の姿を思い出しすと苦しかったんだ」
スピカは空になったコップを両手で口の前で構えたまま、その言葉を聞いた。
「君は本当に……スピカとそっくりだったから」
「うん……」
「君が都へ、スペルカ様と一緒に来たことは聞いていた。スペルカ様のもとから逃げ出したこともだよ。その時に君はスペルカ様のもとにいることを望んでいないことを知ったんだ」
そうではない、とスピカは思ったけれど、反論もしなかった。複雑な心中を一から言葉で表すのは難しい。
「だから、スピカをここへ連れてきたの?」
スピカは言ったあとで、しまったと思い顔を顰めると視線をおとした。イサの前で自分のことをスピカというのは、あまり良いことではない。スピカの言葉の途中でイサは怒っているともつかない、悲しそうな顔をした。
「……ごめんなさい」
「いや、謝ることはない。その名前は、もう君のものでもあるんだろう?けど、君はそれでいいのかい?」
言われて、スピカは顔を上げると隣に座るイサの顔を見上げた。その途端にイサはまた表情を変えたが、努めて微笑みを保っているようだった。白髪が混じり始めた髪は、スピカと同じ黒髪だ。瞳の色は、茶色ではなく底知れない闇色だった。目の下には薄く皺が入り、翳りはあるけれど優しく細められている。トトに与えられたスピカの記憶の中でも、この人は優しい微笑みをスピカに向けていた。ことこ が実際に見たことがあったのは、苦しそうな顔ばかりだった。ことこ が、そんな表情をさせたのだ。
イサが言ったことは、スピカにとって本当に今更なことだった。つい先日、ことこ の未来を諦めて、スピカでいることを本気で覚悟したのだ。
だから、スピカは頷いた。
その答えに、イサは苦しそうに顔を歪めると、深く項垂れた。スピカには泣いているようにも見えた。何かとても悪いことをしてしまった気分になって、スピカまで悲しくなってしまう。
「……君をそんな風にしてしまったのは、僕たちだよ」
イサは掠れた声で呟いた。
みんな、そんな風に言う。そうなのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。けれど確かにあの頃、誰かが ことこ がスピカになることを強く反対していたら、きっと何かが変わっていたのだろう。トトから偽者のスピカを引き剥がしていたら、トトとスピカを会わせなければ。けれど、それこそ今更なことで、もう誰にもどうすることもできない。
トトはこわれてしまった。スピカはトトの傍にいることを望んでしまった。
誰が悪いのかも分からないから、スピカは誰も責めることはできない。けれど、トトに対してだけ憎しみを持ち続けるだろう。
「……あのおじいさんは、わたしのこと、イサさんの娘だって言っていたけど、どうして?」
「本当の娘だと思っているからだよ。スピカが……スペルカ様の力によっていなくなってしまったことは、村人でも知らない人が多いんだ」
そうだとしたら、あの三人姉弟妹がスピカの秘密を知っていたのは、やはりセスティリアスが何かを見たのだろうか、とスピカは小首を傾げた。そんなスピカの様子を見たイサが懐かしそうな顔をしたことに、スピカは気付かなかった。
「責任だけじゃなくて……」
「え?」
「こんなことを言うのもおこがましいかもしれないけど、君には、幸せになってほしいんだ」
本当にまごころの篭った声だった。それは娘に向けたものでもあったのかもしれない。
スピカは俯くと、小さく頷いた。
その夜は長かった。
スピカは眠れずにただずっと、ぼんやりと窓の外を眺めるしかなかった。イサは下にいるかもしれないし、家に帰ってしまったのかもしれない。若い騎士やあの司書のような風貌の騎士や老人は、下にいるのだろうが、物音もせず静かだった。
イサが持ってきてくれた木の実を手の中でころころと転がす。硬い殻の中で実が動いているのが分かって、なんとなく手に心地よかった。
スピカが今こんな場所にいることをトトはもう知っているのだろうか。トトがどれほどの力を持っているのか、スピカには分からない。人を生き返らすことはできないけれど、傷つけることはできる、スペルカの力。傷や病を治すこともできるし、色んなことを知ることもできるし、人の心を魅了する、御伽噺のような存在。人の心を持ったまま、かみさまになってしまった。どうせなら、心までスペルカのようになったら、楽だったに違いない。
スピカは意を決したように立ち上がると、木の実を服の隠しに入れて静かに扉を開いた。古びた扉には、やはり鍵はかけられていなかった。スピカは角灯を持って、壁にそって続く螺旋階段をゆっくりと下りた。下に下っていくにつれて、少しづつ人のいる気配がしてくる。長く続く階段は不気味で心細くて、スピカは人の気配を知ると無意識に急ぎ足になった。けれど、ちょうど扉を開けた若い騎士と目が合ってしまい、思わず足を止めた。
騎士の方は、少し驚いた顔をしたあと、警戒した様子でスピカを見つめた。
「どうしたんだ? 何か、あったのか?」
スピカが逃げるとでも思ったのだろう。騎士はにじり寄るようにゆっくりと階段に足を踏み出した。気迫の篭った様子に、スピカも思わず後ずさりしてしまいそうになる。この若い騎士には、寺院の前で捕まえられたことがあるのだ。
「……おじいさんに、話したいことがあるの」
「おじいさん? ……ああ、けど、あの方は今眠られているんだ。明日の朝じゃ駄目か?」
「明日、話す時間はある? できるだけ、早く話したい」
騎士は面倒そうに頭を掻くと、スピカを手招きした。
「今、起こしてくる。……本当は、凄く恐れ多いことなんだぞ。手短にな」
通された部屋には、スピカが司書のようだと思った騎士がいて、スピカの姿を見ると驚いたように目を少し見開いた。
騎士は小さな木製の椅子に座っていて、部屋の中には他にいくつかの椅子と、大きな、荷物が入った袋が乱雑に置いているだけで、スピカがいた場所と造りは同じようだった。暖炉や、人が生活するための物が殆ど置かれていない、殺風景な、何の目的の為に建てられたのか分からないような塔だ。
「お嬢ちゃん、どうしたんだい? 眠れないのかい?」
壮年の騎士は、相変わらず小さい子供に話すように問いかけた。けれど、どこか緊張しているようでスピカは眉を顰めてしまう。
「おじいさんに、話さないといけないことが、あったの」
「おじいさん? ……はは! おじいさんか。まあ、とりあえず座って。あの方は眠りが浅いから、すぐに来られるよ」
そう言って騎士はスピカを椅子に座らせると、コップに何かを注いで渡した。生ぬるいお湯だった。
「ちょっと冷めてるかもしれないが……こんなものしか用意できなくてね。準備が間に合わなかったんだ」
「どうして間に合わなかったの?」
「スペルカ様が村に帰ると仰られて、このことが決まったんだ。すぐに実行しないとスペルカ様に止められると思ったんだよ」
「おじさんは、うまくいくと思ってるの?」
「……さあ、それはおじさんにも分からないな。ただ、理性的な大人の感覚を簡単に狂わせてしまうほど、スペルカ様には魅力がある」
スピカはよく分からずに小首を傾げた。
「村に帰るのは、そんなに悪いこと? 元々トトは、村にいたんだよ。それに都と村はそんなに離れてないでしょ」
「お嬢ちゃんがいた村なんだが、お嬢ちゃんは知らないようだが、なんとも微妙な位置にあるんだよ」
「微妙な位置?」
「うん。まあ、俺もスペルカ様が村にいることに問題はないとは思うんだが……」
騎士は言葉を途中で遮ると、深く頭を下げた。
扉の前で老人が立っていることに気付いたスピカも、立ち上がると、老人に近寄った。老人は仕立ての良い夜着の上に、外でも身に着けていた上品な外套を羽織っていた。
「起こしちゃって、ごめんなさい。わたし、おじいさんにどうしても言わなきゃいけないことがあったの」
「いいよ。お座りなさい」
老人は近くにあった椅子をスピカにすすめると、自分は後ろから付いてきていた若い騎士が用意した椅子に腰を落ち着けた。
騎士たちは座らずに、人形のように立ったまま動かなくなってしまう。
「さて、何かな」
「トトと、約束したの。五日後に、村に帰るって。一緒に帰って、オスカを治してもらう約束を」
「オスカ……? ああ、あの月祭りの時の」
老人は月祭りでの出来事を知っているようだった。もしかすると、あの場所にいたのかもしれない。老人は何かを考えるように一度視線を彷徨わすと、スピカをじっと見つめた。
「けれど、君をあの方のもとに戻すことはできないよ」
「ともかく一度でいいから。そうじゃないとオスカを元に戻してもらえないかもしれない」
「あの方を何度も憚ることはできないだろう。残念だが、その少年のことは諦めてもらうしかない」
「あきらめる……?」
その言葉にはスピカだけじゃなく、壮年の騎士も驚いたようで硬い表情のまま目を少し見開いた。
「どういうこと?」
「あの方に逆らって、命があるだけでも有難いことだと思えばいい」
「え……」
怒るよりも、驚きでスピカは何も言葉を紡ぐことができなかった。
以前のトトの言葉をぼんやりと思い出す。
『例えばスピカが僕に殺されたって、誰も文句は言わないんだよ』とトトは言った。確かにそうなのかもしれない。現に、本物のスピカはトトの力で死んでしまって、それでもトトの気を引くために偽者のスピカが仕立て上げられたのだ。けれど、オスカは死んでいない。動かないし、返事もしてくれないけれど、確かに生きているのだ。
スピカのことも恐ろしいことだけれど、生きているオスカを放っておくことも、スピカにとっては恐ろしいことだった。元気なオスカに元に戻ってほしいし、たくさん話しをしたい。何よりあのままなんて、オスカがあんまりにも可哀想だ。
そんなことも、この老人にはわからないのだろうかと、どんどん腹が立ってきて、スピカは隠しに入っていた木の実を老人に投げつけた。
老人は動じずに、怒ることもなく静かに視線を落とした。ぎょっとしたのは騎士たちだった。すぐにスピカを捕らえようとしたが、老人が手を掲げるとまたもとの位置に下がった。
「オスカは、生きてるんだよ! 今だって、息をしてるんだから!」
「ああ。君が怒るのは当たり前だ。だけど、私たちはどうしてもあの方が欲しいんだよ」
深く皺の刻まれた顔をして、長い年月を生きてきたはずなのに、老人はまるで子供のそう言った。
「かみさまが、人のものになると思ってるの? 人だって、人のものにはならないんだよ」
スピカが薄く笑いを浮かべて言うと、老人はふむ、と言って考える仕草を見せたあとに苦笑した。
「お嬢ちゃんは、知らないようだな。人は人のものになりえる。かみさまは、人のものにならないからこそ余計に欲しくなる。 ……あの方は、もとは人の子だからね。だから君という存在に縛られてもいる。……どうなることやら」
先程かみさまがどうしてもほしいと言ったのに、今度は他人事のように老人が言うのを、スピカは半ば呆気に取られて聞くしかなかった。