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きみのこえ  作者: はんどろん
09.途切れた歌
48/63

48.

 真夜中に目覚めてしまったスピカは、もう一度眠ろうとしたが結局眠れずに体を起こした。

 暖炉の火はもう燻っている程度で、部屋の中は冷え始めている。

 スピカは鳥かごに布を被せたあとで、用意されていた薪を暖炉にくべた。角灯の中に入れていた着火道具で紙くずに火を点け、積み重ねた薪の上に置く。一瞬の焦げたにおいのあとすぐに、木が燃える独特な香りがした。テレトレの木の薪だ。白いその幹は、燃やすとほのかに良い香りがする。

 スピカは徐々に広がっていく炎をぼんやりと眺めた。目覚めたばかりの頭はなかなか動いてはくれない。昔の夢をみた気がしたけれど、どんな夢を見たのかは思い出せなかった。

 暫くそのままぼんやりとしていたけれど、寝起きでまだだるい体を無理やり立ち上がらせると、床に置きっぱなしになっていた荷物をさぐった。シュトゥにもらったテヌーの砂糖漬けはできるだけ暖炉から遠ざけた方がいい。テアタがくれた服や靴は衣装箱に入れた。村から持ち帰ったものはもう一つあった。おばあちゃんの家にあった、海の絵が描かれているあの本だ。

 スピカは大事そうに本を両腕で抱くと、皺になってしまった頁を開いた。

「うみは……せかいのすきまをうめる、きょだいなみずたまりです」

 本自体は重厚な作りになってはいるが、中に書かれている文字は子供向けのようだった。以前のスピカはそれさえも読めなかった幼い子供だったのだろう。

 ことこ は海は波打って、塩っ辛くて、広く続くものだとほんの小さな頃から認識していた。物心つく前から両親に連れられて行ったことも何度もあったのだという。だから、巨大な水溜り、という表現に少し笑ってしまった。けれど何も知らなかったスピカは、トトが読んだ本の内容を間違いではないけれどそのまま鵜呑みにしていた。

 スピカは気分の悪さに顔を顰めた。

 スピカの記憶は、トトの思惑とは逆に、自分のことが曖昧になり始めていた ことこ に違和感を与えた。ことこ は ことこ だったのだと、自分のなかにある異質な記憶に気付かされた。トトがかみさまになった時の、スピカの体の倒れる感覚と、視界の先にあったトトの姿は ことこ が想像して勝手につくりだしたものだ。それがいつの間にか本物の記憶のように ことこ の心に居座ってしまっていた。

 それが分かっただけで、曖昧だった事実は真実味を持って今ではスピカでいるしかない ことこ のなかに揃った。

 以前よりは少しだけ、開き直った気分にはなった。

 もう、何もかもが遅すぎるのだと、今更ながらに気付いたのだ。


 翌日の朝、トトはスピカが逃げ出す前と同じような様子で、いかにも自然にスピカの部屋に入ると、昨日一日スピカがいなくなっていたことには触れる気はないのか、尼僧たちが用意した食事をスピカにすすめた。

 スピカはそれに素直に従った。今まで何もなかったようなトトの態度に胸がもやもやとはしたけれど、断る理由もない。それに、スピカにはトトと話さなくてはいけないことがあった。

「オスカのこと……」

「うん?」

 料理の並べられた円卓の上に頬杖をついて、トトは小首を傾げた。やはり料理に手をつける気はないようだ。

 どうやって生きているのだろうと、スピカは不思議に思ってしまう。お腹は空かないのだろうか。スピカだったら、一食抜いただけでお腹が空きすぎて動けなくなってしまう。それとも、スピカの知らないうちに食事をとっているのだろうか。

 スピカは料理とトトを見比べたあと、小さく息をついてトトの顔を見つめた。やわらかく笑ってはいるが、伝わってくるものは無機質だ。

「オスカをもとに戻して」

「どうして?」

 本当に不思議そうにトトが言うものだから、スピカは声を荒げそうになったが、それをぐっと呑み込んだ。

「……トトが、あんなふうにしたんじゃないの?」

「うん。そうだね」

「だったら、もとに戻して。トトはかみさまになったかもしれないけど、あんなことしていいわけがない」

「かみさまは、与えるだけのものだと?」

「ちがうよ、そうじゃない。スピカにとって、トトはかみさまじゃない。 ……でも、かみさまでも人でも、あんなことしちゃ駄目だよ。それに、オスカとは友達だったんでしょ?」

 言っていることがちぐはぐなことには、スピカ自身気付いていたが、他になんと言えばうまく伝わるのかが分からなくてもどかしく思った。心が離れてしまっては、スピカのたどたどしい言葉なんて遠く届かない。

 トトはそう言ったスピカを暫く何も言わずに眺めていたが、頬杖をついたままもう片方の手で水を注がれたグラスの縁をなぞった。なにかに応えるように水面に波紋ができる。グラス自体は動いていないし、トトの指先もそっと縁をくるくるとゆっくりなぞっているだけだ。

 その少し不思議な光景にスピカの視線もつい寄っていく。

「そんなことを平気で、簡単にできるんだから、かみさまってこわいよね。それを誰も咎めないし、咎める気さえ沸き起こってこないんだから」

「……本当に、平気なの?」

「平気だよ。僕が心を動かすのは、スピカにだけだ」

 スピカはその言葉に一瞬眉を顰めたけれど、挑むようにトトの暗い瞳を見つめた。

「だったら、動かして。オスカを元に戻して。スピカは、もうどこにも行かないから。トトがいらなくならない限り、スピカはずっとトトの傍にいるから」

「ふうん。それは、オスカをもとに戻す代わりにってこと?」

 トトの言ったとおりではなかったが、スピカは頷いた。そうした方が、きっと良い返事が返ってくると考えたからだ。

 トトは口の端を持ち上げて笑みを作ると、グラスの上で回していた手を止めて、上目でスピカを見た。

「食べないの?」

 トトがからかうように言ったから、スピカは苛ついて眉ねに皺を寄せた。

 先程から卓上に並べられた料理たちは、おいしそうなにおいを漂わせている。けれど何よりも先にトトに、オスカを元に戻すという約束をしてもらいたかったのだ。

「先に、トトが答えて」

 睨みながらスピカが言うと、トトはおかしそうに笑みを浮かべたまま、またグラスに視線を落とした。

「いいよ」

「……え?」

 さらりと言われて、ついスピカは間抜けな声で聞き返してしまった。

 トトはまた指先でグラスの縁をくるくるとなぞっている。それにあわせるように、また中に張られた水もいくつもの輪っかを作った。

「けど、離れた場所にいるオスカを僕では元に戻せない……オスカに直接会わないとね」

 スペルカだったら離れていてもオスカを元に戻すことができるのだろうか、と一瞬スピカの頭を掠めたが、スピカは決してそれを口にはしなかった。トトが元に戻してくれるのなら、それをスペルカに頼む必要もない。それにトトに戻してもらった方がいい筈だ。

 ふいに木を突くような音がしてスピカがその方向を見ると、パドルの鳥かごは布に覆われたままだった。何も言わずに立ち上がって鳥かごに掛かった布を両手ではずす。

「村に、帰ろうか」

 ぽつりと言われた言葉を理解できなくて、スピカは振り返ってトトの方を見た。トトはグラスに視線を向けたまま、けれど指を動かすことを止めて、顔ももう笑ってはいない。その姿はどこかつまらなそうにも見えた。

「……村に?」

「うん」

「いいの? 本当に? それって、一瞬じゃなくって、本当に村に帰るってこと?」

「うん。もう都は飽きたよ」

 まるでスペルカのようなことを言うトトが意外で、スピカは何も言えずにただ目をまるくした。ただ、それが本心で言っているのかはスピカには分からなかったけれど、トトは確かに村に帰ると言ったのだ。スピカがどれだけ望んでも聞いてもらえなかったお願いだ。けれど、それを願っていた時と今とでは状況が違う。スピカは素直に喜べず、驚きと複雑な感情で微妙な顔をした。

「都でかみさまをしなくても大丈夫なの……?」

「別に。ほら、もう食べたら? オスカはちゃんと治すから」

 スピカは大人しく席についた。正面に座るトトをちらりと見てからグラスを口に運ぶ。冷たい水が喉元を過ぎるのを感じた。

 グラスを静かに元の場所に置くと、顔を上げたスピカはトトと目が合って居心地が悪くなる。トトの視線はどこか観察するように殆どスピカに向けられている。スピカが見ると口元に笑みの形をつくるが、それでも鋭い目線は変わらない。

 ふいに足元のおぼつかない気分におそわれたスピカは、トトから逸らすように視線を落とすと、膝の上で両手をぎゅっと握り締めた。

 以前から変化していた二人の関係は、先日のことで本当にがらりと変わってしまったのだ。

 トトはスピカが本物のスピカじゃないと知っていたのか気付いたのかはスピカにも分からないが、どちらにしろ事実を知っていて ことこ をスピカにしてしまおうとした。正体がトトにばれてしまったにせもののスピカは、それによってトトに ことこ はいらないと知らされ、けれどトトの意思でこんな状態になってしまった今でもスピカでいる。

 少なくとも、スピカはそう思っていた。

 一見はスピカもトトも少し前と変わらない。けれど以前よりもより不安定で、歪んでいる。お互いの嘘を知りながら、演じているのだ。このおかしさに気付きながらも、スピカはもう自らこの関係を壊そうとは思わなかった。

「……いつ、帰るの?」

「あんまり嬉しくなさそうだね? あれだけ帰りたがってたのに。まあ、いつでもいいよ」

「……じゃあ、できるだけ早い方がいい」

 オスカの家族はこうしている間もずっと苦しんでいるのだ。スピカだってあんなオスカの姿を思い出すと、こわくて苦しくて動けなくなってしまう。トトは、酷いことをした。そのことにトト自身は気付いているのだろうか。

「いいよ」

 トトは一言そう返すと、再びグラスの上で指を回し始めた。




 窓から差し込む明かりは、橙色を帯び始めていた。

シュトゥに貰ったテヌーの実の砂糖漬けを齧りながら、スピカは床に直接座って長椅子に凭れ、その様子をぼんやりと眺めた。パドルの鳥かごが、繊細な模様を床に長く描いている。時折強い風が吹いては窓枠を鳴らした。

 村に帰るのは五日後になった。

 トトは今、礼拝堂か、違うどこかにいるのだろう。やはりかみさまであるトトが、一度は住み着いた都を離れることは難しいらしい。もしかしたら偉い人に説得されているのかもしれないけれど、結局は誰もトトには逆らえないから、それも意味のないことだった。

 オスカを元に戻してもらったら、スピカはもうトトがつくる流れに乗るだけだ。

 トトにスピカの記憶を流しこまれた時から、スピカのなかには別の感情が芽生えていた。本物のスピカに対する嫉妬心のようなものだ。今更すぎるその感情にスピカ自身も少し戸惑っていた。

 スペルカの言葉を思い出す。スピカも、少なからずともかみさまの影響を受けているのだ。きっと、スピカがそんな感情を抱くのは、その影響のせいに違いないとスピカは思う。今まであった、トトと一緒にいたいと切望していたのも、そのせいと、村人たちの望むままスピカを長く演じ続けたせいだ。

 砂糖漬けをまた取り出そうと瓶の中に手を突っ込んだスピカは、唐突な扉を叩く大きな音で、砂糖漬けをつい落としそうになった。

 スピカは扉の方に目を向けたが、扉は二度叩かれただけであとは静かになった。

「だれ……?」

 聞いてみても、厚い扉の向こうにはスピカの小さな声も聞えなかったのかもしれない。返事もなく、扉を開ける気配もなかったから、スピカは仕方なく立ち上がった。少し不気味だったから無視をしてもよかったけれど、誰なのか気になったのだ。

 重い木の扉をそっと開くと、スピカの目に真っ先に入ってきたのは薄灰色の布だった。

「え?」

 驚く間もなくその大きな布に包まれてしまったスピカは、体を硬直させるだけで暴れることもできなかった。抱きかかえられて、ようやく自分の状態に気付く。持ち上げられた状態のまま、布の上から両足を縛られた。

「だれ? ……なに!」

 返事はない。

 軽々と、多分肩に乗せられたようだったから、男の人なのだろうということは混乱しているスピカにもわかった。ようやくことの次第に気付いたのか、暴れ始めたスピカに動じることもなく、男はスピカを肩に担いだまま歩いていく。

 少なくとも、トトではないだろう。けれど、自分がこんな風にされる理由が思いつかないスピカには、恐怖心が湧いてこなかった。そもそも、此処で人に何か酷いことをされた覚えなどないスピカは、そういう面での不安や恐れは持ち合わせてはいない。本当に暴力的で、残酷なことをする人がいることを知らない。

 返事も立ち止まることもする気配がないことに気付いたスピカは、じきに暴れるのを止めた。

「……本当に、だれなの?」

 何度訊いてもやはり返事はない。

 スピカはあきらめたように体重を預けた。袋で覆われているし、お腹に圧迫感があって少し苦しいが我慢するしかない。スピカを覆っている大きな布袋はほんのりと若葉のようなにおいがした。

「トトに、何か言われたの……?」

 ため息混じりに言われた言葉に、男は微かに体を震わすと一瞬立ち止まったが、またすぐに歩き始めた。

「どうして何も言わないの? どこに行くの?」

 答えが返ってくることを期待はしていなかったが、スピカは尋ねた。

 返事はスピカの予想通り返ってこなかったけれど、男の大きな手は安心させるようにスピカの背を優しく撫でる。こんなおかしな状態なのに、スピカは妙に懐かしいような気分になって、それが不思議で顔を顰めた。

 それから暫くすると、冷たい空気が布越しに伝わってきて、外に出たのだと分かった。草や土を踏む音が小さいけれどスピカの耳にも届く。

 何度目かの扉の開け閉めをする音がした。今回は木の軋む音がしたから、きっと裏のあの小さな扉から寺院の外に出たのだろう。人の気配がして、布で見えないのにスピカは顔をあげた。頭にのぼっていた血がまた戻るのを感じながら、スピカは耳を澄ました。声はしない。けれど、数人の人が動く気配と、金具がぶつかり合うような音、そして馬の息遣いが聞えた。

「……馬車?」

 スピカが呟くように言うと、男の手がまたスピカの背を撫でた。

 両手で抱き上げられて立たせられたスピカは足をふらつかせたが、男に二の腕をつかまれていたから、袋を被ったままでも倒れてしまうことはなかった。おそらくスピカが逃げないようにだろう。立たされても袋を脱がされることはなく、自ら脱ごうとしても左右の二の腕をがっちり抑えられていては身動きもできなかった。そして今度はわきのしたに手を入れられて持ち上げられ、柔らかいものの上に座らせられる。扉の閉まる音ですぐに、スピカは馬車の中に入れられたのだと知った。

 スピカを乗せた馬車はすぐに動きだした。寺院の裏の細道は砂利道だ。がたがたと揺れは激しい。布を見つめていたスピカは、すぐに気分が悪くなって手で口を押さえた。それに袋の中の空気はこもっているような気がして益々気分が悪くなる。大きな石を踏んだのか、ガタンと大きく馬車が揺れでスピカは椅子の上に倒れた。頬に直接震動が伝わってくる。

「だれか、いる?」

 馬車が進む音と馬の蹄が地面を叩く音以外は物音一つ聞えない。馬車に乗っているのはスピカだけなのかもしれないと思うと、スピカは急に不安になってなんとか袋から抜け出そうと再び暴れだした。頑丈な布は非力なスピカが暴れてもびくともしない。足も縛られて、それ以上うえはすっぽり袋の中に納まってしまっているから、スピカは自分で袋を脱ぐことはできないだろう。

 遠くに響く鳴り出した鐘の音が聞きながら、スピカはただ目の前の布を見つめるしかなかった。








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