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きみのこえ  作者: はんどろん
09.途切れた歌
47/63

47.

 木枯らしは北の雲を引き連れてやってきた。

 雨でぐんと冷たくなってしまった空気は、もう冬のものだ。スピカはシュトゥから手作りのお茶の葉や、テヌーの甘煮の入った瓶を一つに纏めた包みと、道中食べる用のパンや乾燥チーズが入ったバスケットを受け取ると、お礼を言った。テアタからは新しい服や獣の皮で作った腰帯、なめし革を使った丈夫な長靴を貰った。行きよりも多くなってしまった荷物は、都への帰り道を送ってくれることになったカムシカの荷馬車に乗せられた。

 スピカの見送りは、森の前でひっそりと行われた。テアタとシュトゥと、ヨルカがそれぞれ順番にスピカを抱きしめて、名残惜しそうに離れた。次に会えるのはいつか分らない。みんな複雑な気持ちを抱えていた。村に居たいのならば、村に居ればいい、と引き止めようとも考えたけれど、結局誰にもそんなことは言えなかった。

「……いつか、また帰ってきてね」

 スピカと目を合わすことさえ避けていたヨルカが、最後にぽつりとそう言った。その瞳は悲しみで暗く沈んでいた。スピカはただ黙って頷いた。スピカにとって、もう都は嫌な場所ではない。セスティリアスもリュシカニアも、イーノスもアルカもいるのだ。彩りに溢れた街並みも楽しいし、たくさんの人々がいて活気に溢れている。けれどスピカはスピカの記憶を持ってから、村に帰ることを再び望み始めていた。記憶と共に感情さえも与えられたのかもしれない。自分のものではない記憶は思い出す度に違和感で気持ちが悪くなったのに、同時に心のどこかで自分のものであるような気もしていたのだ。もしかすると、その記憶にいつかは侵食されて本物のスピカになってしまうのだろうか。それはきっと今よりも随分と楽なことだろう。

「スピカ、そろそろ出るぞ」

「はあい!」

 御者台で待つカムシカに言われて、スピカは身を翻した。カムシカの隣に座って横を向くと、みんな複雑そうな笑顔をスピカに向けた。

「また、いつでも帰ってらっしゃい」

「そうよ。私たち、あなたのこと本当に娘のように可愛いと思っているのよ」

「母さん、私もいるじゃない」

「あら。あなたはなりはそんなのでも、まるで男の子の様ですもの」

 テアタがふざけてそう言うと、ヨルカはため息をついてわざとらしく肩を竦めた。その様子にスピカもついくすくすと笑ってしまう。

「……スピカ、本当に無理をしなくていいからね。辛くなったら帰ってきて」

 シュトゥに優しく言われて、スピカはふいに泣きそうになり口を食いしばって頷いた。不安で会う前は疑ってしまったけれど、スピカは本当に心配されている。例え、村で生まれた娘でなくとも、スピカのことがなかったとしても、きっとこの優しい人たちは迎え入れてくれたのだろう。そう思うと、嬉しいのと共にもどかしくもあった。一つのことがずれてしまうと、全てのことが少しずつずれていってしまうこともあるのだ。

 カムシカが確認を取るようにスピカ以外の三人に目を配ったあと、馬を出発させた。荷車の軋む音と、車輪が地面を踏む音がする。日はもう傾きかけていた。今から出発すると、都に着くのは恐らく、明日の夕方か夜頃だろう。スピカはいつまでも見送りをしてくれている三人に、見えなくなるまで大きく手を振った。

「これから、都へ戻って……スペルカ様のもとへ戻ってどうするつもりなんだ?」

 カムシカにそう訊かれたのは、御山の中腹までさしかかった頃だった。御山には時たま吹く風が揺らす枝の音と、夜の鳥の泣き声と、踏み固められた地面を進む馬車の音だけが響いていた。御者台の上に吊るされた角灯の灯りが、馬車の揺れに少し遅れて揺らめく。さいわい月は明るく、道は青白い明かりで照らされていた。

 スピカは木々の間に何かいるのではないかと凝らしていた目をカムシカに一度向けたあと、また暗闇に視線を戻した。月明かりが届かない場所は、真っ暗でそこに何があるかもわからないし、何もないのかもしれない。ただそれをスピカの目で見極めるのは難しい。

「スピカとして、トトの傍にいる」

 それに、オスカをもとに戻してもらわないといけない。

 スピカの言葉にカムシカは何を言うでもなく、ただ黙っていた。この小さな娘は、結局そこに辿りついてしまうのだ。この場所にいる限りは。それは一途のようであって、カムシカにはどこか壊れているようにも見えた。

 目の前にいるスピカがまだ小さかった頃のことを思い出す。大きな目はいつも不安でいっぱいだった。たまに深い悲しみに彩られていた。けれどもそれもどんどんと、時が経つ内に薄れていって、村人たちが望む笑顔の多い無邪気な子供のように振舞うようになった。それが作られたものなのか、もともとあったものなのかは今でも分らないのだ。とても嘘のようには見えなかったけれど、その笑顔がどこからやってくるものかカムシカにはわからなくて、見るたびに罪悪感に苛まれ、頭の中で無意識に過去の出来事のことを掘り起こしてしまっていた。

 他の村人たちもそうなのだろう。この娘を愛するたびに、罪悪感は強くなった。そうであることを願う。きっと村人たちはとり戻すことのできない選択肢を奪って、大きな過ちを犯してしまったのだから。

 都に着いたのは、日も沈みかけた頃だった。

 カムシカはすぐに帰るのではなく馬車を停留所にとめ、スピカと共に人ごみの中歩き始めた。ついでにテアタに買い物を頼まれてしまったらしい。イサとティピアと、パン屋を営む親戚に挨拶もするつもりだと、カムシカは言った。

 そういえば、スピカは都に来てからも一度もイサとティピアに会っていない。トトと共にスピカが都へやってきたことを二人は知っているのだろうか。

「あ、カムシカさん」

「なんだ?」

「あれ、あの人たちは、何をしてるの?」

 スピカは門の近くで頬を合わせている人たちを指差して言った。スピカが村に戻る時に乗せてもらった馬車の家族にもされたことだ。スピカは勝手にお別れの挨拶だと思っていたのだけれど、違うのかもしれない。スピカが指差した方にいる人たちは、年老いた女性と青年で、家族のように見えた。

「ああ。あれは、もう二度と会うこともないかもしれない人と交わす、別れの挨拶だよ。ここら辺独特のもののようだ。俺たちの村でもああするんだが……まあ、滅多にするようなものでもないな」

「ふうん。そうなんだ」

 村から出て行く人はあまりいない。スピカが知る限りではイサとティピアだけだったけれど、二人が村を出て行ったことをスピカが知ったのは随分あとのことだったし、そんな挨拶ももちろん交わしてはいない。

 よく見てみれば、門の近くでは頬を合わせて別れの挨拶をしている人たちがたくさんいた。

「そんなことより、急いだ方がいいんじゃないか? 日が沈むぞ」

 都で人がもっとも通りを賑わすのは、昼過ぎから夜にかけての時間帯だ。人が多い時だと、門から寺院まで行くのには随分と時間をくってしまう。

 二人は大通りを通らずに、一つ隣の道を歩いた。カムシカは買い物と挨拶は帰りにすることにして、スピカを寺院まで送ることにした。スピカ一人で持つにはつらいほどの荷物の量になっていたから、半分以上をカムシカが持った。

 寺院の前に着くと、カムシカは巡礼者の列を見て苦笑した。

「噂には聞いていたが……凄いな」

 都や他の場所に住む人たちにとっては、トトは間違いなくかみさまであって、他の何者でもないのだ。村では病弱な少年だった頃のトトを知っている人たちばかりだが、それでも今ではみんなトトをスペルカさまとして扱うのだから、無理もないことだろう。

「だね。じゃあ、ありがとう、カムシカさん。またね」

「ああ。またいつでも、都に飽きたら帰ってこい」

 カムシカはできるだけ陽気にそう言いながら、持っていた荷物をスピカに渡した。寺院は目の前だ。この距離なら、なんとかスピカ一人でも運べるだろう。パドルが澄んだ声で鳴いたから、カムシカは籠の間から指を入れて「パドルも、じゃあな」と言った。巡礼者たちの横を歩いて行くスピカの背中を、カムシカは見えなくなるまでその場で見送った。


 寺院の入り口の前でスピカを見た騎士たちは少し驚いたが、何も言わなかった。

 トトはスピカが勝手に寺院を出て村に帰っていたことに腹を立てるだろうか、とスピカは思ったけれど、同時にそんなことでトトが怒るのはトトの勝手だ、とも考えた。

 寺院の中はいつも通り人があまりいなく、長い廊下は冷たかった。寺院に着くまでに日は沈んでしまったから、透かし彫りにされた窓から明かりが差し込むこともなく、壁に備え付けられた燭台の上で、蝋燭がゆらゆらと石畳を照らしているだけだった。外にはあれだけの巡礼者たちがいるのに、建物の中は静かで、スピカの足音がやけに大きく響いた。

 長い廊下のつきあたりで、ぎんいろの光りが揺れる。スピカは誰もいないと思っていたが、どうやら人がいたらしいことに少し驚いて足を止めた。

「……セス?」

「おかえり。スピカ」

 セスティリアスはにこりと笑うと、足音もなく流れるようにスピカのもとまで歩いてきた。相変わらず、その動きは猫のようにしなやかだ。

 スピカは警戒心を抱き、無意識に一歩後ずさってしまった。

「……私のこと、嫌いになった?」

 訊かれてスピカは首を横に振る。別に嫌いになったわけではない。ただ、何を考えているのか全く分からなくなって、ほんの少しこわくなったのだ。

 セスティリアスは微笑んだまま、それ以上スピカに近づこうとはせずに口を開く。

「村は、どうだった?」

「……みんな、何も変わってなかったよ」

 どうしてセスティリアスが、スピカが村に帰っていたことを知っているのだろう、とスピカの頭を一瞬掠めたが、それはわざわざ聞く必要のないことだった。セスティリアスは色は違えどトトに似た瞳で、スピカには知ることのできないものを見ることができるのだ。見えなくなったと言っていたが、それは嘘だったのかもしれないし、それをわざわざ確かめようともスピカは思わなかった。

「ふうん、そうなんだ」

 自分から聞いておいて、セスティリアスは興味が無さそうに言った。

「ねえ、どうしてこんなところにいるの?」

「スピカが帰ってくるのを待ってたんだよ」

「どうして?」

「多分、三年」

「……え?」

「スピカが、幸せになれますように」

 セスティリアスはそう言うと、スピカが何かを聞く前に走り去ってしまった。スピカはただ茫然とセスティリアスの後ろ姿を見送った。重い荷物を抱えたまま、セスティリアスを追ってなんのことか聞く気にはなれなかったのだ。

 スピカは部屋に戻ると、荷物を床に置き、パドルの鳥かごを鳥かごかけに掛けて、外套も脱がずに寝台に倒れこんだ。

 部屋に戻るとトトが待ち構えていた、なんてことをてっきり予想していたが、スピカの部屋の中には誰もいなかった。ただ、暖炉だけはスピカを待ち構えていたように橙色の火を灯して、部屋を暖めていた。 トトはおそらく礼拝堂にいるのだろう。

 短い旅だったけれど、自分で思っているよりも疲れていたスピカは、部屋の暖かさに緊張を解くとそのまま眠ってしまった。





「おねえちゃん、まってえ!」

 妹の甘ったるい声に少し苛立ちながら、ことこ はそれを隠すこともなくすたすたと歩き続けた。本当は仲の良い友達だけで遊びたいのに、妹はいつも ことこ に付いてきて、その遊びに加わりたがった。妹が付いてくると、ことこ は思う存分友達と遊ぶことができない。年下の妹は走るのが遅いし、ちょっとしたことですぐにめそめそと泣く。

 それなのに、ことこ のパパとママは妹が ことこ に付いて行くのを止めようとはせずに、それをよしとした。

 ことこ は、だからいつも付いてくる妹を無理矢理に引き離すことができなかった。それに、正直鬱陶しかったけれど、泣き虫な妹が悲しそうにしているとどうしても可哀想に感じてしまい、完全に無視することもできなかったのだ。

 けれど、その日は違っていた。

 妹は ことこ を本気で怒らせた。少し前から何度もあった空耳は、今日はとくに強く ことこ に呼びかけているように ことこ は感じていた。それをとらえることに気を取られていた ことこ に、妹は思いっきりボールをぶつけたのだ。その途端に空耳はかき消されて、妹の楽しそうな笑い声が響いた。むしょうに腹が立った。

 児童公園の中で、丘になっているてっぺんの道を ことこ は立ち止まることなく早足で歩いた。妹の声は少し離れたところで響いている。ほんの少し可哀想にも感じたけれど、溢れてくる苛立ちでそれをかき消した。

 子供の時間の終わりを告げるゆうやけこやけの唄が、公園の中に設置されたスピーカーから流れて、橙の明かりとキンモクセイの甘い香り共に公園を満たしていた。ことこ はなんとなく、地面を山吹色に染めているキンモクセイの花を手でつかんだ。

 公園から出たところに建つ家々の窓に橙色に染まった空が鮮明に映っている。空だけじゃなく、景色も橙色だ。その景色はきれいだけれど、少し寂しくもあった。自転車のベルの音が響く。遠くで車が走る鈍い音も微かにしていた。

 いつも通りの景色だ。けれど、ことこ の耳にはまたあの声が響いていた。聞いている方も悲しくなるような、切なげな声だ。その声は多分「スピカ」と言っている。星の名前だろうか、と ことこ は思ったけれど、それは誰かを呼んでいるようでもあった。ことこ はどうしてか、聞きなれない異国の言葉のような響きなのに、その呼ばれているのが自分であるような気がしてならなかった。

 妹のせいで一度は止んだその声が、またどんどんと ことこ の中で大きくなっていく。空耳である筈なのに、その声に惹かれる。ことこ は、そんな風に呼ばれたことがない。そんな風に人を呼ぶ人を知らない。

「スピカ」

 公園の出口に近づいた時だった。友達が自転車で横を通り過ぎて、手を振ってばいばいをした直後、声が間近で聞えた気がして、ことこ は思わず振り向いてしまった。

 間違いに気付いたのは、それから少し経ってからのことだった。気付いた時には、もう遅すぎたけれど。





 トトがスピカの部屋に行くと、スピカは思った通り帰ってきていた。疲れているのか、トトが部屋に入ってきたことにも気付かずにすやすやと眠っている。

 トトは寝台の端に腰掛けると、手の甲でスピカの頬を撫でた。こんなに安らかそうなスピカを見るのは、トトにとっては久しぶりのことだった。けれどその事実にトトは胸を痛めることも、もうなかった。心のどこかが悲鳴をあげている気もしたけれど、それはもう遠いもののように感じた。もう、以前の自分が戻ることはないだろう、とトトはわかっていたし、それを嫌なことだとも思わなかった。なげやりになったわけでもないし、無理矢理に押さえ込んでいるわけでもない。ただもう心は凪いだように動いてはくれない。それでいい、とトトは思っていた。そうであるべきだ、と考えていた。人の心は、脆くて壊れやすい。

 スピカも、いつか壊れてしまうかもしれない。

「スペルカ様」

 イーノスの押し殺したような声が聞えて、トトは苦笑した。イーノスは、自分は部屋には入ろうとせず開け放ったままの扉の前で、厳しい顔つきでトトの行動を見守っていた。おそらく、トトがスピカに何か危害を加えるのではないかとはらはらしているのだろう。

「別に、なにもしはしないよ。村へ帰っていたことに腹を立ててもいない」

 トトは軽やかにそう言って立ち上がった。

「夢を、みているみたいだね」

「夢、ですか」

「うん。どんな夢かは知らないけど」

 その言葉が本当かどうなのかイーノスは図りかねて、黙って寝台に目を向けた。イーノスの位置からは、スピカの靴を履いたままの足と寝台の上で広がった外套の裾しか見えない。

「甘い、花の香りと雨のにおいがする」

 トトの言葉にイーノスは微かに首を傾げた。少し離れた場所にいるイーノスにはそんなにおいは感じられない。

 そう言ったトトは少しの間、表情のない顔でスピカを見下ろしていたが、すぐにイーノスを引き連れてスピカの部屋を立ち去った。









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