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きみのこえ  作者: はんどろん
09.途切れた歌
46/63

46.

「スピカちゃん。お茶を淹れたから、下に行きましょう」

 部屋の扉を叩いたテアタが控えめな声でそう言った。

 スピカは立ち上がると、馬車を降りた時に女の人から貰ったにおい袋をオスカの手の上にのせて部屋を出た。扉の前で待っていたテアタは、少し寂しげな笑みを浮かべると階段を下りて行った。スピカもそれに続く。

 幸せが、巡りますように。

 けれど、今、誰か幸せな人はいるのだろうか。スピカには分からない。みんなの幸せを願っても、ちっとも叶わない。それがどうすれば叶うのかも分からない。良い方へと願って行動したことが、不幸へと繋がってしまうこともあるのだから。

 スピカはテアタの背中を眺めながら悲しくなった。小さな箱に詰められてしまったような気分だ。自分ではそこから出ることも叶わない。いつまで経っても箱の中。

「ねえ、スピカちゃん」

「なあに?」

「ヨルカのこと、許してやってね。あの子は小さな頃からあんなのだけど、本当はとても弟想いなのよ」

 テアタはヨルカの言動のことを言っているのだろう。スピカは小さく、うん、と答えた。

 ヨルカは悪くないし、オスカだってちっとも悪くない。悪いのは、止めることもできたのに止めようとしなかったスピカだ。それに、スピカが嘘を吐き続けることによってこんなことになってしまった。スピカのふりなどやめて、ことこ はすぐにトトの前から立ち去るべきだったのだ。トトがおかしくなってしまう前に。

「悪いのは、スペルカ様じゃなくて、私たちだわ」

「違うよ……」

「ごめんなさい……止めましょう。きっとこんなこと言い合ったって、きりがないもの。でもね、忘れないで、スピカちゃん。あなたがスピカちゃんにされてしまった時、あなたはほんの小さな子供だった。あなたにはどうしようもなかったことなの……そのどうしようもない子供に、私たち大人がさせてはいけないことをさせてしまったのは、避けようのない事実よ。誰かがその事実を違えてあなたを責めたとしても、それは絶対に間違っているわ」

 でも、スピカはもうそこまで小さな子供でもない。途中で止めることもできたのに、やめなかったのも事実だ。

 けれどスピカは何も言わずに口を噤んだ。

 階段を下りてお茶の用意された部屋に行くと、カムシカが運んでくれたスピカの荷物があった。パドルの入った鳥かごはスピカがずっと抱きかかえたままだ。

 上で扉の閉まる音がして、ヨルカがまたオスカの部屋に入ったのだと分かった。

 先に席についていたカムシカが立ち上がり、スピカを隣の椅子へと座らせる。テアタが淹れてくれた熱いお茶をスピカはちびちびと飲んだ。少し甘いお茶は、茶葉と良い香りのする花びらを混ぜ合わせたものだ。確かそれはテアタの好物だった。

「これから、どうするんだ? もし決まってないなら、家に泊まっていかないか?」

 カムシカは自身の体の割に小さなカップをテアタに渡しながら訊いた。

 そうしたいのはやまやまだが、長居をしている訳にもいかないスピカは首を横に振る。元々すぐに都に戻るつもりだったし、オスカがあんな状態になってしまっている以上、一刻も早くトトにお願いした方がいいだろう。

「黙って来たから、あんまりゆっくりしてられないんだ。今日中に村を出るよ。けど、その前にシュトゥとアラントにも会いたいし、お墓参りにもおばあちゃんの家にも行きたいな」

 カムシカは神妙に頷くと、おかわりしたお茶を受け取った。ごくごくとそれを水のように一気に飲んでしまうと、立ち上がる。

「荷物は家に置いておくといい。付き合おう」

「そうね。スピカちゃん、この人と一緒に行ってきなさい」

「え? うん……」

 カムシカと一緒に行くのが決して嫌な訳ではなかったのだけれど、スピカは違和感で微妙な返事を返してしまった。スピカが行きたいところは全てスピカの通い慣れたところで、一人でも十分行ける。けれどカムシカは今すぐにでも出かけよう、という感じだったので、スピカは慌ててお茶を飲んで舌をやけどしてしまった。

 二人は家を出てすぐ隣のトトの家に向かった。スピカは家の壁側を歩き、カムシカがその隣を歩いたから、大きな体にすっかい隠されてしまったスピカに誰も気付くことはなかった。

 扉の前でスピカが躊躇していると、カムシカが大きな音で扉を叩いた。すぐに「はあい」という女性の柔らかい声と足音がスピカたちのもとまで届く。

 扉を開けたシュトゥは真っ先にカムシカの方に視線を向けたけれど、一瞬あとスピカに気付き、その目を見開いた。

「シュトゥ、スピカだよ」

 シュトゥが目の前にいる少女が誰だか分かっていないと勘違いしたカムシカは、助け舟を出すようにそう言った。スピカはカムシカと会った時にもした、不安と居心地の悪さのせいで、なっていない笑顔を作ってシュトゥの反応を待つ。

「どうして、ここに……?」

 シュトゥは茫然とした様子でそう言った。悪気があってそう聞いた訳ではないのだろうが、スピカはなんと答えればいいのか分からずに困ってしまう。オスカの状態をもしかすると、トトの母親であるシュトゥは知らないのかもしれないのだ。みんなに会いに来た、と軽く言える雰囲気でもない。

「え、と……お墓参りに来たの」

 スピカはようやくそう答えると、無意識に下唇を上唇と歯で挟んだ。茫然としたままだったシュトゥも、その様子ではっとしたのか、少し強張っているようにも見えた顔に笑みを浮かべた。

「そう。よく帰ってきたね」

 以前と同じ優しい声で、シュトゥは言った。トトの喋り方は、母親譲りなのかもしれない。

 スピカは久しぶりに会ったシュトゥの顔を見つめた。少女のような愛らしさは変わらないけれど、以前よりも少し歳をとったように見える。優しげな目元は、やはりトトとそっくりだ。

「シュトゥ、スピカはあまり長居はしないんだ。じきに都に戻る」

「そうなの……アラントは今仕事で出かけてるんだけど、入って」

 久しぶりに来たトトの家には、以前は数人はいた尼僧の姿がどこにもなかった。トトが家を出たのと同時に、尼僧たちも来なくなったのだ。元々村でも大きなトトの家は、人の気配があまりない今では、余計に大きく、がらんとして寂しいようにスピカは感じた。二階のトトの部屋に、勿論トトはいない。

 三人は木で作られた四角い卓を囲んで座った。用意されたお茶やお菓子に手をつける気にもなれず、スピカは自分の前に置かれたお茶からあがる白い湯気を眺めた。

「村にはいつまでいられるの?」

「今日中には出て、都に戻るつもりだよ」

 スピカが言うと、シュトゥは「そう」と呟き、少し落ち着かない様子で胸の前で手を組んだり解いたりした。何か、迷っているようだ。伏せられたきんいろの睫毛を見ていると、スピカはいやでもトトの顔を思い出す。トトは、今頃スピカがいないことに気付いているのだろうか。それとも、もしかするとまだスペルカのままかもしれない。いまだにスピカはスペルカが出てくる頻度も基準も分からないけれど、スピカの呼びかけには応えるようだった。前にスペルカは気付いたら、と言っていたけれど、スペルカの言葉はいまいち信用がならない。

「……なにか、スピカに聞きたいことがあったんじゃないか? シュトゥ」

 そう言われたシュトゥは、一瞬躊躇したあとスピカを青い瞳でじっと見た。トトとはまた少し違うけれど、シュトゥの瞳の色だって十分に人を惹きつける美しさだ。スピカもそんなシュトゥの目を見つめ返した。

「元気に、してた?」

「うん」

「スペルカ様は、どうされているの?」

「……都で、かみさまをしてる」

 スピカの間抜けな答えに、シュトゥも苦笑を浮かべる。シュトゥがそんなことを訊いていないのはスピカにも分かっていたが、どう答えていいのか分からなかったのだ。正直に答えたら、きっとシュトゥは心を痛めるだろう。

「イーノス、と云う騎士がいたでしょう?」

「え?」

「イーノスは、アラントの知り合いなのよ」

 スピカは驚いて目を見開いた。そういえば、アラントは以前騎士だったのだ。世界中にどれだけの騎士がいるのかスピカには想像もつかないが、アラントとイーノスが知り合いでも不思議ではないのかもしれない。けれど、スピカの中で二人はなかなか繋がってくれない。二人は歳が離れているし、スピカがスピカになった時には、アラントはもう村で医者の仕事をしていた。それに、イーノスたちだってそんなに昔から都にいた訳ではない。

「あの人、たまに都へ行くことがあるのはあなたも知っているわよね。その時に昔の同僚と会ったりもしていたみたいだけど、多分その人たちに紹介されたのだと思うわ。スペルカさまが都へ行かれるよりも随分と前のことだけど……イーノスは手紙であなた達のこと、時々知らせてくれていたのよ」

 スピカはぽかんとした顔でシュトゥの顔を見つめた。

 そんなこと、イーノスはちっとも教えてはくれなかったし、そんな素振りさえ見せなかった。だったら、シュトゥはスピカが一度はトトから逃げ出したことを知っているのかもしれない。それに、トトが今どんな状態なのかも。

 カムシカもそのことは知っていたのか、驚いた様子もなくお茶を飲んでいた。

「ねえ、ずっと訊きたいことがあったの。あなたと、スペルカ様は辛い思いをしてない?」

「……」

 スピカは思わず目を逸らしてしまった。していない、と言えば嘘になってしまう。けれど、しているとも言えない。

「……イーノスの手紙にもそこまで詳しいことは書かれていなかったわ。だけど、スペルカ様は……変わってしまったのね。けれどそれは、かみさまになってしまった時から、そうなることが決まっていたのかもしれないわ。あの子がかみさまになって、最初に変わったのは私たちの方だもの」

「シュトゥ……今でもトトのこと、自分の子供だと思う?」

 スピカが聞くと、シュトゥは辛そうに微笑んで首を横に振った。

 その答えにスピカも悲しくなってしまう。

「自分たちの感情なのに、どうしようもないの。けれど、どんな形であれ生きていてくれてよかったと思ったのは本当よ。すごく勝手なことだけれど」

 シュトゥの言葉にスピカは視線を落とした。

 トトがかみさまになった瞬間から、色んなものが変化してしまったのだと改めて思い知らされる。トトは生まれてから一度でも平凡な幸せを味わったことがあるのだろうか。オスカの家の階段に描かれた落描きの下には、『ととのたんじょうび』と拙い字で書かれていた。ことこ がまだスピカになる前に描かれたものだ。その絵の中でトトも笑っていた。最初は、トトもいつも優しく笑っていたけれど、幸せだったのかは分からない。トトは人一倍優しかったけれど、自分のことを出そうとはしなかったから。

 今だって、トトが何を考えているのかさっぱり分からない。分かるのは、スピカへの歪んだ執着心だけだ。

「ああ、そうだわ。スピカにお願いしたいことがあったの。ちょっと待ってて」

 急に立ち上がったシュトゥはそう言うと、慌てた様子で二階へ向かった。またすぐにぱたぱたと足音がやってきて、顔を出したシュトゥは手にこげ茶色の箱を抱えていた。それを卓上に置くと、蓋を開けてスピカに中が見えるようにする。

 それが何だか分からないスピカは首を傾げて問いかけるようにシュトゥを見上げた。

「スピカが描いたものよ」

 それは、オスカが階段に描いていたのと似た、下手な落描きのようだった。『ととへ』と書かれている。以前のスピカがトトへ渡したものなのだろう。

「スペルカ様はどうしてだかこれを置いて行ったの。凄く大切にしていたのだけど……これを渡してもらえる?」

「……いやだ」

「え?」

「どうして、それをトトに渡さないといけないの? ここはトトの家でしょ? ここに置いておいて」

 トトが大切な物をわざと置いて行ったのなら、それはきっとスピカが勝手に動かさない方がいい。それをトトに渡してしまったら、トトは二度とこの家に帰ってこれない気がした。

「……そうね」

 シュトゥは哀しげに微笑む。その時スピカは初めて、ほんの少しだけ儚さを感じさせる彼女に対して苛立ちを覚えた。諦めないでほしいと思いながらも、自分自身の諦めを思い出しその感情を押し込める。

「スピカ、そろそろ墓参りに行った方がいいんじゃないか。雨が降りそうだ」

 言われて初めて部屋も薄暗くなってきていたことに気付いたスピカは、窓の外へ目を向けた。先程までは晴れていたのに、空はどんよりと重そうな雲を抱えている。

「本当だ。じゃあ、お墓参り行ってくるね、シュトゥ。またあとで来るよ」

 立ち上がったスピカは外套を羽織るとパドルの鳥かごを抱えた。

 シュトゥに玄関先まで見送られたあと、スピカとカムシカは丘の方へ向かった。空気には雨の気配が混ざってきている。今にも降り出しそうだったから二人は急いだ。

「俺も、オスカにスピカとスペルカ様の様子は聞いていたんだ」

 丘の上のお墓の前に立った時、カムシカはぽつりとそう漏らした。お墓の周りは以前と変わりなく綺麗な花で埋め尽くされている。その花々に、スピカも道の途中で摘んだ小花を添えると、カムシカを見上げた。カムシカはどこか遠くを見るような目で、小さな墓を眺めていた。

 スピカは独り言のように言われたその言葉に何も返さなかった。カムシカも、それ以上そのことを言うつもりはないのだろう。オスカと似た手つきで、外套を被ったスピカの頭を撫でた。

「お前がここへ来た時、俺が村まで連れ帰ったんだ。……覚えてるか?」

 スピカは頷いた。

 最初は大人たちが誰が誰だか判らなかったけれど、暫くしてカムシカがスピカを森から連れ帰った男の人だと分かった。その子供が、ことこ を見つけたのだということも覚えていた。茫然とした状態だったけれど、大きな男の人は自分の着ていた外套で ことこ を包むと、いとも簡単に抱き上げてそのまま村へ行ったのだ。ことこ はその時、流れて行く地面をぼんやりと眺めていた。夢だと思っていたし、夜の間に冷えた体はなんだか重かった。一度だけ上げた視界の先には、真っ白な幹の木々が立ち並ぶ見たことのないような森が広がっていた。そしてその中には、宝石みたいな色をした小さな湖があった。

 あとから聞いた話しだと、あの森の中にある湖は特殊なもので、水底にある宝石になる原石の色が水に溶け出して、あのような美しい色になったのだという。

 その湖の色に、トトの瞳は似ていた。

「あれが間違いだったのか、俺にはこんな状態になった今でも分からないんだ」

 あのまま放って置けば、ことこ は危険な目に合っていただろう。いくら恵まれた土地だと言っても、小さな何も知らない少女がたった一人で生きていける訳がない。野犬や狼に襲われる可能性もあった。けれど、村に連れ帰るにしても他にも方法があった筈だ。

 結局 ことこ はスピカにされてしまった。それは ことこ という一人の少女を踏み躙ることだった。言葉も理解していない小さな子供に、別の人間になることを強要したのだ。

 大の大人にその事実を気付かせないほど、かみさまには抗えない魅力があった。けれど、そのかみさまだって、元はただの少年だったのだ。

 スピカとトトは、村人たちが望むまま惹かれあい、以前の二人の様に仲良くなった。それは自然に芽生えた感情なのか、どういう類の感情なのかも今となっては誰にも分からない。

「カムシカさん」

 スピカは立ち上がると、大きな目でカムシカを見つめた。ふわりとした風が丘を通る。花びらが風に舞って地面の上を踊りながらころころと移動していく。

「誰も恨んでないって言ったら嘘になるかもしれないけど、みんなのことを好きなのは本当だよ」

 スピカは正直にそう言った。トトのこともあるから完璧な信頼を寄せことはできない。村人たちはみんな優しくてあたたかいけれど、トトのことに関することには雰囲気が変わる。スピカにされてしまった ことこ は、いやという程そのことを知っていた。きっとトトがスピカなんていらない、と言えばスピカが望んでも村に近寄ることもできなくなってしまうだろう。

 手に提げていた鳥かごの中で、パドルが跳ねる感触がしてスピカは目線を下ろした。

 おばあちゃんのお墓にも行って、久しぶりに家にも帰るつもりだから、雨が降り出す前に行かないといけない。おばあちゃんのお墓は森の中だ。村の人たちのお墓が集まっている場所ではなく、おばあちゃんが望んだ場所にお墓はたてられた。

 カムシカはまたスピカの頭を少し乱暴に、何度も撫でた。フードで目元が隠されてしまったスピカは、カムシカがどのような顔をしているのか見えなかったけれど、その仕草に愛情が篭っていることは分かったので微笑んだ。


 おばあちゃんのお墓は、おばあちゃんの家の近くの大きな木に寄り添うようにたてられていた。暑い季節には、大輪の花が咲く木だ。葉が枯れる頃に薄紫の実をたくさんつける。花も実も、甘くていい香りをいつも家まで届けてくれた。

 丘の上のお墓と同じ風に、このお墓の前にもたくさんの花が供えられていた。おばあちゃんは村の人たちとたくさんの交流はしなかったけれど、村の人の為に薬草を用意したり、危険なことがあることに気付いた時には知らせて注意を促していた。それに多くの知恵を持っていたおばあちゃんをいつも誰かが頼りにしていたのだ。

 おばあちゃんに感謝している人も、おばあちゃんのことを好きな人も村にはたくさんいたから、その人たちが花を置いてくれたのだろう。

 スピカは首に下げていたぎんいろの鍵を服の中から引っ張り出すと、おばあちゃんのお墓にそれを掛けた。

 もう、必要のないものだ。家に帰ることはきっともう出来ないだろう。そう思うと色あせた記憶がスピカを苦しめたけれど、宙ぶらりんでいた時とは違う少しの安定感もあった。

「スピカ、それは……?」

 カムシカにも見覚えがあったのだろう。小さな鈴がついたそれを驚いた表情で見つめながら言った。

「ことこ の家の鍵だよ。……カムシカさん、ことこ はもういなくなったの。これからはスピカだけ。もう逃げ出したりもしない。トトの傍にいるよ」

「……そう、か」

 カムシカは他に何かを言いたげだったけれど、それだけ返すとまたスピカの頭を撫でた。これで何度目だか分からない。カムシカにとって、スピカはまだまだ小さな子供らしい。今までこんなにも頭を撫でられたことはなかったけれど、二人だけでこんなに長い時間を過ごすのは初めてだからかもしれない。村にいる間スピカはいつも大体、トトかオスカか、おばあちゃんと一緒にいた。、逆にそれ以外の人とは長い時間を過ごすこともあまりなかったのだ。

 ぽつぽつと雨が降り出して、スピカは思わず空を見上げた。重なりあった木々の枝の間から、薄い灰色の空が見えた。その間にも少しずつ雨足は強くなって、スピカの顔にも冷たい水の粒が落ちてくる。森の中で濡れてしまったら、泥だらけになってしまう。スピカは慌てておばあちゃんのお墓の横に置いたパドルの籠を抱えると、カムシカと共におばあちゃんの家まで走った。

 久しぶりに帰ってきたおばあちゃんの家は、シュトゥやテアタが掃除をしてくれている為、埃っぽくはなかったけれど、人が住んでいる家とは明らかに違うものになっていた。薄暗く冷えた、家というよりはただの空間のようだった。

「カムシカさん、二階を見てきてもいい?」

「ああ、暗いから気をつけろよ」

 カムシカはそう言うと、自身は残ってた小さな椅子に腰掛けた。

 暗くても平気だ。スピカは何年もこの家で暮らしていたのだから、たとえ真っ暗でもきっと階段を上りきることができるだろう。スピカは薄暗い階段を駆け上がると、自分の部屋だった場所の扉を開けた。ベッドも一輪の花が透かし彫りにされた古びた木の椅子もそのまま残っているけれど、そこはやはりスピカの部屋ではなくなっていた。長い時間誰も住まなかった部屋には、以前のあたたかみはない。

 スピカはその部屋をあとにすると、もうひとつの部屋を覗いた。今では物置になっているけれど、昔は誰かが使っていたらしい。スピカがこの家を出る時も、この部屋は殆ど手をつけずにそのままだった。物が多いためか流石にここは埃っぽく、少し黴くさい。この部屋で一番多いものは古い本だった。様々な国の言葉で書かれた本が今では誰にも読まれることなく壁を埋め尽くしかけている。

 スピカは口元を手で覆うと部屋の中へ入った。埃臭かったからではない。浮かび上がってくる鮮烈な記憶と共にまた吐き気が込み上げてきたからだ。別に『記憶』自体は不快な吐き気を催させるものではなかったけれど、自分のものでないと分かっているのに湧き上がってくる記憶の波は、異物を無理矢理飲まされて、そのまま胃の中をぐるぐる回されるようで気持ちが悪かった。

 トトがスピカへねじ込んだ記憶の中には、きっと本当のことも混ざっていたのだろう。そこにトトが自分の思うままの出来事を混ぜて、流れを変えたのだ。

 記憶の中で、トトが珍しくスピカの家に来た時にこの部屋にも入っていた。トトはこの部屋にある様々な古い本に興味を惹かれていたのだ。

「……あった」

 スピカは呟くと、意外にもあっさりと見つかったその本の表紙を捲った。白い埃が舞う。書かれている言葉をスピカは読むことはできない。そのままぱらぱらと捲っていくと、一面真っ青な頁があった。古びてもその色は褪せることなくスピカの目を惹き付ける。

 トトはその絵に目を奪われていて、スピカが覗きこむと、眩しいものでも見るかのように目を細めて言った。これは海だよ、と。そしてその時に、いつか三人で海を見に行こう、と約束したのだ。この本が本当にあるということは、この記憶は本当なのだろう。トトの中にも残っていた大切な記憶。

 スピカはその頁を引き千切ろうと手に力を篭めたけれど、結局出来ずに頁の端に皺を作っただけだった。








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