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きみのこえ  作者: はんどろん
09.途切れた歌
45/63

45.

 幌を叩く雨音で、スピカは目を覚ました。薄青の明かりが白い幕を包んでいる。もう夜が明けたのだろう。痛む体をのろのろと起こして、横で眠っている親子を起こさないように荷台の後ろまで行くと、そっと幌を開けてみた。明け方の気持ちの良い空気と、雨の香りが入ってくる。馬車は一晩中走り続けたのだろう、御山の、踏み固められた緩やかな道を下っているところだった。

 スピカは顔に落ちてきた水を拭うと、揺れる馬車の中転げないように気をつけながら、荷台の前まで急いだ。幌の前からぱっと顔を出すと、御者台に座っていた男の人が少し驚いたようにスピカを見て苦笑した。

「お嬢ちゃん、村へはまだ着かないよ。……ほら、あそこに大きなテレトレの木が見えるだろう? あそこを越えて、道なりにずっと行ったところにセラントの森がある。そこを越えればお譲ちゃんの目的地に着くよ」

 男の人は小さく見える木のてっぺんを指差して言った。どうやら一度は辿ったことのある道なのだろう。よく見知っているようだった。

 スピカは目を丸くする。

「セラントの森を通るの?」

「うん? お嬢ちゃん、急いでるんじゃないのかい?」

 スピカは首を必死で振った。そんなにゆったりしている訳でもないけれど、セラントの森を通るなんてとんでもない。幌の中にいるスピカは平気だが、御者台に座る男の人と、馬が酷い目に合ってしまう。それに、下手したら驚いた馬が暴走しないとも言い切れない。

 ほっとしたように肩を落とした男の人が、微笑んだ。女の人と同じ風な、優しい笑い方だ。

「それを聞いて安心したよ。あれほど危険な道のりは知らないからね」

 おどけた声で言われて、スピカは思わず笑みを漏らした。

 明け方の雨はすぐに止み、馬車は一度休憩をとったあと、またすぐに進み出した。どうやらスピカの乗せてもらった馬車の家族は、先を急いでいるらしい。セラントの森を通らずに遠回りしたにも関わらず、すぐに村の付近まで辿り着くことができた。

 木々の間から見覚えのある小川が見えて、スピカは幌の中から身を乗り出した。昔オスカに連れられて何度も遊びに来たことのある川だ。この場所からなら、スピカの足でもじきに村に辿り着くことができるだろう。

「ここで降ろして!」

「村の前まで送っていくよ?」

「ううん。いいの。ありがとう」

 村の前まで馬車で送ってもらったら、目立って仕方がない。村へはできるだけこっそりと帰りたいのだ。オスカの無事を確かめて、お墓参りをして、それから少しだけ家を見てまた都に戻る。帰り道は馬車がないが、徒歩でもなんとかなるだろう。

 小川の辺で馬車は停められた。湿った地面の上に降りて、女の人に鳥籠を渡して貰う。それと一緒に握りこぶし程の小さな袋に入った何かを渡されて、スピカは首を傾げた。袋からは春のような、健やかで柔らかな香りがした。

「あなたにも幸せが巡りきますように」

 女の人は微笑みながら静かに言って、自分の頬をスピカの頬に合わせた。お別れの挨拶で、袋はお守りのようなものなのだろう。どうしてか懐かしいような気分になる。何年も前から会っていないお母さんをふと思い出したのかもしれない。

 ぼうっとしているスピカの顔を覗き込んで、女の人は苦笑した。

「幸せは、巡るものよ」

 そうなのだろうか。だとしたら、トトもいつかは幸せになれるのだろうか。無意識に、癖のようにそんなことを思った。

 男の子も母親の真似をして、スピカの頬に頬を合わせてきた。柔らかな感触にスピカの顔が思わず綻ぶ。男の子も嬉しそうに笑うと、大きく手を振った。スピカも大きく手を振った。再び進み始めた馬車の御者台に座っていた男の人も、女の人も手を振り替えしてくれる。

 そういえば、名前を聞いていなかったのを今頃になって思い出す。馬車はもう随分と離れてしまった。多分もう、再び会うこともないだろう。スピカは小川に掛けられた古びた小橋を渡り、村への道を急いだ。


 村の様子は、以前となんら変わらないようだった。小さな子供たちが駆け回り、母親たちは籠に入れた作物を手に会話を楽しんでいる。男の人たちは仕事の傍ら煙管を吹かせていた。みんな、スピカの見知った顔だ。スピカは木陰からそれを見て、疎外感を感じながらもほっとしていた。トトがいなくなった後でも、この村にはそこまで大きな影響はないらしい。それは少し寂しいけれど、大切なことだった。必要以上の依存は時たま人をおかしくさせてしまうから。

 スピカは人目につかないように木々の間を通りながら、オスカの家へ向かった。木々の下に散って地面に積もった葉が、踏みつける度に乾いた音を立てた。反対に雨で濡れたところは湿ってふわふわと柔らかい。

 緊張のせいで胸がどきどきと鳴る。テアタに会うのも、カムシカに会うのも、村を出て以来だ。どんな顔をして会えばいいのか分からない。それに、オスカの近くにいたはずなのに今更オスカの様子を尋ねに来るなんてもしかしたらおかしいかもしれない。でも、スピカが眠っていた時にオスカを連れ帰ったのはテアタとヨルカだ。どうして、スピカに何も言わなかったのだろう。そう考えると不安がまた募ってきて、スピカは祈るような気持ちになった。

 オスカは、無事でいる。そう思うのに、オスカの姿を見るまではその無事を完璧には信じられない。

 オスカの家の裏手まで来ると、スピカは意を決して表に出ることにした。村の中心部にあるオスカの家の周辺には小さな店も集まっているし、その分村人たちも集まる。みんな、殆どが顔見知りのような村だ。スピカが現れるとすぐにばれてしまうだろう。とくに、スピカの長い黒髪は村の中でも珍しい色彩だから目立ってしまうに違いない。せめて、と思い長い髪を外套の中に入れている時だった。落ちた小枝と葉を踏みつける音がして、スピカが振り向くと、そこには驚いた顔のカムシカが立って、信じられないものを見るような目でスピカを見つめていた。それに驚いたスピカも、固まったように動けなくなってカムシカを見つめかえすしかなかった。

「……スピカ、か?」

「え?」

 カムシカの問いかけに、スピカは思わず間抜けな声を出してしまった。スピカ以外の、誰に見えるというのだろうか。それとも、スピカがこんな場所に立っているのが、いつも大らかなオスカの父親をそこまで驚かせてしまうことだったのだろうか。けれど驚くのも無理はない、と思いなおす。村を出てから随分経つし、それから一度も帰ってきてはいないのだ。そんな娘が突然、自分の家の裏に立っていたら屈強な猟師の男でも流石に驚いてしまうだろう。

 急にカムシカがずんずんと歩み寄ってきたから、スピカは思わず後ずさりした。カムシカは体が大きくて黙っていると少し恐いのだ。それに、怒るとうんと恐い。

 腋の下に手を入れられて、急に力強く高く掲げ上げられてスピカは目を白黒させた。小さな頃にも何度もされたが、今のスピカは流石にそんな小さな子供でもない。混乱したままカムシカを見下げると、カムシカは親しみの篭った笑顔で返した。

「スピカか!」

 また、同じことを言う。今度は明らかに嬉しそうな感情が混ざった声だったから、スピカは困惑した。

「ちょっとは大きくなったな! 髪も伸びてるし、誰だか分からなかったよ! いや、しかし驚いた」

 ちょっとは、という言葉に少し傷つきながらも、スピカはそれどころではないことを思い出して足をじたばたさせた。

「カムシカさん! 下ろして!」

「ん? ……ああ、悪い悪い。思わずな」

 カムシカはばつが悪そうに言うと、そっとスピカを地面に下ろした。揺さぶられたせいで船に乗ったあとみたいになってしまったスピカは、立った状態でふらふらと揺らめいた。

 この状態に頭は追いついてくれてはいないけれど、以前となんら変わらないカムシカの態度にスピカは無意識にほっと息をつく。カムシカの目はスピカが想像していたものと違って、優しく細められている。嫌われたり、憎まれたりはしていないように見えた。

「それにしても、どうしたんだ? ……一人か?」

「……うん。あのね、オスカに会いに来たの」

「オスカに? スピカ、何も聞いていないのか?」

 今度はカムシカが困惑した顔で、微かに眉を顰めた。え、と思わず呟いたスピカは同時に顔を上げてカムシカの顔を見つめる。カムシカの背はイシュよりは低いけれど、それでもオスカの父親だけあってスピカからすれば、ずっと見ていると首が痛くなる程高い。カムシカは困ったように視線を横にやると、大きな右手であごひげを擦った。

「いないんだよ」

「……え?」

「んん。とりあえず家に入って話そう。……テアタとヨルカもお前に会いたがってる」

 いまいち状況が分からないスピカは、釈然としないままカムシカに背を押されて家に入ることになった。入る時に隣のトトの家も気になって見つめてしまう。シュトゥや、アラントは元気なのだろうか。トトがいなくなって、トトが言っていたように安心して暮らしているのだろうか。一人で村に帰ってきたスピカが会いに行ってもいいのか、気になる。都へ移る前のシュトゥの泣き腫らした目が忘れられない。

 扉を開けたカムシカは半ば無理矢理スピカを扉の中へ押した。スピカも押されるままに扉の中に踏み入れる。スピカにとっても通い慣れた懐かしい家だ。家に入ると、夕食の準備の最中なのか香辛料の効いたいい香りがした。

「テアタ! ヨルカ!」

 カムシカは近くにいるスピカが、耳を押さえたくなるほどの大きな声で二人の名前を呼んだ。

「そんな大きな声で呼ばなくても聞えてるわよー。どうしたの?」

 言いながら小走りで来たテアタはスピカの姿を認めるなり立ち止まり、固まったように動かなくなってしまった。作業の途中だったのか、手にはナイフを持ったままだ。スピカが困ったようにカムシカを見上げると、カムシカはオスカがいつもしていた様にわざわざスピカの帽子を取り、くしゃくしゃと頭を撫でた。

「スピカだよ!」

「……久しぶり」

 カムシカに頭を乱暴に撫でられながら言われ、スピカは居心地の悪さで半笑いのような情けない顔になってしまった。何を言えばいいのか分からなくて、そんなことしか言えない。

 テアタは顔を歪めると、手に持ったナイフをそのままに走ると、ぶつかるようにスピカを抱きしめた。

「おい、危ないだろ」

「だって、スピカちゃんがいるのよ! もしかしたら、もう会えないんじゃないかって思ってたの」

 ぎゅうっと抱きしめられながら、涙声で苦しそうに言われてスピカの目にも涙が滲む。悪い、という気持ちで申し訳なくもなったけれど、温かさで緊張が少しとけた。かなしいとかじゃない、胸が締め付けられるような訳の分からない感情でいっぱいになる。

 スピカも力いっぱいにテアタに抱きついた。

「スピカは……オスカに会いに来たらしい。何も聞いてないみたいだ」

「オスカに?」

 カムシカは神妙な顔で頷く。

「いないって、どういうこと……?」

 泣きそうな顔のまま、スピカはテアタから体を離して聞く。

 セスティリアスも確かそんなことを言っていた。だからスピカは不安になっていたのだけれど、カムシカとテアタの様子を見ていたらどうやらそうでもないらしい。オスカの話しになるとみんな少し深刻そうな顔をしたが、最悪なことにはなっていないのだろう。それにしても様子がおかしいのは確かだ。みんな曖昧にしか返してこない。

「……いない?」

 テアタは確かめるようにそう言うと一瞬眉を顰めたけれど、すぐに理解したのか、ああ、と呟いた。

「そう。そうとも言えるわね。でも、家にいるのよ。都からは私とヨルカが連れ帰ったから」

 意味が分からなくて、今度はスピカが顔を顰めた。家にいるのに、いないとはどういうことだろうか。そういえば、ヨルカの姿も見ていない。

「……会えば分かるわ。本当はあんまり会わせたくなかったのだけど。来て」

 テアタはそう言うとスカートの裾を持ち上げて狭い木の階段を上った。忘れているのか、ナイフはまだ手に持ったままだ。カムシカの方を見ると頷かれたので、スピカはテアタの後に続いた。

 この場所に最後に訪れたのはそこまで前でもないのに、前に通った時よりも細い階段を狭く感じる。手をついた壁に、オスカが昔描いたかすんだ落描きを見つけた。オスカと、トトと、スピカの絵だ。下手くそだけれど、みんな笑っているのがかろうじて分かった。

「……」

 スピカは目を逸らすとテアタの後ろ姿を目で追った。オスカは自分の部屋にいるのだろう。右側の扉を開けると、階段を上りきったばかりのスピカの背中を押して部屋の中へ入ることを促した。真っ先に目に入ったのは、ベッド脇の椅子に座っているヨルカだった。ヨルカは先程の父親の呼びかけでスピカがやってきたことに気付いていたのだろう。唯一ある窓から入ってくる日差しで顔が翳っているけれど、驚いた様子もなく、ヨルカらしくない弱弱しい笑顔を浮かべた。

 次に見たのは、その前の寝台の囲いに背を預けて座っているオスカだった。

 何かがおかしいけれど、やっぱりオスカは無事だったのだ。そう思うとスピカはほっと息を吐き部屋の中へ踏み出した。けれど部屋の真ん中辺りに来た時に異変に気付き足を止めてしまう。病人のように寝台の上で座っているオスカからは、生きている人の気配というものが感じられない。動こうともしないし、目を開けてはいるけれどまるで寝ているように反応しないのだ。それに、いつもの活発なオスカからは信じられないような表情をしている。

「オスカ……?」

 スピカが茫然と呟くと、ヨルカは悲しそうな顔をして弱弱しく首を振った。

「……イシュに知らせを受けて、都へ行った時にはもうこの状態だったのよ。誰の呼びかけにも応えてくれないし、反応もしないの。まるで人形みたいに動きもしない……スペルカ様が、こんなことをしたの?」

 ヨルカが少しの責めを含ませた声色で言ったから、スピカは何も言えずに立ちすくんだまま動けなくなってしまった。

 月祭りの夜に起こった出来事が頭の中でよみがえる。スピカのことを言っている最中に、まるで糸が切れた操り人形のように倒れてしまったのだ。そんなことをできるのはトトしかいない。これが、最悪な事態ではないとけして言い切れない。

「この子が何をしたって言うの……スペルカさまなんて……」

「ヨルカ! スペルカ様を悪く言わないで……きっとオスカが何か悪いことをしてしまったのよ」

 テアタがそう言うと、ヨルカは顔を歪めて黙り込んだ。

 そうじゃない、とスピカは思う。オスカは何も悪いことなんてしていない。ただ、自分の中に押し込めていた真実を伝えようとしただけだ。スピカはどちらも止めることができなかった。目の前で暴露される真実に、固まったように動けなくなってしまっただけだ。オスカが倒れてしまったあとは、ただただ小さい子供のように泣いていただけだ。スピカが止めるべきだったのに。

 どうやらイシュは、オスカの家族にオスカがトトの前で倒れたことを伝えた以外は何も伝えなかったらしい。テントを連れ出されたあと、理由を知るスピカが泣きつかれて眠ってしまったのだから仕方がない。けれど、イシュも天蓋の中で何が起きたか大体は分かっていたようだった。

 いつの間にかスピカの後ろに立っていたテアタに肩を撫でられて、スピカは俯いた顔を上げた。何か言いたげなヨルカと目が合ってしまう。けれど、先に目を逸らしたのはヨルカの方だった。

「オスカ……スピカが来たわよ」

 聞こえているのか聞こえていないのか分からない、反応のないオスカにヨルカは呼びかけた。

 その様子にスピカの胸は痛む。何か恐いものを見ているような、寂しいような気分になる。いつでも元気だったオスカは、余り光の宿らないどこを見ているのか分からないような目をしている。もしかしたら見えていないのかもしれない。

 ヨルカは乱暴な手つきでオスカの髪をぐしゃぐしゃにすると、さっと立ち上がってスピカにもテアタにも目を向けずに部屋を出て行ってしまった。スピカの肩に手を置いていたテアタも、それに続いて静かに部屋を後にする。後ろ手に扉が閉まるのを聞きながら、スピカはオスカのいる寝台にゆっくりと近づいた。

「オスカ……?」

 やはりオスカは呼びかけに反応することもなく、物みたいにただじっとしている。その様子だけでは、生きているのかも分からない。スピカはおそるおそるオスカの頬に手を伸ばした。あたたかい。それに微かだけれど、呼吸もしている。確かに生きている。何か反応があるのではないかとスピカは暫くそうしていたが、何秒経ってもオスカは動くこともしなかったから、諦めて手を下ろした。

「どうしちゃったの……オスカ」

 反応がないから、聞えているのかも見えているのかも、感情が動いているのかも全く知る術がない。こんな風にしてしまったトトなら、オスカを元に戻せるのだろうか。そんなことをスピカの口から頼んでも大丈夫なのか心配になったけれど、そんなことを気にしている場合ではないだろう。スピカはオスカの瞳に自分の姿を映すように、オスカの目を覗きこんだ。

「……ねえ、オスカ。スピカは、スピカだったの。トトがかみさまになってしまった時に死んじゃったのは、ことこ の方だった。トトは ことこ の方を殺したんだよ。だからわたしは、トトが憎いけど、トトと一緒にいることにしたの。……怒る?」

 返事を期待せずにスピカは問いかけた。問いかけに対するオスカの答えは、大体想像がつく。

 ヨルカにくしゃくしゃにされてしまったオスカの髪の毛を直してあげてから、スピカはヨルカが腰掛けていた木の椅子に座った。

 あの時よみがえったスピカの記憶。

 スピカはある日ピノおばあちゃんの家の近くの森で遊んでいて、自分と全くと言っていいほど似通った姿の女の子と出会った。女の子の名前は、ことこ と言った。その女の子が自らちゃんと名乗ったのかは分からないけれど、スピカはその子の名前を知っていた。すぐに二人は仲良くなって、スピカは ことこ の故郷のはなしや、歌を教えてもらった。

 けれど暫くして、トトが熱病に冒されてかみさまになって目覚めた日。

 トトはスピカにかみさまの名前で呼ばれた途端に見えた未来に心を引き裂かれそうになって、反動で宿ったばかりのかみさまの力を人に向けてしまった。それはスピカではなくて、スピカに似たどこから来たのかも分からない一人の女の子だった。

 それが、スピカのなかに浮かんできた記憶だった。けれど、そんなのは、全部作り出された嘘の記憶だ。ことこは、スピカに会ったことなんてないし、ことこ が此処に来たのは、トトがスピカとそっくりな ことこ を呼んで、ことこ もそれに応えてしまったからだ。トトがスピカを呼び続けたのは、スピカがいなくなってしまったから。けれどトトは、目の前にいる偽者のスピカがスピカであることを望んだ。だから、トトのなかで ことこ という存在は認められない。心の片隅にほんの少しだけ残された ことこ の希望はそれで潰されてしまった。

 スピカも、トトも本当に矛盾だらけだ。それぞれのなかで撞着してしまった過去の出来事から今までのことを持て余した末に、トトは過去を自分の望むかたちに変えようとしてしまった。スピカはそうしようとしたトトに対して憎しみを抱いたけれど、なんらかのかたちで終わりがやってくるまでは、その関係も自ら壊さずトトと一緒にいることを決めた。

 トトは本当は知っている。オスカが言った事実のことをおそらく、本当は頭では理解している。けれど、きっと感情がついてこないから、本当の本当に起こった過去の出来事を塗り替えようとしたのだ。過去の出来事なんて、変えようがないのに。けれど或いは、その過去を知る全ての人の記憶が同時に変わってしまったら、変わった過去の方が本物になってしまうのだろうか。もし、そうなのだとしたら。

「……トトには、過去を変えることもきっとできたのに」

 スピカは呟いた。

 トト自身の記憶も含めて全てを変えてしまうことも、トトにはできたのかもしれない。けれど、トトはそうはしなかった。その理由が、スピカには分からない。スピカのなかには、ことこ の記憶も色あせてはしまったけれどまだ断片的に残っている。

 スピカの呟きに答えるように、オスカの瞳に映る光が揺らめいたことに目を伏せたスピカは気付かなかった。








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