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きみのこえ  作者: はんどろん
09.途切れた歌
44/63

44.

 その夜、スピカは暖炉とランプが灯された部屋から、窓の外をぼんやりと眺めていた。真夜中だから、流石に寺院の門も閉ざされてすぐ下に見える庭の中には人の気配はない。街でも今開いているのは酒場くらいだろう。殆どの家の窓も暗く、本当に人が住んでいるかなんて、それを見るだけでは分からない。

 イシュは明日の朝一番に都を旅立つらしい。

 次にいつ会えるのはいつだろう、と考えて馬鹿らしくなってその考えを打ち消した。多分、どの道遠い日だろう。そう思うと少し寂しいけれど、自分で決めたことだ。

 トトと、一緒にいること。村人たちとの最初の約束。おばあちゃんとの約束は一度は破ってしまったけれど、スピカは一度短期間でも村に帰ることを考えていた。トトを連れ出すことができなくても、一人でも帰ってみよう、と。

 オスカのことは結局誰にも聞けていない。イシュが寺院を出る前に尋ねてみたけれど、はぐらかされたのだ。スペルカは聞く暇もなく礼拝堂へ行ってしまったし、それについてイーノスも出て行ってしまった。トトに聞くのは嫌だから、自分で確かめようと思った。

 それに負い目があったから、もう随分と長い間村には帰っていない。おばあちゃんのお墓にも行っていないし、あの丘の小さなお墓にも。懐かしいおばあちゃんのこじんまりした家も恋しい。

 堂々と帰ることはできないけれど、本当はいけないが司祭さまや尼僧たちにばれないようにできるだけこっそりと。

 そのあと、またトトの下に帰ってくればいい。

 スピカは決心すると荷物を肩に担いだ。夕食ごろリュシカニアが届けてくれた荷物だ。夕食に出てきたパンを油紙に包んで入れておいた。赤いワンピースが入った木箱だけは寝台の上に置いておく。逃げないよ、という証に。首にかけたぎんいろの鍵はそのままに、スピカは帽子と外套を身に着けると鳥籠かけに掛かっているパドルの籠を持ち上げた。毛玉のようにまるくなって眠っていたパドルは驚いたのか籠の中で羽をバタつかせる。

「ごめんね、パドル。ちょっと寒くなるけど、一緒に行ってくれる?」

 パドルは分かっているのか分かっていないのか、愛らしいまるい目でスピカを見つめ首を傾げるだけだった。

 スピカは中に綿を詰め込み内側に毛皮を縫いつけた布を、鳥籠に被せた。これで少しは温かいはずだ。以前、パドルの為にリュシカニアが作ってくれたもので、それはパドルの籠をすっぽりと包み込んでくれた。中に火種を入れた鉄製のカイロを布に包んで入れておいたし、鳥籠は木製のものだから心配いらないだろう。

 月祭りの日から、スピカが眠っている間に外は随分と寒く、冬の気配を間近に感じとれるようになっていた。

 長い廊下に点々と灯された蝋燭は、どこかから入ってくる冷気で微かに揺らめいている。それでも暗くて、並ぶ大きな窓から入ってくる月明かりがやけに目立っていた。

 トトが部屋から出てくる気配はない。スピカは気にせず、抱きかかえた鳥籠が余り揺れないようにとそのことだけ気をつけて、すたすたと廊下を歩いた。手に持った角灯はまだ点けなくても大丈夫そうだ。階段は暗かったが、月明かりのお蔭で足元が見えないわけではない。

 人の気配がない夜の寺院は気味が悪かったけれど、スピカは立ち止まらなかった。

 一人で村に帰るなんて、トトから逃げる前のスピカには考えられなかった行動だ。けれど、頭の中は妙に冴えていて冷静だった。

 とりあえず寺院を出たら、都の門の前で御山の方向に行く馬車を探して乗せてもらおう。イシュと旅をしている間にそういうことには慣れた。けれど今回はいくら一日で着く距離だと言っても、イシュに守られてはいない。スピカ一人だ。村の人たちの反応と、そのことを考えると少し不安だったがきっとどうにかなる。村に帰ったら、オスカの家に行って、一緒におばあちゃんのお墓と丘の上の墓を参る。それから家にも帰って、みんなにも挨拶をしよう。

 諦めか、決意か、どちらともいえる判断をしたあとには、もうなんでもできる気がした。もしかしたら、やけになっているのかもしれないけれど。今まで長い間迷い続けたのに、殆ど一瞬でその決断をできたのは、どうしてだろうか。

 スピカは不気味に薄暗い階段を少しでも速く過ぎようと駆け下りた。門は閉まっているけれど、寺院の裏手に小さな木の扉があるのを知っている。内側につけられた鍵はパズルのようになっていて、それを組み立てれば簡単に開く仕組みになっていた。扉の前で一旦パドルの籠とカンテラを地面に下ろすと、できるだけ音を立てないように金属製の鍵を組み立て始める。カチッと軽快な音が鳴って思わず笑顔になると、肩を叩かれた。ひっと声に成らない声が出て、スピカは体を大きくびくつかせる。

「……なにをしてる」

 低く、押し殺したような声だ。その声色には明らかに呆れが混じっている。スピカは驚きで出てきた涙で目を潤ませながら、胸元を押さえてゆっくりと振り向いた。月明かりを反射するぎんいろの髪の間から、おもしろいものを見るような目が覗いている。

「心臓が、口から飛び出ると思った!」

 スピカが小声で言って睨むと、腰に手を当てて気だるそうに立っていたイーノスは口の端を持ち上げた。意地の悪い笑みをしたあと、わざとらしい呆れ顔を作ったイーノスはこれまたわざとらしくため息をつく。

 もしかして、いつも気だるそうなのはわざとなんじゃないだろうか、とスピカは思ってしまう。

「なにをしてるんだ、と聞いてる」

「……村に帰るの」

「スペルカ様を置いて、一人でか?」

「だって、トト一緒に帰ろうって言っても嫌がるの。だから、一人でこっそり帰ろうと思って……。けど、すぐ帰ってくるよ」

「それにしても、こんな時間帯に出ることないだろう。お前の暮らしていた村と違って、ここは物騒だぞ」

 呆れた口調でイーノスは言った。

「でも、好機があるうちに行動しなきゃ、今のトトの状態だったら、次にいつ寺院を出れるか分からないから」

 そう言いながらスピカは足元に置いていたパドルの籠を抱きかかえ、カンテラは手にぶら下げた。寒気がして肩を竦める。手袋も付けた方がいいかもしれない。

「……トトは?」

「かみさまだって、ぐっすり眠る時もある」

「そう」

 その言葉を聞いてほっとしたスピカは鍵を外して扉を引いた。ギィッと乾いた木が軋む音がする。

 外した鍵は、イーノスに手渡した。

「鍵、閉めといて。スピカのことはしらんぷりしててね」

「どうせばれる。……街の門まで送ろう」

「ありがとう」

 二人は扉をくぐるって角灯に灯りを灯すと、薄暗い細道を歩いた。表門の方と違って裏は細い坂道になっている。いつもこの道を通って、牛乳や小麦粉や衣料品などの必要なものが配達されてくるらしい。スピカがその道を通るのは初めてだったけれど、イーノスには通り慣れた道のようだった。古びたでこぼこの石畳の上はスピカには歩き辛く、ましてや足元が暗いものだからゆっくり進むしかない。

 前にも、こんなことがあったような気がする。

「……っ!」

 思わずスピカは口を押さえてその場にしゃがみ込んだ。記憶の波と一緒に、またあの吐き気が襲ってくる。スペルカと離れてからは、少しでも何かの拍子に思い出そうものなら、その度に波に飲まれそうになっていた。

「おい!」

 異変に気付いたイーノスが駆け寄ってスピカを支えようとしたが、スピカはその手を振り払った。イーノスはそんなスピカの反応を思ってもみなかったのだろう。虚を衝かれたような顔でスピカを見つめて、眉を顰めた。

 トトの部屋でスピカが大人しく背を撫でられていたのは、トトに気をとられていたのと、今よりも本当に辛かったからだ。スピカは膝の上にある、鳥籠の上に顔を伏せたまま、苦しげに呟いた。

「……だいじょうぶだよ。すぐ治まるから」

「お前……?」

「なあに?」

「……いや、なんでもない」

 イーノスはいつもの低い声で言うと、そのまま黙りこんだ。スピカには触れようとせず、隣で肩膝をついてただじっとスピカの荒い息が治まるのを待った。

 少し離れたところから、夜の鳥が鳴く声が聞えてくる。伏せた顔の横から、白い息が漏れて角灯の灯りを反射した。いくら裏路地と言っても、誰も通らないわけではない。こんなところを見られたら怪しまれるか、親切に心配されるかのどちらかだ。どちらにしろ、厄介なことに変わりはない。イーノスは寺院に沿って細く続く道の先を見据えた。片側が寺院の塀で、片側が垣根になっていて昼でも見通しが悪い通りだ。いくら視力の良いイーノスでも暗い道の先はよく見えなかった。

「ねえ、イーノス」

 まだ俯いたままでいると思っていたスピカが、いつの間にか顔を上げてじっと様子を眺めてきていたので、イーノスは微かに眉を顰めた。それでも、平然としているように見えるがまだ辛いのだろう。荒く吐き出される息がスピカの顔を白く滲ませていた。

「オスカは、どうしたの?」

 聞かれてイーノスは答えに詰まった。どの道、村に帰るのなら分かることだ。けれど、それをスピカに悟られてはいけない。

「村に帰ったんだろう……? 聞いてないのか?」

「誰も、教えてくれなかった」

 スピカは諦めたように首を振ると、ゆっくりと立ち上がった。

「もう大丈夫だよ。ありがとう」

「……ああ」

 薄い微笑みに違和感を感じる。こんな風に笑う娘だっただろうか、と思った。自分たちは大きな間違いを犯してしまったのではないだろうか、とも思い、まだ幼い妹の顔を思い出した。先が見える妹の思う通りに動いたつもりはない。けれど、動かされてしまった感はある。今こうしていることも、もしかしたら妹の思惑の上なのかもしれない。

 本当は、すぐにでも寺院に連れ戻した方がいいのに、この小さな娘が強情なことはもう十分に分かっている。今連れ戻しても、どうせまたどうにかして村に行こうとするだろう。

 イーノスは気付かずため息をついた。

「イーノスって、そればっかり。癖なの?」

「は?」

「ため息だよ。幸せが逃げちゃうよ」

「……一体どこの迷信だ。聞いたこともない」

 スピカは微かに首を傾げただけで、返事を返さなかった。

 門の出口は、真夜中だというのに混雑していた。真夜中だからか、流石にいつもの物凄い数の馬車や人の量とは比にならない程度だったけれど、スピカはほっと胸を撫で下ろした。真夜中は門が閉まっているものだと思っていたから、明朝まで待つ覚悟でいたのだ。だったら明け方に寺院を抜け出せばよかったかもしれないけれど、明るい間の方がうんと抜け出しにくくなる。

 スピカは適当な馬車に目をつけると、行く方向を聞いて交渉した。運良く御山を越えるという馬車を見つけることができた。馬車の主はスピカのような娘が、こんな時間帯に都を出るのには何か訳があると思ったのだろうか、一瞬見定めるようにスピカを見たが快く頷いてくれた。

「……大丈夫なのか?」

「なにが?」

「一人で。お前くらいの年頃の娘はそんな他人の荷馬車に乗せてもらって、売られてしまっても文句はいえないぞ」

「文句は言えるよ」

「……おいおい。そういうことじゃなくて」

「文句も言えるし、いざとなったら走れる。口も足も手もあるんだから。それに、スピカは見た目ほど小さな子供じゃないよ。それに、ほら、凄く優しそうな人たち」

 スピカは乗せてもらう馬車の方に視線をやって言った。そう言われてしまってはもう言い返すこともできない。本当は、どれだけ優しそうに見えても残酷な人たちもいるのだけれど、スピカにはそんなことを言っても信じられないかもしれないし、もしかすると、もうずっと昔にそのことを知ってしまっているのかもしれない。

 イーノスは持っていたスピカの荷物を諦めたように手渡した。にっこり笑ったスピカは、それを少し重そうに肩に担ぐと、鳥籠を抱えなおした。

「ありがとう。じゃあね」

「ああ、戻ってくるんだろう?」

「うん。多分村では一日もいないから、すぐに戻ってくるよ……もしかして、戻ってこない方が、いいと思ってる?」

「……さあな。お前は、スペルカ様の毒になるかもしれないし、薬になるかもしれない。そんなことは俺には見当もつかないからな。 ……お前の思うようにしたらいい」

「イーノスって、騎士の癖にゆるいね」

 そんなスピカの言葉に気分を害した様子もなく、イーノスは肩を竦めただけだった。イーノスには、スピカの心境の変化が未だによく分からない。どうして急にトトの傍にいることを決めてしまったのかも、スペルカとスピカのやり取りをはたから見ているだけでは理由が分からなかった。

 スピカは、スピカだった。

 確かに、あの時スピカはそう言った。その言葉の意味も分からない。けれど、確かにあの時に何かがスピカの中で変わったのだ。それはスペルカが言っていた、諦めなのかもしれない。それまで残っていた小さな希望を何かによって奪われてしまったのかもしれない。

 冷たい風が吹いて、スピカの背中が縮こまった。スピカが乗る馬車には、年配の女性と、小さな男の子が乗っていた。御者台に乗っているのはたくましい体つきの男だ。恐らく家族なのだろう。こんな夜分に都を出るのには何か訳ありかもしれなかったけれど、それなら安心だ。御山の辺りはスペルカのお蔭か、不敬な輩も出ないという。

 女性に助けられて幌のついた荷台に乗ったスピカは、少し離れたところに立っているイーノスに大きく手を振った。一時は止まっていた行列が進み始め、砂埃がたつ。イーノスも少しだるそうながらも、頭の上で手を振り替えした。

 すぐにイーノスの姿は見えなくなり、門のところで馬車はまた一度止まった。御者台に乗った男の人と門番の人が一言三言言葉を交わすと、また動き出した馬車はじきに石畳をおりてがたがたと大きく揺れ出した。

 一緒に荷馬車に乗っていた女の人は、スピカに何も訊こうとはしなかったから、スピカも何も訊かなかった。女の人の膝の上でうとうとしていた男の子が、自分たちの馬車に乗ってきた他人のスピカに興味を示したのか、じっと見てきたから、微笑むと男の子も嬉しそうに微笑んだ。

「御山の向こう側にある小さな村は、それはいいところだと聞いたわ」

 男の子の頭を撫でていた女の人が言った。いとおしそうに男の子に優しい視線を送るその人は、どこかの国の御伽噺をしているようだった。スピカたちの村は、そこにたどり着くまでの道がややこしいからか、普段は滅多に旅人などは訪れない。けれど、月祭りの頃になるとたくさんの人が色んなところからやってきていたのだ。一度来たら何度でも来たくなるような魅力がある、と昔月祭りに来ていた人にスピカは聞いたことがあった。

 素朴だけれど、豊かで美しい場所。優しくてあたたかい人たち。

「……うん。凄くいいところだよ」

 スピカが頷くと、女の人は静かに微笑んだままスピカを見た。膝の上で小さな男の子はまたうとうとし始めている。お母さんの顔だ、とスピカは思った。

「あなたは、村の出身なの?」

 訊かれてスピカは寂しそうに笑って小首を傾げるだけだった。

 女の人はそれ以上は何も訊かずに、スピカに毛布を貸してくれた。暫くかかるからあなたも寝ていなさい、と言われてそれに素直に従うことにする。荷物を枕にして横たわると毛布を首から被った。がたがたと揺れが酷くて、とても眠れそうにない。都に来る時に眠ってしまったのは、きっとトトの仕業だったのだろう。イシュと旅していた時も、予想以上の馬車の揺れに最初は驚いたし、気分も悪くなってしまった。

 女の人が後部の幌の革を閉じるのをぼんやり眺めてから、上に吊るしたパドルの鳥かごが揺れるのに目を向けた。白い幌を通して、月明かりと過ぎていく木々の影が見えた。まだ他の馬車も近くにいるからか馬の蹄が地面を叩く音と、金具が鳴る音が方々から聞えた。

 村に着いたら、オスカの家に行こう、と思う。オスカはきっと大丈夫のはずだ。いくら変わってしまったと言っても、トトが自ら望んでオスカにそんな酷いことをするはずがない、と確信があった。けれど、かみさま になってしまった時のこともある。それに、みんなの反応も。セスティリアスの言葉も。

 考え始めると不安で仕方がない。

 みんなに会うのもこわい。何度も優しい視線を送ってくれた人たちの目が変化しているのを見たくはなかった。それはとても恐ろしいことだ。

 スピカがぎゅっと体を丸めると、ふと優しい手つきで頭を撫でられた。女の人が、自分の子にするのと同じ風にスピカの頭を撫でてくれていた。ふと隣を見ると、男の子は安心した顔つきでぐっすりと眠っているようだった。スピカもそれを見ているうちに眠くなって、いつの間にか眠りについていた。




 夢を見た。

 昔の夢だ。昔といえるくらい、随分と前のことになってしまった。

 何になりたい? と先生に聞かれて、ことこ は「優しいひとになりたい」と言った。優しい人は可哀想で、弱いかもしれないけれど、優しい人になりたいと思った。どうしてだっかは分からない。どこかで触れた優しさが恋しかったのかもしれない。

 ケーキ屋さんや、花屋さんと言っていた子たちは、それはなりたいものじゃないよ、と言って笑った。

 若い女の先生は褒めてくれた。それはとても立派なことよ、と。立派なことなのかどうなのかは、ことこには分からなかった。優しい人は、立派という感じからはどうしてか遠い感じがした。

 小学生の頃の、はなしだ。

 甘い花の香りが漂うころだった。先日に降った雨がもう殆ど黄色い小花を落としてしまってはいたけれど。








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