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きみのこえ  作者: はんどろん
09.途切れた歌
43/63

43.

 日がもう完全に沈む。見える空の下の方で橙の光がほんのり残っているだけで、それもじきに紺色に呑まれてしまうだろう。橙の明かりの前で、真っ黒な雲の影が上空の強い風で次々と通り過ぎてゆく。ぽつぽつと灯された蝋燭の灯りが、幻想的にかみさま不在の礼拝堂を照らしていた。

 セスティリアスはスピカが今いる筈のかみさまの部屋の窓をずっと見上げていた。今、部屋の中で起こっていることがセスティリアスには手に取るように分かる。目を治してもらう代わりに取り上げられたものは、いつの間にかセスティリアスの中に戻ってきていた。

「……どうして、行かせたんだ?」

 押し込めたような低い声が自分に向けられたものと知って、セスティリアスは横を見た。首が痛む。どれだけ長い時間あの窓を眺めてたかわからない。

 歳の離れた兄は、いつものように不機嫌そうな顔で先程までセスティリアスが見ていた、かみさまの部屋の窓に目を向けていた。だから、セスティリアスもまた窓に視線を戻す。

「お前がしてることは、めちゃくちゃだ」

「だろうね」

 セスティリアスが一言そう返すと、イーノスはため息をついた。

「……寺院には来るなと言っていただろう。リュシカに怒られるぞ」

「みんな、きんいろのかみさまに夢中だもん。大丈夫だよ。……そんなことよりも、そろそろ助けに入った方がいいかもね」

 淡々と言うと、イーノスははっとしたようにスペルカの部屋を見て、セスティリアスを一瞬苦々しそうに見たあと、建物の中へと走って行った。一人残されたセスティリアスは、振り返って大きな庭に線を引くように並ぶ列を見た。みんな縋るような気持ちで列を作っていて、彼女にとってはそれが気味が悪いものに見えた。スピカの村の人たちもそうだった。元々あった感情を唐突に塗りつぶしてしまう程の感情の波に、みんな逆らうことも、疑問に抱くこともなく愛情に似た感情をかみさまに向けた。

 その存在の気味の悪さにみんな気がつかない。まるで麻薬のような存在。それは本当は人のなかにはあってはならないもの。

 セスティリアスが住んでいた場所でもそうだった。スペルカ程でもないけれど、ほんの小さな存在に影響されて、みんなおかしな感情を抱いていた。

「──セス!」

 急に腕を捕まれて少し驚いたセスティリアスが見上げてみると、イシュが息を切らして立っていた。

「スピカは?」

「かみさまのところ」

「どうして行かせた!」

 先程兄が言っていたことと同じことを言われてセスティリアスは笑った。イシュが用事で出かけている隙にスピカを連れ出したのだ。それをイシュは訝しそうに見る。

「スピカがそれを望んだから、連れてきてあげたの。スピカが言ってたとおり、スピカは決着をつけないとなかなか先に進めないでしょ?」

「別にその決着を今つける必要はなかった。ゆっくりでよかったんだ」

「本当にそう? 時間が過ぎても勝手になくなってはくれないよ。それに、過ぎてからじゃもう遅いこともある」

「それでも、今の状況は危険だ! 分かっているだろう?」

 セスティリアスが肩を竦めると、イシュは苛立ったようにたくさん並ぶ窓を見上げた。スペルカの部屋がどこかを探しているのかもしれないとセスティリアスは気付いたが、その場所を教えるつもりはなかった。今行けば、危ないのはスピカではなくイシュだ。イシュはかみさまからスピカを引き離すつもりだろう。そうすればかみさまは間違いなくイシュにも危害を加える。そのことをイシュも理解している筈だ。 それでも行こうとするのだろう。

「スピカって、幸せものだね」

 唐突なセスティリアスの言葉にイシュは顔を顰めた。

「だって、そうでしょ? かみさまにあれ程愛される子なんてスピカだけだよ」

「あれは、愛されてるとかじゃない。ただの執着心だ」

「その執着心はどこからくるの? スピカを傷つけた罪悪感から? それとも、本当に好きだから?」

「……そんなこと、俺が知っているわけがない」

「だよね。……ねえ、スピカは大丈夫だよ。かみさまはスピカを失うような真似はしない。恐れているから、二度と同じ間違いはしない」

「……セス、君はいったいなんなんだ? 何をしたいんだ?」

 イシュは何かを見定めるように、自分よりも随分小さい少女を眺めた。緑の透き通った瞳は、光具合によっては猫のような金緑の瞳にも見える。どこか不自然な揺らめきを持ったその瞳は、色は異なれど村で見たあの少年の姿のかみさまにも似ていた。

「ただ、引っ掻き回してみたかっただけ。スピカのことは好きだけど、なんだかめちゃくちゃにしてみたかったの。これって、おかしいことなのかな?」

 悪びれもなく、セスティリアスが薄く笑いながら言うのをイシュは驚いた面持ちで見ていた。薄暗闇の中、金緑色に瞳が光る。その瞳にぞっとしたイシュは口元を手で覆った。

 以前、北方を旅している時にある少女とその家族の噂を聞いたことがある。

「まさか……」

 イシュが呟くと、セスティリアスはおかしそうに笑った。

 余り子供らしくない笑い顔だ。

「知ってた? かみさまはひとりじゃない。きんいろのかみさま程はっきりとしたものじゃないけど、私の中にもあれに似たものがある。ほんの小さな欠片みたいなものだけど。本当は人のなかなんかにあっちゃいけないんだよ。あったら、それに人は負けてしまうの」

 ほんの小さな子供だった。北国の長い冬の間に、セスティリアスはいつの間にか周囲に羨望の目を向けられるようになっていた。けれど、食物庫が燃えて村に食料が足りなくなった途端に、向けられる視線は一変した。セスティリアス自身は、他の人には見えないものが見えるだけの体の弱い子供だったからその状況をどうすることもできなかった。元々影響力の少ないセスティリアスのなかのものは、気付けば悪意の対象になっていたのだ。奇跡の存在はあっという間に、人たちの感情によって邪悪な存在に変えられてしまった。

 きんいろのかみさまにはきっとそんなことは起こらないだろう。元々の影響力が違い過ぎる。その代わり、かみさまになってしまった男の子をもそれは蝕んでいく。一人の女の子の死をきっかけに、抗えないものとなって。

「かわいそうなスピカ……だけど、悪い夢だと思えばいい。夢なんて残るのはほんの少しで、目覚めればただの夢だから。みんなすぐに忘れるでしょ?」

「なにを言ってるんだ……スペルカ様はあの子を離さない」

「だろうね。だけど、ずっと一緒にいられる訳もない。かみさまは壊れてゆくばかり。それを誰が止めてくれるっていうの?」

 その言葉の中に含まれた非難を感じ取ってイシュは顔を顰めた。かみさまの意思がない限り誰も引き離せないだろう。誰もかみさまには逆らえない。それがまずいのだ。かみさまにとっても。人の感情を従えるその大きななにかは、一人の人が持つには大きすぎる。

「人って、簡単に優しい気持ちにも、残酷な気持ちにもなる。だけど、それでもそれをかみさまの存在が左右するなんておかしいよね」

 そう言うセスティリアスの笑い顔には、嫌悪感や何かを馬鹿にするような表情が混ざっていた。なにかがおかしい、とイシュは感じた。それはセスティリアスの言葉の端々に散りばめられている、意味が分からないけれど、何かの意味を持つであろう言葉への違和感だ。

「……セス、なにをするつもりなんだ?」

「だから、言ったでしょ。私は引っ掻き回してみたかっただけ。それに、それもたった今終わった……多分ね」



 頭の中を掻き回されたような感覚で、その為か胸も気持ち悪くて、スピカは咳き込みながら器の中に胃液を吐き出した。先程から休まずにイーノスが背を撫でてくれているが、ましにはならなかった。荒い息を吐き、毛布を握り締める。トトは窓の横の壁に凭れてそんなスピカの様子を眺めるだけだ。

「たくさんの記憶を無理矢理、一気に戻したからかな」

 まるで人事のようにさらりと言うトトを少し怒ったような表情でイーノスは見た。それでも、トトは肩を竦めるだけで動こうとはしない。

「もうじき治まるよ」

「しかし……」

 尋常ではないスピカの様子にイーノスは眉を顰める。息は荒く、顔からは血の気が引いているがその目は憎しみが滲んでいる様だった。

「辛い? スピカ」

 トトは優しい声で聞いた。返事はしない、というよりもできないのだろう。睨むような目線で跳ね除けられる。

「まあ、辛いだろうね」

 そう言うトトをイーノスは遣り切れない思いで見た。

 最初から、寺院に来た時からこの少年のかみさまはどこかおかしかったが、まだ人らしいものが多くあった。嗜虐的な一面はあったけれど、それでもこの小さな娘に愛情を持って接していた。けれど、今ではどうか。少しづつ歪んでいく感情を誰も止めることができなかった。止めようともしなかったのだ。その結果が、これか。

「これが、あなたの望んでいたことですか……?」

 掠れた声で聞くと、トトは一瞬顔を顰めた。ほんの一瞬、本人も気付かない位だったけれど、イーノスはそれを見逃さなかった。すぐにその顔には笑みが戻る。

「そうだよ」

 笑いを含んだ声でトトは言った。

 スピカの毛布を握る手に力が篭って小さく震える。嗚咽にも似た声で唸ったあと、スピカは毛布をトトに投げつけた。それを避けようともせずに、当たって床に落ちた毛布を拾いあげるとトトはゆっくりと寝台に近づいて、優しい手つきで顔をうつ伏せにしたスピカに掛ける。顔を上げようとしないスピカの背中をイーノスに代わって撫でる。

 本当に労わるような、優しい手つきがスピカは嫌で仕方なかったのに、跳ね除けるのも億劫でそのままじっとしていた。泣きそうになって顔を歪める。気付かない内に気持ち悪さは引いていたけれど、喉が詰まったように息苦しい。大嫌い、と何度も心の中で繰り返した。それでも以前あった感情も消えきってはくれないから、打ち消すように何度も何度も。

 一緒にいるのなんて今だけだ。これまでと同じようにはいかない。スピカも、トトも変わり過ぎてしまったし、それを阻止しようとしていた村からも出てきてしまった。少しづつ大人に近づいているのに、小さな子供の頃のようにずっと一緒にいれる訳がない。この先の長い時間を想えばほんの一瞬。スピカにはその一瞬の出来事に、一生分の哀しさが詰まってしまっているように感じられた。

 憎い気持ちは消えない。けれど少し時間が経ってみれば、また他の感情も浮き上がってきたから厄介だ。

「ずっと、一緒だよ。スピカ」

 スピカにも分かるのに、賢いトトに分からない訳がないのにそんなことを囁く。

 今までだって、何度か逃げてはつかまって結局トトのもとに戻ってきていたけれど、予感がある。

「……ちがう。本当にそう思う? ……もう終わりだよ」

 目を逸らし続けていた終わりが、スピカにはもう近い気がしてならない。都からイシュと一緒に逃げ出した時よりも、近くに。

 小さな頃に交わした約束は遂げられない。

 一緒に外を駆け回ることはできなかったけれど、スピカもトトもオスカも互い互いが大好きだった。けして誰も憎しみ合うなんてことも考えなかった。あの頃のものなんて本当はもう、殆ど残っていはいない。

「……スペルカ」

 スピカが小さな、呟くような声で呼ぶと、トトの瞳が揺らめいた。伏せられたきんいろの睫毛が灯りを反射する。次の瞬間開かれた目はいつもと違って少し気だるそうだった。細められた目でじっとスピカを見つめてくる。スピカは薄く笑うと、手を差し伸べた。

「……意味が、なかったみたい。いてもいなくても」

「……」

 スペルカは何も応えずにじっとスピカを見つめるだけだった。その表情からは楽しさの欠片もみつからない。気のせいだろうか、スピカには少し悲しそうにも見えた。後ろに控えていたイーノスは眉を顰めている。

「本当にあったことがずっとトトを苦しめて、おかしくなっていくけど、本当のことは変わらない。だから、どうしようもないよね。 ……いっぱい、苦しめばいい。スピカだってずっと苦しかったし、哀しかった。多分、ずっとこの先も続くのかもしれないけど、もういい。それもきっとどうしようもないことだから。だから、トトもずっと苦しんで生きればいい」

 スピカの名前を呼ぶたびに、心の奥底をほんの少しでも痛めればいい。本当の出来事に、事実を歪められたことに、スピカは今胸を裂いている。凄く痛いけれど、今までだってずっとそうだった。見ないようにしていた傷の深さを知ってしまっただけだ。

「……それで、いいのか?」

「今までだって、ずっとそうだったでしょ? ……かみさま?」

 スピカが微笑んで言うと、スペルカはぴくりと目元を動かした。どこまでも人間くさいスペルカに、スピカはかみさまらしさを感じたことはない。みんながそう呼ぶから、そうなのだと認識するだけだ。小さな頃から見ていた人々の反応で、かみさまであるのだと信じ込んだ。『かみさま』という言葉の本当の意味も知らないけれど、それに近いものだろうと当てはめた。多分それは間違ってはいない。

「諦めるのか」

「つまらない?」

「うん。意味がなくても、足掻いている姿が好きだったのに」

「好きじゃなくて、おもしろかったんでしょ」

 スピカが責めるでもなく言うと、スペルカは首を傾げた。

「それもある。けど、スペルカはトトでもある。どこかで期待していた」

「うそつき」

「うそつきは、お前だ」

 スペルカがそう言った時だった。扉が勢いよく開かれ、背の高い青年が部屋の主の断りもなく、足を踏み入れてきた。警護をしなければいけないはずのイーノスはそれを止めようともしない。本当は警護もかたちだけで、スペルカには必要ないものだろう。誰もスペルカに危害を加える訳がないから。イーノスは今のかみさまはスペルカだと、気付いているのだろう。スペルカは機嫌が悪ければ自分の力で自分に誰も近づけさせなくする。イシュがこの部屋に入ってこれたということは、それはスペルカの意思でもある。

それともほんの些末なことにしか感じていないのかもしれないけれど、それでもスペルカの瞳にはまたあの少し楽しそうな、好奇心が滲み出てきていた。

「……イシュ? どうしたの?」

 その場の雰囲気に合わない、間の抜けたスピカの声が静かな部屋でやけに大きく聞えた。暖炉で燃える木がばちっと音を立てて爆ぜる。その声を聞いてイシュも少し力が抜けたのか、ほっとしたのか、ため息をついて額を押さえた。

「帰ろう。スピカ」

「どこに?」

 きょとんとした顔で言うスピカは、イシュが急に部屋に入ってきたことに少し驚いていた。疑問に思ったことを口に出しただけだったが、そんなスピカの反応にイシュは顔を顰める。

「……イシュ?」

 スピカの問いかけに答えることなく、イシュはイーノスを見たあとに視線をスペルカに移した。

「無礼なことをしてすまない。けれど、スピカは連れて行くよ」

 イシュはスペルカの存在を知らない。村でトトに話しかけた時と同じようにそう言った。スペルカはおもしろいものを見るような目でイシュを見つめながら、にやりと笑う。

「もう、遅い。お前は間に合わなかった。スピカの心は決まった。今度こそ、本当の諦めだ」

 その口調に違和感を感たのか、イシュは訝しげに顔を顰めた。口調だけではない。雰囲気も違う。どれだけ楽しそうにしていても、スペルカの瞳は射抜くように冷たく鋭いのに、深くて底知れない。トトもどんどんこれに近づいてきているが、何かの拍子にスペルカはがらりとその様子を変える。人とはかけ離れた存在であるということをその空気が主張する。

「もう、旅はやめる。……ごめんね。イシュ」

「……どういうことだ? スピカじゃないとばれたんじゃないのか……?」

 スピカは暗い表情で微笑むだけだった。代わりにスペルカが口を開く。

「分かるもなにもない。スピカはスピカでしかないから」

「そう。スピカはスピカだったの。だから、トトと一緒にいる」

 イシュの目を見ずに言ったスピカは、微笑んだままだった。答えを求めるように、イシュは傍らに立って口を開こうとしなかった騎士を見た。

 イーノスはそんなイシュを一瞥しただけで何も返さない。もしかしたら、イーノス自身も二人が言う言葉の意味を理解できていないのかもしれない。小さな妹が今起こっていることの全ての理由を知っているとしても、それを兄も知っているとは限らないのだ。

「……ずっと苦しかった。トトも、スピカの存在で苦しむなら、スピカはトトと一緒にいる。終わりがくるまで」

 ほんの小さな復讐だ。

 イシュはようやくそのことに気付き、信じられない、というような表情でスピカを見つめた。

「……なにがあったんだ?」

「なんにも。ただ、思い出させられただけ。スピカがトトといる理由」

「スピカ、どういうことなんだ? ちゃんと説明してくれ」

「……あのね、丘のお墓、あるでしょ? あれはスピカのお墓じゃなかったの。あれは、ことこ のお墓だった。あの時死んだのはスピカじゃない。ことこ だったの。だから、ここにいるスピカは ことこ じゃない。最初からスピカでしかなかった。ずっと思い違いをしてたんだ」

「何、言ってるんだ! そんな訳ないだろう! ……この子に一体何をしたんだ?」

 今にもスペルカに掴み掛かりそうになったイシュの前に、流石にじっと立っていたイーノスも立ちふさがった。

 寝台の前に跪くスペルカは、相変わらず好奇心の篭った目でイシュを興味深げに見ている。楽しそうに口元を歪めながら。今にも大きな声で笑い出しそうな表情だ。

 イシュはその顔を苛立ったように睨んだ。

 とうとう我慢できなかったのか、スペルカが笑うと、スピカはぎょっとしてスペルカを見た。イーノスも流石に驚いた顔でスペルカを見つめていた。

「スペルカ? どうしたの……?」

 スピカが不安げに聞くと、スペルカは笑いを引っ込めてにやりとした顔で言う。

「北にはまた違う存在があるから、北の者には影響が少ない」

「……なんのこと?」

「北の者はよくも悪くも違う存在に支配されている。スペルカはひとつじゃない。他にも似たようなものがいる。その可能性をこれは考えなかった。気付いた時にはもう深みに嵌っていた。人への影響を嫌悪するのに、その影響から逃れることも考えずにスピカと一緒にいようとした。愚かしくて、おもしろい」

「なに、それ」

 嫌悪感の篭った目でスピカがスペルカを見ると、スペルカはそれでも笑い顔を正そうとはしなかった。

「……スペルカ?」

 イーノスが茫然と呟くと、イーノスはスペルカを見た。

「スピカにはこれがスピカの記憶を戻しただけ。それはスピカにとっては意味のあることだった。スピカは最初から事実を見失ってはいないけれど、気付いて、自分で諦めただけだ」

 スペルカはイーノスの呟きには答えることなくそう言ったっきり、まるで喋ることに飽きたように黙りこんでしまった。

 いつの間にか真っ暗になっていた外から、窓の隙間を通してじわじわと冷気が入ってくる。

「スピカ、どうするんだ……俺は、何をしたらいい?」

 スピカがトトのもとに留まることを選んだ理由を理解できないイシュは、力なく聞いた。

 自由気侭で孤独な旅を続けていた優しいイシュを、思えばスピカは随分と振り回してしまっていた。今更だけれど、急に悪いことをしてしまったという気持ちが湧いてきたスピカは、視線を落とした。イシュのことは好きだから、一緒に旅をするのが楽しかった。言うとイシュは怒ってしまうかもしれないが、彼は優しくてまるでお父さんか、歳の離れたお兄さんのようでつい優しさに甘えてしまうことも多かった。

 あれだけたくさん迷って、トトのもとを離れることを決めたのに、結局はまたこれだ。流石のイシュも呆れてしまっているだろう。スピカが何を考えているのか分からない、という目で、知ることを諦めた目でスピカを見ている。

「……なにも。ただ、今まで通りの旅を続けて……いやじゃなかったら、またスピカに会いにきて。月祭りのついででもいいから、また会おう」

 それは別離の言葉だった。短かったスピカの旅はここで終えるのだ。これからはまた、あたたかくて暗いあの場所に戻る。スピカを守っていたあの薄い膜はもうない。隠されていた嘘は気付けば表面へ浮き上がっていたけれど、その嘘も意味のないことだった。

 イシュは少し驚いた顔で、スピカを見つめたあと、寂しそうに微笑んだ。

「いやなんかじゃ、ないよ。またいつでも会いにくる。……終わりがくるまでは」

 スピカとトトの世界に終わりが来たあとに、どうなってしまうのかは誰にも分からなかった。ずっと続きそうで、本当は今にも崩れ落ちてしまいそうな危うい場所。その危うさには不思議と惹かれるものがある、とイシュは思う。けれど同時にそれを、凄く寂しいものにも感じる。

「また嫌になったら、いつでも呼んで。すぐに飛んでくるよ」

 スペルカの前だというのに、そんなことをイシュはおどけた様子で言った。スピカもなんとか情けない顔で笑って返す。イシュのその優しさに、ありがとう、と言いたかったけれど、どうしてか言えなかった。

 窓の下の方で犬の鳴き声がした。そこにいる誰にとっても聞き覚えのある声だった。アルカだ。セスティリアスはまだ外にいるらしい。もしかしたらスピカが出てくるのを待っているのかもしれない、と一瞬スピカは考えたけれど、同時にそんな訳がないと打ち消した。セスティリアスは多分全部知っていて、スピカを此処へ連れてきたのだ。

「嫌いになるか? スピカ。あれのことも」

 スペルカが窓の方に目を向けて言うから、スピカは首を横に振った。

「そんな簡単にきらいになんてなれないよ」

 スピカが情けない笑顔のまま言うと、スペルカはまた楽しそうににやりと笑う。

「だから、お前たちはおもしろい」









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