42.
春も芽吹き始めた頃だった。
扉を開けると、随分と下の方に黒くて艶やかな髪の少女がいた。少女は俯いていて顔を上げようとしない。少女を連れてきたオスカの父親が、珍しく少し困ったような表情で言った。
「知ってるだろうが、ティピアとイサが昨日村を発ったんだ」
「ああ。挨拶に来たよ。……スピカ」
リスティピノは俯いた少女の頬を両手で優しく包みこむと、ゆっくりと顔を上げさせた。久しぶりに触れた孫娘の顔のかたちを確かめるように小さな鼻や口に手を沿わすと、胸が締め付けられるような気持ちになる。
スピカは何かを恐れるような恐々した様子で自分の頬に手を添える枯れ木の様な老人を大きな目で見上げた。その茶色の瞳には明らかな戸惑いと不安があった。途方に暮れたような顔に、カムシカはリスティピノの顔を伺うように見た。ぼんやりと白く濁った瞳ではなにも見えないと聞くが、その瞳は確かにスピカを捉えているようだった。
「言葉は?」
「……全くと言っていいほど忘れてしまっているらしい……ピノばあさん、あんたに任せても大丈夫かな?」
「ああ。この子はたったひとりの孫娘だからね」
「……そうか」
カムシカは掠れた声で呟くと、小さな少女を見下ろした。透き通った茶色の瞳が困ったように見つめ返してくる。愛らしい顔をした子供だ。笑うときっともっと愛らしいだろう。けれどその表情は知らないものに囲まれて怯えていた。
ティピアとイサの娘。オスカとスペルカ様の友人。村人たちが願っているのはスペルカ様の友人となる娘だった。
元気に走り回って大声で笑っていた少女のことを思い出す。スピカ。そっくりな少女二人の入れ代わりはきっと不幸な結果を生み出すに違いない。村人たちは薄々そのことに気付いてはいるのに、それをやめることはできない。できるだけ長く、きっとこの秘密を囲い込むのだ。
そして、あるいはあった筈の可能性を悪気もなく握りつぶす。
この小さな娘が例え本物であろうとも、偽者であろうとも。
何かが顔に当たって目を開けると、アルカの足だった。温かくてそのまま眠ってしまったらしい。アルカもスピカに覆いかぶさるようにして眠っていた。重い体をそっと押しのけて体を起こして辺りを見回した。もう陽は落ちて暗くなってきている。窓からは家々の灯りがぽつぽつと見えた。窓は閉まっているから、スピカが眠っている間にセスティリアスかイシュかが閉めてくれたのだろう。スピカはアルカの額を何度か撫でると寝台を降りた。続けて寝すぎたせいか、体が重い。
扉の隙間から光が漏れている。会話する声が微かに聞えてきてスピカは思わず扉を開けようとしていた手を止めた。
「――オスカのこと言わないなんて、かみさまの時と一緒だよ。そのうち、きっとしわ寄せがくる」
聞えてきた声はセスティリアスのものだった。小さな声で話してはいるが、よくとおる高めの声はスピカにもはっきりと聞えた。
なんのことだろうか。おそらく、スピカが聞いてはいけないことだろう。けれどきっとスピカと関係あることだ。あるいはスピカのこと。スピカはいけないことだとは分かっていても、動くことができずにじっと耳を澄ました。
「……今、スピカは不安定なんだ。いつにも増して。だから今は言わない方がいい」
「あとで遅すぎたって嘆いても遅いんだよ」
スピカはどうしてだかぞっとして、それを振り切るようにいきおいよく扉を開けた。
会話をしていたセスティリアスとイシュは、一瞬驚いたような顔をしてスピカを見たが、すぐになんでもなかったようにスピカに微笑んだ。その様子にスピカは微かに顔を顰める。すごく、いやな感じだ。スピカが顔を顰めたことで二人はスピカが立ち聞きしていたことに気付いたのだろう。じっとスピカの言葉を待った。
「……なんのこと?」
「なんのことって、なあに? それよりよく寝たねえ。スピカ」
「今、言ってたでしょ。オスカのこと」
スピカが睨むようにして言うと、セスティリアスとイシュは視線を通わせた。
「隠しても、その内分かっちゃうことだもんね」
セスティリアスがため息混じりにそう言うと、イシュは額を抑えて難しそうな顔をした。
開けたままになっていた扉からアルカが小さな足音を響かせながら、スピカの隣に来て手を濡れた鼻でつつく。スピカが反応しないことに気付くと向かい合うように壁に凭れて立っているセスティリアスを見つめた。
「先に言っておくけど、これは『最悪の事態』じゃない。本当に最悪なことはもっと他にある」
セスティリアスはまたあの不思議な視線でスピカを捕らえるように見た。
「……オスカは、もういないよ」
静かに言われたその言葉を理解できなくて、スピカは真意を確かめるようにセスティリアスを見つめる。
「それでも、かみさまに会う?」
頭がついてこなくて、声が出ないスピカは応えることができずに茫然とセスティリアスとイシュを見た。
秋の森のにおい。けれど、外の風景は冬だ。木々には春を待っている芽がぽつぽつとあった。
急に違和感を感じ始めたスピカは、落ち着きなく二人の姿を見渡した。
「……そんな」
「どうしたの? スピカ」
「……どれだけ、眠ってたの?」
「昼頃から、今までじゃないの?」
「そうじゃないの。そうじゃなくて、あの月祭りの日から……」
「二十日間くらいかな」
「……スピカ。月祭りの日以来、君は、どれだけ起こそうとしても起きなかったんだよ」
スピカは絶句して立ち尽くすしかなかった。どうしてそんな長い時間眠っていたのだろう。それが異常であることくらい、スピカにも分かった。
その間に、オスカは。それともあの時、スピカの前で倒れた時に。まさか、と思う。まだ決定的な言葉は聞いてはいない。頭で理解できないし、感情がついてこない。
それにあの月祭りの日からそんなに経っているということは、トトはどうなったのだろう。
「ありえないことじゃないでしょ? かみさまがいるのなら」
淡々と言われたセスティリアスの言葉の意味が分からない。スピカは急に眩暈を感じてぐらりとふらついた。その体をイシュが抱きとめる。スピカはイシュの腕に摑まりながらセスティリアスを見た。まるで知らない子のようだ。あれだけ親しく感じていたのに、どこか遠くにいるような。けれど、誰かに似ている。
深く暗いあお色と、猫のような金緑の不思議な色は、ちがうけれどどこか同じ冷たさを秘めている。
どうして今まで気付かなかったのか。セスティリアスの瞳はトトの瞳とよく似ていた。
スピカは茫然としたままで、セスティリアスに半ば強引に腕を引っ張られながら寺院への道を歩いた。冷たい風が頬を撫でる。耳から、指先から、鼻のてっぺんから少しずつ体が冷えていくのを感じた。寒いからか人の姿はあまり見かけなかった。小さな子供ふたりがあざやかな水色の凧の紐を手に走り回っているくらいだった。くすんだきんいろの髪色をした女の子と男の子だ。おそらく兄妹だろう。通りに出ると 流石に露店と歩く人たちがたくさんいたけれど、スピカが知るよりも人は少なかった。
家々の煙突からは白い煙が上がっていて、それぞれの家の夕食の香りが漂っていた。
スピカはその香りを嗅ぎながら二十日も眠っていたというのに、起きてからもなにも口にしていないことを思い出したが、不思議とお腹は空いていなかった。
ふと、腕を引くセスティリアスのぎんいろの頭を眺めた。何かを急くようにセスティリアスは早歩きで、道行く人の間をすり抜けるようにして行く。
此処へ来て初めての女の子の友達だった。本物のスピカを知らなくて、スピカをスピカとして見ない友達。だけど何を考えているのか、全然分からない。どんな意図で動いて、スピカを動かそうとしているのか。それに、スピカの正体を知っているようだった。
本物のスピカと、にせもののスピカ。
村に関わりのないセスティリアスが知っているのは、あの眼で見たからなのか。
セスティリアスが立ち止まって、寺院の前の大階段の前に着いたことに気付いたスピカは急に怖気づいてこぶしを握った。振り向いたセスティリアスがじっとその様子を見つめながら静かに言う。
「……かみさまに会うのがこわい? スピカ」
「……」
スピカは無言で首を横に振った。嘘だ。本当はこわい。トトに会うのも、真実を知るのも。うやむやなまま過ごしてきたから、何かがはっきりと形を持ってしまうのがこわい。
「かみさま、スピカが戻ってくるのを待ってるよ」
「……にせものなのに?」
「ほんものとか、にせものとかないよ。かみさまにとっては」
セスティリアスはそう言うと、スピカの手を握って階段を上った。
巡礼者たちの列は以前となんら変わりない。その列は階段の下まで続いていて、スピカたちはその横を通り過ぎた。以前見たことのある若い騎士二人が門の隣で佇んでいて、スピカとセスティリアスを順番を抜かす子供だと思ったのか一瞬咎めるように見て止めようとしたが、はっとして二人が寺院の中へ入って行くのを黙って見送った。
門をくぐって直ぐに広い庭が広がっていて、それを囲むようにして絢爛な建物が建っている。
庭の真ん中にはずらりと巡礼者たちが列を作っていた。
久しぶりに見る光景にスピカは不思議と少しの懐かしさを感じていた。寺院に来てからは村に帰りたいと思っていたしそんなにいいことがなかったけれど、悪いことばかりでもなかったからか。
「寺院にきちゃだめだったんじゃなかったっけ……?」
セスティリアスが以前言っていたことを思い出して訊くと、セスティリアスは惚けた顔をした。
「かみさまがいるから、もういいや」
「どういうこと?」
「なんでもない」
言って、顔を上げたセスティリアスの視線の先をスピカも追う。
追った視線の先の大きな窓から、あおい瞳が見下ろしてきていた。トトの表情のない顔にスピカは凍りついたように動けなくなる。スピカたちがやってくるのを知っていたかのように、トトは窓辺に寄り添ってじっとスピカを見ていた。
途方に暮れたものでも、あたたかなまなざしでもない。無機質で冷たい顔だ。
とんっと背中を押されて振り返ってみると、セスティリアスが微笑んだ。
「いってらっしゃい」
言われて、突き動かされるように無意識に歩き慣れた通路を歩いた。透かし彫りになっている窓から、夕暮れの薄暗い橙の日差しが差し込んでいる。壁に灯されたたくさんの灯りがゆらゆらと揺れている。しんと静まり返っていて人は全くいないようだ。
蒼い扉の前で立ち止まって、左手で服の裾を握り締める。待っていても今までのようにトトは扉を開けてはくれない。スピカは重い扉を押し開けた。窓辺に凭れたトトがゆっくりと顔を上げる。いつか見た、スピカがこわいと感じた表情でスピカを捕らえる。
「……トト」
部屋の中に踏み出すと、後ろで扉が閉まる鈍い音がして、それ以上近づくことができずに立ち竦む。
じっと見つめてくる感情の篭らない瞳に耐えられずにスピカは視線を落とした。何から言えばいいのか、訊けばいいのか分からない。トトはスピカの言葉を待っているのか、何も話すつもりがないのかただスピカをじっと見つめるだけだった。
「……ずっと、嘘ついてたの……」
搾り出すように言うと、トトは微かに首を傾げる仕草をした。
「今まで、ずっと。村にいた時から。本当は、スピカじゃなかったのに……」
「スピカじゃ、ない?」
意外そうな声色にスピカは顔を上げた。トトは窓を背にじっとスピカを見つめたまま無機質に微笑む。
ゆっくりとスピカに歩み寄ると、また俯いたスピカの顔を覗き込むように身を屈めた。
「なにを勘違いしてるの? ……ああ、そっか。あの時のことを記憶違いしてるんだね」
「あのとき……?」
「あの子には、かわいそうなことをしたな」
「……だれのこと?」
「君は僕を騙していたつもりだったみたいだけど、騙されていたのは僕じゃない。君だよ。スピカ。君は村のみんなに騙されてたんだ。僕がスペルカになった時からずっと……君が記憶も言葉も失くしてしまってから」
「ちがう。なくしたんじゃない。知らなかったの。わからなかったの。だって、スピカじゃなかったんだから……覚えてないの?」
「なにを?」
「呼んだのを……なんどもなんども、スピカの名前を呼んだでしょ? だけど、スピカはもういなかったからそっくりな私が来た」
スピカが必死で言うのをトトはじっと黙って聞いていたが、落とした視線を上げた時には皮肉気な笑いを浮かべていた。見たことのないその表情にスピカは驚いて目を見開く。差し伸べられた手がこわくて思わず後ずさると、トトは気にした様子もなく笑みを作ったまま言った。
「君は間違いなくスピカだよ」
「ちがう! 聞いて、トト」
「ちがわないよ。なにも。自分でも、分かってるだろう? ……僕がスペルカになる前のことをスピカは覚えている。思い出してる」
記憶が、混ざる。どれが先でどれがあとのことだったのか今となっては分からない、古い記憶だ。
いつかさんにんで一緒に海を見に行く約束をした。
落ち葉の香る森でオスカと一緒に、トトへのお土産の木の実を探した。
誰かと一緒に、『ユウヤケコヤケ』の唄をうたった。
急に思い出したようにあふれ出した記憶の代わりに、あの最後に見たあかく染まる景色も、ベルの音も遠のいていく。体が倒れる感覚を思い出すのと同時に、スピカはその場に倒れこんだ。どっといやな汗が全身から吹き出てくる。妙な寒さに震えながら見上げると、目を細めたトトがスピカを眺めていた。助け起こそうとするでもなく、何かを確かめるようにじっと。
吐き気がしてスピカが床に倒れこんだまま咳き込むと、ようやくトトはスピカの前に膝をついた。長い間何も食べていなかったからか、どれだけ咳き込んでも出てくるのはすっぱい胃液だけだった。
もう殆ど日が沈んでいるからか、部屋の中は暗い。灯りは窓から差し込む紅い光だけで、トトの姿は暗く影になっていてよく見えない。
「……僕が、スペルカになった時のこと覚えてる? スピカは『スペルカさま』って呼んだんだ。その一言で未来が見えた。それを受け止められなかったんだ」
静かにそう言うと、トトはスピカの長く伸びた髪をひと房手に取った。そのまま緩くひっぱる。
「誰も僕を必要としなくなる……スピカも、離れてく。それが分かったから離れられないようにした。そうじゃないと、かみさまになってまで生き延びた意味がないから」
吐き気を抑えるのに必死で声を出すことが出来ないスピカは、目だけでトトを見た。
遠のいた ことこ の記憶の代わりに、やけにはっきりと浮かんできた記憶。あのお墓の下にいるのは、スピカじゃなかった。トトが言っていた通り、思い違いをしていたのはスピカの方だ。
それがどうしてだか分からないけれど、今さらはっきりと思いだした。
ゆうやけこやけの歌を歌っていたのは、今、ここにいる『スピカ』じゃない。ことこ の記憶があるのは、話しを聞いて思い浮かべた風景をきっとそのまま自分のものにしてしまったからだ。
それでも『スピカ』であることにもしっくりこない。その理由を知っているのに、今は頭がぼんやりとして定まらない。けれど、ひとつだけはっきりと分かることがある。
トトに必要なのは ことこ なんかじゃない。もしかみさまになってからずっと一緒にいたのがもし ことこ だったとしても、トトに必要なのはスピカだけなのだ。あのお墓の下で眠っているのが本物のスピカだとしても、トトはトトの傍にいる方をきっとスピカにしてしまう。
『スピカ』という存在が必要。『スピカ』がいなくなってしまうことなんてあってはいけない。トトのなかで、スピカだけが揺るがない存在。罪悪感を塗りつぶすための執着心。
そんなことは分かっていた。
「……大嫌いっ……トトなんて、嫌いだ」
けして今までトトの前で口には出さなかった言葉に憎しみが篭る。罪悪感なんて湧かない。初めてスピカのなかでトトに対して哀しみよりも、憎いという気持ちが強くなった。
なんとか搾り出した声で言うと、トトは苦笑した。
「それでもいいよ。一緒にいられるなら、それでもいい」
スピカのことが必要だと言うのに、スピカの意思を必要としない。
「大嫌いっ」
冷たい木の床に顔を伏せて、爪が手のひらに食い込むほど両手を強く握り締める。苛立ちと憎しみが混ざって、涙が滲む。
『墓は、ないほうがいい』
おじさん二人が言っていた。スペルカの力で、トトが誰かを殺してしまったことを思い出させてはいけなかった。例えそれを覚えていたとしてもそれを思い起こさせてはいけなかった。優しいトトが心を患うのをみんな、どうしても避けたがった。かみさまになってしまったトトの影響はとてつもなく大きい。
自分とそっくりな女の子が眠るあのお墓。ひた隠しにした真実にみんな心を痛めながらも、かみさまの影響からは逃れようともしなかったのだ。それはスピカも一緒だった。
トトは今、スピカに対してもその力を使っている。急にスピカの記憶が浮かんできたのも、きっとそのせいだろう。今までトトはスピカに対してはわざとかみさまの力を押さえ込んでいたのかもしれない。決して今までだって影響がなかったわけではないのだ。
「みんな、だいっ嫌い!」
叫ぶように言うと、トトはおかしそうに顔を歪めた。