40.
イーノスと尼僧が出て行ってから暫くして、鼻をつくような嫌なにおいも、慣れてきたのかあまり感じなくなってきていた。けれど、たまに思い出したように苦いにおいがして、スピカは一人で嫌そうに顔を歪めた。別に苦いものを食べたわけでもないのに、口の中が苦い気がして、もごもごと無意味に動かしてみたりもした。肩にべっとりと塗られた黒い薬が服に付いてしまうから、今もずり下ろされた服をそのままに、寝台の上で座りこんでいる。寒くなってきたので毛布を手繰り寄せると、薬の付けられた肩を出来る限り避けながら体に巻きつけた。
静けさの中でベルの音だけがこだまするように響いている。もうすぐしたら、白色や水色、薄緑色の美しい結晶のような衣装を着た踊り子たちが鳴らす小さな鈴の音色や、神秘的な音楽が流れてくる筈だ。
スペルカであるトトは祭壇の上から、あの冷えた水のような瞳でそれを眺めるのだ。それともそれらを眺めるのは本当にスペルカなのかもしれない。
スピカはあの神秘的な場面を思い出して、外が気になった。何も見える訳がないのに、天蓋の生成りの幕をじっと見つめてしまう。
すると、ふいに寝台の横の幕が蠢いた。次の瞬間にはばっと幕が上がり、ぎょっとしたスピカは体を強張らせた。寝台の高さほどに上がった幕のところに何がいるのかは、寝台の上にいるスピカからは見えない。外に人はいっぱいいると言っても今は静まり返っているし、天蓋の中はスピカ一人だ。恐々と覗き込むように体を傾けて見下ろすと、目が合った。
「お……」
声を上げそうになって、しぃっと言う風な格好をされ、思わず両手でぱんっと勢いよく口を塞ぐ。勢いがよすぎて唇がぴりぴりとしたけれど、スピカはそのまま幕を上げてしゃがみ込んだまま入ってきたオスカを目を見開いて見つめた。オスカが「そうそう」とでも言う風に頷いたから、スピカもこくこく頷く。
入ってきて幕を下ろしたオスカがほっとしたように息を吐いたので、スピカもようやく口から手を離した。
「なんで? どうしたの?」
「うん。てか、お前の方がどうしたんだ?」
普通の声で喋っても多分外には漏れないのに、外に広がる静寂が気になって二人共小声で喋った。
オスカはとんとんっと自分の肩を指で突いて、訝しげな顔をしている。
「肩? ……ああ。ぶつけちゃったの。薬だって」
「……くさいな。てか、どこでぶつけたんだ? ぶつけるようなもんないだろ。此処」
「……柱だったかな」
疑わしげな目線に耐えきれずにスピカは顔を背けてしまった。それがスピカの言葉の嘘を浮き立たせる。オスカが眉ねに皺を寄せたのを顔を逸らしたままのスピカは気付かない。はあっと短いため息が聞えてまたオスカに顔を向けると、オスカはしゃがみ込んだまま寝台の上で毛布に埋もれたスピカを見上げた。天蓋の中は外よりは明るくて、立ち上がると影でオスカが中にいることがきっと外からでも分かってしまう。
「セスに、聞いた」
「……うん」
「どうすんだ? このままここにいるのか? 抜け出すなら今だぞ……どうして毛布なんかに丸まってんだ」
言われてスピカは少しぽかんとした。確かにオスカに言われた通り、抜け出すならトトがいない今しかない。けれど、そんなことは少しも思いつかなかった。どうしてだろうか。何も言わずに出て行かないと言ってしまったから、抜け出すとトトに嘘をついたことになる。けれど嘘も裏切りも、今に始まったことではないのだ。
「……トト、変わっちゃったの」
「ああ」
「スピカがいなくなったせいかな」
「お前が傍にいるようになった時には、もうおかしかったんだよ……村も、スペルカ様も。お前が知っているスペルカ様は、はじめから普通じゃなかったんだ。だから、スピカが偽者なのにも気付かなかった」
「……」
スピカは唇を噛むようにぐっとしぼめた。
トトが『普通』だった時のことなんて確かに知らない。初めて会った時にはトトはもうとっくに『かみさま』だったのだから。
「肩、痛むのか?」
「ううん。たまにちょっと痛いだけだよ。そんなにひどくもないし、大げさだよね」
「なんか拭くものあるか? とりあえずちゃんと服着ろ。そんで、今のうちに出て行こう」
「……イシュは? そういえば、オスカどうやってここに来たの?」
「セスの兄貴が此処まで連れて来てくれたんだ。でも入り口で止められたから、ここから入ってきた」
「よく見つからなかったねえ」
「みんな祭壇の方を夢中で見つめてるからな。いいから、行くぞ。イシュは多分別の広場にいる」
少し焦った声でオスカは言った。いつの間にか舞の為の音楽は終わりに近づいていた。
舞が終わってトトがすぐに戻ってくる訳ではないが、それでもトトの気配を身近に感じるオスカの気持ちは急いてしまう。トトがどこまで分かるのかは知らないが、オスカのことも直ぐにばれてしまうだろう。それとも、もしかしたらもうとっくに知られているのかもしれない。けれど、儀式をほっぽり出して天蓋に戻ってくることもないだろうとオスカは考えていた。それでも知られているかもしれないということだけで、大きな罪悪感と恐怖が勝手に湧いて溢れ出てしまいそうなのだ。
少し待ってもスピカが動こうとしないから、オスカは眉を顰めた。スピカは大きな瞳でじっとオスカを見ている。
「どうしたんだ?」
「また、トトを見捨てて……」
「ああ、もう! 一度は逃げ出したんだろ? スペルカ様にとってそれは自業自得だ。 ……あれは、スピカがいてもいなくても、もう元の『トト』には戻らないんだよ!」
声を荒げたオスカを、スピカは驚いて大きくした目で見た。
「どうしてオスカはトトを嫌うの? スピカは、どうしても嫌いになれないよ」
傷つくことを言われても、されても、悲しくなったり腹が立ったりはしても決して嫌いになることはなかった。
「それは、『スピカ』がそうじゃないといけないからだよ。お前はコトコとして、スペルカ様の前に立ったことがあるのか?」
言われて、下唇を噛むように俯くとスピカはぐっと毛布を握り締めた。うじうじとしている自分も嫌いだけれど、今のオスカは少し意地悪に思う。
ことこ としてトトと一緒にいたことなんて、今まで一秒だってなかった。トトに必要なのはスピカで、村人たちも不変を望んでいたから。自分の中にあった疑問をずっと無視してきていた。村にいた時はトトや村の人たちを憎んだり、でもやっぱり好きだと思ったり忙しなかった。ずっと『スピカ』を演じてきて、今では『ことこ』がどんな風だったのかさえはっきりとは思い出せない。
自分自身、殆ど思うままに過ごしているつもりでも、それはもう他の人から見ても『スピカ』なのだ。トトの前でだって、スピカだと偽り続けていても最近はそのふりはしていない。
オスカも、違うと思おうともがいているくらいだ。ふとした拍子に懐かしそうな、苦しそうな視線を向けられることをスピカは知っていた。
「……だれが、トトを助けてくれるの?」
呟かれた言葉にオスカは驚いたように目を見開いたあと、すぐに顔を歪めた。
スピカはトトの気持ちが分からないけれど、一番近い場所にいる。オスカはトトの気持ちが分かるけれど、遠い場所へどんどん離れようとする。
一番近い場所にいても、偽者のスピカではトトとずっと一緒にいることはできない。今まで一緒にいたスピカが偽者だと知ったら、騙され続けていたトトがどうなってしまうか分からない。
「助けられる必要は、ない。それだけのことをしてしまったんだ」
その時、ひんやりとした風が入ってきて、顔を上げたスピカは目を見開いたまま動かなくなった。オスカもすぐに気付いて振り返ると、上がった幕の前でトトが立っていた。いつの間にか儀式は終わっていたのだろう。それにしても、早すぎる。
どこか暗い笑顔を見て、オスカはぞっとした。最後に見たのはいつだったか。近くで見たのは確かピノばあの葬儀の時だ。あの時はまだ人間らしい表情をしていたようにオスカは思う。
今、幕の前に立つのは、昔のトトの面影など全く残っていないように無機質だ。笑っていても、それは意味のないもののようだった。非の打ち所がない程に完璧で、けれどそこには人間味がない。
「簡単に入れたみたいだね。都の方は随分と厳重にしてるものだと思ってたけど」
どうでもよさそうにトトはオスカを一瞥して言った。
スピカははっとしてオスカを見ると、オスカの腕を力なく揺さぶった。今のトトは、勝手に天蓋に入ったオスカに何をするのか分からない。普通に帰してくれるかもしれないと思ったけれど、肩にできた青痣を思い出して嫌な予感がした。
「オスカ、もうそろそろ帰った方がいいんじゃないかな」
トトはオスカが今は都に住んでいることを知っているのだろうか。スピカには村に帰れ、と言っているように聞こえた。それはオスカもだったのかもしれない。ぴくりと体を動かすと、どこかふらりとした足取りでトトの方へ歩み寄っていく。
驚いたスピカは立ち上がると、寝台の上から飛び降りた。ちらりとスピカに目を向けたトトと目が合ったが、気にせずにオスカに駆け寄ろうとした。
「……こいつも連れて帰る」
低く押し殺したような声でオスカは言った。
スピカは自分のことを言われていることに気付いて、オスカの数歩うしろで立ち止まった。オスカがトトに対して何かを喋るなんて、スピカにとっては初めて見るところだった。オスカはいつもトトを避けていたから。
「スピカを? どうして。あの村に連れて帰っても、みんなに責められるだけだよ」
「違う。責められるべきなのはスピカじゃない。スピカを閉じ込めようとするあんただ」
そう言ったオスカの声に憎しみが篭っているのを感じたスピカは、ぎょっとして、止めるべきなのに動けなくなった。
今まで、誰もトトにそんなことは言わなかった。誰もがかみさまとしてしかトトを見なかったから。どくどくと心臓がいやな音を立て始める。オスカがトトに憎しみを抱いていたのは知っていた。けれどそれをトトに対してぶつけることをしようとはしなかったのに、どうして今。
「ずっと一緒にいる約束をしたんだよ」
そんなのは、本当に小さな頃にした子供じみた約束だった筈だ。けれど、それがトトの中で今でも大きく残っている。
言って微笑みながらスピカに視線を向けたトトを見て、スピカは罪悪感でぐっと胸の奥が痛んだ。オスカもだったのだろうか。スピカにオスカの表情は伺い知ることはできないけれど、オスカは震えるほどに力を篭めて拳を握った。
「……どうして、忘れられるんだよ……」
小さく呟かれたオスカの声は、はっきりとスピカの耳にも届いた。
また騒がしくなり始めた外から、楽しげな弦の音色がどこか遠いもののように流れてくる。その音が気にならないくらい、天蓋の中の空気は張り詰めていた。すっと笑いを引っ込めたトトの視線は、スピカに向くことはない。
「全く同じ姿でも、気付くはずだ」
低い声で呟くようにオスカが言った言葉に、スピカは血の気が引くのを感じた。
寒い。そういえば肩を出しっぱなしだった。体がどんどん冷えていく。その先を言ってはいけない。
止めないと、とは思っても凍りついたように体も口を動かなかった。
「偽者だって」
「にせもの? なにが?」
「……んだんだよ」
だめだ。その先を言ってはいけない。何もかもが壊れてしまう。そのこと言ったって、何も元には戻りはしない。だから、最後まで貫くべきなのだ。
スピカは冷えた手でやっとオスカの腕を掴んだ。
「オスカ!」
「死んだんだ! スピカは死んだ! とっくの昔に……どうして忘れたんだよ!」
オスカの腕を揺さぶっていたスピカは動きを止めると、ゆっくりとトトの方に目を向けた。トトはスピカの恐れていた様な表情ではなく、薄い笑いを浮かべていた。けれどそれはやはり感情の見えない、底冷えする様な暗い笑みだった。
「そんな訳ないだろう? だって、スピカはそこにいる」
そう言いながらもトトはスピカを見ることはなかった。
「違う。スピカじゃない。スピカはもういない。……あんたが殺したんだ! スピカが名前を呼んで、」
オスカの叫ぶような声は外の音に紛れるように、すっと止んだ。
一瞬、何が起こったか解らなかったスピカは、目を見開いてその様子を眺めていた。どさっと音がして、意思のない人形のように力なくオスカが倒れても、動けずに暫く見つめたあと、見開いたままの目でトトを見た。
表情のない顔でトトもオスカを眺めていたけれど、ふと上げた目がスピカとあって、何かに気付いたように目を大きくした。目の奥で湖のようなあおいろが、ゆらりと揺れて、すっとトトはスピカから目を逸らした。
そんなトトの様子が気にならない程に動揺していたスピカは、倒れるように絨毯の上に膝をつくと、動かなくなったオスカを揺さぶった。
知っている。スピカは村人から教えられたわけではないのに、これと同じ場面を知っていた。オスカの言葉に驚くこともなかった。オスカもスピカが知っていることを知らなかったし、村人たちも知らなかった筈だ。スピカ自身もその記憶を見ないように奥深くに隠してしまっていたこと。
昔、ことこ が此処にやってくる少し前、本物のスピカは死んでしまった。それは病気とか事故ではなくて、かみさまになったトトが『殺してしまった』のだ。音もなく、急に眠ってしまったようにスピカは倒れて二度と動かなくなってしまった。
オスカも。まさか。
スピカは頭の中でそのことを拒否した。だって体は温かいし、どう見たって眠っているだけだ。そう思うのに、手が震える。体がますます冷えてゆく。
「……オスカ?」
スピカの声に反応することもなく、揺さぶられるままにオスカの体は揺れた。目を瞑っているから、きっと眠っている。けれど、溢れ出してくる記憶と今のオスカが変に重なる。
『はかは、ないほうがいい』
しろと、あおの花びらが舞う。それともあれは黄色だったか。
甘い香りがまたふとスピカを包んだけれど、混乱しているスピカは気に留めることもなく何度もオスカを揺さぶった。
「――や、オスカ……トト、オスカを助けて!」
スピカが叫んでも、トトはまるで全く聞こえていないように反応しなかった。表情のない顔に戻って、どこか遠くの出来事のように、オスカとスピカの様子を眺めている。
スピカはまた恐くなって、涙を流しながらオスカを揺さぶり続けた。
幕のすぐ後ろでは、騎士が立っている筈なのに誰も助けにこようとはしなかった。スピカもそんなことに気付けないでいた。
けれど、走る足音がすぐ近くで聞こえてきて、スピカはようやく顔をあげた。
スピカの叫び声か、それともオスカの声が聞こえたのだろう。天蓋の入り口で目を見開いて立ち止まったイーノスは、すぐに倒れたオスカに駆け寄って、オスカの首筋に指を当てた。少し焦ったような表情のイーノスに、スピカの中の不安が大きくなっていく。けれどそれはどこかぼんやりとしていて遠くの出来事のようにも感じた。スピカはオスカの服をぎゅっと握り締めた。
イーノスは、涙で頬を濡らし呆然とした顔をするスピカを安心させるように何度か頭を撫でると、遅れて入ってきたイシュを確認してからオスカを抱えて天蓋を出て行った。
天蓋の外で、おじさんの騎士がオスカを抱えたイーノスに駆け寄るのが見えて、すぐに目の前がイシュの大きな肩に阻まれた。しゃがみ込んだイシュは笑顔を作ってスピカをぎゅっと抱きしめると、小さな子供のようにスピカをそのまま軽々と抱き上げた。スピカも摑まるようにぎゅっとイシュに抱きついた。何かに摑まっていないと、色んなものに潰されそうで恐かった。
「大丈夫。大丈夫だよ、スピカ。オスカはなんともない。ただあんまり眠れてなかったから、眠ってしまっただけだよ」
そんな訳ないことはイシュも解っていた。スピカだって解っている筈だった。けれど安心させる為に何度も大丈夫だよ、と呪文のように呟きながらスピカの頭を撫でる。イシュの肩に押し付けるように伏せられた小さな頭は、泣いている為か微かに震えていた。
オスカにスペルカ様と会うように促したのはイシュだ。どうしてそんなことをしてしまったのかと彼はスピカをあやしながら後悔していた。小さな世界が壊れることを望んではいたけれど、オスカもスピカもこんな目にあう必要はなかった。
イシュは立ったままでじっと動くことをしない『かみさま』を見ると、それはただの子供のように見えて微かに顔を歪めた。村で会った時よりは大人に近づいているが、成長が遅いのか、聞いていた歳の割にはまだ成長期の少年のようだ。けれどその顔にはあるべきはずの表情が全くなかった。まるで本物の人間の様に精巧に作られた人形か何かの様だ。
イシュが勝手に入ってきてスピカを抱きかかえても、トトは何も言わずに立ったままそれを眺めていた。
泣いていたはずのスピカがぴくりと動いて、顔を少しだけ上げた。涙で濡れた目で、イシュの肩越しにじっとトトを見る。
「……どうして……」
その言葉の先は続かなかった。
スピカも、オスカも、トトは望んでそうしたの。
そんなはずはない。トトの悲痛な声をスピカは知っている。トトが望んだから、二人目の『スピカ』が此処にいる。
けれどスピカは訊かずにはいれなかった。
『おもいだされてはいけない』
たくさんのいけないこと。スピカはトトをスペルカ様として接してはいけない。スピカは昔のままで、『トト』の記憶と違ってはいけない。だから髪を伸ばしても駄目だし、いつも青かそれに近い、スピカが着たことのある色の服を着る。スピカがスピカではないことを知られてはいけない。
トトにそのことを思い出させてはいけない。
丘の上にある『あの子』の墓のことを知られてはいけない。
可哀想なスピカは、トトに忘れ去られて今もあの丘の土の中にいる。オスカが言う通りなら、それをトトが知らないはずがないのだ。
「トト、オスカを助けて……おねがい」
イシュの服を握り締めて呻くように言うと、トトは顔を歪めた。
「トト?」
「……スピカ、行こう」
「や」
「……」
首を振るスピカを無視してイシュはトトの横を通り過ぎようとした。
スピカが殆ど無意識に伸ばした指先が、微かにトトの髪に触れて乱す。
ふと顔を上げたトトと目が合って、スピカは茫然とそれを眺めながら、イシュに抱きかかえられて天蓋をあとにした。ぼんやりと暖かい天蓋の内の空気から一変、体を刺す外気の冷たさに触れるとぞっとしてまたイシュの肩にしがみ付く。
オスカはどうなったのだろう。きっと最悪のことにはならない。なってはいけない。
それはスピカの時も、村人みんなが望んだことだった。それでもスピカは助からなかった。『かみさま』の力で簡単に命を奪えて、怪我や病気を治せるのなら、どうして一度はなくなった命を元には戻せないのだろう。
あたたかい体から急激に体温が失われていくのを感じた。わからない。受け入れられない。オスカは助かるはず。そう信じるしかない。
天蓋での騒ぎに気付いたのか、楽しげな音楽も笑い声も止んで、辺りは儀式の最中のように静まりかえっていたけれど、通りや他の広場の方からはまだ音楽や声で遠く騒がしかった。涙で頬を濡らせてぼんやりと焦点の合わない小さな少女が、大きな男に抱きかかえられてスペルカ様の天蓋から出てくる様を広場中が訝しげに眺めた。オスカは先にどこかへ運ばれたのか、姿が見えなかった。
人ごみの中、イシュが通る道は自然と開いた。イシュはその真ん中をためらいなく進んでいく。
ぼんやりした視界の端に薄暗闇の中で光るものがあって、スピカは自然とそれに目を惹かれた。セスティリアスだ。セスティリアスはなんの表情を浮かべることもなく、じっと真摯な目で、何かを見定めるようにスピカを見つめてた。頭の中がぐちゃぐちゃで混乱しているスピカはぼんやりと見つめ返す。
遠ざかっていくセスティリアスを眺めていると、また甘い香りがした。
あのひどく甘いにおい。小さくてきいろい花。あの名前は一度しか聞いたことがなかったけれど、ずっと覚えていた筈だ。けれどどうして今まで忘れていたのだろう。
「キンモクセイ……?」
スピカが小さな声で呟くと、それに応えるようにふわりと風が吹いた。