04
トトが『かみさま』になったのは、八年前の凍てつくような冬の日だった。
二日間の高熱で寝込んだトトの弱い体は、もう持たないだろうと医者に告げられた。
狭い村の人々はみんな揃ってトトを心配したが、いつかこうなるだろうということも予想はしていた。産まれた時から体が弱かったトトは、それまで生き延びれたこと事態が奇跡だったのだから。
トトが熱に魘されている間、トトの両親とスピカとオスカと医者は、ずっとトトの傍にいた。トトが、このまま永遠の眠りに着くことのありませんように、とみんなで願いながら。
結局、医者の予想に反してトトが目覚めたのは、三日三晩熱に魘されたあとの朝のことだった。
三日三晩続いたトトの看病で疲れていたのに、みんな目覚めたトトの様子が今までと全く違うことに気付いた。感じたことのないような威圧感と、自分の内に生まれてくる畏怖の念、それからそれ以上に、溢れる懐かしいようなどうしようもなく愛しいような感覚。
誰も、声が出せなかった。一瞬、その場にいた皆、喜ぶことも忘れて、見慣れた筈のトトの姿に魅入った。
いち早く自体に気付いた両親が取った行動は早かった。まずは村の司祭たちを呼び、トトの様子を見てもらった。すると司祭は、その場のみんながもしかして、と思いつつけして口には出来なかった言葉を、トトの姿を目に入れるなりあっさりと口から零した。
スペルカさま、と。
狭い村にその噂はあっという間に流れ、それから暫くして誰もトトの名前を呼ばなくなった。
古く信仰深い村の誰も、トトをトトと思えなくなってしまったのだ。
トトへの親愛の情や、トトの両親が持つ愛しい子への愛情も、その不思議な感情の前ではどうしようもなく薄らいでしまう。トトの両親はその事実に哀しみ、一度は『かみさま』になったトトを寺院に託そうとしたが、結局トト自身の意思でトトは家に居ることになった。
スピカや、オスカと離れてしまうことがトトにとってはどうしようもなく辛いことだったのだ。
あれから八年、今トトの傍にいるのは、スピカだけになってしまった。
スピカだけで、いい。
それは、もしかしたらトトが望んだ結果かもしれなかった。
*
スピカは今日も、心の中でおばあちゃんにごめんなさい、と謝りながら家を抜け出した。
夜中に家を出てかみさまの幕屋へ向かうことをオスカにだけには打ち明けると、オスカは怒ったが、スピカが何を言ってもこの月祭りの間は絶対に夜中抜け出してトトに会いに行くと気付いたのか、それなら付いていく、と言ってくれた。スピカはいらないよと言いかけたが、昨日トトにも怒られて反省したばかりだ。もしかしたらスピカは危機感というものが薄いのかもしれない、と今更ながらにスピカは思う。この平和な村で、守られてのんびりと暮らしていたからだろうか。おばあちゃんも、トトも、オスカも、スピカを心配してくれている。そう思うとスピカは自分の行動が益々後ろめたいもののように感じた。
「月祭りの日じゃないと、駄目なのか?」
オスカは、スピカの家から村の中心へと続く小道を、スピカの隣でゆっくりと歩きながら尋ねた。
スピカは手に持った角灯の灯りで照らされた暗い道を、転ばないように気をつけながら答える。でこぼこした木の根っこが時々地面の上に出ぱっているから、用心しないといけない。
「うん。月祭りの日なら『かみさま』に会える気がするんだ」
「そうか」
付き合うと自分で決めた以上は一切文句を吐かない良いやつだと、スピカは心の中でオスカに感謝しながら歩き続ける。
暫くすると、家からは聞こえなかった喧騒が少しずつだが聞こえてきた。
「聞きたいことが、いっぱいあるの」
「……俺もだ」
「……オスカも、テントの中に入る?」
答えは判っていたけれど、オスカの言葉になんとなく尋ねてみた。
見上げたオスカの顔は無表情で、近づいてきた明かりの方をただじっと眺めている。
「入らねえよ」
オスカはスピカの視線に気付いたのか、黙ってぽんぽんっとスピカの頭を叩いた。
村の広場に着くと、オスカは早速赤ら顔の村人達に捕まった。
余りにも凄い勢いだったので、スピカはぽかんとその様子を眺めていた。
おまえっこんな夜中に二人っきりで何するつもりだったんだぁ! とか、俺の酒が飲めねぇのかぁ! とか酔っ払いの声が聞こえてくる。みんな二日目で流石に少し疲れているのか、完全に悪酔いしている。昨日はもう少し落ち着いていた筈だ。
スピカはようやく、ちらほらと屍のように横たわる人たちに気づいた。その中には、見知った村人のおじさんや、異国風の綺麗な衣装を纏った人もいて、それぞれ家の壁に凭れたりしていたが、みんな同じく青白い顔をしていた。
唖然としたままその様子を眺めていたスピカだったが、早く行け、と言うようなオスカの視線に我に返り、トトの居る幕屋の方へと走る。
今日は幕屋の前には一人の青年しか立っていなかった。昨日、スピカを家まで送り届けてくれた人とは違う、もう片割れの方だ。
その青年はスピカの顔を見ると「またか」とでもいう風にため息をついた。
暗いからはっきりとは判らないが、大きなクマがある気がしてスピカは苦笑いをした。
スピカがどうして今日は一人なの? と尋ねると、青年は忌々しげにオスカのいる群れの方を顎で指した。
振り返ってなるほど、とスピカは苦笑する。
みんな赤ら顔でいつもと様子が違うから、先程は気づかなかったが、昨日送ってくれた青年は、酒瓶を持ちながらオスカに絡んでいる。
「俺、ちょっと様子を見てきてもいいかな? このままあいつ放っといたら、団長に怒られる」
「うん。そもそも見張りは必要なの?」
「……大丈夫だとは思うんだけどなぁ。俺が生まれる何十年も前から、この村では事件らしい事件は起こってないっていうし。けど一応、な」
都や他の村から来た人が聞いたらなんと呑気なんだ、と驚くことだろう。
村で事件と言えば、たまに起こる喧嘩くらいだ。ちなみに一番新しい事件は、ひとりの村娘を巡っての青年ふたりの喧嘩だったが、次の日にはふたりともすっかり仲直りしていた。
スピカが頷くと青年は一言ありがとう、と言って酔っ払いの群れの方へと走って行った。
今日はテントの中はまだ明るい。トトもまだ起きているらしい。
「トト、入るよ?」
スピカは一言ことわってから、ずっしりと重い布を押し上げた。
覗いたテントの中で、トトはスピカに背を向けてじっと佇んでいた。
「どうしたの? ト」
トト、と言いかけて振り向いた目と合い、スピカは思わず口を噤んだ。
底知れない、深い湖のような青い瞳が角灯の灯りを受けてゆらりと光る。
スピカはその視線から目を外せないまま、呟いた。
「かみさま……?」
「やあ、スピカ」
そう言う、優しい声は確かにトトのものだった。
けれど、少し愉快そうに笑う顔を、スピカは知らない。
「……やめて。トトの真似、しないで」
スピカはやっとそう言うと、トトの顔を睨んだ。
トトは一瞬少し驚いたような顔をすると、またあの好奇心の混ざった冷たい目でスピカをまじまじと見つめた。
「スピカは、可笑しなことを言う。どこからどう見ても僕はトトだろう?」
スピカは必死で首を振った後、いつの間にか目の前に来ていた少年を見上げた。
「……かみさまなの?」
「だから、トトだって」
そう言うと、自称トトは困ったように肩を竦めた。
スピカが、おばあちゃんに昔聞いたかみさま、『スペルカ』のお話し。
この村のかみさまである『スペルカ』は、好奇心旺盛で、時たま人の姿に変わったり、乗り移ったりして、人々の生活の中に紛れ込んでしまうという。
そしておばあちゃんのお話しの通りに、トトは幼い頃にその好奇心旺盛なかみさまをその身に宿してしまったのだ。
もっとも、そのかみさまの好奇心がなければトトは多分今、スピカの目の前にはいないだろう。
けれど、その代わりにスピカは色んなものを失ってしまった。
トトの知らないところで。
目の前で、トトがスピカの瞳を覗き込んでくる。
トトの青い瞳には角灯の中に灯る、橙の灯りがゆらゆらと揺らめいていた。その瞳には好奇心が溢れている。
スピカは、昔から一度も、トトのことを『かみさま』と呼んだことはない。村人達は、スピカがトトをそう呼ぶことを禁止していたから。スピカだけは、絶対にそう呼んでは駄目なのだ。
トトは愉快そうに微笑んだまま、スピカの目の前で口を開いた。
『ととがのぞむかぎり、すぺるかはなにもできない』
その言葉はスピカの耳にではなく、頭の中にはっきりと響いた。
スピカは驚いてトトの顔を見る。
「……どういうこと?」
「お前が自分の心を殺して、望んでも、トトが望む限りはお前はトトの傍にいなければならない」
今度は、トトとはまるで違う喋り方で、その少年は言った。
「スピカは、別に心をころしてなんかないよ」
スピカがそう呟くと少年は可笑しそうな、馬鹿にしたような目で、スピカを見た。
「殺してなければ、お前はトトの近くにはいれない」
スピカは目を見開いて、少し俯いた。
手が震えそうになるのを必死で抑える。掌に食い込んだ爪が痛む。
「……かみさまに、聞きたいことがあるの」
「『かみさま』がどう答えても、お前は答えを得られない」
そう言うと急に興味が失せたように、少年はスピカに背を向けた。
スピカはそうじゃないのに、何故かトトに突き放されたような気持ちになって気が付けばテントを飛び出していた。
「スピカ! どうした!?」
広場まで駆けてきたスピカの様子に気付いて、オスカは慌ててスピカの腕を掴んで引き止めた。
両肩を捕まれて顔を覗き込まれると、ようやくスピカは驚いた様に顔を上げる。
「あれに、何かされたのか?」
オスカはそう言うと、ちらりとトトのテントの方へ目を向けた。
スピカは、そんなオスカの必死な様子に可笑しくなって、微笑んだ。
トトが、何かする訳ないのに。
トトは今まで、スピカに酷いことをしたり、言ったことはない。たったひとつのことを除いては。
「……なにが可笑しいんだよ」
微笑んだままのスピカを見て、オスカは少しむっとしたようにスピカの頭を小突いた。
微笑んだ、と言っても、それは情けない笑みだ。泣きそうにも見える。
「……帰ろうか」
オスカはそう言うと、スピカの手をぎゅっと握って歩きだした。
酔っ払い達は、オスカの険しい顔に気付いてか、誰も抜け出したオスカに声を掛けてこない。
スピカは、酔っ払いの群れの中にいつの間にかあの、片割れを呼び戻しに行った筈の青年が混じっていることに気付いて苦笑した。
スピカの歩調に合わせてゆっくりと前を歩くオスカに手を引かれながら、幕屋の方に目をやる。
なんだか、嫌な予感がする。
けれどそれが、何に対してなのかスピカは自分でもわからない。
もしかしたら、『かみさま』がスピカの予想外に、意地悪な性格だったからかもしれない。
スピカは先ほどの『かみさま』の様子を思い出して嫌な気持ちになると、テントから目を離して前を向いた。
三日目の祭りの日の朝、オスカではなく意外な人物がスピカの家に来たので、スピカは目を丸くした。
「ココセさん?」
今は祭壇の脇に立っている筈の、尼僧のココセさんだ。
ココセさんが、スピカの家に来たのは始めてのことだった。何故か少し慌てた様子で、よく見ると額に汗が伝っている。
おばあちゃんはココセさんが来たことに別に驚いた様子もなく、いつも通りにココセさんに挨拶をすると、二人の脇を通り抜けて畑仕事をする為に家を出て行った。
「どうしたの? ココセさん?」
「――スペルカ様が、」
「え?」
「スペルカ様が、いなくなったの!」
ココセさんはそう言うと、強い力でスピカの両腕を掴んだ。
スピカは痛みに一瞬顔を顰めた後、意外に冷静な頭でココセさんが言った言葉を反芻した。
すぺるかさまが、いなくなったの。
「……いつからいないの?」
「わからない。さっき広場に行ってみると、見張りを頼まれていた自警団の団員の子達は酔いつぶれてて、テントの中には誰もいなかったのよ。団員の子達に話しを聞いたら、昨日、あなたが夜中にテントにやって来たっていうから、何か知ってるかと思って……」
ココセさんは一気にそう言うと、困った様に俯いてしまった。
ココセさんの言う「見張り」は、トトを守る為ではなく、捕まえておく為のもののような言い方だ。
スピカは一瞬飛んだ思考を元に戻すと、ココセさんの顔を覗き込んで言う。
「村の人たちは?」
「まだ、このことを知らないわ。司祭様と、他の尼僧たちと、自警団の人たちだけで今探してる」
「だったら、スピカも一緒に探す。ココセさんは、ここにいて。オスカが来るし……もしかしたら、トトも来るかもしれないから」
スピカはそう言って混乱したままのココセさんを椅子に座らせると、家を飛び出した。