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きみのこえ  作者: はんどろん
08.本当の本当
39/63

39.

 冬のはじまり。自然に囲まれた小さな村と御山の間にある小川の上で、橋に腰掛けたスピカとオスカは上流から流れてくる色とりどりの木の実を眺めていた。きいろ、あか、むらさき、みどり。様々な色になるそれらは、熟れると半透明になり、太陽の光を透かす。味はすっぱくて食べられたものではなかったが、スピカのおばあちゃんはそれを好んで食べていた。水底の方では、ぎんいろの魚が時折きらりと光っている。

 息を大きく吸い込むと、土の上で腐った葉の良いにおいがした。それらはそのうち土に還り、また新しい木々を作り出すとスピカは両親から聞いていた。村の方からはゆらゆらと白い煙が所々から立ち上っていた。もうそろそろ夕飯で、子供は帰る時間だ。

 帰らなくちゃ。そうだ、帰らなくちゃ。

 スピカはなぜか強くそう思った。陽はまだその姿を隠していない。いつもならもっと遊びたいと思う時間帯だ。けれど今日は遊びを続けるよりも家に帰りたいと思った。トト、元気がなかったせいかもしれない。今日のトトは息をするのも辛そうに、綺麗な顔を歪めていた。

 かみさまは不公平だ、とスピカは思った。スピカやオスカには元気な体を授けたのに、どうしておんなじ風に生まれたトトは満足に外に出ることもできないのか。

「トト、いつか元気になるかな」

 スピカの質問にオスカは答えなかった。じっと、睨むように川面を眺めている。何か憎いものでも見る様なまなざしだ。

「スペルカさまにお願いしたら、トトを治してくれるだろ」

 オスカはどこか平坦な声で言う。

 スピカはふてくされたように眉を顰めると、口を尖らせた。そういうしぐさをする時のスピカはますます幼い。オスカはよくスピカのことを赤ちゃんだ、とからかっていた。

「だったら、どうしてトトを元気な体で産んでくれなかったの?」

「……俺たちを産んだのは母さんで、自然だ。自然はスペルカさまそのものだけど、だけど普段は意志を持たない」

 おそらくそれは父親から聞いた言葉だったのだろう。オスカはどこか大人びた表情で、心底つまらなさそうに言った。

「えー? だったらどうして、スペルカさまはお祭りにやってくるの?」

 オスカは顔を顰めると、大げさに首を傾げた。

 村の大人たちは優しい口調で、いつもスピカたち子供にスペルカさまの御伽噺を聞かせた。それを子供たちは簡単に信じ込んだ。月祭りの日に、スペルカ様が人間のふりをしてやってきて楽しむのだ。それはもしかしたらいつも隣にいる友達だったり、お母さんやお父さんだったりするかもしれない。だから、月祭りの日はみんなふざけ合いながらも、たとえ普段は嫌いあっていてもそれぞれを尊重し合い決して喧嘩もせずに仲良く過ごす。

「スピカ、スペルカさまにお祈りするよ」

 スピカはそう言うと小さな手を胸の前で組み合わせると、目を閉じた。オスカもその隣で、黙って目を閉じる。

 トトの体が良くなって、いつかさんにんで海を見れますように。

 見たこともないかみさまに祈る。

 その約束はつい先日したものだった。トトの読んでいた本の中に、真っ青な海の絵があったのだ。海はどうしてだかずっと、ざあざあと波打っているらしい。それにしょっぱいとも聞いた。

 世界にはまだまだスピカたちの知らないものがたくさんある。見たこともないもの、見たことのない景色、会ったことのない人たち。色んなものを見て、色んな人たちに会いたいと思った。それはトトと一緒に。オスカも連れて行ってあげてもいいかもしれない。さんにんで一緒に、色んなことを知りにいつか色んなところへ行けたらいい。

 けれど、スピカもオスカも幼いながらに村の人たちの空気をよく知っていた。トトは最近とてもよくない状態らしい。そんなことは今までに何度もあったけれど、今回は特に。死んでしまうのかもしれない。そんなことはけして誰も口にはしなかったが誰もが感じていたことだった。死というものがまだスピカにはよく分からなかったが、前に森の中で小さな鳥が木の根元で動かなくなっているのを見たことがある。そっと触れてみると、温かいはずのその体は冷たかった。それから何日も経ってスピカがそこを通りかかると、それは地面に吸い込まれたようにべっとりと腐り果てた肉が地面と混ざり合い、薄汚れた羽と、小さなつるりとした白い骨がぽつんとあった。

 そして、いつかなくなってしまうのだ。

 それがスピカには不思議でならないけれど、トトと会えなくなってしまうのは絶対に嫌だった。

 トトがあの鳥のようになることも想像できなかったけれど、胸の奥がぞわぞわして不安になるような危機感はあった。だが、それと同時に大丈夫、と思う気持ちもある。トトは今までだって、がんばってきた。がんばっているトトをスペルカさまが見捨てるはずがない。

 けれど、その冬のことだった。スピカに、トトとのお別れの時がやってきたのは。

 小さな村にある、トトの家の中。最後に見たのはきんいろと、驚きに見開かれた目から覗く、森の中の小さな湖のような鮮やかなあおいろ。きれいだな、とスピカは思った。そんな綺麗なものをずっと見ていたいと思っていた。優しい笑顔と、穏やかな声もいつだって欲しかった。欲しい分だけ、トトはくれた。

 それでも、まだまだ足りない。スピカは、もっとトトと色んなものを一緒に見たいし、一緒にいたい。

広い世界の中で、その欲求は果てがない。だから、いつまでも。

 凍えるような冬の日、『かみさま』がうまれてトトとスピカがいなくなった日。その時の記憶は、それ以前の三人で過ごした楽しかった日々をべっとりと嫌な色に塗り変える程だった。だからけしてオスカは忘れることはなかったけれど、楽しかった日々が完全に消え失せてしまう訳でもなかった。

 オスカは他の村人たちと同じにトトの名前を呼ばなくなった。あの穏やかな日々に呼んだ名前を口にするのが、どうしてだか嫌になった。

 あの日、森で二人目のスピカを見つけた日。猟へ行くことを了承したのは村のはずれに住むピノばあだった。スピカがいなくなって以来、親子ふたりは猟へ出なかったがそろそろ必要になってきたから、生き物を狩るため森へ出る承諾をピノばあに求めた。猟へ行くのには、魔女と呼ばれるピノばあに了承を得てから行くことが決まっていたのだ。いつもは頷くか首を振るかで返事をするピノばあは、その日だけは道順までもをオスカの父に指示した。

 森の奥深く、水底の結晶の色が溶けて染まった青く美しい湖の近く。白い幹の木が立ち並ぶ森の中、場違いなほどの色合いがあった。真っ赤な服に、真っ黒な長い髪。どこか虚ろな大きな目は茶色だった。

 小さな女の子。それをオスカは知っていた。スピカはそんなに長い髪ではなかった。青色が好きで、赤い服も着なかった。けれど、そこにいたのはスピカそのものだった。大きな目も、小さな鼻も、ぽてっとした唇も、柔らかそうな小さな手も。けれど口から漏れ出した言葉は、オスカが聞いたこともないような、短くて、おかしな発音だった。スピカと同じ声もその言葉によって全く違うものに聞えた。だからか、その途端にオスカは理解した。スピカじゃない。スピカと同じ外見をしていても、一緒に育ってきたスピカじゃなくて、他の場所で生きてきた別の子供。スピカがいた村の森に現れたのは全くの偶然。オスカの父もそう思ったのか、少し迷った。その時の村の状態を思い出して、スピカとそっくりなその子を連れ帰るのを躊躇したのだ。けれど小さなその子供は一晩雨に打たれたのか、震えて青白い顔をしていた。一刻も早く温かな場所で休ませた方がいいと判断したのだろう。オスカの父親は自分の着ていた大きな外套をその子に巻きつけて抱き上げると、村の方向へ歩き出した。

 その少女からは嗅いだことのないような甘くて不思議なにおいがした。父を追って小走りで行くと、前から小さな黄色いものが舞って、湿った地面の上に小さな道筋を作っていた。しゃがみ込んで拾って見ると、それは小さな花だった。どうやら甘い香りはその花のものだったようだ。オスカは微かに首を傾げた。見たこともない花だった。森でも山でも、都でも見たことがない。冬の手前の、色づいた葉のような色合いに濃く甘い香り。ふと顔を上げると、ぼんやりとした顔の少女が手を力なく開けていて、手のひらにのった黄色いかたまりがぽろぽろと零れ出していた。

 どこでそれをとったのだろうか。スピカにそっくりなこの小さな女の子は、どこからやってきたのだろう。

 もういないはずのスピカとそっくりな姿は、オスカに奇妙な感覚を抱かせた。




 都での月祭りは、村と同じ風に三日三晩行われた。一日目はまだみんな元気だったが、二日目でおかしな程気分が高まり、三日目では完全な寝不足でぐったりとしている人が多い。そうならない為にも昼の間に眠る人も多く、月祭りの間に限っては昼間の方が街の中は閑散としていた。

 二日目にトトの天蓋から出られなくなったスピカは、ぼんやりと白い天幕を眺めながら外の音に耳を傾けた。頭の中はやけにはっきりしているにも関わらず、真っ白になってしまったように何も考えられなかった。

 視線をふと横にずらすと、寝台に背を預けて座り込んでいるトトの後ろ姿がすぐ傍に見えた。ぴくりとも動かないから、眠っているのかもしれない。伸びた襟足が上着の襟に当たって少し跳ねている。

 癖のように無意識に呼びかけそうになって、スピカはぐっと口に押し込んだ。その気配に気付いたかのように、トトが代わりに振り返ってスピカの顔を覗きこんだ。スピカは顔を背ける為に頭の位置をずらす。トトはどこか嘘くさい優しい笑い顔で、酷く暗い目をしている。その暗い目を見るのが恐かった。引き摺りこまれそうになる。そんな目にしたのはスピカかもしれないから、少しの罪悪感もあった。それと同時に、反発心と訳のわからない焦燥感も。

「スピカ」

 どこか夢見心地のような、あまやかな、やけに耳に馴染む優しい声。スピカが返事はせずに瞬きをすると、トトはふっと吐息のような笑いを漏らした。

 それと同時に、一瞬甘い香りがしたような気がして目を見開く。けれどそれは漂った時と同じ風にふと消えた。きっと、気のせいだ。

「……つまんないよ」

 スピカは殆ど無意識にそう呟いていた。トトの目元がそれに反応するように微かに動いた。

 スピカの心の中は乾いてしまったようにからからだ。

「こんな狭いところで、ずっといたくない」

「月祭りの間だけだよ」

「そのあとは、また寺院に行くの?」

 訊くと、トトはどこか暗い微笑を浮かべて「うん」と言った。

 狭い、狭い世界だ。スピカはトトと離れている間に色んなところへ行って、色んな人たちと会った。あの自然に閉ざされた信仰深い小さな村は、スピカに目隠しをしていたことが分かった。きっと、トトにも。優しくて穏やかで、淀んだあの村の中でトトとスピカの小さな世界が作られた。

 外の世界からやってきたイシュにスピカは連れ出されたけれど、トトはまだ置いてけぼりのままだ。でも、スピカも本当はあの泥濘から抜け出せていない。

 外から弦楽器の楽しげな音色が幕を通って微かに聞えてきた。

「トトも、どこにだって行けるんだよ?」

 スピカが外の気配に意識をやって言うと、トトは視線を天蓋の白い幕にやって何か眩しいものを見るかのように微かに目を細めた。白い色に溶けてしまいそうな輪郭に、スピカはひやっと体温が下がる気がした。

「……どこへ行ったって同じだよ。スピカがいないのなら」

 平坦な声にスピカは途方もない寂しさを感じた。だったら一緒に行こうよ、とは言えなかった。村にいた時だったら言えたかもしれない。

 どこへも、行こうとしなかった癖に。村から出ても今も村の近くにいる。トトがかみさまになってから淀んだあの村に、あの子がいる村に、トトは本当はいたかったのではないだろうか。村を出てからも、昔のはなしをするといつだって懐かしそうに目を細めていた。初めて会ったころ、家に行くとたまにふと窓の外を悲しげな顔で眺めていることがあった。

 感情の見えない視線が痛くて、スピカは顔を逸らした。トトといると、時々恐怖が体を満たしそうになる。小さな頃のように全てを人のせいにして、罪の意識もなくさらりと嘘をつき続けることも難しくなった。それはきっと、トトが変わってしまったせいだけじゃない。スピカも変わった。時間を留めることは難しい。本当はできないことだ。トトが望むからみんなスピカやトトの時間を止めようとした。刻々と近づく限界を感じながらも。

「……ばかみたい」

 スピカが力ない声でそう言うと、トトは苦笑した。その表情がやけに哀しく見えて、スピカは泣きそうに顔を歪めた。

 だれか、トトを助けて。にせもののスピカじゃきっとだめなんだ、と強く思った。本物のスピカなら、トトから逃げ出そうともせず、きっと真っ直ぐに向き合えていたはず。

 暫く二人ともなにも喋らずにじっと黙っていた。そうすると外の音楽やふざけあう声がやけに大きく聞えた。

 ふいに摑まれた肩が鈍く痛んだ。トトが天蓋にいない間に服の中をそっと覗いてみたら、青紫の痣ができていたのだ。

 スピカが無意識に肩に手をやると、トトはすっと笑いをひっこめてあの暗い目で彼女をじっと見つめたあと、立ち上がると何も言わずに天蓋を出て行った。それと同時に周囲の音も時が止まってしまったのかと錯覚するほどぴたりと止んだ。スピカが目をまるくして垂れ布を見つめていると、幕が上がった。中に入ってきたのはトトではなくて、イーノスと若い、まだ幼い少女の尼僧だった。

 スピカがだるい体に力を込め、肩の痛みに顔を顰めながら起き上がると、イーノスが不機嫌そうに目を細めた状態で肩眉をぴくりと動かした。その表情に懐かしさを感じたスピカが微笑むと、彼は瞬きをしたあと、促すように連れ添っていた尼僧を一瞥した。少女は会釈すると、お辞儀をするような俯き加減で寝台の傍らまでやってきて、手に持っていた器と黒い液体の入った小さな硝子瓶と布が乗った盆を、傍らの小卓の上に置いた。

 問うようにスピカは小さく首を傾げて、後ろに立つイーノスを見た。外はまだしんっと静まり返っていて声を出すのが躊躇われた。

「肩が痛むんだろう? 薬だ」

 わざと抑えたような低い声でイーノスは言った。

 若い尼僧が音もなくスピカの服をさっと下げたから、ぎょっとしたスピカは尼僧の伏せられた睫毛とイーノスを交互に見た。むき出しになった細い肩に、瓶から取り出したどろりとした黒い液体を塗りつけられて、ひゃっと肩を竦める。冷たいし、鼻の奥がつんっとするような強烈なにおいがする。

「い、痛くない! 痛くないからいいよ!」

 できる限り薬を付けられた肩から顔を遠ざけようと、首を伸ばしながらスピカが叫ぶように言うと、先程まで表情のなかった尼僧の顔に笑みが浮かんだ。イーノスはそのにおいに対してなのか、スピカの様子に対してなのか不快そうに眉を顰めた。しんと静かだったことも忘れて「くさい!」と叫ぶと、尼僧もとうとうくすくすと笑いを漏らした。

「子供は、薬を嫌う」

 馬鹿にしたような笑みを作ったイーノスが、おかしそうに言うと、スピカはぐっと下唇を噛んだ。涙目になったスピカの頭を薬を塗り終えた尼僧が優しく撫でる。顔を顰めたまま肩を見ると、べっとりと付けられた黒い薬が灯りを受けててらてらと光っていた。

「……え、このまま?」

 尼僧が頷いて、スピカは鼻を摘むと嫌そうな顔をした。信じられない、という風にイーノスを見るとイーノスは目を伏せてだるそうに肩を竦めた。天蓋の中は温かいけれど、肩を出しているとさすがに少し寒い。

 尼僧が立ち上がって、イーノスもさっとスピカの方に背を向けた。

「もう行っちゃうの……?」

 心細そうな、甘えたような声で言うと、イーノスは肩越しに振り返って片眉を顰めた。

 またトトとふたりになると、テントの中に淀んだ空気が充満するような気がした。どろりとして息苦しくなる。どこか寂しくてあれだけ会いたいと思っていたけれど、実際に会うと今度は苦しくなった。

 トトを助けて。そして自分も、抜け出したと思って全然抜け出せていなかったあの泥濘から抜け出したい。トトと一緒に。トトと一緒じゃないときっと完璧には抜け出せない。

 イーノスは暫くじっと、見定めるようにスピカを眺めたあとに、くしゃっと前髪を掴んで小さくため息をついた。

「儀式の時まで、待て」

「ぎしき……?」

「ああ。夜の儀式だ」

「その時に、何があるの?」

「さあ? それは俺も知らない」

 イーノスは少し苦い顔でそう言うと、さっと天蓋を出て行った。



 太陽が沈み、大きくて薄っすら黄色い月が目立ち始めた頃、オスカはまた円形広場へ出向いた。ふらりとどこかへ行ってしまった、一緒に来たはずのイシュに少し腹を立てながらも静かになるのを待つ。セスティリアスとは今日は会っていない。家にいるのかもしれない。

 オスカは深呼吸をするように息をつくと、天蓋をじっと見つめた。

 イシュに、トトと会ってみたらどうだと言われたけれど、そんなつもりはない。あの感情に飲まれてしまうことは目に見えている。必死に打ち消そうとしても、次から次へと湧いてくるその感情は止めどなく、どうしようもないもののように思えた。

 高いベルの音が鳴り始める。その途端に騒がしかった広場はさっと静まりみんなが同じ方向に目をやる。静まり返ったその場所で、ベルの音は鳴り響く。オスカにとっては聞きなれたその音が、今は妙に不穏なもののように思えた。子供や、大人や、老人たちの視線の先には祭壇とあの天蓋がある。みんなスペルカ様が現れるのを今か今かと待ち侘びているのだ。

 オスカはぴたりと動きの止んだ人たちの間を通り抜けて、できるだけ広場の端の方へとよると祭壇の方へと早足で歩き始めた。スピカを連れ出すのなら、トトが祭壇の上に上っている間しかない。

 オスカは自身の中にどんよりと留まる黒い感情に顔を顰めた。これはトトの感情だ。今のトトはスピカに何をするか分からない。最悪の可能性を考えるとおぞましいものが体を駆け巡る。スピカと同じ目に合せる訳にはいかない。どれだけトトの中に寂しい気持ちが溢れようとも、それは自業自得でもあるのだ。

 ことこ は、本当のことを知らないからトトの傍にいることができた。村人たちがスピカの真実を教えなかったから。

「――ちょっと、お兄さん。テントに行くつもり?」

 そう言いながら人ごみの間からさっとオスカの腕を掴んだのは、セスティリアスだった。

 少し驚いたオスカは、その場で足を止めると大きな犬を連れたぎんいろの髪の少女を見下ろした。薄暗いこの場所でも、その目は不気味に光っているような気がした。

「……なんだよ」

 勢いを削がれるような気がして、むっとした声で言うと、セスティリアスはにやりと笑って掴んだ腕を引っ張って歩き出した。

「村とは違って、簡単に天蓋には近づけないよ。来て」

 そう言ったセスティリアスの指先は冷たく、にやりと笑った時に瞳の中に少しの不安もあったのに気付いていたオスカは、不審げにセスティリアスの後頭を眺めた。騎士と隠れてこそこそと何かを話していたことも同時に思い出す。

「知ってると思うけど、あれ、お兄ちゃん」

 そう言ってセスティリアスが指差した方を見ると、銀色の甲冑に身を包んだ騎士が天蓋の中から出てきたところだった。顔も見えなくて、それがセスティリアスと話しをしていた騎士なのかは分からない。

 セスティリアスは、知っていると思うけど、と言ったがもしかしたらオスカが見ていたことに気付いていたのだろうか。そう思うとオスカはばつが悪くなり微かに顔を顰めた。

 騎士は天蓋の前で流れるような動作で跪いて頭を下げた。

 ベルの音が、りんと鳴り響く。

 上がったままの幕の内から出てきたのはトトだ。その姿を見た途端にあの感情に呑まれそうになったオスカは、ぎゅっと顔を歪めた。心の端で、ほんの少しの憎しみも同時によみがえってくるのを感じた。普段はなりを潜めているそれは、あの日の光景と共に浮かんでは時たまオスカの心の内を濁すものだった。

 きんいろの髪が月明かりを受けてきらきらと輝く。ゆっくりと祭壇を上っていくその姿は妙に神々しく、元が普通の少年だったことなんて誰も気付かないだろう。もし知っていたとしても、多分信じられない。それにみんな忘れてしまう。けれど、あれは。

 あれは、かみさまなんかじゃない。

 足を止めたオスカを急かすように、セスティリアスがオスカの腕を引いた。

「きて。早く」

 セスティリアスに連れて来られたのは、あの銀色の甲冑を着けた騎士のいるところだった。よく見ると他の騎士とは少し違う甲冑を着けている。おそらく位が上の方の騎士なのだろうとオスカは思った。

「イーノス」

 オスカが挨拶をする間もなくセスティリアスがそう言うと、イーノスと呼ばれたその騎士はさっと身を翻した。先にあるのは天蓋だ。

「中に入れてくれるよ」

 そう言ってセスティリアスはとんっとオスカの背を押した。振り返ったオスカに向けて笑顔を作る。オスカは頷くと、騎士の後を追った。

 今はトトが祭壇の方にいる為か、天蓋の周囲に騎士や尼僧の姿は少なかったけれど、急にやってきたオスカにそこにいる皆訝しげな視線をよこした。それでもイーノスが連れているのを知って誰も止めようとはしなかった。 イーノスとオスカの背中を見送り、セスティリアスはふと祭壇の上を見上げた。かみさまの後ろ姿が見える。

 きんいろのかみさまに、音が消えたような広場の中で、やけに響くベルの音。

 それをセスティリアスは知っていた。

「……ごめんね」

 セスティリアスはまた天蓋の方向に目をやると、小さな声で呟いた。









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