38.
スペルカがトトに戻ると、その瞳はますます冷たく感情のないものになった。薄く笑いを浮かべてはいるけれど、トトの優しい顔を見知ったスピカにはそれは笑い顔には見えない。また恐怖が湧いてくる。もう優しい声やまなざしは向けられることはないだろうと思っていたけれど、やはりどこかで期待していたのかもしれない。あたたかいものを与えられ続けたせいか、冷たいものを向けられるのは怖い。
こんな風になっても、嫌われるのが恐い。それはもしかしたら村人たちに植えつけられた感情かもしれないけれど、スピカにはそんなことは思いつかなかったし、今更その感情をどうすることもできない。
事実も、感情も、もうどうすることもできないのだ。
「……トト」
小さな掠れた声で呼ぶと、トトはすっと目を細めた。
距離が近い。前までは居心地の良かった近さに、今は居心地の悪さを感じてスピカは微かに体を捩じらせた。けれどやはり、体は起こせない。
「折角気まぐれで逃がしてあげたのに、どうして戻ってきたの?」
トトは薄い笑いを浮かべたまま言った。そこには怒りの感情や蔑みは感じられないけれど、だからと言ってそれは柔らかなものではない。しんっと冷えた水のようだ。
「――っ!」
肩をぐっと摑まれて、スピカは痛みに顔を歪めた。出そうになった声が喉でつっかえる。
トトは構わずに、ぐっと更に力を込める。細い肩に、トトの指が沈んだ。
痛みに細められた目でなんとかその顔を見ると、トトはどこか楽しげだった。スペルカのように楽しげで、だけど冬の空気のように冷たい。
「痛い? スピカ」
そう訊いて小首を傾げたトトは、鼻と鼻がくっつきそうな程にスピカに顔を寄せた。お互いの吐息がかかる。青い瞳には闇がかかっている。
スピカは返事もできずに顔を歪めたまま、その瞳を凝視した。その中に何かスピカの見知ったものを探して。けれど、深く底知れないその瞳はどこまでも冷ややかで、感情の浮かばないものだった。
「可哀想」
そう言ったトトは、言葉とは裏腹ににっこりと微笑んだ。完璧なはずの笑顔を、スピカは信じられない思いで見つめる。
「……スペルカ様」
二人の様子を後ろで立って眺めていたイーノスが、そこでようやく少し咎めるような声色でトトを呼んだ。トトはふっと笑うとスピカの肩から手を離した。
軽快な音楽とたくさんの大きな笑い声が外から聞えてくる。お祭りの日らしく楽しげで明るい声。みんな、スペルカさまが此処にいることを喜んでいる。けれどその奥の心の中のことを知らない。
「今度は逃がしてあげないよ」
「……どうして、スピカなの?」
スピカは呟くように言った。トトが、ここまで『スピカ』に執着する理由が分からない。執着心はスピカにだってある。トトと一緒にいたいと思っていたし、おばあちゃんとの生活がずっと続けばいいとも思った。オスカが他の仲のいい友達と遊んでいるのを見てやきもちをやいたことだってある。けれど、トトのそれはどこか過剰だ。
小さい頃からずっと一緒だった。けれど、それはオスカも同じ。三人はいつも一緒だったと聞いている。スピカは、いなくなった。トトが『かみさま』になってしまった直後に。どうしてかはっきりとした理由は知らないし、皆話したがらなかったが、それは『かみさま』と関係することらしい。
トトはスピカがいなくなってしまったことを知っていたはずだ。そうでないと、あんなに悲痛な声で名前を呼ぶことなんかない。
一度、失ってしまったからだろうか。失くしてしまったからこそ執着する。喪失の痛みを知ってしまったから。
「ずっと一緒にいるって、約束しただろう?」
トトは優しくそう言った。それはいつの話だろうか。トトがかみさまになる前か、かみさまになってしまってからか。それはどちらにしろ『スピカ』と交わされた約束だ。
トトから離れたあとでもスピカと名乗っていたのに、そんな言葉で胸が苦しくなる。息ができない気がしてスピカはまた泣きそうに顔を歪めた。
布一枚隔てた外の、楽しげな唄声や笑い声を遠い世界のもののように感じる。
急に、おかしな理不尽さをスピカは感じた。
どうして。どうして、トトはスピカじゃないと駄目みたいなのに、どうして気付かないんだろう。
「……トトは、本当に戻ってきたって、信じて疑わないんだね」
なにが、と訊く風にトトは小首を傾げた。
「スピカが」
意外にもその言葉はするりとスピカの口から出た。もうずっと、けして言えなかったこと。言ってはいけなかった真実に近いこと。
頭の中はやけに澄んでいるけれど、どこかにぽつりと淀みがある。透明な水に落ちた色彩のようにそれはゆっくりと広がる。頭の中で何かが警告音を鳴らしている。一瞬頭の中でおばあちゃんの姿が浮かんだけれど、それがどうしてかということも考える暇もなくスピカは目の前にいるトトに集中していた。
「……おかしなこと言うんだね。君はここにいるだろう? スピカ」
「疑ったこと、ないの? 目の前にいるのは本当の」
「――スペルカ様」
スピカの言葉を遮るようにしてイーノスが言った。トトは一拍置いたあと、振り返る。スピカもイーノスの方を見ていた。イーノスは目配せするようにスピカを一瞥すると、トトへと視線を戻した。
言ってはいけない、ということだろうか。スピカはほっと息を吐いた。あと少しで、急に湧き上がった訳の判らない衝動に任せて言うところだった。止めてくれたイーノスに心の中でお礼を言う。
「なに?」
「……もう真夜中です」
「うん?」
トトはどこかおかしそうに笑いを含んだ声で相槌を打った。
「子供は寝る時間です」
その言葉にスピカはきょとんとしてイーノスを見上げた。イーノスは生真面目な顔をして立っている。スピカの位置からトトの表情は見えないけれど、トトも一瞬動かなくなった。トトはもう十七歳を超えているから成人の儀を済ましているはずだ。それとも、かみさまだから成人していないのか、どのくらい歳が離れているのかは知らないけれどイーノスから見ればトトも十分子供の範疇なのかもしれない。そうだ。子供なのだ。かみさまと言っても、元は普通の少年だった。
それともイーノスはスピカのことを指して言っているのだろうか。
だがスピカも寝るどころじゃない状況だ。場違いなイーノスの言葉で少し力が抜けたけれど。
「確かにそうだね」
ふと笑って、トトが柔らかい口調で言った。
そういえばセスティリアスはどうしているのだろうと、スピカは今更ながらに気になってきて天蓋の布を見つめた。トトがこの天蓋の中から出てきて、耳元で囁かれた途端に頭の中がぐらぐらとしてしまいそのあとのことははっきりと覚えてはいない。外はもう暗い。多分意識を失ってしまっていたのだろう。
天蓋の周囲で小さな気球の灯りが空に舞い上がっていたり、大きな人の影が音楽に合わせて踊っている。先程まで遠い世界のような気がしていたそれらが、また身近なものに戻ってきた。テントを出てしまえばそこはもう外なのだ。スピカはもう一度体に力を入れてみたけれど、結局起き上がれずにトトを見た。
「……トト、体が動かない」
「うん。そうだろうね」
「元に戻して」
「そうしたらまたスピカは勝手にどこかへ行くだろう?」
トトは当然だとでもいう風に言った。先程トトはあの時はスピカを逃がしてあげたと言っていたのに。
「……今度は、トトに何も言わずにどこかへ行ったりしないよ。それにここまでしなくたって」
「ふうん。まあ、いいよ」
そう言うとトトはスピカの眉間を人差し指でつんっとついた。指先は冷たかったのに、触れられたそこは熱を持ちぽかぽかとしてくる。その熱に気をとられている内に、体の自由が戻ってきたことに気付いたスピカは肘をついて恐る恐る体を起こした。途中で先程トトに摑まれた肩が痛み、顔を顰める。鈍くずきずき痛いそこも少し熱を持っているようだ。
「セスは……?」
スピカは訊くと、トトを見たあとでちらりとイーノスの顔を盗み見た。生真面目な表情が一瞬、不機嫌そうな顔になる。
「ああ、あの子か。あの子は知っていたはずだよ」
「え?」
「スピカが僕のところへ戻ってくることを。あの子がここへ連れてきたんだろう?」
「……まさか」
「まあ、あの子がそうしなくてもどの道スピカはここへ戻ってきたけど」
トトが言っていることはなんだかめちゃくちゃだ。スピカをわざと逃がしたと言ったり、どうして戻ってきたの、と言ったり。それなのに、スピカが此処へ戻ってくるのは最初から決まっていたみたいに言う。セスティリアスもばらばらなことを言っていたような気がする。
スピカは寝台の端に腰掛けている格好で、前で跪いているトトを凝視した。
優しく細められているはずの目はどこか冷たく暗い。綺麗な顔立ちも、スピカには以前のように穏やかには感じられない。
「トトも、知っていたの?」
「さあ」
惚けるように言う。
スピカは立ち上がってトトの横を通り過ぎた。毛足の長い毛皮の絨毯が敷いてあって足の裏がふわふわと気持ち良いが、外に出る為に履いていたはずの靴を探す。下を向いてうろうろしていると、トトがいつの間にかベッドの端に腰掛けてじっと様子を眺めてきていて目が合い、思わずぱっと目を逸らした。
「スピカの、靴どこ?」
トトではなく、ずっと立ったまま動かないイーノスに聞いた。
「探してどうするの?」
言ったのはイーノスではなくトトだった。イーノスは先程ぽつりとおかしなことを言ったきりで、口を固く閉ざしている。この場でスピカと会話するつもりはないようだ。
「どうするって、外に出るの」
「出る?」
トトがオウム返しで言うのを無視してスピカは靴を探した。寝台の下に置かれているのを見つけてほっとする。しゃがみ込んで引き摺り出すと、その靴を履いた。青い染料で染められた柔らかい皮のそれは少し獣のにおいがする。
立ち上がって、トトが何かを言い出す前に、早歩きで出口の方へ行った。重たい布を持ち上げようとしたところで、後ろで笑う気配がした。
「出れないよ」
小さな声で言われたその言葉はやけにはっきりとスピカの耳に届いた。それと同時に、その意思もないのに布を上げる為に上げた手も力なく下がってしまう。スピカは目を見開いて振り返った。
薄く、トトは微笑んでいた。
「子供はもう寝る時間だよ。おやすみ、スピカ」
少しの笑いを含んだ声。きんいろの髪が淡く灯された蝋燭の光を反射している。
急激に襲ってきた眠気に、スピカは立っていることもできずにかくんと手をついて座りこむ。何とか目を開けていようと必死になったが、それよりも、思考も眠気に負け始める。今までにこんなことは何度もあった。
けれどそんなことを考える間もなく、スピカはそのまま絨毯の上に倒れ込むようにしてそのまま眠りについた。
出口の前で倒れたまま音もなく眠っているスピカをイーノスがそっと近づき抱き上げた。眠っている為か、服越しでもその体温の高さが分かる。小さな子供のような体温だ。
イーノスはそのままスピカを寝台へと運んだ。こうなってしまうと、トトの意思がない限り起きないだろうが一応ゆっくりとその体を横たえるとそっと毛布を掛けた。長く伸びた真っ黒な髪が、四方に散らばるようにして広がる。艶々と灯りを反射している。スピカはぴくりともせずにその小さな体を柔らかな寝台に沈めた。薄く開いた口から温かな息がゆっくりと吐き出される。
「もう下がっていいよ」
トトは寝台の端に腰掛けてスピカを見下ろしたまま、イーノスに言った。
イーノスはいつものようにトトが見ていないことを知っていても、黙礼するとその天蓋を後にした。
少しの冷気と薪の煙のにおいがやってきて、天蓋の布がゆっくりと下げられる音がした。
スピカを見下ろしているトトの顔に、もう笑みはない。彼は指の背でするりとスピカの柔らかな頬を撫でた。冷えた指に温かさが伝わる。安らかそうに閉じられた瞼の睫が、長い影を頬に落としている。外から楽しそうな声や、物心つく前から聞きなれた弦楽器で奏でる音楽が聞えてくる。その音はもうトトの心には響かない。
縋りつくようだ、とトトは思った。ほんの少し残ったなにかを失いたくなくて、こんな小さな存在に縋りついている。見逃したくせに、どんどんと暗く染まっていく心の中で、それを許せないと思った。スピカがいなくなって冷えていく感情が痛かった。けれど、こんなかたちを望んでいたはずじゃなかった。心のどこかが悲鳴をあげている。でも、もう逃がすつもりはない。最後に残った小さな悲鳴を黒く塗りつぶす。
「おかえり、スピカ」
口の端を歪めて笑うと、トトはもう一度そう呟いた。
小さな天蓋や露店が入り混じる円形広場の中で、朝も近くなってきているというのにオスカはまだうろうろとしていた。セスティリアスは先程、眠そうにあくびをすると薄情にもあの大きな犬を引き連れて帰ってしまった。オスカも本当は帰らないといけなかったが、そんな時間をとっくに過ぎてしまったし、何よりスピカのことが気になって帰る気にはなれなかった。
ひゅうっと冷たい風が吹いてオスカは肩を竦ませる。もう冬も間近だ。こんな時間だと空気も冷えているし、真冬のように寒い。ところどころで飲み潰れている人の中から、もしかしたら凍死者が出てしまうかもしれない。その為か、騎士とはまた別の、街の自警団の人たちが転がっている人たちを根気強く起こして回っていた。
歩きまわっていると、薪の焼けるにおいや酒の甘い香りに混じって、つんと鼻をつくすっぱいにおいがしてオスカは顔を顰めた。これだけ酒を飲む人がいれば、吐瀉物がところどころにあるのも無理はない。しかし大の大人がここまではめをはずしてしまうのもなんだか情けないと思った。冷えた空気のせいか、そう思えるくらい、ほんの数時間前まで感じていた憤りは少しましになっていた。
ふと天蓋の方に目を向けると、ちょうど中にいた騎士が出てきた。騎士は洗練された足取りで、そのまま少し離れたところに立てられている小さな天蓋の棟の方へと歩いていく。トトの天蓋は一般の人間は近づけないだろうが、あそこならオスカにも近づける。オスカは殆ど無意識に騎士が歩いて行った方向へと足を進めた。天蓋と天蓋の隙間のようなそこを覗くと、騎士は誰かと会話しているようだった。小さな声が、少し離れたところから見ているオスカにはところどころしか聞き取れない。それにいくらましになったからと言っても、それでも広場は十分過ぎる程騒がしい。騎士の姿も暗くて見えにくい。
オスカが馬鹿らしくなって、立ち去ろうとした時、少し高めの少女の声が聞えてきた。
え、と思い覗き込んで見ると、騎士と話しをしているのは先程帰った筈のセスティリアスだった。セスティリアスと騎士は、向かい合って少し深刻そうな顔をして話しをしている。
あれがセスティリアスの兄ということだろう。けれど帰る前に挨拶をしにきたという雰囲気ではない。
「……ピカが、……いる」
ぽつぽつと聞えてくる声で、その内容はよく分からないが、スピカの話しをしているらしいことは分かった。
どういうことかとオスカがセスティリアスの名前を呼ぼうと口を開けた瞬間、肩に大きな手がぽん、と置かれてぎょっとした。振り返ってみると、そこにいたのはイシュだった。イシュは笑いを浮かべた顔で肩を竦めた。
「おもしろそうだね。覗き見かい?」
その言葉にオスカはむっと顔を顰めた。
「ちげーよ。今セスを呼ぶところだったんだ。……イシュはどうして此処に?」
「セスの家に行っても誰もいなかったからね。他の人の家に泊まらせてもらうこともできたんだけど、さすがに気になって」
イシュの言う他の人とは、多分女のことだろう。オスカは呆れた顔でイシュを見た。
「かみさまに、見つかったんだろう?」
「どうして知ってるんだ?」
「噂になってるよ。かみさまも大胆だね」
そう言うイシュは焦った様子もない。平然としているように見える。
「セスはあの騎士とスピカのことを話してるね」
「聞こえるのか?」
「耳はいい方だからね」
「何言ってるんだ?」
聞きながら、これでは本当に覗き見だと思ったが、家に帰ると言ったセスティリアスがあの騎士と話していることが気になった。それもわざわざこんな物陰で。もしかすると、先程声を掛けていたら話しを中断していたかもしれない。そんな雰囲気だった。
わあっという歓声と共に天蓋の向こう側で色とりどりの火花が散った。煙と火薬のにおいが、風にのってオスカたちのもとまで届く。イシュは顔を顰めると、制止するようにオスカの方に手のひらを向けた。
「……ごめん。やっぱり聞えないかも」
「なんだよそれ……」
オスカは大げさに肩を落とすとため息をついた。こんなところでこそこそと隠れて盗み聞きしようとしていたことが急に馬鹿らしく、情けなくなって身を翻した。
「いいのかい?」
「うん。またセスに聞くよ。イシュは気にならないのか?」
「スピカのこと? 気にはなるけど、都に来た時点でこうなる可能性は考えられなかった訳じゃないからね。なんて言ったって『かみさま』なんだし。それに、スペルカ様だってスピカをそこまで悪いようにはしないだろう? 今までだってずっと一緒にいた訳だし」
そのかみさまからスピカを連れ去ったのは、イシュだ。それにイシュは都を出る前のスピカの様子を忘れたわけではないはずだ。あの時のスピカは、オスカから見てもかなり酷い状態だった。あんなスピカはもう見たくない。
「だったらどうしてスピカを都に連れてきたんだよ?」
「スピカが行くと言ったからだよ。彼女を前の町に置いてくることもできたんだ。そのつもりだった。スピカがかみさまと再会することが僕たち他人にはいいことに思えないけど、だからってそれを僕たちが止めることじゃないだろう?」
今イシュが言っていることはいちいちもっともで、だけどそれと感情が合わなくてオスカはまた苛々とした。
イシュは言うだけ言うと、セスティリアスたちの方へ目を戻して大きな手で口元を覆って何か考え込んでいる。暫くして、イシュはその手をずらしてオスカに視線をやった。
「……どうしても嫌なら、オスカが、かみさまに直接会ったらいいだろう?」
言われてオスカは絶句した。