37.
おかえり、スピカ。
トトがそう言うと、その光景を見ていたセスティリアスは顔を歪めた。
冑で顔を隠したイーノスの表情は分らないけれど、恐らくセスティリアスと同じ風に顔を歪めているだろう。
御山の方からはどんよりと暗い雨雲が流れてきている。
微笑んでいるのに、その感情は胸を刺すように痛い。
選んで、スピカ。
本当のことを話すか話さないかは、スピカ次第。その秘密が発露するかしないかで、その先が変わる。
「本当に、君は愚かだね。あれが最後にあげた好機だったのに」
トトはスピカを抱き寄せると、耳元で囁いた。
意識が混濁するように頭の中がぐらぐらとしてふらつき、スピカはなにも考えられずにトトに寄りかかる。
「スペルカ様」
スピカの異変に気付いたイーノスが声を掛けると、トトはふと笑い、ぱっとスピカを支えていた手を離した。ぐらっと倒れそうになるスピカをイーノスが抱きかかえる。薄く目を開けてはいるが、スピカは動けそうもない。ぼんやりとその目はトトの姿を映している。イーノスは苦々しい思いで抱えているスピカを見た。こんな状態で、選択肢を得られるというのだろうか。
トトは先程と同じように、口だけで笑ってスピカを見下ろしている。その目に優しさは見当たらない。
イーノスはスピカを抱きかかえたまま立ち上がり、歩き始めたトトに付いて行く。
「かみさま」
セスティリアスが呼ぶと、トトはセスティリアスを一瞥しただけでまた歩き始めた。
「スピカはかみさまのことが大好きなんだよ。忘れないで」
返事は、ない。静まりかえった広場のまん中を、トトは気にした様子もなく歩いて行く。
「トト……」
スピカが小さな声で呼んでも聞えなかったのか、トトは振り向かなかった。
どんよりとした雲が、真っ青な空を覆い隠す。いたいたいと誰かが泣く。むせ返るような甘い香りがする。
甘い香りに混ざってするのは、アスファルトのにおいだ。
混迷する意識をスピカはなんとか留めようとしたけれど、そこでふつりと途切れた。
緩やかな日差しが木々の間から差し込む。
湿った地面はふわふわと絨毯のように柔らかい。土と木と、腐り落ちた葉っぱの、どこか甘やかな香りが体を満たす。
それらを振り切るように、肺がひりひりと痛むくらい走った。
そんな甘やかな空気や夕暮れに染まる空は好きだけれど、欲しいものは声だ。
あの、優しい声。
きっと、それがあればじわじわ痛む穴も塞がる。けれどその声の在り処が分からなくて、どうしようもなく悲しくなって、ことこ は泣いた。
薄く開いた目で、スピカは何かを求めて視線を彷徨わせた。
ぼんやりとした視界と頭では何も考えられない。最後の記憶も定まらない。ただ温かな空気が体を包んでいることは感じていた。甘いにおいが鼻に残っている。けれど、そのにおいをどこで嗅いだのかも分からない。
「――スピカ」
呼ばれて、その存在を確かめるように焦点が合って、視界が少しだけはっきりとしてくる。白い繭の中にいるようだとスピカはぼんやりとした頭で思ったけれど、スピカがいるのは天蓋の中だった。意識が定まらないスピカにはそんなことさえ分からない。
「スピカ」
もう一度呼ばれて、意識を引き戻される。
ひんやりとしたものがおでこと頬を撫でて、夢見心地のスピカは心地よさそうにうっとりと瞬きをした。
橙色の灯りがゆらゆらと揺れている。獣脂の焦げるにおいがする。
「……干渉が無いわけじゃない」
「はい」
「スピカは、村のみんなと同じ水を飲んで作物を食べて育ったから。知らないのは知ろうとしないからだ」
イーノスはその言葉を聞いて、眉根を微かに歪めた。
寝台に横たわるスピカは、ぼんやりと目を開けてはいるがまるでこちらの会話も聞えていないようだ。恐らく誰がここにいるか、自分がどこにいるのかも認識はしていないだろう。
スピカがこんな状態になってしまってからもう半日以上も経っている。一度は意識を失っていたが、目を覚ましてからも眠っているような、ぼんやりとして呼びかけにも反応しない。
夜の儀式も終わり、外も少し静かになりつつあるが月祭りの日だけあって、まだ楽器や唄い声や楽しそうな笑い声は絶えない。今いるのはスペルカの天蓋の中だ。スピカはスペルカの寝台に横たわってぼんやりとトトの顔を見ているように見える。
「スピカ」
また呼ばれて今度は目を塞がれる。
「今度は逃がすことはできないけれど、体は少し楽にしてあげよう」
両目を覆っていた手のひらが離れて、スピカの視界は一気にはっきりしたものになった。
だるい感覚が全身に残っているが、体の感覚も戻ってくる。それと同時に意識もはっきりとしてきて、スピカは一瞬きょとんと目の前にいるトトの顔を見たあと、その後ろに立っているイーノスの顔を見た。
「――トト……?」
呟いて体を起こそうとしたが、自分の体の重さに驚いてぴくりと僅かに動いただけだった。自分のものではないように、ずっしりと体が重くて起き上がれない。起き上がろうとした途端に力が抜ける。
イーノスが顔を微かに歪めているのが目の端に映った。トトはどこか楽しそうな表情で笑っている。
「逃げられたら困るから」
当然のようにトトは言った。
「……スペルカ?」
「へえ……? どうしてそう思う?」
興味深げに聞かれて、スピカは顔を顰めた。
「だって、さっきスピカのこと言ってたでしょ。多分、トトなら言わないようなこと」
「ふうん。スピカは思っていたより馬鹿じゃないらしい」
「……馬鹿だと思ってたの?」
「ううん」
いつものよく分からないやりとりにスピカは顔を歪めた。
「ここ、どこ?」
「覚えてない?」
「なにを」
「トトと会ったことを」
言われて、スピカは今はスペルカであるトトの顔を凝視した。耳元でさわさわと布の擦れる音がする。
「……覚えてる」
頭の中がぐらぐらと揺れるような感覚も、以前にも一度あったことだった。けれど、こんなに体の自由が利かないようになるなんて初めてだ。
「トトが……?」
スピカが聞くと、スペルカはにやりと笑った。
セスティリアスやイシュは今どうしているのだろうか。まだ頭が覚醒しきっていないスピカはぼんやりとそんなことを思った。体が重くて、目の前にいるのがスペルカなこともあって、トトの変化について考えられない。
意識を失う前に見たトトは、以前の穏やかなまなざしを一瞬忘れてしまう程に冷たい目をしていた。
「これは、本当にもうスピカを逃がすつもりはない。だから、前のようにはいかない。スペルカもそうはできない」
スピカは、運が悪い。とスペルカは呟いた。
運が悪いのだろうか。スピカにはこれがなんだかとても自然な流れのように感じた。もちろん、自らの意思でトトに会った訳ではない。寧ろそれを避けようとしていたけれど、それが本気でだったのかはスピカにも分からないし、朝セスティリアスがトトのテントの前で警護をするイーノスに会いに行こうと言ったことや、たまたま都に住むイシュの友人が病に倒れて、イシュとスピカが都へやってきたこと、それがちょうど月祭りの期間であったことを必然のように感じていた。
避けようと思えば避けれたことで、けれどそれは避ける必要のなかったこと。決まっていた流れのようだ。 朝のセスティリアスの様子をまた思い出す。セスティリアスはこの月祭りの間に起こることを予知していたに違いない。
「トトは……?」
「すぐに、戻る。スピカ、トトにはやっぱりスピカが必要だから、呼び寄せた」
「スペルカが? じゃあ、イシュの友達も?」
スペルカは否定も肯定もせずに、薄く笑いを浮かべるだけだった。
イーノスを見ると、イーノスは苦い表情で視線を返した。どうやら、スペルカがしたことらしい。それはいくらかみさまだって、許されないことだ。イシュの友人は酷い病だと聞いている。きっと本人も、その家族たちも苦しんだに違いない。それに、わざわざ遠くから都に行ってもいいかと苦い顔でスピカに聞いたイシュもだ。
「……スピカが戻ってきたんだから、治してくれるでしょ?」
「いいよ。スピカ、知っているのはあの娘だけじゃない。これと会った時、甘いにおいを嗅いだか?」
唐突な質問にスピカは寝転んだまま、また顔を顰めた。
甘い、香り。微かなアスファルトのにおいと一緒に消えてしまったもの。それがなんだったのかは思い出せない。けれど、スペルカがいうように、トトと会った時に微かに感じたものだ。
スピカが小さく頷くと、スペルカは表情のない顔で、そうか、と呟いた。
「だったら、スピカ。スピカはトトと一緒にいるべき。その正体が知れることを恐れる必要はない」
おかえり、スピカ。
トトと同じ表情で、同じ声でスペルカは言った。
そして、瞬きのあとにそれはトトのものになった。
「くそっ!」
騎士に行く手を阻まれて、オスカは悪態をついた。
周囲で馬鹿みたいにはしゃぎ回る大人たちの声がいやに勘に触る。甘い酒のにおいが鼻につく。
いらいらと地面に転がっていた酒瓶を蹴った。それは家の壁にぶつかって、少し高い音をたてて割れる。周りにいた人たちがそれに少し驚いた様子で視線を寄越したが、すぐにまた楽しそうな表情に戻って歌を歌ったり踊りの中へと戻った。
「オスカが苛々したって、スピカはあの天蓋から出てこないよ」
「分かってるよ!」
冷静な声で言うセスティリアスにまた腹が立ち、オスカは強い口調で返した。
スピカがどうなったのかは、先程セスティリアスから聞いたところだった。セスティリアスと一緒にいる筈のスピカは、今はトトの天蓋の中にいるらしい。見つかってしまったのだ。天蓋の前に連れ出したセスティリアスにも腹が立ったし、そんなところへのこのこと出向くスピカにも腹が立った。
慌てた様子もなく、ただ淡々とセスティリアスはオスカにそんなことを報告しにパン屋までやってきたのだ。
その時、セスティリアスは目の前でその様子を眺めていたのだという。どうして止めなかった、と訊いたら、どうしてそんな必要があるのかと訊き返された。
本当に、腹が立つ。淡々と言うセスティリアスにも、止められなかった自分にも、当然のようにスピカを自分のもののように扱うトトにも。
「私ね、子供は何があっても家族と一緒にいるのが一番だと思うんだ。よっぽど酷い家族でない限りは」
「……はあ?」
唐突なセスティリアスの言葉にオスカは訳が分からないという風に顔を歪めた。
「私、小さい頃に親と離れ離れになったんだけど、今でも恋しい」
「……なにが言いたいんだよ」
「スピカもそうだと思わない?」
「村に帰りたいってことか?」
セスティリアスが ことこ のことを知っていることを知らないオスカは、別段不思議がることもなくそう聞いた。
セスティリアスは何も答えない。
「……スピカの両親は、この都にいるんだよ。スピカが悲しくて、恐くて村から逃げたんだ」
泣き叫ぶ声を思い出す。普段は温厚で物静かなスピカの母親は、最後にスピカを見て、狂ったようにスピカの体を揺さぶり泣き叫んでいた。明るく大らかな父親は、顔を歪めて涙を流していた。二人の悲痛な叫び声は今でもはっきりと耳に残っている。心からの嘆きの声を聞いたのは、オスカにとってあれが初めてのことでそれほどまでにとても衝撃的だったのだ。小さな子供の親が嘆き悲しんでいるなか、村人たちはスペルカが現れたことに歓喜していた。小さな子供がいなくなったことに悲しむこともなく、ただただかみさまの存在に感謝した。あの、悪夢のような日。
そんなことをトトは知らない。知っていたとしても、忘れてしまっている。たくさんの悲しみの上に自分たちがいることに気付かない。
「……オスカ、スピカをかみさまから助けだしたい?」
壁を殴ったオスカに、セスティリアスは静かな声で聞いた。
緑の瞳は、薄暗闇の中で猫のように奇妙な輝きをもっている。
助けだしたい、それとは少し違うような気がした。多分、きっと元通りになりたいのだ。トトがかみさまになる前の、三人で過ごしたあの頃に。優しくて温かい、歪みなんかなかったあの村で過ごした頃に。けれどそれはもうどうしようもないことで、元通りになることなど叶わない。
偽者のスピカに、どうしようもない真実に、変わり過ぎてしまったそれぞれ。
「オスカは、かみさまと話さないの?」
聞かれて、顔を歪める。
「どうして? 昔は友達だったんでしょ? 話したくない? ……話せない? 真実を口にしてしまいそうで?」
「なんだよ、それ……お前、スピカのこと知ってるのか?」
「うん。スピカのこと、きんいろのかみさまのこと……遠いところからきた子供」
そういえばオスカは ことこ がどこからやってきたのかを知らない。聞いたこともない場所で、なぜかそんな場所があるのかと思った程度だった。小さな村で育った少年にとって、村の外の世界は未知で溢れている。ことこ もそんなに話しをしようとはしなかった。
「帰ろうと思って簡単に帰れる場所じゃない。だから、ことこ は好機を見逃してはいけない」
「あいつは今でも家に帰りたいと思ってるのか?」
「多分、半々だよ。ここに長くいすぎた。かみさまの傍に」
「……みんなにスピカとして扱われてるうちに自分でそう思い込んだだけだよ」
「本当にそれだけだと思う?」
「……」
ことこ と呼ばれて泣いた子供を思い出す。スピカと全く同じ外見と声。仕草までも同じに見えた。
トトやスピカがいる天蓋の中の灯りが揺れて、オスカはそれに目を奪われた。灯りはゆらゆらと揺れながら、中にいる人影をうつしだしている。ひとつはトトの、もうひとつの立っている大きな影は、セスティリアスの兄であるという騎士のものだろう。
揺れは一瞬でおさまった。風など吹いていないのに、なにかあったのだろうかと気になってしまう。
「どんな理由でも、スピカはかみさまのことが好きになっちゃった。この場所も、ここに住む人たちのことも ……可哀想な ことこ。そうなったら選ぶことなんてできないよ。けど、選ぶしかない」
「……なんなんだよ、お前。さっきから」
「あんたこそ。どうしてそんなに苛々してんの? スピカが一緒にいるのはかみさまでしょ? 何も大変なことなんかないじゃない」
お互い睨みあうように顔を合わすと、セスティリアスの方からふいっと顔を背けた。
苛々してるのはそっちだろ、とオスカは思ったけれどそれ以上この変な娘と会話をする気にはなれず、また天蓋の方へと視線を戻した。




