36.
雨のにおい。
いたいいたいと誰かが泣く。
その声を ことこ は知っている。
「――スピカ、スピカ」
少し高めの声に呼ばれて目を開けると、今の状況が分からなかったスピカは少しの間、見慣れない天井を見つめた。少ししてからセスティリアスがひょいと目の前に顔を突き出してきてやっと、セスティリアスの家に泊まったことを思い出して、のろのろと体を起こす。朝方の空気はつんっと冷たい。鼻先が冷えているのを感じて手のひらをあてると、セスティリアスがカップに入った温かいお茶を渡してくれた。
温かいお茶は少し甘い花のような香りがして、寝起きのぼんやりした頭で少し幸せな気分になったスピカは、へにゃっと笑ってそれを両手で受け取る。
「ありがとう」
「どういたしまして。スピカって眠りが深いんだね。何回も呼んだのにびくともしなかったよ」
「え。そうなの? ごめん」
「ううん。イシュはもう行ったよ。起こそうとしたら、寝かせてあげてって言ってたけどつまんないんだもん……そんなにいっぱい一緒にいれる訳じゃないし」
「旅は続けても、セスティリアスには会いにくるよ」
スピカはすっかりお姉さんの気分になって、ベッドの端に腰掛けたセスティリアスの頭を撫でた。
外からは少し騒がしく人の行き来する気配と、興行の楽しそうな音楽や声が聞えてくる。祭りはまだ続く。イシュは昨日また同じ広場に行くと言っていた。
セスティリアスはへらっと笑ったあと、薄く笑顔を作りじっとスピカの目を覗き込んできた。セスティリアスの瞳が猫の瞳ように不思議な光の反射の仕方をしたから、スピカは息を呑む。
「ねえ。昨日の夜中、雨が降ったのを知ってる?」
「ううん。知らない」
そう小さな声で言って首を振ると、セスティリアスはまたへらっと笑った。
なにか、少しほんの少しだけ様子がおかしいような気がして、スピカは不安になる。
「……セス。なにかあった?」
「ううん。どうして?」
「なんとなく」
「ふうん? 変なの。……あ、パドルに水はあげたけど、餌箱も空になってたよー」
「あ、うん。ありがとう」
スピカはそう言うとようやくベッドから足を下ろした。指先で靴を探す。足先にふやふやと温かい感触が当たって見下ろすと、アルカがうっとおしそうに目だけでスピカを見上げて、鼻先で靴を押した。スピカは苦笑してありがとう、と言うとアルカの頭を撫でる。そうするとアルカは心地よさそうにまた目を閉じた。アルカの様子にほっとしたスピカは微笑む。
「スピカ、顔洗って、ごはん食べて、服着替えたら外に行こうよ。久しぶりにお兄ちゃんにも会いに行かない?」
「え? でも、イーノス忙しいんでしょ」
それにイーノスは多分祭りの間中トトと一緒にいる筈だ。
今はスペルカだから大丈夫だろうか。一瞬そんなことが頭を過ぎったけれど、同時に昨日の夜のことを思い出し、少しいらっとしたスピカは軽く頭を振った。
「大丈夫だよ。昼間の間、かみさまは殆どテントから出てこないって聞いたよ。イーノスはその間そのテントの前でじっと立ってるだけだから暇だって……お祭りの間しかいないんでしょ? お祭りの間は忙しくて帰ってこれないし、顔見せてあげて?」
それでも布一枚挟んだ向こう側にトトの姿をしたスペルカはいる。それに、それが必ずしもスペルカであるとは決まっていない。
スピカが考えこんでいると、セスティリアスがスピカの目の前で両手をパンッと小気味いい音を立てて叩いた。
ぱちくりと目を瞬かせると、セスティリアスが少しむすっとした顔を突き出してくる。
「スピカってさ、結構考えこむよね。どうしようもないくらい会いたい人がいるのなら、どんな状況でも後悔しても会いに行けばいいのに。そんな簡単なことじゃないかもしれないけど……わたしも前に、スピカに気になるようなこと言っちゃったけど、もう知ってるんでしょ」
セスティリアスが言っているのはトトのことだ。
「……なにを?」
「なにをしたって、スピカがいてもいなくても、かみさまの中にスピカはいて、どっちにしても苦しいってこと」
それはスピカもでしょ? セスティリアスはそう言うと、スピカの手を両手で引いてスピカを立たせた。
家の中よりも外の空気は冷たく、スピカは身を縮こませた。真夜中に降ったという雨がますます地面や空気を冷やしたのだろう。昨日の夜よりも寒くなっている。家々の煙突から立ち上る煙や、食べ物の屋台から上がる湯気がやけに白く見えた。
季節は確実に冬に近づいている。旅をしていて気付いたことだけれど、ここら辺は北国のように寒い地方ではないのに、スピカの行った他の土地より空気がすんっと冷たい。
家を出る時に外套を羽織って、温かな帽子を被っているスピカをセスティリアスは呆れた様子で眺めていけれど、それでも空気に直接触れる肌は冷たく冷えて寒い。セスティリアスはさすが北国の出身だけあって、薄着なのにけろっとしている。アルカは、多分普通にしているだろうけれど、やはりスピカから見ればその姿は寒そうだ。
びゅうっと風が吹いて、スピカが思わず「さむい!」と肩を上げて叫ぶと、セスティリアスはまた呆れ顔でスピカを見た。
「こんなの全然へっちゃらだよ。スピカ、よく今まで冬を越せてきたね? ……雪の日は凄く楽しそうに遊んでたって聞いたけど」
セスティリアスはイーノスに話しを聞いたのだろう。そのことが少しスピカにとっては意外だった。
あの時は寒さよりも雪の方が気になったからだ。
昼過ぎまで店の手伝いで忙しいというオスカの様子をパン屋の硝子戸から少し覗き見したあと、二人と一匹は広場へと向かった。イーノスがいる広場はセスティリアスの家からだと円形広場を挟んだ向こう側にあるから、そのあと行くことになった。
羊色の立派なテントは、村にあったものを真似て作ったのだろう。真新しいこと以外、細かく縫い込まれた金色の刺繍までもがそっくりだ。
スピカは少し不思議な気持ちになってそれを見つめた。
村の月祭りで入ったテントと、殆ど一緒といってもいいそれを村とは全く違う景色の都で見るなんて、少し違和感を感じる。
村よりも人が多いためか、騒がしさも村以上だ。それに、昨日よりもまた一段と人が増えていた。人に流されそうになるスピカの手を引いて、セスティリアスは人の多さに戸惑うこともなく平然と、上手に人の間をするするとすり抜けながら進んだ。
まるで猫のような見事な身のこなしに、スピカは少し茫然とする。セスティリアスのおかげで、テントの近くまではすぐに行くことができた。スピカだけだったら、もしかしたらたどり着くこともできなかったかもしれない。
「お譲ちゃんたち、どうしたんだい?」
天蓋の近くで呼び止められて、その声の主を見てぎょっとしたスピカは急いで俯いた。騎士宿舎で親切にしてくれた、騎士というよりは司書の方がしっくりくるとスピカが思った、あの騎士だ。
村とは違ってテントの近くには近寄れないようになっていて、騎士や尼僧たちしかいない。その尼僧も騎士も、スピカを知っている人は結構いるだろう。そんなことを忘れていたスピカは背筋に冷や汗をかいた。
目の前に立つおじさんも、普通の再会なら喜べただろうが、スピカは『かみさまから逃げた娘』なのだ。
「お譲ちゃん、気分が悪いのか?」
心配そうな声で聞かれてスピカは俯いたままぶんぶんと首を横に振った。
んん、そうか。とおじさんは言う。帽子があってよかったとスピカは思った。髪も伸びたし、もしかしたら顔も覚えられていないのかもしれない。
「お兄ちゃんに会いに来たの」
「ん? 名前は?」
「イーノス・ヴィエッタ」
「ああ! やっぱり。銀色の髪だしそうだと思ったよ。けど、イーノスはスペルカ様のテントの前の警護だからなあ…… 今じゃないといけないのかな?」
「この子も、お兄ちゃんに会いたいんだけど、お祭りの間しか都にはいられないんだ……だめ?」
セスティリアスがスピカを前に押し出して、少ししょんぼりした様子で言うと、おじさんはうーんと唸った。スピカも、イーノスに会いたいのは本当だから否定しない。
少しの間おじさんは考えるような素振りをすすると、「まあ、いいんじゃないかな」と軽い調子で言ってくれた。考えるような素振りはもしかしたらただの振りだったのかもしれない。スピカが思わず顔を上げると、ばっちりおじさんと目が合ってしまい慌てたが、おじさんは優しく笑うだけだった。
おじさんはスペルカのテントの前まで連れて行ってくれた。その間に尼僧や騎士たちに見つめられて、スピカは身の縮こまる思いで地面を見つめながら歩いた。
テントの前でぎんいろの甲冑をつけた騎士がふたり立っていて、ぴくりとも動かないからスピカは最初置物じゃないかと思った。それに全く同じに見えて、どちらがイーノスなんて分からないスピカは小首を傾げる。
「イーノス!」
セスティリアスはどうして分かったのか、真っ先に片方の騎士の方へ小走りに行くと、名前を呼んだ。
「イーノス、少しの時間変わってやるから、話ししてきていいぞ」
おじさんが言ってくれたので、スピカは少しほっとしたが、ぎんいろの冑をつけたままのイーノスは無言で首を振った。
けれど、おじさんの後ろを歩いていたスピカに気付いたのか、ぴくりと止まる。おじさんはにやっと笑ってイーノスの肩を叩いた。
「都には祭りの間しかいないんだとさ」
そう言って、イーノスの肩を押してイーノスが立っていた場所に自分が立った。
イーノスはぺこりと会釈したが、甲冑姿でそうするとなんだか間抜けに見えて、スピカは思わず出そうになった笑いを押し殺した。
硬質な音を立てて歩く姿はしなやかな動きをする機械みたいだ。セスティリアスはその後ろから小走りで付いてきている。
イーノスはスピカの前に来ると、ようやく冑を外した。
久しぶりに見た顔がやはり少し不機嫌そうだったので、スピカは苦笑する。それでも、また会えたことが凄く嬉しい。
「……久しぶり、イーノス」
スピカがばつが悪そうに言うと、イーノスはため息をつき、返事もせずにスピカの腕を引いてすたすたと歩き始めた。スピカが目をまるくしていると、隣を早足で歩くセスティリアスがおもしろそうにくすくすと笑う。
「ちょっと、怒ってるね」
そんなこと、スピカから見たって分かる。あれだけ真剣に悩んで傍を離れることを選んだのに、『スペルカさま』のテントの前までのこのことやってきたのだ。それもわざわざ他の騎士に頼んでテントの近くまで連れてきてもらって。月祭りの始まる日にスピカは都にやってきたのだから、それから家に帰ってきていないイーノスは、セスティリアスがスピカを此処まで連れて来ることなんて、思いもしなかっただろうし、もしかしたらスピカが都にやって来たことも知らなかった可能性もある。怒るのを通り越して、あきれ返っているかもしれない。
イーノスはトトがいるテントから、少し離れたところにたてられている、小さなテントが立ち並ぶその影まで来ると、スピカの腕を離して振り返った。きゃーっと笑いあう子供の高い声が聞えてきて、ふと無意識にそちらに目を向けそうになると、イーノスが口を開いた。
「……お前は馬鹿か」
心底呆れた声で言われてしまうと、スピカは情けない笑みを浮かべるしかない。
「お兄ちゃん、説教はいいからさ。久しぶりの再開なんだし、スピカあんまり此処には留まれないんだから、ね?」
「……ああ」
何かを飲み込むかのように数秒間をおいてイーノスは微かに頷いた。
「久しぶり、スピカ」
スピカはあれ、と思う。あれ、名前呼ばれたことあったっけ。
多分なかった。時々、もしかしたら自分の名前を覚えられていないんじゃないかと、不安になった位だったから。
スピカはぽかんとイーノスを見上げたまま、微かに頬を染めた。
隣から微かに笑う気配がしたが、それも気にならない。
「スピカって、おもしろい」
セスティリアスはそう言うと、ね、と言う風にアルカの頭を撫でた。アルカはそれに反応を示さずに、じっとトトのテントのある方を見ている。
イーノスはなにに対してなのか分からないため息をまた漏らした。
「……昨日、スペルカ様と会っただろう?」
「……え?」
再会してそれまでになにがあったとか、どんな所へ行ったとか、何をしていたとかを言うのではなくて、イーノスは唐突にそう言った。
それに、どうしてイーノスがそれを知っているのか。
「昨日、あそこにいたの……?」
「聞いた」
「え?」
イーノスは相変わらず言葉少なだ。聞かないと話しの全部が分からないことがある。
「誰に……?」
訊くと、イーノスはちらりと視線をアルカと同じ方向へ向けた。
トト? けど、トトは昨日のことを知らないはずだ。昨日はスペルカだったのだから、トトは何も知らない。
「……スペルカ……?」
イーノスはぴくりと眉を動かした。スピカのその呼び方にそんな反応をしたのかもしれなかったが、スピカはそれを肯定の意味としてとり、目をまるくした。
「知ってるの? スペルカのこと」
「ああ」
呟くように答えると、先程とは違って口元だけ開いている状態の冑をつけた。それ以上なにも言わないとでもいう風に、口は堅く閉ざされている。それと同時に、隣に立っていたセスティリアスが、ぎゅっとスピカの手を握ってきた。まだ楽しそうな顔をしているのかと思って見た顔は、スピカの予想とは全然違って、どこか張り詰めたような表情へと変わっていた。まるでスピカを離すまいとするように、握っていない方の手をスピカの腕に添えて袖を握る。
「……私、後悔とかするの嫌なんだけど、今度はスピカが選んで。本当に大切なのを」
二人とも、唐突過ぎる。セスティリアスに至っては何を言っているのか分からない。スピカは眉を顰めて、なに、と聞いたけれど、セスティリアスは何も答えずにただスピカの目をじっと見た。その表情はどこか不安げだけれど、瞳の色は確信に満ちている。スピカは朝のセスティリアスの様子を思い出した。あれはどうやら気のせいではなかったらしい。朝感じた違和感が、またじわじわと体を巡る。漠然と不安になる。
「なに? なんのこと?」
スピカがもう一度聞くと、セスティリアスは視線を別の場所へ移した。
周囲のざわめきが静かになる。
「大丈夫。最悪の事態にはならない。だから、選んで」
リィンと、遠くから聞いた自転車のベルのような音がする。スピカはその音を聞いて、ようやくセスティリアスの視線の先へと目を向ける。
天蓋の間から見える人々も、みんな同じ方向をじっと見つめている。
トトのいるテントの方だ。
選んで、なんて。スピカは前に一度自分の意思で選んだ筈だ。自分でトトの傍から離れた。セスティリアスはそれを違うと言うのだろうか。
苦しいのは仕方がない。それはどちらを選んだとしてもスピカに付きまとって離れない。どうしようもないことなのだ。
「選んだでしょ。どうしてみんなそんなことを今更言うの……?」
「スピカには幸せになってほしい。スピカにとってあたたかい場所で。けど、みんなかみさまのことも好きなの。可哀想なかみさま。 ……これがスピカにとっての最後の選択になる。だから」
断片的に綴られたようなセスティリアスの言葉はやはり意味が分からない。
かわいそうなかみさま。『かみさま』になってしまった男の子。ただ、一緒にいたいと願っただけだったのに。あたたかい場所を求めていただけなのに。そうなって生き延びても、たどり着いたのは決してあたたかい場所ではなかった。
けれど、本当にかわいそうなのは誰なのか、誰にもわからない。
ベルの音が静かになった広場でまた響く。
開けられた天蓋の入り口から出てきたトトは、ゆっくりと視線を上げると口の端だけを歪めて笑った。視線はスピカたちのいる方へ向けられている。けれど、トトの方からスピカはイーノスに隠れて見えない筈だ。見えたとしても、ほんの少し。スピカはトトがテントから出てくるのをイーノスの陰から見ていた。昨日と同じようにスペルカかもしれない。スペルカも最近はずっとスペルカのままだと言っていた。 けれど、スピカはあの笑い方を見たことがある。
「選んで」
澄んでいるけれど強い声でセスティリアスはもう一度言うと、掴んでいた手を離した。
広場を埋め尽くして道までもいっぱいにする人たちがいるというのに、しんっとした静寂が痛い。先程までやんわりと吹いていた風も今はぴたりと止まっている。
トトは祭壇の方ではなく、スピカたちのいる方へ歩いてきている。スピカはあの時、馬車の中から感じた息が詰まる程の視線を感じた。トトがいつも感じているもの。それは少し恐ろしい位だ。親しみ知った人たちのあたたかい視線とは何かが違う。どこか狂気じみたもの。
スピカを隠すように立っていたイーノスは、トトが天蓋でできた影の前で立ち止まると観念したように、張られた天蓋と天蓋の間から出てトトの斜め前で跪いた。
トトはそれに目を向けることもなく、驚いて立ち竦んでいるスピカを見つめている。ちゃんと笑っている表情になっているのに、その視線は底冷えするように冷たい。最後に見た優しい顔ではない。
トトはスピカの前までやってくると、スピカの腕を捕った。
「スピカ」
優しい声。けれどその瞳は闇を孕んでいる。
選んで。
目の前でその優しい声に呼ばれれば選ぶことなんて考えられない。その時だけはトトの声で満たされる。トトにその意思があるのなら尚更のこと。もしかしたら、あの時トトにはスピカを自分から逃がす気があったのかもしれない。
けれど今は、優しい声とは裏腹に、痛いくらいぎゅっとスピカの腕を握りしめる。
「おかえり、スピカ」
トトは掴んだ腕をそのままに、微笑みながらそう言った。暗くて冷たい瞳はじっとスピカだけを見ている。スピカは逃げ出すことも思いつかずに、トトから目を逸らすこともできない。けれど、橋の前でスペルカとあった時に感じた恐怖が心を占めたわけじゃない。心のどこかに、何かほっとするような感情があるのをスピカは感じていた。