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きみのこえ  作者: はんどろん
08.本当の本当
35/63

35.

「久しぶり、スピカ」

 トトはまるで何事もなかったかのように、優しい声で言った。

 久しぶりに聞いたその声が一瞬甘くスピカの中を満たしたけれど、彼女は何も言えずに立ちすくんだままだった。

 あたたかな感情のあとから、じわじわと背中の辺りから、こわい、という感情が這い上がってくる。それが責められることへの恐怖なのか、嫌われていたらという恐怖なのか、分からなかい。ただ、目の前で佇んでいるトトを恐ろしく思う。

 逆光でスピカからトトのそんなに顔はよく見えないが、笑っていることは分かった。

 すらりと伸びた背格好は、まだ少年っぽさを残しているけれど最後に見た時よりも大人のものに近づいている。

「スピカ」

 トトはもう一度そう呼ぶと、ゆっくりとした動作で呆然と動けないでいるスピカに歩み寄った。トトが数歩前まで来たところでスピカはようやく、殆ど反射的に、逃げなくちゃ、と思い一歩後ずさったけれど、それ以上は動けなかった。

 そっと伸ばされた指先が耳の下に触れて、びくりと体を震わすと、トトは少しおかしそうにふと笑う。以前はそんなになかった二人の身長差は大きくなっていて、トトは少し体をかがめて目を見張ってトトを見つめるスピカに視線を合わせた。

「髪、伸びたね」

 そう言って頬に沿えた手で、ゆっくりとスピカの髪を梳く。

 近くなった瞳の奥で、青色が揺らめくのをスピカは見た。その瞳からはスピカが想像していたような怒りや軽蔑の感情は見られない。けれど、逃げ出したくなる恐怖はなくならなかった。

 冷たい風がトトの金色の髪を揺らした。耳がひんやりと冷えているのに気付く。スピカの頬も少し冷たいけれど、トトの手も以前と変わらずひんやりと冷たい。前よりも大きくなったトトの手が、もう一度頬骨を撫でた時、スピカは俯いた。

「……どうして、ここに……」

 ようやく口にしたその言葉に、スピカは自分で顔を顰めた。

 確かに疑問には感じたけれど、そんなこと聞きたいわけじゃない。本当は、言葉も交わさず此処から走り去るのがきっと一番いい。

「気付かない? スピカ」

 なにに、と訊こうとして顔をあげると、トトがどこか楽しそうに笑った。

 見覚えのある表情だ。だけど、トトはどんな酷いことを言ってもそんな意地悪そうな顔をしなかった。

 そこでようやくはっとしたスピカは、何か言おうとしても何も言えずに、魚のように数度口をぱくぱくさせた。

 久しぶりに間近で見た姿に驚いて、忘れていたけれど、セスティリアスは言っていたのに。

「気付いた? スピカ。久しぶり」

 もう一度そう言うと、スペルカはにっこりと笑った。


「……スペルカ?」

「そうそう」

 一応聞いたスピカに、スペルカは軽い調子で答えた。体から力が抜けて地面にへたり込みそうになってしまったスピカをスペルカがまだ楽しそうに笑ったまま支える。

「どうして、いつもそんな悪戯ばっかりするの……」

 スピカが村や都にいた時にはまだよかった。けれど今、その悪戯をするなんて酷すぎる。

 スピカが目に涙を溜めて睨むと、わざとらしくスペルカはきょとんとする。その仕草はどこまでも人間に近い。

「悪戯って、なにが?」

「トトの真似だよ……」

「これは、ずっとこうしてるから。気付けなかったのはスピカだ」

 スピカは反論できずにスペルカから離れた。

 緊張が解けると、地面に転がった果物が気になりだす。

 近くに転がっている果実を拾いながらスピカは訊いた。

「……抜け出してきたの?」

「うん。祭壇の上から、スピカを見つけた。それより前に此処に戻ってくることは知っていた」

「ずっとこうしてるって、なに?」

 スピカが聞くと、スペルカはまた悪戯に成功した子供のような顔をした。

「もう随分と、スペルカのままなんだよ」

 トトと全く同じ口調で言う。

「スピカがいなくなってしまってから、少し経って、トトは放棄したんだ。だから変わりにスペルカが此処にいる」

 指先がじわじわと冷えていくのを感じて、スピカは果実を拾う手を止めぎゅっと両手を握った。

 スピカがいなくなってしまってからなんて、一日や二日の話しではない。

「ずっと……?」

 顔を上げて搾り出すような声で聞くと、スペルカは小さく首を横に振った。

「最初は時々だったけど、それがどんどん多くなってきて、最近はずっとスペルカのまま」

「……」

 スピカは何も言えずにまた俯いた。

 柔らかく吹いた冷たい風が頬を撫でる。少し離れたところからこの地方独特の音色が聞えてくる。紙袋に染みたお酒のにおいが鼻を突く。いくつかの果実は地面の上で潰れてしまい甘い香りを漂わせている。

 スペルカは目を離そうともせずに、じっとスピカの様子をあの深い瞳で眺めていた。その顔からはもう表情はなくなっている。

「スピカ、戻っておいで」

 思いもよらないスペルカの言葉にスピカは目を見開いた。

 スペルカは前に言ったのだ。道を選べ、と。

「どうして、そんなこと今更いうの?」

「道は無かった。これから離れれば ことこ の道ができるかもしれないと思った。けど、ことこ の心の殆どはもう此処にあった」

「……どういうこと?」

「ことこ が本当に心の深くから自分の元いた場所に戻りたい、と願わないとそれは無理だ。戻れない」

「願ってるよ!」

「違う、それはほんの少し。殆どは、ここにある。トトにも。それはきっともう無くならない。此処に長く居過ぎてしまった。それか、トトに ことこ を手放そうという気持ちがないと」

「……」

 胸の奥で鈍い痛みが響いた。

 帰れるかもしれない、と思った途端にこの場所が惜しくなったのに、帰れない、と言われた途端に本来自分がいるべき場所だった所がこんなにも恋しい。

 掃除好きで、料理が少し下手だった親友みたいなママ。料理が凄く上手くて、器用で優しかったパパ。甘えっ子でいつも付いてきていた、うっとおしかったけど可愛らしい妹。

 けれど、確かにここにも離れがたいものはたくさんある。

「……トトが、スピカの名前を呼ばなければよかったのに……そうすれば、なにも知らないまま普通に ことこ はいれた」

 スピカは表情の無い顔で目の前にいるスペルカの顔を見た。

 滲んだ視界でトトの顔が歪んで見える。

「トトは、死を望んでる」

「なに、それ」

「スピカがいなくなると、トトは全てを失ったみたいに感じた。けど、スピカがいた時からトトは苦しかった」

「……」

「トトはスピカの嬉しそうな顔が好きなのに、スピカを苦しめてスピカが傷つく度に自分も傷ついた。スペルカには理解できない。けど、スペルカはトトだから分かる」

 スペルカはスピカの頬に触れると、親指で柔らかく頬を擦った。

「戻っておいで、スピカ。全てをトトに話せばいい」

「そんなこと、できないよ……」

「話すことができない? 戻ってくることができない?」

 その、両方だ。

 スペルカは簡単に言うけれど、それができたらどんなに楽なのか。けれどその後のことを考えるとやっぱりスピカにはできない。

 スピカは頬に添えられたままの手を払った。スペルカは気にした様子もなく、いつもとは違って真摯な雰囲気でじっとスピカの言葉を待った。

 その深い瞳の中には、スピカのこの先の行動へのほんの少しの興味もある。スペルカはあくまでスピカに、無理に言うことを聞かせようとはしない。いくらでもそうする手段を持っている筈なのに、スペルカは戻ってこいと言いながらスピカの選択を待つ。

 本当は、無理矢理にでも連れ戻して欲しいのかもしれない。そういうことが一瞬頭を掠めて、スピカは自分の浅ましさに嫌気がさし顔を歪めた。

「……戻らない」

 スピカが言うと、スペルカはやはり気にした様子も見せずにただ少し肩を竦めただけだった。

 そして、いつのまにか手に持っていた紙袋いっぱいの果物をスピカに差し出した。

 呆気にとられたスピカは少しの間じっととそれを眺めたあと、辺りを見渡した。方々に散らばっていたはずの果実はいつの間にかなくなっている。スピカの足元で潰れてしまっていた果実でさえも。紙袋にも破れたあともなく、お酒のにおいもしてこない。

 スペルカの顔を見上げると、スペルカはまた楽しそうに微笑んでいた。

「スピカは、運が悪い」

 なんのことなのか分からずに真意を確かめようと、薄暗闇の中闇に染まった瞳を見つめたけれど楽しそうなことだけしか分からない。

 スペルカは袋の中からひとつ果実を取り出すと、それに被りついた。しゃくり、という音がスピカのところまで聞えてくる。

 齧った果実をそのまま唇につけられ、冷たく濡れた感触がしてスピカはぽかんとスペルカを見た。

「いらないのか」

 そう言ってまたその果実を口に運ぶ。スピカは馬鹿になぜかされたような気分になって顔を顰めた。

「そんな食べかけいらないよ! じゃあね!」

 そう叫ぶように言うと、スペルカから紙袋を剥ぎ取るようにしてスピカはその場を走り去った。




 セスティリアスの家がある大きな建物の中は薄暗く、いくつもの灯りが灯されていた。その光景は少し幻想的だ。街の様子もそうだった。

 階段の踊り場にある細長い窓からふと外を見ると、蝋燭を灯してその火の熱風でふわふわと浮かぶ、小さな熱気球のようなものが円形人場の方で上がっているのが見えた。

 下の方をそっと覗き見ると、橋のところにはもうスペルカの姿はなかった。

 ほっとしたような、脱力したような気持ちになる。もっと訊きたいことはたくさんあったはずなのに、頭に血が上って思わずあの場を離れてしまった。

 後ろから聞えてきた笑い声を思い出して、またいらいらとしてくる。いくらかみさまだとしても、あそこでトトの真似をするなんて。確かに最初に間違えたのはスピカの方だけれど、それは無理もないはずだ。同じ姿で、同じ声で、同じ笑顔で見られてそれがスペルカである可能性なんて思いつきもしなかった。ただ、久しぶりに聞いたあの声で胸がくすぐったくなるような思いと、怖ろしさを感じた。

 唇が乾いてきたのを感じて舐めると、甘い味がしてスピカはまた顔を顰めた。

 うちには帰れない。

 ふたつの場所を想うスピカは、きっとこの先ずっと苦しまないといけない。そんなの酷い。あんまりだ。どちらかが嘘だったみたいにスピカの中からなくなってしまえば、苦しまなくてもすむのに。けれどそのどちらも失いたくないから苦しむ。

 スピカはセスティリアスの家に戻る気にはなれずに、その場にずるずるとしゃがみ込んだ。

 窓の隙間から冷えた風が微かな音を鳴らしながら入り込んでくる。抱えた紙袋の中からは甘い香りが立ち上ってきた。窓から見上げた空は外にいた時よりも少し曇っていて、どんよりとした雲は月を覆い隠してしまいそうだ。もしかしたら今晩は一雨くるのかもしれない。

 雨が降ると気温はずっと低くなって冬がまた近くなる。

 足音がして顔を上げると、階段を上ってきたイシュが少し驚いた顔をしてスピカを見ていた。

「スピカ? ……どうしてこんなところに?」

「ん、今帰ってきたの。ちゃんとオスカが送ってくれたよ」

 一瞬イシュは何か言いたげな顔になったけれど、黙ってスピカに手を差し伸べた。

 スピカも黙ってその手を握ると、強い力で引き起こされる。

 片手で抱いた紙袋がかさりと音を立てた。

 セスティリアスの家のある階まで上ると、セスティリアスが少し不機嫌そうな顔をして家の前でアルカと立っていた。

 祭りの日とは言っても夜だから、小声で遅い、と言ってスピカとイシュを睨んだあと、二人の服を引っ張って家に入った。

「甘いにおい。なあに、それ」

 真っ暗だった部屋中に灯りを点したあとで、セスティリアスはスピカが抱えている紙袋の中を覗きこんできた。

 その仕草があまりに幼かったので、スピカはセスティリアスが自分よりも年下だったことを思い出す。

「果物。オスカがくれたの。一緒に食べよう」

「やったあ。今日はあんまり食べてなかったからちょっとお腹空いてたんだよね」

「もう眠くないの?」

「眠いけど、スピカとイシュの話し聞きたいから起きてたの」

 だったらどうしてあの時先に家に帰ったんだろう、と一瞬頭を掠めたけれど、セスティリアスがにんまり笑うからスピカも笑った。

 荷物を置いたイシュが、大人のくせに一番眠そうな顔をしている。旅をしていた間はイシュはいつもスピカよりも寝るのが早かったくらいだ。スピカが寝静まった頃に、イシュが出かけていたことなんてスピカは知らない。

「……ごめん、セス。話しするのは明日でいいかな? ちょっと……眠い」

 イシュが目を細めて言うから、スピカとセスティリアスは顔を合わせるとくすくすと笑った。オスカがこんなイシュを見ると意外さにぽかんとしてしまうかもしれない。

「眠いわりには、ここに来るの遅かったよね」

 セスティリアスが悪戯っぽく笑って言うと、イシュは苦笑した。スピカはよく分からなくて小首を傾げる。

「どうして?」

 訊くと、イシュは苦笑したままそれには答えず、おやすみ、と言うとのろのろとイーノスの部屋へ行った。今晩イシュはイーノスの寝台を借りることになっているらしい。

「なんなの?」

「イシュってもてるってこと」

 『もてる』。聞いたことのない単語にスピカはまた首を傾げた。


 セスティリアスの寝台で二人は寝転がると、訳もなく楽しい気持ちになって笑いあった。

「トトとオスカ以外の友達の家に泊まるのって、はじめて!」

「私も。友達が泊まるなんて初めて。なんだか楽しいね!」

 はしゃいだ声で言うと、ベットの横で寝そべったアルカがうるさそうに見上げてきたから、二人は声を殺したけれどそれさえも面白くてくすくすと笑ってしまう。笑いが収まったのは半刻ほども経った頃で、その頃には二人とも少し眠くなっていた。

 部屋にあるのは小さな蝋燭の灯一つだけで、まだ少し騒がしい外の方が明るい。円形広場がある辺りでは、またあの小さな熱気球が水に浮かんできた泡のようにぷかぷかと浮上していっている。

スピカが仰向けになったまま、その逆さまの窓の外の景色を眺めていると、隣でセスティリアスがごろんと寝転がってスピカに身を寄せて寝台に頬杖をついた。

「……スピカ」

「なあに?」

「私、スピカが好き」

「スピカもだよ」

 横目で窓の外に目をやったまま言ったセスティリアスを見ると、スピカはへへ、と笑った。

「ありがとう。だからね、スピカ……コトコには幸せになってほしいな」

 スピカは視線を天井にやったあと目を閉じて、ありがとう、と呟くように言った。

 目を閉じた途端じわじわと足元から心地よい眠気が襲ってくる。今は大きな羽布団に二人して包まれているけれど、顔はやはり少し冷たい。どうしてだかスペルカにトトの手で頬を撫でられたことを思い出してしまい、スピカは無理に目を開けた。

 隣を見ると、いつの間にかセスティリアスもスピカの方を向いて目を閉じていた。

「……帰れるよ。きっと」

 澄んだ声で寝言のように呟いたセスティリアスは、そのまま何も言わなくなった。

 もしかしたらセスティリアスは、スピカが橋のところでスペルカと会ったことを知っているのかもしれない。それとも、それはあの白く濁った目で見た予見だったのだろうか。

 幸せになれるのかな、とスピカは思う。

 今思えば当然のように毎日トトに会いに行って、家にはおばあちゃんがいて、オスカと村や森で遊びまわっていた頃が一番幸せだったかもしれない。

 けれど同時に、家族に守られていた頃も幸せだった。色濃いのは、村でいた頃の方だ。夢みたいだと思ていた方が、今は現実味が強い。けれど、本当の家族や同じ歳の子供に囲まれていた頃もすっかり色あせてしまった訳じゃない。

 今も、幸せだと言えば幸せだ。村にいた頃と違って、スピカは薄い膜のような嘘に守られていない。けれど、オスカもイシュも、セスティリアスもいるし、旅をしていてスピカを知らない色んな人たちと出会った。

 みんな大抵、知り合えば優しくてあたたかい。けれど、空いた穴は塞がらない。理由が分かっているからこそ、スピカはその穴が塞がらないのを知っている。

 今だって、先程まで楽しかったくせに、ふとした拍子にこんな風に穴の深さを知る。

 それがなにか途方もないものに思えて、スピカはぎゅっと目を閉じた。








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