33.
食堂を出てから、スピカとオスカは行き先も決めず人ごみに流されるまま、会話もなくぶらぶらと歩いた。
人が多くて埃っぽい。ざかざかと荒っぽく通り過ぎる人たちが砂埃を立てたので、背の低いスピカは小さく咳き込んだ。祭りの為か、普段は露店の出ていない通りにも露店が並んでいる。それに、煌びやかな格好をした人々がよく目についた。様々な色彩に囲まれていると、少し目がちかちかする。
人に阻まれて狭い視界の中、ふと柔らかそうな金色の髪が見え、スピカは目を見張った。スピカよりも少し身長の高い少年だ。後姿で顔は見えないし色合いは違ったけれど、どこかトトに似ている気がしてスピカは目を離せないでいた。
隣を歩いていたオスカはスピカの視線の行方に気付いて僅かに眉を顰めたけれど、何も言わずに自分もその少年の後ろ姿を眺めた。もう随分と長い間見ていないトトの姿を思い出して、苦い気持ちになる。あの感情に覆われて消え失せそうになっていた、けれど心の片隅に残ってあった憎しみは薄れてほんの少ししか残っていない。けれどそれは許されないような気がして、無理矢理に思い出したくもないことを思い出しては、なんとか残った憎しみを留めようとしている。
そうしないと、誰がスピカのことを思い出すというのだろう。
トトは許されないことをした。それがたとえ神様であろうと、許される筈がない。許してはいけない。だけど村の皆はあっさりと許してしまった。
だから、オスカだけは許さないと幼い頃に心に決めたのだ。
「オスカ」
呼ばれてオスカは、今はスピカと名乗る小さな少女を見た。
見上げてくる大きな目には、しっかりとオスカの姿が映っている。
「これ、どこに行くの?」
「ああ、知らね」
「ええ。スピカあんまり道知らないよ。迷っちゃうよ」
「馬鹿にすんなよ。もう大体の道と方向はわかってるよ」
「……ふうん。ねえ、村には帰ってないの? ヨルカは村に帰ったんだよね?」
どうしてオスカは帰らないの。そう言われてる気がしてオスカは首筋を擦った。
「うん。俺もたまに帰ってるよ。都にいた方がスピカとも会いやすいしなあ。それに意外と都が好きかもしれない。人が多いし」
「人が多い?」
「うん。色んな人がいておもしろい」
スピカはその言葉に納得したのか、小さく数度頷いた。
けれど、だったらずっと都にいるの、とスピカは訊きたくなったがその疑問は心の中で留めておいた。
「トトも、村に帰らなかったんだね」
「みたいだな」
どうでもいいことみたいにオスカが呟いたので、スピカは前に向けていた視線をまたオスカへと戻した。
オスカはずっと前の方を見ていてスピカの方を見ないままだ。
ふと甘い果物のにおいがして、道の端を見てみると屋根から色とりどりの果物を吊るした飲み物の屋台があって、その前にはずらりと小さな子供や家族連れが並んでいた。その隣の屋台では鳥の丸焼きを作っていて、主婦らしい女の人や、おじさんが並んでいる。おいしそうな並びだ。
「ねえ、オスカ」
「ん?」
「どうして、オスカはトトが嫌いなの?」
今まで何度も疑問に思ってはちゃんと答えを得られなかったことを聞く。するとオスカはちらりとスピカを見て、また視線を直ぐに前に戻すと、少し翳りを帯びた表情で呟いた。
「……お前が知らないことが、まだあるんだ。それをお前が知る必要はない」
スピカは訊きたい衝動に駆られたが、最後にきっぱりと拒絶するような強い口調で言われて、結局そのことは訊けないままだった。
夕刻を告げる鐘が鳴る頃、四人は約束通り鐘の塔の前で会った。
初対面だったイシュとセスティリアスは簡単に挨拶を済ませ、スピカとセスティリアスを前に二列で歩て、暫くしてイシュは今夜泊まる宿を探しに行った。
昼間でも十分人が多かった道は、夜に近づくに連れて益々人で溢れかえっていて騒がしい。けれどその騒がしさはお祭りの時独特の楽しい雰囲気で、固い気持ちになっていたスピカもさすがに少しわくわくする。
大通りを旅芸人一座の煌びやかな行列が通り、大道芸の人が水の中にいる時様な不思議な動きをしながらお芝居をする。それを、家の前で古びた椅子に座った母親が大きな木の揺り籠を足で揺らし、家の前につける飾りの残りを作りながら、楽しそうに見守る。
イシュと同業の人がボロロンと低く響く楽器を奏でながら、集まってきた人たちにお話しを聴かせる。その内容が月祭りとスペルカのことだったので、スピカは思わず足を止めた。
イシュと同年代にみえる青年の吟遊詩人は表情と身振りを加えながら、見事な語り口で歌う。
セスティリアスもスピカの隣で足を止めると、棒についたどろりとした黄色い飴を口から出して舐めて、その様子を興味深げに見つめる。
「このはなし、私も知ってるよ。スピカとオスカの、村に伝わるはなしでしょ? いたずら好きなかみさまの為に、村の人たちがお祭りを開くんだよね」
セスティリアスはそう言うと、飴をひと舐めして口の周りについたべたべたとした溶けた飴をぺろっと舐めて、少し気持ち悪そうに片目を顰めた。
話しはちょうど、スペルカが人の姿を借りて村へ出向くところだ。まるで小さな子供のように、スペルカは悪戯を思いついては実行する。そして、たまに気まぐれで困っている人を助ける。
「変なの。いたずら好きのかみさまを、みんなそれでも好きになるなんて。かみさまだからかな。お祭りまで開くなんて」
セスティリアスの言った通りだと、スピカは思う。助けると言っても、悪戯の方が圧倒的に多いのに、人々はスペルカを嫌いになんてならない。見返りなんてないのに、スペルカの為にみんななにかをしようとする。それなのにみんなの気持ちはスペルカには理解できないものなのか、些末なことなのか、まるで一方通行のままで話しは終わる。
物語も終盤に差し掛かった頃、宿を探しに行っていたイシュがやってきた。
「やっぱり祭りも重なってしまったからどこも満室だったよ」
イシュは少し困った様子でそう言うと、人ごみでずれてしまった帽子を直した。
「だったら、うちに泊まればいいよ。お兄ちゃんもお姉ちゃんも忙しくて祭りの間はあんまり帰ってこれないし」
飴がなくなってしまった棒を名残惜しそうに舐めると、セスティリアスが言った。
イシュが遠慮する前に、スピカが嬉しそうに「いいの?」と訊くと、セスティリアスは楽しそうに笑って大きく頷いた。
「その方が、私も楽しいし。ひとりってつまらないんだもん」
セスティリアスがそう言うと、静かに後を付いて来ていたアルカが濡れた鼻で彼女の足を突いた。
「あ、アルカがいるから寂しくはないんだけどね」
そう言ってセスティリアスはアルカの頬を両手で優しく撫でた。満足そうに目を瞑るアルカを見て、みんな笑ってしまう。
ボロロンっと音が響いたと同時に物語も終わったようで、歓声と拍手が聞こえてきた。
「俺は今日は広場の方へ行こうと思ってるから、三人で祭りを楽しんでおいで」
「私も、イシュのお話し聞きたいな」
「明日でも明後日でも聞けるよ」
「つーか、家に泊まるんだったら家で話してもらえばいいんじゃねえの。あー俺もイシュの話し久しぶりに聞きたいな」
「だったら、オスカも私の家に泊まればいいよ。多い方が楽しいし」
「俺はいいよ。明日の朝の仕込みの手伝いとかあるし」
スピカは三人の話しを聞きながら、ぼんやりと今夜のことを思った。村の月祭りと同様に、トトは寺院から出て姿を見せるという。
確かめればいい。とセスティリアスに言われて確かめる為に、なんて多分言い訳だ。それも本当に気にはなるけれど、トトの姿を見たいだけなのかもしれない。本当は、トトに会いたい。
抱えていた鳥かごの中でパドルが鳴いたので、セスティリアスがそれを見ると「あ」と呟いた。
「とりあえず、荷物置きに戻ろう。ふたり共旅してる時のままだったもんね。ごめん気付かなかった。パドルもちょっと可哀想だし」
「俺も一旦戻るわ」
「じゃあ、また待ち合わせようか……寺院の近くに大きい円形広場があるでしょ? そこで」
「俺はそのまま違う広場の方へ行くよ」
「わかった。じゃあ、また明日な、イシュ。スピカとセスはまたあとで」
そう言ってオスカは大きく手を振ると人ごみの中駆けて行った。
「私たちも行こう。それにしても結構な荷物だよね。今更だけど。今夜旅の話しとかいっぱい聞かせてね」
「うん」
「……ねえ、スピカ?」
「なあに?」
隣を小さな荷車を引くおじいさんが通ったので、スピカは身を捩じらせた。その時に人とぶつかってしまい、慌てて鳥籠を抱えなおす。パドルの足と宿り木のぶつかる硬質な音が微かに聞こえて小さく、ごめん、と呟いた。
セスティリアスはその様子をじっと眺める。
「お祭りが終わったら、また旅を続けるの?」
「うん? ……どうして?」
「私、スピカに言ったでしょ? かみさまから離れた方がいいって。かみさまもスピカも、凄く苦しそうだったから。だけど私、スピカとかみさまが一緒にいたらどうなるか、あの時少しは分かってたけど離れてどうなるかなんてふたりの感情までは分からなかった」
「……」
「なにが本当にいいのかも私には分からない。分からないんだよ。スピカ。……それはきっときんいろのかみさまにも」
そう言ってじっとスピカを見つめたセスティリアスの目には、少しの不安が混ざっているようにスピカには見えた。セスティリアスは、前はそんな目をしなかった。
分からないことは不安。それはきっと、今まで他の人たちが知りたいと願っていたことを知っていたセスティリアスにとっては尚更。
スピカもいつもその不安を抱えている。自分の行く先が分からない。家に帰りたいとスペルカに願えば、きっとスペルカは帰してくれた。それを言う機会は今まで何度もあった。だけどそれをしなかったのは、やはり『スピカ』としていたかったからなのだろうか。でも、その居場所も自ら手放してしまった。それでもまだスピカとしてここにいる。細やかなことを言い出したら切りがないけれど、その中でも大きな理由は、今でもトトとの繋がりを断ち切りたくないからだ。
スピカの名前を呼ぶ柔らかな声が好きだった。温柔なまなざしが好きだった。
けれどそれが ことこ に向けられたものではないことだと知って、恐ろしくなった。同時に酷いことだとトトを憎んだ。
時間が経てば。時間が経てばその感情もきっと薄れていく筈。ことこの故郷を想う気持ちが少しぼんやりとしてしまったように。
セスティリアスの家に荷物と鳥籠を置いた二人は、またすぐに家を出た。
もう日は殆ど沈んでいて、高く立ち並ぶ建物の間から橙色の光が覗く程度で、街では小さな灯が所々で点されている。昼間でも多かった人が益々増えていたから、スピカとセスティリアスは逸れないように手を繋いで歩いた。
「あ。お月さま」
ぽつりと言われたセスティリアスの声にスピカも顔を上げると、まだ低いところに大きな月があった。まだ薄暗い位だからその姿は目立たないけれど、もう少し暗くなると煌々と景色を白く照らす。
「きれいだね」
「うん」
スピカが頷くと同時に二人の隣を小さな数人の子供が駆けて行った。
二人を追い越すとその中の一番大きな男の子が振り向いて、大きな声をあげる。
「セス! 早く行かないと人がいっぱいで見れないぞ!」
その子供はセスティリアスの友達だったようで、そう言うだけ言うとまた急いだ様子で走り出した。
何か見世物でもあるのだろうか。スピカが隣にいるセスティリアスの顔を覗き見ると、セスティリアスはぎゅっと強い力でスピカの手を握った。
「私たちも行こう」
そう言って手を引き急に走り出したセスティリアスに少し驚きながらもスピカも走る。
走っている途中でふと「スペルカさま」と言う声が耳に入って、トトが寺院からもうそろそろ出て来る頃なんだ、と気付く。
また緊張でスピカの胸がどきどきと鳴った。
村での最後の月祭りの日。あの日初めてスペルカはスピカの前に出てきた。もしかしたら、スペルカならスピカを見つけるかもしれない。それともあの気まぐれなかみさまはもうスピカへの興味なんかなくて、その存在自体を忘れてしまっているのだろうか。もし、あの月祭りの日のようにスピカを見つけたとしても、トトがもうずっとスペルカのままだったとしても、スピカにはどうしていいのか分からない。
急に立ち止まったセスティリアスにぶつかりそうになって、スピカは踏ん張った。
人が多すぎてよく分からなかったけれど、どうやら円形広場についていたようだ。
殆ど隙間の見当たらないくらいの人の多さで、オスカを見つけられるのか不安になる。それにここは広すぎる。
「……オスカと会えるかなあ」
視線を彷徨わせながらスピカが言うと、セスティリアスは前の方を指差す。
「あそこ」
「え? オスカ?」
「ううん。かみさまがあそこに上るの」
見ると、村でも見たことのあるような大きな祭壇が人々の頭の間から見える。ただそれは村の古びたものより立派で真新しい。
ぎゅうぎゅうの人の中を歩き回ってオスカを見つけるのはきっと難しいだろうから、諦めてその場所からトトが祭壇に上るのを待つことにする。
「もうそろそろだね」
そう言ってスピカの顔を見たセスティリアスは少し心配そうだ。
どうしてそんな心配そうにするのだろうか。スピカの心の内を心配しているのか、この先に何か起こるというのだろうか。
スピカはじっと祭壇の方を見た。
村でも人ごみの中からこうやって祭壇を見上げた。けれどあの時とは場所も状況も違う。
懐かしいベルの音が響いて広場が静まりかえった頃に、白い月明かりの下ゆったりとした動きで『かみさま』が祭壇の上に上がってきた。